九 猫賢者はヌイグルミ?
九時。
階段状になった講義室の、いちばんうしろのドアに近い席に座った。トラが入っているリュックはあたしの右側、壁と通路がある席の端に置いてある。
リュックのフタをはずし、トラが息苦しくないようにして生物学概論の講義に耳傾けた。
一時間ほどすると、講義室が暑くなってきた。学生の発する熱気が階段状の講義室の後部へ移動してきている。ドアは開いているが。熱気は抜けてゆかない。
「トラ。大丈夫か?暑くないか?」
あたしはリュックのフタを持ちあげて、リュックの中を換気した。
「心配ない。おもしろいか?」
トラがリュックから顔を出した。
「なにが?」
「講義だよ」
「トラ。講義がわかるんか?」
トラは生物に興味があるのか?あたしはトラの目を見つめた。
「まあな。サナの記憶から考えとるんじゃ。わかるぞ」
「今日の講義は原生動物だから、トラは、話を聞いてるだけでもおもしろいだろう」
あたしは声をひそめたつもりだったが、左隣にいる女学生がリュックから顔を出したトラを見つけた。
「しっいっ・・・」
あたしはその女学生にむかって、唇に指を当てて見せた。
女学生はあたしに笑顔を見せて、
「かわいいヌイグルミね・・・」
といい、顔を教壇で話している教授にもどして講義に集中した。
「トラ。静かにね・・・」
トラは女学生に見られたときから固まっている。
「わかっとる。あの娘、わしが話しても、驚かんかったぞ・・・」
「アンタ、腹話術、うまいね。私たちの人形劇団で舞台に立ってみない?」
まもなく、女学生からつぶやくような声が聞えてきた。彼女を見ると顔を教壇で話している教授にむけたまま、口は開いていない。
「アハッアハッ・・・」
思わず大笑いしそうになって笑いをこらえた。
トラはヌイグルミなんだ。あたしは腹話術でひとり芝居してるんだ。彼女にはそう見えるんだ。
「サナ。さな。さなえ」
笑いをこらえてるとトラが声をかけた。
「なんだよ、トラ」
「わし、動いてもいいか?」
「あっ?ああ、いいよ」
あたしがそういうと、トラが首を動かして女学生を見た。
「お~い。名はなんという?」
トラが女学生に話しかけた。
「アタシハ、ハナ、ダヨ。アンタハ、ナンテイウノ?」
女学生は顔を教壇にへむけたまま、ショルダーバッグから男の子の人形を出して左手にはめ、右の脇下から、あたしたちむって人形を動かしている。
「オイラ、トラ、ダヨ。ヌイグルミジャナインダ。イキテルンダ」
トラが調子を合わせて人形に答えた。
「ニンギョウハ、ミンナ、ソウイウンダ。ボクモ、チイサイトキハ、ニンギョウダッタ」
人形が女学生の脇下の下でそういった。
「うそこけ!アンタはプラナリアか?生きとるじゃろ!人形になっとる部分は無いぞよ」
トラがそういったとき、講義が終った。
あたしは出席カードをメグの分も書いて、カードを集めに来た学生にわたした。その学生はカードの枚数と人数の違いなんか、なんも気にしていなかった。
「アハハッ、ミヤブラレタカ。
アンタ、うまいね。私は
羽那が机にある教材をショルダーバッグに入れた。あたしとトラを見ている。
「あたしは中林さなえ。これはトラ」
トラを示しながら、あたしは机の教科書を持った。
トラはリュックから頭だけ出している
「今日は時間がないけど、今度、ゆっくり話そうね。トラについて・・・」
羽那はあたしにそういい、指人形をトラにむけて、
「トラ。マタ、コンドネ。バイバイ」
指人形の手を振った。
「オオ、ハナ。マタナ!」
トラがリュックから手を出して振っている。
あたしはリュックにもトラにも触れていない。トラ、やりすぎだぞ・・・。
「えっ!」
羽那がトラに気づいた。
ヌイグルミじゃない!精巧にできた人形だと思ったが、実物の猫だぞ!
いや、そんなことない。あんなに人形のように動くはずがない、やっぱり人形だ・・・。
羽那がそう考えているのがあたしとトラにはっきりわかった。
「じゃあ、またね・・・」
世の中には隠れた才能があるんだなあ・・・
羽那はそう思いながら席を立った。
「トラ。行くぞ!」
あたしは教材を大リックの中の教材専用の小リックに入れて、トラの頭を大リュックの中に押し込んで背負った。待ち合わせの場所へ急ごう!
すべての教養科目が教養棟で講義される。全科にわたり生物学概論は教養科目の一つで講義室は二階だ。
待ち合わせは樅の木陰の芝生だ。トラがシロとイチャイチャしてた、図書館と教養棟の北側にある樅の木陰だ。図書館は事務棟の後ろ、北側にあり、教養棟は図書館の西隣にある。
「オオッ、待ち合わせはあそこか!シロの家のそばじゃ!」
樅の木の西側は住宅街でそこにシロが棲んでいる家がある。
「シロに会いに行くんじゃないよ。三人の動画を撮って、メグに送るんだよ!」
講義室を出て、あたしは階段を駆けおりた。
「わかっとるよ。だが、動画を撮ったら、会いにいってもいいじゃろ?」
トラがリュックから顔を出してあたしの耳元でいった。
「そんときは、いいよ・・・」
一階へ下りて、教養棟を出た。
図書館へ急ぎ、手前で教養棟と図書館のあいだの芝生へ小走りに歩いた。
図書館の裏から、キャアキャアと声がする。アキとエッちゃんとママの声だ。他にも、誰かいる・・・・。
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