二十七 なんとも酷いハナの思い
翌日金曜。
九時前に大学へ行った。
専門科目が講義される専門棟のロビーに入ったが、瀬田亜紀と松岡悦子、野本雅子、川田恵、ヘビオらの顔が見えない。午前の二科目は専門科目の社会心理学と地域分析学だ。建築科のヘビオはともかく、四人はなぜ来ない・・・。
そんなことを考えていたら、エッちゃん(松岡悦子)から、四人とも本日は休む、とチャットが入った。
「むむむっ、みんな、休みか?四連休にしたんか?なんてヤツらだ?」
チャットを良く見ると
「昨日は開学記念日だったから、今日の社会心理学と地域分析学は休講だよ。
教養科目も休むよ」
とある。
今日の教養科目、歴史概論と基礎経済学は出席を取らない。試験重視だ。
なんてことだ!専門科目が休講ということは、教授たちも四連休か!
あたしはスマホで大学のホームページを見た。
午後からの教養科目、歴史概論と基礎経済学は休講ではなかった。
あたしは専門科目が講義される専門棟のロビーでスツールに座った。背負っていたリュックを膝におろし、
「トラ、どうする?いちどアパートに帰って昼寝でもするか?
しんちゃんは研修だから、のんびりできるぞ・・・」
リュックのフタを開けて顔を出しているトラに話しかけた。
「わしはシロに会ってくるか・・・」
トラがそういいかけたとき、目の前に人影が立った。
「おはよう。さなえ、トラ。社会心理学は休講なんだね」
人影がつぶやた。あたしは顔を上げた。
専門科目が休講という割にロビーは学生が多い。
「専門科目は休講らしいよ。私は知らずに来ちゃったけどね。私、社会心理学をとってるんだ。さなえも社会心理学をとってるの?」
ハナはあたしの隣のスツールに座った。
「取ってるよ。今日は社会心理学と地域分析学。午後から歴史概論と基礎経済学」
あたしが答えるとハナがいう。
「私、教育学部の理科なの。専門科目は社会心理学と児童心理学をとってる。午後はあなたと同じ歴史概論と基礎経済学。
どうする?午前中?」
「午後の講義は休んで帰ろうと思ってた。あたしの仲間全員が休みなの」
「教授たちも講義を休みにしてるから、学生が休むのも無理ないね。
トラは?どうなの?」
ハナはあたしのリュックを見ている。
リュックのトラは、フタを頭に乗せたまま、ハナを見ている。
「どうって何が?」
「いつも、いっしょなの?リュックの中は暑いでしょうに・・・」
ハナはそういいながら、あたしの膝のリュックに手をのばし、トラの頭にのっているフタを除けた。
「ハナ!元気にしとったか?」
トラは笑うような顔で、丸顔で丸いメガネをしているハナを見た。長い髪をボニーテールにしたハナはなんとなくコミカルだ。
ハナは自分のショルダーバッグを膝に置き、人形を取りだして右手にはめた。
ハナが唇を動かさずに声を発すると、右手の人形が息を吹き返したように目を開き、話しはじめた。
「元気ダヨ!トラハ、今日、ドウスルノ?」
トラが人形に答える。
「ワシハ、シロニ、会イニ行コウト思ットル。
トコロデ、オヌシ、名ハナントイウ?」
「私ハ、タロウ、ダヨ。ヨロシクネ」
人形がトラにおじぎしている。
「ハナト、タロウカ。コリャアイイ。フタリデ、サナノ相手ヲシテヤッテクレンカ?」
「アア、イイトモ」
人形がそういうと、ハナは人形を止めてあたしを見て、
「トラみたいに、さなえのこと、サナって呼んでいいかな?」
口を開いてそう話した。
「いいよ。それに、トラには片言でなくて、ふつうに話していいよ」
「ふつうにしゃべれるの?サナの腹話術じゃないの?」
「あたしと同じに話せるよ。トラは猫賢者だよ」
「ええっ・・本当に?信じられない・・・」
そういってハナしばらく言葉を失った。
「ねえ、外に出ようよ。ここだと、トラが目立っちゃうよ」
あたしはリュックが胸の位置に来るように肩ベルトに腕を通した。これで、リュックのフタを頭に乗せたトラとご対面だ。
「わかったわ。トラのこと、聞かせてね」
「うん・・・」
ハナとともに専門棟のロビーから外へ出た。
さっきまで晴れていた空がどんより曇ってる。今にも雨が降りそうだ。
「休講で、空がこんなだと、学食も混むね・・・」
あたしは空を見あげてつぶやいた。
「うむ、もうすぐ降ってくるぞ。どこか、人気の無いところへ入らねばならんぞ・・・」
トラはそういって口の髭を前足で、いや手で撫でてる。
髭が湿気を吸って腰がなくなり、髭の感度が鈍ってきたらしい。
「教養棟のロビーはあんなだね・・・」
ハナはふりかえって専門棟のロビーを見た。
専門科目の休講を知らずに来た学生がまだたむろしている。
大学は敷地の南に位置する正門を入った正面に、大講堂を兼ね備えた事務棟がある。
事務棟の西側は学食と喫茶部だ。事務棟の東はスーパーとまちがえてしまう規模の大学生協販売部。そして事務棟の北側に図書館があり図書館の西に教養棟、東に専門棟がある。
各学部は専門棟と図書館と教養棟の北側にある東西に長い三連の建物の学部棟で、わたり廊下を通ってそれぞれ三連の建物と、教養棟と図書館と専門棟へ移動が可能だ。
「学食の喫茶は、もっと混んでるだろうね・・・」
教養棟の方向を見ると歩道を学生が歩いている。学食や喫茶部へ行くのだろう。専門棟から事務棟東側の販売部へむかう学生もいる。
「そしたら、パペットの部室へ行こうか?」
ハナはあたしのリュックのトラを見てそういった。
「パペットってなに?」
あたしは、専門棟の東側の歩道を、さらに奥、学部棟へ歩きはじめたハナに尋ねた。
「パペットは人形劇で使う操り人形のことだよ。
私たちが使うのは片手で使う人形、ハンドパペットだよ・・・。
部室は教育学部の東だよ」
部室へ歩きながら、ハナはパペット部について説明した。
パペットは人形劇で使われる操り人形など、動かすために作られた人形全般のことをいう。
パペットは英語表記だ。ハナが手にはめて動かすのはハンドパペット。
指人形はフィンガーパペットと呼ぶ。
操り人形は皆、〇〇パペットと呼ぶとのことだった。
ハナの説明を聞いていると、トラが顔をリュックから顔を出した。
トラから思いが伝わってくる。
『サナ、シロに会いに行ってきていいかのう?今、シロから連絡があった』
『シロから心のメールが来たか?』
あたしも思いを伝えた。
『そうじゃ』
『いいよ』
『そしたら、お昼に、図書館裏のポーチで待ち合わせしようぞ。
あそこなら、雨になっても濡れんよってに』
『わかったよ。シロの分も鮭のおにぎりと味噌汁を買っとくから、シロを連れといでね』
『おお、すまぬなあ。シロに伝えとくぞ。シロも喜ぶじゃろ。
ああ、最近というても、このあいだ月曜に会ったとき、サナもシロの変化を感じたじゃろう』
あたしはシロがあたしの思いを感じていたのを思いだした。
『うん。シロはあたしが思っていることを理解してた・・・。
シロもトラと同じになってきてるんか?』
『うむ、そうらしい。それでは行ってくぞ。またにゃ・・・』
トラは、リュックからヒラリと歩道に舞い降りた。専門棟と学部棟のあいだの芝生を、一目散に、教養棟の裏手の西へ駆けていった。
「ああっ!トラが・・・」
芝生を駆けるトラを見たまま、ハナが叫んだ。
『トラに嫌われたのかしら・・・』
とハナの思いがあたしに伝わってきた。
ハナは、トラがリュックから顔を出してすぐに逃げだしたと思っている。トラとあたしが心で会話した時間は、ハナには一瞬のことだったらしい。
「だいじょうぶ。腹がすいたらもどってくるよ。お昼ころには・・・」
あたしはトラとの待ち合わせ場所を話さずに、ハナにそういった。
『トラがいないんじゃ、サナに用はない・・・』
とハナの思いが伝わってきた。
ハナは小柄で細身、丸顔で丸いメガネをしている。
長い髪をボニーテールにしたハナはパペット操るだけあって言葉も穏やかで優しく、なんとなくコミカルだ。
ハナはトラを利用しようと思っている。見た目と考えはずいぶんちがう。
もしかして、トラはハナの考えに気づいてこの場を離れたのか?
トラ。どう思う?
あたしはシロに会いに行ったトラの動きを心で追った。
すると、
『ひとまず、ハナから離れよう』
との思いが湧いてきた。
さて、どうしたものか・・・。
「ほんとにだいじょうぶなの?
サナがここから動いたら、トラはサナがどこへ行ったのかわからないよ」
『トラはただの猫だな。コイツをパペットの部室へ連れてゆく必要はなくなった・・・』
ハナの言葉と裏腹に、ハナの思いが伝わってきた。
ハナは、トラが猫賢者だと説明したあたしの話を理解していない。単なる話ができる猫だと思っている。
ここはひとまずトラの思いに従おう・・・。
「あたし、トラを探しにゆく。そしたら、またね」
あたしは歩道から専門棟と学部棟のあいだの芝生に足を踏みいれた。
「うん、またね」
『トラをパペットにできると思ったけど無理だな。
トラを訓練できないアンタにゃ用はない。サッサと消えな・・・』
あたしは、なんとも酷いハナの思いを感じ、トラが走っていった、教養棟の裏手の西にむかって芝生を歩きだした。
芝生を歩きながら思う。
人の見た目と考えはずいぶんちがう。見た目に惑わされないよう、注意しなければいけない・・・。
あたしにシンクロしてるのは埴山比売神さんだ。
しんちゃんにシンクロしてたのは埴山比売神さんで、今は医学の神さんだ。
そして、トラにはずっと加具土神さんだ。
ボイスチェンジャーアプリは埴山比売神さんと加具土神さんが、あたしとトラにシンクロするためだった・・・。
今回のミッションはハナか・・・。
だけど、トラがいないのはなぜだ・・・。
しんちゃんは、あたしにシンクロしてる埴山比売神さんは、人間の愛情に興味を持っていると話してた・・・。
埴山比売神さんは何を知りたいのだろう・・・。
メグとヘビオのときは知りたいことがはっきりしてた。
ヘビオの性格に問題はあるけれど、二人は相思相愛。メグの実家の中華料理店をうまく切り盛りするだろう。
あたしとしんちゃんも、相思相愛だ。うまくゆくだろうか?
えっ?なんで?が付くんだろう・・・。
まあ、いい。しんちゃんのことはあとでゆっくり考えるとして、今はハナだ。
芝生を歩きながらそう思っていると、背後に異様な気配を感じ、あたしはふりかえろうとした、その瞬間、
『ふりかえるな!』
トラの声があたしに聞えた。
『わかったよ、トラ。何があったの?』
あたしは背後を気にしながら、トラに思いを馳せた。
『なあに、部の運営について部員同士でもめとるのじゃよ。
ハナは部を人形劇団として有名にしたいんじゃ。
部員たちは、子どもたちにいろいろ大切なことを教えるボランティア活動だと考えとる。
ハナは自分の欲のために、子どもたちを利用して部を有名にしたい。
部員は、次世代の子どもたちを育てる教育の場として部を考えておるのじゃ。
サナはどっちの考えが良いと思う?』
『そんなこといわれても、すぐに答えられないよ。
でも、部員かな・・・』
あたしには、トラの質問に即答するだけの知識が無い。
感覚的に答えるなら、部員たちの意見がまともな気がする。
『そうじゃな。まあ、世間一般の考えはそうじゃうろうな』
『どういうこと?正解はちがうの?』
『うむ。ちごうとるみたいじゃよ、神さんには・・・。
何がちごうとるか、神さんは、サナに考えて欲しいんじゃよ』
『なんだろうね・・・』
あたしはハナと部員の言い分を考えたが、すぐに答えは見つかりそうもない。
背後の言い争いは、いつしか、取っ組み合いのケンカになっていたらしいが、あたしはふりむかなかった。
翌日、パペット部の論争が学内の話題になるのを、あたしはこのとき知らずにいた。
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