夢現の回遊魚たち

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 隕石が落ちてくるとしたら、こんな感じだろうか。いや、「としたら」じゃない。隕石が落ちてくるのだ。風が吹き荒ぶ緑の草原、不穏な強さだがしかし自然の爽やかさを感じさせる風が葉を揺らし、月明かりに照らされたその中心に、明るい星が墜落した。そしてきのこ雲が立ち上がる。モクモクと立ち上がるそれを見て、私は立ち尽くすことしかできないが、恐る恐る一歩を踏み出した。

 踏み出す。踏み出す。家を出よう。

 駅前はやはり月が明るい。静かな光の中、月が明るいので私は傘を持つことにした。誰かがいる。何か言われる。

『なんだと』

 私は傘を振り翳した。月が明るい、だから私はその傘を振り下ろした。えいっ、えいっ。

 すっかりすっきりした私を月が照らす。機嫌よく歩いた。





 何度目の入院になるだろう。いや、回数はそんなにだ。ただ、精神科の入院というものは、一回一回がとても長い。だから季節を跨ぐ入院も稀ではないし、合計すれば1年も病院で暮らしていることになるだろう。

 個室料金を払う金もない。しかし四人部屋は息苦しく、俺はホールのテーブルに居場所を見出していた。スマホは持ち込めるものの、娯楽の少ないこの場所では、他の人間と話すことだけが娯楽……と言っても、そのわずかばかりの「他人」もまた病める人たちなのである。だってさあ、認知症のばあちゃんと仲良くなったってしょうがないだろ?

 まるで回遊魚のように廊下を歩き、時間を塗りつぶしていく。やれることはそれくらいだ。多くの患者がそう長くないうちに気づいて、水族館の仲間に加わる。空気はまるで重く暗い、重油を混ぜ込まれた海水だ。その中を、病める人独特のカオをした人物たちとすれ違う。ポカンと開けた口はなぜ皆同じなのだろう。

「放せよぉっ!」

 怒鳴り声が聞こえる。俺はその方向を振り返った。年頃は俺と同じか、少し下。高校生くらい? それとも大学生? 大人しそうな黒髪だが、ひょろりとした体型と青白い肌で、彼がインドア派なのを察した。

 看護師二名に引き摺られ、「例の」部屋へ行く。いやあ、特に伏せる理由もないか、保護室だ。

 抵抗したって無駄なのに。看護師二名に腕を持たれ引き摺られ、足をバタバタ幼児みたいに動かして。逃れようったってどうしたって無理なのに、彼は暴れている。やがて複数名の応援がやってきて、結局彼は保護室に収容された。

「開けろ!!!」

 内側から叩いても無駄。暴れれば暴れるほど、締め付けはキツくなるのだから。無情にも看護師が鍵を閉めた音を聞いて。俺は再び歩き始めた。



 新しい顔がホールに座っていて「ああ」と俺は声を発した。もう一週間以上経ったのだと分かった。

「なあ、そこ俺の席」

「え?」

 キョドっていた彼が俺を見上げる。恐れている。俺のことを。でも俺、ヘンな顔してないだろ? にこっと笑って見せれば、彼は少し警戒を解いてくれた。

「嘘だよ、別に席は自由」

 向かい側に腰掛ければ、彼は不安そうにマグカップに手を伸ばした。

「ええと。オオゾラ、くん?」

 マグカップにマジックで書かれた氏名を読み取って、俺は名前を尋ねた。それでも不審そうな顔をしたまま、彼はゆっくり頷く。

「俺、オオトモ。一緒だな、オオ、って」

「……うん」

 なんだよ、可愛い女の子じゃなくて悪かったな。俯いて黙ったままの彼を眺めながら、差し入れにもらったクッキーを齧った。ヒョロガリの眼差しがそれを見つめているので、クッキーを差し出すと、彼は首を振った。餌付け失敗。

「……患者さん同士でやりとり禁止だろ」

「お前みたいなやつならいいんだよ」

「……そう」

「ほら、食えよ」

「うん」

 差し出された手にクッキーを握らせると、オオゾラくんはゆっくりとそれを齧った。

「ねえあのさあ、君たちさあ」

「うわ、なんだよ」

 長い髪をゆらゆら揺らした女性が俺たちの近くに座りいきなり話しかけた。びっくりしたオオゾラくんは体をますます強ばらせる。

「夫が私を待ってるんだけど。手紙が来てるはずで」

「ああ、詰所行きなよ」

「そう?」

 ふふふ、と笑って彼女は去って行った。

「ああ、あれ妄想。気にすんな。適当にあしらえばいいんだよ、あの人離婚してる」

「…………」

「なあ、お前なんで入院したの?」

 俺がいきなり核心に迫ったことで、オオゾラくんはヒッと息を呑んで俯いてしまった。

「そっか。俺、統合失調症」

「?」

「……よくある病気だよ」

「そう…………ええと、僕は」

「ODして自殺未遂だろ」

「ああ…………うん。え、でも何で知って――」

「お前みたいなやつは大体そうだから」

 そこまで話して、俺は「今日の会話」に見切りをつけた。人と話すのには時間がかかるのだ。明日はトランプでも持っていこうかな、と考えながら、俺はまた回遊魚になった。たくさん歩けばきっとダイエットにもなるだろう。時間は無限にあるのだから。





 ヒトはコミュニケーションを希求する。それが本能だからだ。

 ホールのテーブルに突っ伏しているオオゾラくんを認め、俺はトランプを持って近くに座った。

「なあ」

 答えないので、俺は一瞬考えた後、もう一度声をかけた。「なあ、オオゾラ」

 名前まで呼ばれたことで、やっと彼は億劫そうに顔を上げた。

「調子悪いのか?」

「死にたい」

「まあそう言うなって」

 二度目の餌付けに、と俺はお菓子を差し出した。デパートで売ってる高級なやつだ。

「…………ありがとう」

 やっと目を見たな。

「主治医誰?」

「華岡先生」

「ああ……そりゃ入院長くなるぜ」

「えっ?」

「あの人、結構入院させるから」

「嘘だぁ……」

 わかりやすくがっくりとオオゾラくんは項垂れた。そうだよな、こんなとこ早く出たい。長く入院させる理由なんてよくわからない。病院の利益のためなのかもしれないし、あるいは自殺未遂なんてやらかした俺たちへの懲罰なのかもしれない。別に罪なんかじゃないのにね。

「……何もかもさあ。上手く、行かない」

「ふーん」

 俺も持参したお菓子を齧る。クッキーはバターと砂糖に包まれて、どこまでも母親みたいな甘さだった。俺の母親が甘かったかはさておきだな。

「死にたくなったんだよ。いや、死にたいとかじゃないかな……」

「生きてたくないんだろ」

「ああ、それ」

 備え付けのテレビのチャンネルを回す。面白い番組でもないかな。でも前に座っていたおっさんが、恨めしそうにゆっくり振り向いたので、チャンネルをいじるのを止めた。

 NHKの「みんなのうた」だった。いい歳して何を見てるんだろう。

「僕、これ好きなんだよね。知ってますか? 『地球猫』」

 不意に横に立った、体格のいいお兄さんに話しかけられる。オオゾラくんも俺も、その人をじっと見た。

 シャツをぴっちりとジーンズに入れて、風呂に入れないから髪は脂ぎっているが、ステレオタイプなオタクスタイルであるのに反して、清潔感のある男性だった。普段見ない顔だ、きっと保護室にいたのだろう。

「お兄さんも座りなよ」

 薦めると、お兄さんは嬉しそうに笑ったが、オオゾラくんは露骨に顔を曇らせた。

「僕はイチです。よろしく」

「俺はオオトモ。こいつはオオゾラ」

 名前を教えられたら呪われるとでも思ってるのだろうか、オオゾラくんは真顔になる。

「トランプ持ってきたんだ。ちょうど三人いるし……そうだな、七並べでもやろうか?」

 俺はスピードが好きだったが病気になってから辛くてやれなくなってしまった。頭が物事を処理するのを拒否しているのだろうと思っている。

「そういや病院のメシ、うまい?」

「いや、僕はちょっと……なんか、物足りないよね」

 そりゃあオオゾラくんみたいな年齢の特に男性には物足りないだろう。きっちり栄養計算されててヘルシーでも、心にはヘルシーじゃないのだ。

「マックが食べたいな」

 イチが言うので、俺たちはうんうんと頷いた。

「僕、差し入れてもらったんですよこの間。誕生日だったので、ケーキももらいました」

「へえ、いいじゃん」

「その場で食べ終えればギリギリセーフらしいですよ。オオゾラくんも頼んでみたら?」

「うち、親遠いから。あと仲も悪いし」

「大学生?」

「うん」

 手元のトランプとテーブルの上を交互に見ながら、オオゾラくんはぽつりぽつりと話し始めた。

「なんだろうね。なんだろう……分からない、分からないけど死にたい」

「うつ病?」

「うん、そうらしい」

 へえ、と俺とイチさんは重々しく頷いた。

「イチさんは?」

「僕は統合失調症です」

「ふーん、そっか。俺もそう」

「トウゴウ? って、何?」

 オオゾラくんは不思議そうに首を傾げた。そっか、そうだよな。普通はこんな病気知らねえよな。

「昔の精神分裂病。幻聴とか、妄想とか。そんな感じ」

 ブンレツビョウ、と繰り返してオオゾラくんは不安になったようだった。怖い病気だと思ったんだろう。仕方ねえけど。

「……普通なのに」

 躊躇いがちに彼が言うのを聞いて、俺とイチさんは顔を見合わせ吹き出した。

「たまに『幻聴さん』が聞こえるだけだよ」

 イチさんは「普通なんだけどなあ」とぼやいていた。

 俺にとって『幻聴さん』は友達だ。尤も、幻聴が幻聴なのだと気がつくには時間がかかったのだが。今では「それ」が本来は聞こえていない音なのだと理解している。でも、声は俺の行動を肯定し、優しく寄り添ってくれた。だから、これがなくなったらちょっと寂しいかもしれないと思っている。

 イチさんは俺よりもベテラン患者らしく、あの先生がどう、あの看護師がどう、と語った。

「あの人は僕のおやつを狙っています」

「ふーん」

「…………」

 ちらっとオオゾラくんが俺を見る。目配せして軽く頷いた。おやつなんか狙われるわけがないのだ。安心したようにオオゾラくんは、そうですとも、とばかりに首を縦に振りまくった。

 レクリエーションの時間が来るまで、俺たちはどうでもいい話をした。レクの時間になったら、それぞれ席に座って、つまらない塗り絵をし、雑誌を眺めて時間を消化した。





 診察は午前中にあって、入院したばかりや体調が悪いと医者は毎日通い詰めてくるが、俺みたいな安定してきた患者の場合は2、3日に一回くらいになる。

 オオゾラくんの主治医、華岡先生は熱心な先生だった。少し離れたテーブルに二人は座って、華岡先生はメモをとりながらオオゾラくんの話を聞いていた。

 日々俺とオオゾラくん、イチさんは同じテーブルに集まって、無駄話をして過ごした。トランプ、UNO、オセロ、やれそうなアナログなゲームなら大抵やった。

「イチさんはさあ、今何してる人なの?」

「僕は生活保護です。働けないですからね」

「ふうん。俺は一応大学生なんだけどね。作業所は?」

「少しだけ」

 イチさんは一見、これは偏見に満ちた表現であるのだが、「普通」だった。確かにちょっと変な人みたいな印象はあったけど。だから働いてるのかなと思ったんだ。

「大学かあ……僕、大学はやめてしまいました」

 卒業したかったな、とイチさんは笑った。その眼差しはオオゾラくんの背中に注がれていた。

「オオゾラくんは大学やめてしまうんでしょうか?」

「大丈夫だよ、ああ言う奴は。あれだ、アイデンティティクライシスってやつ」

「アイデンティティ?」

「そう、ちょっとこう……自己肯定感とかがグチャッてなって、うつになるやつ」

「そうですか」

 蛍光灯を割りました、とイチさんは言った。発病時のことを思い出しているらしい。

「なんか、頭の神経が焼き切れてしまったみたいで。大学の蛍光灯割ってて、そしたら、なんか」

「…………」

 傍らのテーブルには、沈痛な面持ちで無言で座っているオッサン、オッサン、オニイサン、オネエサンが四人。俺はこの人たちが何の病気か知っている。躁うつ病だ。だって全員保護室出身で、その時看護師がいかに迷惑そうにしていたかを知っているから。

 やっぱり回遊魚がいる。モデルみたいな女の子が、イヤホンで流行りの曲を聴きながら上機嫌で歩き続けている。あの子は大麻精神病。退院したらアイドルが迎えにきてくれるのだと俺に教えてくれた。そういうお迎えがあったら、幸せかな、と思う。世界の「秘密」とも繋がっているのだと。

 不意にオオゾラくんの方から聞こえてきた言葉に、俺の耳はピクリと動いた。

『――僕はあの人たちとは違う』

 秘められた言葉だったからこそ、低い言葉で発せられ、それゆえにかえってよく聞こえてしまった。言葉の内容に苛立つよりも、俺は聞いてしまったことを恥じた。

 怒りに似た震えがその言葉を彩っていて、今までに聞いたどのオオゾラくんの言葉よりも誠実だった。





 人って、死ぬんだな。

 父の葬式だった。母は何も言わずせっせと葬式の段取りをこなしていたが、周囲の冷ややかな目を見れば何が起こったのか明白だった。

 僕は目撃しなかったけれど(それが幸いなのかどうかは、今となっても分からない)姉は見てしまった。父が、ドアノブに引っかかった「物体」になってしまったところを。僕の人生は分かりやすい悲劇だと思うが、その始まりがあるとしたらあの日だったと思う。

 そして今、僕は多分、あの日の父と同じことを考えながら、畳の上に座っていた。古いエアコンだから駆動音がうるさい。ガタガタ揺れて、冷えすぎた空気が吐き出されている。夕方のセミがうるさく鳴いていて、僕の心に静寂をもたらした。

 今日も大学に行けなかった。バイトにも行けなかった。だが裕福な実家のお陰で仕送りならあった。金に困ってたわけじゃない、僕は普通の大学生になりたかっただけだ。でもどうやら、普通にはなれないみたい。

 ある日、張り詰めていた糸がふっつりと切れるように、僕をまるで天啓みたいにウツが襲った。もっと、「いつの間にか」みたいな世界だと思ってたけど、そうじゃなかった。あの日の日付を今でも覚えている。これからもずっと、忘れない。

 あれ以来、僕は正気に戻れない。

 粉砕した向精神薬。飲むととっても楽になれるやつだ。この白い粉をカードで整えて、鼻から吸い込む。スニッフィングというやり方だ。

 それからトッピングにこの咳止めシロップをとろ〜りと。甘くて美味しいシロップは飲みやすくっていい。最近は薬局でちょっとずつしか買えないのが難点。

 今日はこれも入れようかな。アタマの神経を焼き切りそうなとっておきだ。一瓶250錠だから、全部流し込む。

 どれも飲んですぐどうこうなるってもんじゃない。よく漫画で毒を飲んでウッ! ってなるやつがあるけど、あれは嘘なんじゃないかと思う。

 やがて薬が回って、心地よい微睡が僕を襲った。うーん、と唸り声を上げながら寝返りをうつ。ああ、マグカップだ。これは父が買ってくれた、漢字のマグカップ。

『大空』

 お前の名前だから買ってきたよ、と出張先から帰ってきて、僕にくれた。水でも飲もうとして、手を伸ばした時、僕の意識は眠気に呑まれて失われた。


***


 リストカットのせいでガタガタになっている前腕に、点滴のチューブが突き刺さり、シートでカバーされている。目覚めた時感じたのは強烈な吐き気だった。咳止めシロップの後はいつもそうだ。だけど普段と違うのは、見上げた天井と空気の匂いだった。

 古ぼけた寮の四畳半の、かびくさい臭いじゃなかった。僕が視線を走らせると点滴のパックや注射器があって、ベッドは白く清潔、閉められたカーテンがゆらゆら揺れていた。

 病院、か。

 誰が救急車呼んだんだろう。それとも意識を無くしたまま寮のホールに行ったりしたのかな。見つかって、救急車を呼ばれたのかもしれない。でもどの道覚えていない。後で分かったことだが、寮長である「駅長」先輩(これはあだ名)が異変に気付いて呼んでくれたらしかった。

 ナースコールを押すまでもない。僕の意識が戻ったからって、世界にどんな変化があるだろう。僕の瞼の大きさほどしかない。まつ毛が空気を撫でる速度だけだ。でもバタフライ効果ってあるしな、僕が目を覚ましたことで、誰かがバベルの塔から墜落しているかもしれない。そんな風に考えると、なかなか愉快だった。

 やがてやってきた看護師に声をかける。ゆっくりと肉体の回復を待ちつつ、二日も経たないうちに転院先が決まった。

 そうして僕が流されるままに辿り着いたのが、鍵のかかる、何にもない部屋だった。かろうじてプライバシーが守られる程度の便器は、なぜか水が流れない仕様になっていた。ベッドが一個。心を込めてこの部屋の情景をお届けしようと思っても、「ベッドが一個」以外の言葉が出てこない。

 当然本もゲームもスマホもない。寝て、座って、寝ることしか何もない。時折やってくる看護師、医師、それから朝昼晩の三食。それだけが刺激で、こんなところ早く出たかった。陳腐な言葉だが、そうとしか言いようがない。

「保護室?」

「ああ、保護室っていうんだよ、あそこ」

「……へえ」

 保護、かあ。外に出てから出会ったオオトモくんは、そう言って僕に教えてくれた。

「お前みたいに自殺企図のやつは、もっかいやらないようにあそこに一週間くらいは入れられるんだ」

「お仕置きなのかと思ってたよ」

「それはそうかもしれないな」

 二人で歩き、二人でホールで語らい、意図的に演出された過剰な「穏やかさ」の中で、揺籠に揺られるようにしてそこでの日々は過ぎていった。

「お前なんで自殺なんかしようとしたの」

 ある日、オオトモくんが廊下の突き当たりでターンしながら僕に言った。ちっとも興味なさそうな顔をしていた。でも分かった、それは頑張って取り繕った顔だってことが。

 ただ向けられた露骨な好奇心が、僕には新鮮だった。傷みでも労りでも、悲哀でもない好奇心は、死んだ蟻をぐちゃぐちゃにするみたいに僕を見ていた。ゾクゾクしたから、僕は不意に、答えてしまった。

「……太陽のせい、かな」

 オオトモくんはゲラゲラ笑った。俺も、という視線が嫌に目について、脳から離れなかった。





「自殺したら救われないって本当なのかな」

「あ〜」

 トランプをくりながら、僕が発した問いにオオトモくんは首を傾げた。

「死んだら終わりだよ」

「それはそう」

「でも死ぬ瞬間ってどんな感じだろう」

 死はいい匂いがする。瞼の形に開いた深淵が、いつも僕に優しい声で語りかけてくれていた。冷たい吐息をこぼしながら。死ぬのは怖かったけど、生きるのはもっと辛かった。そうだろう、オオトモくん、イチさん。

 父は賢かったからその深淵に気がついてしまったのだ。普通の人が愚鈍なだけなんだ。鼻が鈍っている。

「華岡先生に、危ないからやめろって止められたんだよね、ODもリスカも」

「へえ、お前ODとかやんの。メンヘラなんだ?」

「いや、君だってメンヘラだろう」

「あー、そういう意味じゃなくて。ステレオタイプな感じのさ、こう……彼氏とかすっげえ束縛して、別れようとしたら『自殺するぞ!』とかのイメージ」

「あー……それは、うん。僕恋人いたことないしわかんない」

「へえ!」

 イチさんとオオトモくんは顔を見合わせた。

「僕はカノジョ、いたことありません」

 イチさんはそうだろうな……この人の親はとっても過保護で、大人しく優しそうな女性だ。いつも差し入れを持って、アイロンを綺麗にかけたシャツを渡しに来る。そのシャツと同じくらい、イチさんは清潔な、汚れのない人だった。あんなお母さんだから、イチさんみたいな立派な人が育ったのだと思う。よく看護師を敵視してるけどね。

「俺は、まあ。一人だけだけど」

「へえ、聞かせてくださいよ」

 案外イチさんが食いついた。その瞳は、間近に見る恋愛の存在に興味津々と言った様子で、昆虫のように輝いていた。

「……あんまり楽しい話じゃねえよ」

「どうしてですか?」

 青空、雲が流れていく。ホールは明るく大きな窓に囲われている。開放的な空間だが、このガラスは飛び降り自殺防止に決して開くことはない。破壊しようと椅子を投げたって壊れない。強化ガラスだからだ。

 陽光に照らされたオオトモくんの横顔が、ひとひら雲に遮られ翳りをおび、そしてまた光のもとに晒された。

「メンヘラだったんだよ」

 トランプが並べられていく。

「……ナマがいいって、さ」

「?」

 僕が疑問符を浮かべる前に、オオトモくんの顔は険しくなり、今まで見たことがないような表情を浮かべた。

――病気の人の顔だ。

 初めてその片鱗を見出してしまい、僕はただ怯えた。けれど彼が友達だと思ったから、その怯えを見せまいと飲み込んだのだ。

「ナマがいいってんでヤって妊娠して、はい自殺」

 言葉と同時に、トランプが整列した。虚ろな声で自らの罪を告白し、でも「俺は何もやってない」とオオトモくんは自分に言い聞かせていた。

「避妊はすべきだと思います」

「……イチさん黙ってて」

 僕たちは「聞かなかったことにする」という選択をした。そういえばさ、の一声で話題を切り替えれば、緊張の糸は徐々にほぐれた。こんな話なんてすべきじゃなかったんだ、と思いながら、僕はオオトモくんの表情を見ていた。



「君の家族に精神科の病気にかかった人や自殺した人はいる?」

 この病院に来てからの、主治医との初対面の思い出だ。その折、主治医の華岡先生からいろいろなことを聞かれた。華岡先生は不器用な人だ、と一見して思った。粗野に見え、精悍な顔立ちはとてもインドアな精神科医とは思えず、でも瞳の奥は優しかった。

「います。えっと、僕の父が自殺しました」

「それはいつ?」

「僕が小学6年生の時……」

「へえ」

 それは。と先生は言葉を詰まらせる。精神科医って案外優しいんだな、こんな話いくらでも聞いてるだろうに。いちいち胸いっぱいにしてたら、張り裂けて死んでしまいそうだ。

「何か病気だった?」

「いえ……よくわかりません。あとは、姉が」

「お姉さんも?」

「はい」

 哀しみの根源にお互いが蓋をしたまま、話を進めていく。

「姉も自殺しました。僕が中学三年生の時」

「お姉さんも、病気だった?」

「ええ……? ああ、多分。うつ病、かな」

 心にしまっていた姉の死顔が浮かんだ。元々色白だった肌は生気を失うことでさらに真っ白になり、動かないから綺麗な人形みたいだった。

「姉さん、中絶したんですよ」

「ああ……」

 よくある話ですよね、と僕は笑った。そうかもしれないね、と先生は頷く。でもそれは辛いことだよ、と付け加えられた。

「先生はお子さんいるんですか?」

「え、俺? 俺はいないよ」

「まあ男だしわかんないですよね」

「女じゃなくても中絶が辛いことくらいは分かるよ」

「そういうもんでしょうか……」

 じゃあなぜ姉の苦しみを僕たち家族は分かち合えなかったのだろうか。辛いことを分かち合えるなんて嘘だと思う。もしそうできるなら、どうして僕は救われないんだ。

 その日も大きな雲が青空に流れていて、僕の名前を読んでいるようだった。僕がODで意識を失いかけた時に見た、マグカップに書いてあった「大空」の文字が頭に浮かんだ。





「華岡、また難しい子引き受けたな」

「え? ああ、うん。そうだな」

 コーヒーを揺らしながら俺は手元の本を見ていた。医局のコーヒーだからインスタントしか作れなくてあまり美味くない。夕方の光がブラインドから差し込んでいた。今日の仕事は後は書類仕事だけだ。それから、家庭の事情で家に帰りたくない俺が、同僚とだべるだけ。

 よく俺に付き合ってくれるユングが、そちらでは紅茶を淹れながら、書類にひたすら印鑑を押していた。

「お前の患者、ああいうのばっかりだ。わざとか?」

「引きがそうなんだよ。お前はなんか……なんだろう」

「僕は慢性期が多い」

「そういえばそうだったな」

 難しい子? 確かにそうだ。新しく引き受けることになった「オオゾラ」。病棟でオオトモという子とよく一緒にいるのを見かける。あとイチ。二人とも、ユングの患者だ。

「どっちにしろスッキリ治らんタイプだよな」

「それはそうだね。ああでもさ、君がやたらとPTSDの病名をつけるの、僕はどうかと思うよ」

「それは思想の問題だろ」

「でもICD-10にはちゃんと書いてあるんだぜ、『命に関わるレベルの』って」

「複雑性PTSDなら違う」

「そうじゃない、PTSDの病名の乱発は誤解を招く。本人にとって良くない」

「でもお前がオオゾラみたいな子につける双極性障害も違うと思うが」

「みたてだよ。本人にとっての病名、医者にとっての病名、本当の病名、全部一緒じゃなくていい」

「俺はそれが全て一致すべきだと思ってる」

「そうかい」

 コーヒーがあまりにも不味い。自分でミル持ってきたらいいかな。置くとこはいくらでもあるし、ケトルもあるからな。引き出しを開けて、中に残っているカップラーメンの種類を品定めしながら、俺はオオゾラが保護室まで引き摺られていった時の様子を思い出していた。

「今日何食べるの。僕用に鴨なんば置いといてよ」

「それはもう昨日食った」

「チッ」

 オオゾラが入院になった時。まず保護室に向かうのは確定していた。だってあれだけの自殺企図をやらかしたのだ。刺激遮断して落ち着かせることは必須だった。

「お前、見てたっけ」

「なんの話だい」

「オオゾラが運ばれてきた時のこと」

「ああ、あれね」

 ずず。紅茶が揺れる。


『どうしてだよ! なんでだよ!』


――みんなそう思ってるよ。

 冷酷な俺が受け止める。両腕を看護師に掴まれて引きずられて、泣き叫んで。ああ、泣き叫ぶ奴はレアかな。でもオオゾラの慟哭は、医者としての仮面を突き抜けて俺に突き刺さった。ウアアアアア、なんて叫び、映画でしか見たことがない。

 みんなそうだよ。

 病気になった奴はみんなそう。その暴力的なほどの理不尽さに打ちのめされ、言葉すら出ない。つい忘れそうになるのは、誰もそんなこと敢えて言わないからだ。統合失調症の患者は病識のない状態でやって来ることが多い。特に慢性期ともなれば幻想の世界に浸っていて、複雑怪奇な病態に陥り病院の世界で暮らしていく外なくなる。

 あれはなんの病気なのだろう、と診る度に思うのだ。オオゾラみたいな、若い子の病気。いわゆる、「メンヘラ」……境界性人格障害? あるいは自己愛性人格障害? それとも複雑性PTSD、双極性障害。

 どちらにせよ、彼らがそれで困っていて、救いの手を待っていて、それが他の診療科では立ち向かえないことなら、俺たちがやるしかないのだ。

「またカッコつけようとしてるな、君は」

 ふあ、とユングがあくびをした。書類が終わったらしい、印鑑を片付けている。

「僕は予言しておくね、君はぜーったい燃え尽きる」

「お前は平気なのか?」

「僕は畑をせっせと耕す仕事をしているだけだ。正義感なんて持たないことにしてる」

「……お前みたいなやつが精神科医の最終形態みたいなのになるんだろうな。ほら、仙人みたいなやつ」

「そうなれたら本望だね。じゃあ僕は帰るから。あ、鴨なんば追加しておいてね」

「あれもう売ってねえよ」

「嘘……」

 それからユングは足の爪を切って帰っていった。そろそろ回診して寝る準備でもするか。精神科の当直は気楽なのである。





 無限に等しい入院生活は端的に言って拷問であり、自殺企図に対する罰だ。もう二度とこんなことはするな、もしやったらまたこうなるぞ、という脅迫。

 この病院「は」……「は」と記載したのは、必ずしもどの病院もがそうではないとオオトモくんが言っていたからなのだが、とても綺麗だった。なんでも建て替えて間もないらしい。床はワックスの輝くフローリングで、開放的な窓に、あちこちに座るためのベンチのようなものが配置されている。現代アートみたいな感じ。部屋はゆったりとした造りで、4人部屋。なんでも昔は畳敷きの8人部屋なんてあったらしい。

 僕が最初に居た「保護室」も鍵のかかる部屋だと聞いて、檻のようなものを想像していたのだ。動物みたいに扱われて、小さな戸口からご飯が差し込まれるような。それで中にいる「狂人」は猿か腹を空かせたライオンみたいに、日がな檻の中を行ったり来たりする……というわけではなかったので、まだ人道的な扱いを受けているらしい。

 そんな人道的な檻の中で――わざわざそんな枕詞をつけなければならないのは、それが本質的に非人道的だからだ――眠れない夜も苦痛に塗れながら寝返りを打っていた。

 そもそも僕は眠れていない。睡眠薬がないと眠れない体にすっかりなっていたのだが、ODを繰り返すと危険だからという理由で「飲むと気持ち良くなる薬」は全部取り上げられた。ちくしょうめ。安全な、と称する激ショボ睡眠薬は処方されているが、全然眠れない。時刻は3時を過ぎており、もう確実に追加の眠剤はもらえない時間になってしまった。ベッドにうずくまっているのも苦痛なので、少し体を休めようとホールへ歩き出した。

「よお」

 ホールの椅子に気難しい顔をしてオオトモくんが座っていた。やかましくすれば看護師が来るだろうし、声は顰めて。

「君も眠れないの?」

「ああ。眠れない時はいつもこうしてる。眠剤、俺はあんまり効かないんだ」

「僕もちっとも効かない。藪だよ、本当に。赤いやつ飲めば眠れるんだけどな……」

「赤? ああ、赤玉か。あれもう売ってねえやつだろ、お前どうやって手に入れてたんだ」

「ネットで買えるよ」

 本当だ。違法薬物だって買えるのを知ってる。僕も一度だけ取り寄せてみたことがある。怖いから続けなかったけど。二人でホールに座って、不眠によって意地悪に冴え渡る脳を抱えて、ナースステーションを観察していた。暗い病棟に蛍光灯の灯り。眠っている間は、どの人も平穏なのだろうか。いや、違うな、保護室から調子外れな歌が聞こえてくる。

「あ、華岡先生だ。今日当直なんだね」

「おっ、看護師と不倫かな?」

「ヒェ……そ、そんなこと本当にあるの……?」

 まるでドラマじゃないか。当直中に、看護師と……ええええ、エッチなこと、とか……しちゃうのかな、あの華岡先生も。

「心配すんなって、ねえから。ねえっていうか、あったとしても俺たちからは見えないところでするだろうよ」

「そりゃそうだ。あ、ユング先生もいる」

 君の主治医だろう、と僕はオオトモくんに呼びかけた。オオトモくんとユング先生は、彼が高校生の時からの長い付き合いらしい。時々意地悪だけど、なんだかんだいい先生なのだとオオトモくんは評価していた。ユング先生のおかげで大学になんとか進学できたのだと。でも当直の時間に何をしているんだろう。変なの。

「あ…………え…………?」

 ナースステーションの蛍光灯の下で、二人の影が重なる。重なって。

――……、キス……?

「オ、オオトモくん! あの二人、キスしたよ!?」

「騒ぐなって、みんな知ってることだから」

「や、でも、あの二人、その、お、男同士……!」

「そういうのもアリなんじゃないのか、今時だから。なんか、華岡先生、家庭が終わってるらしいし。ユング先生は独身だし」

「はわ…………」

 なんだか、病気でブツブツ独り言を言ったり、電波な妄想で話しかけられた時よりもびっくりした。僕たちの座っている場所は、影になって詰所側からは見えないはずだ。見えない、はず……あんなところを目撃してしまった、なんて知られたら……。

「!?」

 ユング先生が手を振った。「え?」って感じで華岡先生が首を傾げる。気付かれた。ユング先生の柔らかい茶髪の尻尾がふらふら揺れている。

「キスってそんなにいいもんかな」

 平穏で平凡な言葉なのに、どうしてだか刺々しくオオトモくんは言った。キスに恨みでもあるのだろうか。

「お前恋人は?」

 いたら殺す、とでも言いそうなくらい、呻くようにオオトモくんは言う。幸いにも僕には恋人がいなかった。だから、オオトモくんのお眼鏡に適う回答ができたわけだ。

「いないよ、いたこともないし」

「オオトモくんは…………あ、……何でもない」

 聞きかけて、先日のイチさんも交えた会話を思い出した。

『ナマがいいってんでヤって妊娠して、はい自殺』

 笑えてくるね。僕の姉さんは、それで、それで死んだって言うのに、君が犯人なわけじゃないけど、同じ罪を背負った人間が、平気な顔でトランプを並べていたんだ。

 僕は姉さんじゃない。

 オオトモくんは、姉さんの恋人じゃない。

 僕は妊娠しない。だから、僕は自殺なんかしない。





「イチさーん」

 ある日、僕たちはイチさんのねぐらを訪れた。なぜなら彼が最近ホールへ出てこないので。

「調子悪いんだろ」

「そうなの?」

 イチさんの部屋は、実は一般病室ではない。夜間だけ施錠する形で保護室を利用している。鍵がかかることを除けば、個室みたいなものだ。

「イチさん……?」

 病室はあくまでもプライベートな空間だ。病棟という空間に同居しているみたいなもんだけど、部屋まで呼びに行ったり様子を見に行くと言うのは親密すぎて憚られるように思っていた。だから今日イチさんのお部屋を訪れるのが、初めてのことだ。

 覗き込めば、イチさんのベッドには私物がまるで土手のように並べられていた。洗面器、石鹸、下着、シャツ、歯ブラシ、コップ。枕元にラジカセ、新聞、ノート、ボールペン。そしてその土手の真ん中にイチさんは座っていた。

「イチさん?」

「帰ろうぜ」

 返事を待つまでもなくオオトモくんは僕の腕を引いた。イチさんは空中を一点凝視して座っていた。声をかけられても反応せず、メガネの奥底にある黒目は紛れもなく痴人のものであった。

――ヘンなの。

 もし、僕がこの病院へ入院する前だったら、それをビョーキの人間だと思ってイチさんに嫌悪感を抱いたことだろう。でも僕はそこまで人間を捨てていなかった。声をかけても動かない人形のようなイチさんの姿にも、普段にこやかにトランプをする彼の姿を見出した。だから却って、嫌悪感を抱いた。ただこの二つの嫌悪感は違うのだ、と僕は自分自身に言い聞かせていた。


 僕たちが退院を待つ間にも、新たな患者が運び込まれてくる。老人もいれば若者もいた。病室の――そう、当たり前すぎて記述していなかったが、閉鎖病棟である――扉から入ってきたのが同じ年頃の青年だったから、僕はオオトモくんと顔を見合わせた。何者だろうか、と話しながら日々は流れた。狂気に囚われたイチさんを除け者にしていたが、イチさんが正気を取り戻すのと新人くんがホールに現れたのは同じくらいの時だったように思う。

「あ、あの」

「ん?」

 オセロの勝負の最中だった。

「あの……ここ、いいですか」

 儚げな、という形容詞がよく似合う青年だった。慣れない病棟にオドオドしていることが一見してよく分かった。

「俺……あー、えっと。名前、そう、名前。今は、トモエ」

「今は??」

 自己紹介というには奇妙なワードを拾って、僕は思わず聞き返した。

「ああ、俺は人格が色々あって、今はトモエ」

「人格……? 色々……?」

 ちょっとそういうタイプの厨二病なのかと思って、僕とオオトモくんは顔を見合わせた。イチさんは新しい子だ、とはしゃいでいて話を聞いていない。

「解離性障害だよ」

 多重人格、とトモエくんは言った。彼が自分は「トモエ」だと言うならそうなんだろう。

「オリジナルの子の名前は言えない」

 なんでも、家庭で色々あったらしく警察のお世話にもなっている最中らしい。

「ここ座って、トモエくん」

 イチさんが椅子を引いて彼を座らせた。

「ありがとう」

 それから所在なげに周囲を見渡して、トモエくんは持ってきた本を読むことにしたらしい。本もまた数少ない娯楽の一つだ。僕も入院生活始まって2、3週間でなかなかに読んだ。分厚くて手が出なかった京極夏彦の本も二冊ほど読み終えている。

「何読んでるの?」

「カフカ」

「ふうん」

 なんか、キザったらしいな。それに、なんだろう。

 ねえ、君は感じる? オオトモくん。

 ふと思って、横に座るオオトモくんを見つめるが、彼は禁煙パイプを噛み締めてテレビを眺めていた。

 僕は紛れもない死の匂いをこの子から嗅ぎ取っていた。それはオオトモくんともイチさんとも違う。統合失調症にはない死の匂いだ。

「あ、ユング先生」

「診察に来たよ。おいで、トモエくん」

「はい」

 二人が診察室に消えていくのを見送る。彼がホールの机の上に置いたカフカ。読んだことはないけど、カッコいいと思った。それになんだか、いい匂いがする。





「『19歳男性。××市にて出生。同胞2名の第1子。出生発達に異常なし。都内随一の難関私立中学に進学するが、高校一年生の夏から不登校に陥り高校中退。実父による虐待歴があり、幼い頃から性行為を強要され――』」

 カンファレンスだった。トモエの症例を議題にかけるべく、ユングがサマリーを読み上げている。いつも退屈なカンファレンスだが、今日ばかりは活発なディスカッションと結果を期待している。

「氏の虐待案件は児童相談所・警察が介入しており、父親の接近は法的に禁止されています。本人及び実母は住居氏名を変え伏せた上で生活されています。病棟でも本名は隠しており、主人格である『トモエ』としてこちらは呼んでいます」

 厄介だ、とは言っていたけれど、清々しいほどに公式めいた虐待案件だった。だが俺たちは精神科医であって、虐待の専門家ではない。多少は齧ってるけど。

「僕は解離性同一性障害と愚考しております。彼に関しての問題点は、何よりも自傷行為の多さ。企図行為も何度か。先日も少しずつ溜めたクエチアピンをオーバードーズしてます」

 最終的な結論を言えば、俺たちには何もできなかった。だから当然、カンファレンスで画期的な治療が提案されるわけでもなかった。ただ、この症例を刻み込みシェアするためにこの場は存在した。この子が病棟にいる、それを知るだけで変わるものはあったからだ。

『母親はどういう人なの』

『知能水準は』

『発達障害の側面』

 境界を切り抜くことで浮かび上がる立体、『トモエ』の自我像。辛い現実から逃れるために浮かび上がった主人格は、クールな世捨て人で、幻想の世界に耽溺していた。でも人懐っこい側面もあるよなあ、と病棟で見かけた時の姿を思い出した。俺の患者である『オオゾラ』とユングの患者『イチ』『オオトモ』、まるでそこが大学の階段教室の一角であると錯覚させるほど仲が良く、せっかく四人いるのだからと麻雀をしたり、トランプやオセロをしたり。それから、売店でちょっと刺激的な雑誌を買ってきて眺めたり、一緒にカップラーメンを啜ったり。皆、大学を諦めた者たちだ。誰もそれが青春であるとは認めないだろし、青春の名をつけるのは憚られたが、もし青春の本質が「そう」であるとすれば、これもまた青春の一つの風景なのだろうと思った。

「見てよ、この心理検査の結果」

「あ?」

 カンファレンスが終わって、ユングが見せてきたのは、『トモエ』の心理検査の結果だった。一番簡易な検査であるバウムテストの結果を差し出している。

「まだ勉強してないか? バウム」

「いや、軽く齧った」

「あー、まあ知らなくてもこの辛さは分かるだろ」

 実は俺は元々外科医で、精神科に転科したばかりでもあったから、まだまだ勉強不足なところがある。それでもこの「樹」の異常さは分かった。

「バウムテストでは『実のなる樹を書いてください』と最初に声掛けするだろう? 実の数、根の張り方、葉の茂り方、そういうところから見ていく」

「うん」

「これを見てどう思う? それが一番大切なことだ」

 実のなる樹を指定するんじゃなかったのか? その絵には、実なんてなかった。描けなかったのだろう。自らを支える根は存在しない。折れた枝、大きなうろの空いた幹。全体の描き込みは少ないのに、そこばかり熱心に色鉛筆で塗られている。

「……可哀想な木だな」

「寂しい木だ」

 全く、とユングが呟く。本当は彼を抱きしめたくてたまらないのだろうと思った。でもユングはそうしない。


 病棟を見に行くと、オオゾラとトモエが並んで廊下を歩いていた。なんか、こいつら距離が近いんだよな。

「よお」

 立ち止まるのが申し訳なくて、俺は二人と一緒に歩いた。

「なんかいいことあったか」

 オオゾラに声を掛ける。聞くことがない時、俺はいつもこうやって声をかけている。

「何も。……先生こそなんかあった?」

「え? あ、ああ」

 こんな切り返ししてくるやつ初めてだ。

「うーん……ああ、昨日食ったマックのポテト、揚げたてだった」

「何それ」

 オオゾラは笑った。トモエもつられて笑っている。

 二人とも笑うのにな、健康な人と同じくらい。でも笑えるからって幸せじゃないんだよな。

「先生は、精神科医ならラカンやフロイトはご存知なんですか?」

 トモエに声を掛けられた。え、と俺は固まる。やべえ、勉強してねえとこだ。っていうか難しすぎて一生やれる気がしない。

「…………そういうことはユングに聞いてくれ」

 逃げられないと覚悟して俺は折れた。患者に嘘はいけない。いずれバレるからだ。

「ユング先生ならさっきあそこでお昼ご飯食べてましたよ」

「またか」

 ユングはよく病棟で患者と飯を食っている。

「そういうの好きなのか?」

「はい」

 オオゾラがなんとも言えない表情をした。憧れ……? さすが有名私立中高の生徒だけあって、トモエは利発そうな顔立ちをしている。

「ねえ、俺はもう元気なので退院できるってユング先生に言ってくれませんか?」

「お前も分かってるだろうけど、そういうわけにゃいかねえんだよ」

 そう、精神科の入院は長い。医療保護入院なら3ヶ月は覚悟される。

「最初に3ヶ月って言われたろ? そこまでは我慢しろよ」

「溜まってます」

「は?」

「セックスがしたい」

 主治医でもない俺に打ち明けるにはあけすけすぎて、言い返せず足を止めた。俺を置いて二人は壁際でターンして、行ってしまう。

「先生、じゃあね」

 悪戯っぽくトモエは笑って手を振った。オオゾラも傍らで手を振り、冗談めいた様子でトモエに腕を絡ませていた。

 やっぱり距離、近いよな。



10



「なあ、思ったんだけど。あー、ちょっと下世話な話だけどさ……入院中って」

「うん」

「性欲どうすんの?」

 睦み合いが完了したラブホテルのベッドの中での会話だった。シーツに身を委ねて肩を晒しているユングを後ろから抱きしめながら、俺は後ろめたさを前面に押し出して尋ねた。昼間に言われた『セックスがしたい』と言ったトモエの言葉が離れなかった結果だ。

「? オナニーすればいいじゃん」

「あ、まあ……そうだよな」

 三本目の煙草を蒸しながらユングはなんてことない様子で答えるので、俺は拍子抜けした。

「君はアッペの患者がどうやってオナニーしてるか気にしたことあんの?」

「あ、いやそういうわけじゃ」

「体と同じで精神的に不調だと性欲もシュンって感じだろうけどね。でもああいう若い子は入院長いと溜まるよね〜」

 すっごい下世話な話だな、とユングは改めて笑った。

「でも……その、あー……長期入院の、人とか?」

 慢性期病棟では病院を住所とする患者が多く入院している。昔は若い患者も多く、運動会を開いたりなんてこともあったらしいが、今ではすっかり高齢化している。それでも若いと「おっさん」くらいの年齢の患者はいるのだ。それに急性期病棟だと閉鎖病棟でありながら男女混合の病棟であり、オオゾラやトモエのような若い「メンヘラチャン」の入院が多い。

「それぞれのベッドがあるし、カーテンも一応あるからね。でも間違いが起こることはそりゃあるよ、人間だもの。僕はそれを禁止すべきなのかはよくわかんないね」

 煙草を灰皿に押し付け消したユングは、俺の胸に甘えるみたいにしがみついた。

「病院で知り合ってデキた夫婦もいるよ。幸せなことに子供も二人生まれた。家族みんなで精神病だけどね」

「え……」

「父母、統合失調症。娘、息子、非定型精神病疑い。全員で生活保護受給、団地暮らし。父親、最近1年ずっと保護室。君はそういうのはダメだと思うタイプかい?」

「あ、いや……その」

 それっていいのかよ、と言いかけた自分の目の奥をユングが見ていて、一瞬で見抜かれたことに気付き恥ずかしくなってしまった。

「別にいいよ、僕の思想を君に押し付けるつもりはないから。馬鹿にするかどうかだけの違いだ」

「ひどいこと言うなよ……」

 絶対『馬鹿にする』方にカテゴライズされたと思って、俺はうめいた。今はどの道何も答えられなかったからだ。直感としてそれは「不幸」だと思ったが、不幸を断罪する権利は俺たちにはないと思った。ただそれだけだった。

「この話ついでに言っとくけどさ、君の患者のオオゾラくん、多分トモエのこと好きだよ、そう言う意味で」

「そう言う意味で!?」

 そりゃ俺は数日見た感じで「超仲が良い」と言うにはベクトルが違っててなんだかなあと思ってたのだ。でもまさか好きってそう言う好きだと……まさか患者が、ってのもあって、想像していなかった。

「君もいい歳してるんだから、そのくらい分かれば?」

「うるせーよ童貞」

「ふん、どの道使う予定のないちんちんだよ。今度君の尻でも使わせてくれ」

「絶対嫌」

「ケツの穴の小さい男だ」

「小さいから断ってんだよ」

 あーあ、と猫みたいに伸びをして、ユングは胸まで伸ばした髪を束ね直した。線が細いのもあって、女みたいに見える。

「お前って女に興味ねえの?」

「君のことが好きだっただけだが?」

「安っぽい会話だな……寝るぞ」

「うん」

 電気を消せば、ラブホテルの部屋はとても暗く、病棟よりも真っ暗だろうと思ったが、きっと保護室よりは明るいだろう。寝返りを何度か打てば、もうユングの方から寝息が聞こえてくる。


 トモエを見て、思い出した奴がいた。大学の同級生で、仇名はEという男だ。彼は独り、俺とユングという友人の手すら掻い潜って自ら破滅へと向かった。

 自殺する患者は、指の間から滑り落ちていく砂に似ている。消化器外科医から精神科へ転科し、経験もまたごくわずかな自分でも、2、3人の自殺に遭遇している。若い子は特に驚くほど死ぬ。「元気に」死んでいく。若いから。

 時々思うのだ。もし俺が最後に「死なないでくれ」とみっともなく縋り付いたら、彼は、彼女は完遂しなかったのではないかと。

 言葉一つで何もかも操作できるわけじゃない。だけど、かける言葉が1ミリでいいから人の心を変える希望に縋っている。

「ウッ」

 ちょっとおセンチな気分は、寝相の悪いユングに金的されたことで幕を閉じた。



11



 病棟を包み込む精神病のニオイは、混沌としていて、澄んでいるけど茶色いコンソメスープ。裸で震える小鼠のように病棟へ投げ出され震えているばかりだったけれど、同じく患者であるオオトモくんやイチさんの手助けで、僕はヒトの形を保てるようになった。

 日がな患者がうろつく廊下は泥の河。原爆を落とされた日の川みたい。

『僕はあの人たちとは違う』

 それが一緒にいてくれる二人に対して、どれほど無礼なことか、あるいは、自分自身に対してどれほど失礼なことなのかすら、僕は理解できていなかった。退院して、そしてあの出来事に出会って、僕はやっとその答えを知ることになったのだから。

 とにかく、それでも僕は回遊魚の一匹として時にはオオトモくんと、そして時にはトモエくんと日々を泳いだ。

「最近イチさんまた調子悪い?」

「ん? ああ、そうみたいだな」

 オオトモくんは穏やかな人だ。イチさんと同じ病気とは思えない。入院してから一ヶ月が過ぎた。それなのに退院はまだまだなのだと主治医の華岡先生は言う。

『そりゃ俺だって退院したい気持ちは分かるけどよ、でもまあ、なんか、うん、そうだな……うん』

 ぼやかした態度は、僕をここに縛り付ける言い訳を思いつけない先生の誠実さだ。

「トモエくんは、学校は? 行ってないの?」

「俺は不登校だったからさ。大学、行きたいなあ……無理かな」

「僕も不登校だったよ。仲間だね」

 不登校の友達はいなかった。僕が感じていた寂しさは、友達に会えない寂しさじゃない。学校に行かないという選択を共に分かち合える人間がいない寂しさだった。トモエくんもまた、僕と同じく「学校へ行かない」を選んだ。仲間だと、思った。

 だって、学校行かなくても死ななかった。

 みんな、学校に行かないと死ぬんじゃないかみたいな顔してる。全然そうじゃないのにね。


「ねえ、死にたくなるのってどんな時?」

 トモエくんが僕に問いかけた。穏やかな日だった。病棟はいつも穏やかだけどね。でもそれを差し置いても穏やか、と言える、優しい日差しがホールへ降り注いでいた。一角に作られたベンチで、僕とトモエくんは一緒に音楽を聞いていた。持ち込めるものが限られていたから、今ではあまり使わない有線のイヤホンで、二人で音を分かち合っていた。そのレトロさが、僕たちの今の気分にぴったりだと思った。

「分からない。いつも何気ない時に死にたくなる。どうしてだろうね」

「空が綺麗だと死にたくなる」

「うん、そう」

 トモエくんの比喩は素敵だ。確かに空が高いと死にたくなる。どうしてだろう、分からない。先生たちは「何かあったの」って聞く。いや、先生だけじゃない、大人たち、あるいは同世代の「友人」たちですら、「どうしたの、何か辛いことがあった?」って聞くんだ。でも答えなんてなくて、僕は死にたいよりも申し訳なくなる。辛いことならいっぱいあった。だけどそれは「今」説明できないし、「今」死にたい理由じゃない。せっかく親切に問いかけてくれたのに、答えてあげられなかった、それが申し訳ない。

「今も、死にたい」

 トモエくんはそう言って、僕の肩にもたれかかった。香水なんて使っていないはずなのに、ふんわりと香ったシャンプーか何かの匂いが、いい匂いだと思った。このコンソメスープとは全然違う。ミネラルウォーター? でもそれって変な例えだよね。

 イヤホンからはトモエくんが好きだというクラシック音楽が流れていた。僕は同級生の話題についていけるようにしか音楽を聞いたことがない。だけど、トモエくんの聞いている曲はとても僕にフィットする。具体的に言えば、心の奥底に眠る何かにフィットしている。

「これはなんて言う曲?」

「ドヴォルザーク交響曲第7番、第3楽章」

「ドヴォ……」

「ドヴォルザーク」

「ふうん」

 ドヴォ、ドヴォル、ドヴォルザーク。ゆっくり反芻して心の水面に溜めた。後で検索しよう。


「オオゾラ! トモエ! 来てくれ!」

 突然オオトモくんが僕たちの元へやって来て、話しかけた。トモエくんが慌てて音楽を停止させる。

「イチさん、手がつけらんねえ!」

「イチさん!?」

 慌ててベンチから立ち上がると、ホールの片隅でイチさんとおじさんが掴み合いの喧嘩をしていた。

「イチさん!!」

 看護師の方が当然だが早かった。数人のナースマンがやってきて、二人を引き剥がす。怒声を上げる二人を連れて、保護室の方向へ向かっていく。ああ、あそこへ入るんだと理解した。そもそもイチさんの部屋はまだ保護室だったし、鍵をかけられるってことだろう。それから、あのおじさんも。

 数の前に暴力は儚い。爆弾でも使わない限り、一人が及ぼせる暴力には限りがあるのだ。

 イチさんは「体調が悪かった」のである。僕にとって、体調の悪さとは鬱になったり不安になったり、死にたくなったりすることだから、そんな「体調」があるなんて知らなかった。

「イチさん、体調悪かったからな」

 そうオオトモくんが言うので、僕はいかにもそうだとばかりに頷いた。

「うん、調子悪そうだった」

 トモエくんだけが、冷ややかな目でイチさんを見ていた。



12



 OTと呼ばれる作業療法の時間がある。何をするって、塗り絵とか手芸とか、音楽を聴くとか、そういう古臭いことをする。あとはストレッチとか。

 ストレッチに参加するのは高齢の患者がほとんどで、僕たちは参加しない。塗り絵だってやりたくてやってるわけじゃないが、僕らはとにかく時間を持て余していたので、退屈しのぎとして参加した。こんなのやったって何にもならない。せめて瞑想なら「自分と向き合う」なんていい感じのことができそうなのに、瞑想にも届かない中途半端なものだった。でも無心に色を塗っていると、何か辛いことが忘れられるような気もしていた。

「あ、先生」

「よぉ」

 様子を見にきた華岡先生を認めて、僕は手を止めた。

「塗り絵か。綺麗じゃねえか」

「ふん」

 塗り絵くらい綺麗にぬれるよ。そこらへんの手が震えてる障害者とは違うんだ。

「……拗ねるなよ。後でまた診察に来るから」


 その言葉通り、華岡先生は午後一番に僕を診察室に呼び出した。診察室でする診察は取り調べみたいでなんだか緊張する。だって、その部屋には机と椅子しかないのだから。

「そうだなあ……何話す?」

「何話す、って決めてないなら呼び出さないでくださいよ……」

 入院してもう一ヶ月と少しが経った。毎日顔を合わせ話をして、話をした。もう華岡先生はそのフランクでちょっとヘタレっぽい態度も相待って、「先生!」という感じではない。

「なあ、お前のお姉さんの話してもいい?」

「…………」

 精神科医の言葉はまるでメスだ。当たり障りのない会話だけして、薬だけ出してくれればいいのに、お節介にもそういうつまらないことを聞いてくる。

「お姉さん、どんな人だった?」

 ああ、先生メモを準備してる。カルテに書かれるんだ、これ。そっか……。

「……普通の。多分、普通」

「普通っても色々あるだろ」

「普通なんだよ、公立の中学出てさ、黒髪染めずにポニーテールにして、ちょっとアイドルの真似したロングヘアー」

「大人しい感じか」

「うん」

 あーとかうーとか先生が唸る。

「……なんで、なくなったんだ?」

「中絶したから」

「どうして?」

「どうして、って……」

 そんなことも、自分の口から語らないといけないのか? 以前最初の頃の診察で、姉が中絶したことがきっかけで自殺したのは話した。それだけで十分じゃないか。

「……さあ。それは姉さんにしか分からないんじゃないですか」

 無意識に刺々しくなる口調を止められない。だってそう、中絶はそりゃ辛いだろうけど、どんだけ辛かったのかもどんな風に辛かったのかも、姉さんだけの神域だ。やたらと僕が語るのは憚られた。

「そうだよな。お前は、死にたい?」

「はい」

「今も?」

「はい。押したら消えるボタンがあったら、押します」

「そっ……か〜……」

 華岡先生は何やら考え込んでいた。わかるよ、先生みたいな人生の成功者には、僕たちが考えているような死のいい匂いは分からないんだ。

「お前リスカはしたっけ?」

「はい」

「なんで?」

「気持ちいいから」

 ふうん、とまた華岡先生はメモをした。

「ODは?」

「気持ちいいから」

「だってあれ苦しいだろ、どう考えても」

「うーん……分からないです、なんていうか。生きてることの、早送りみたいな。死にたいんじゃなくて、生きてたくないんだって、前言ったじゃないですか」

「そうだな」

 そう、死にたいんじゃない。僕は生きたくないだけ。その答えは、現実的には死だから、死にたいと表現するだけだ。

「ODするとぼんやりしたり気持ち良くなったり、ぐっすり寝たりして。辛いことを感じずに過ごせるから、みたいな?」

「死のうと思ってやってるわけじゃねえんだ?」

「そうです。まあ、この間のは死にたいと思ってやりましたけど……首の準備もしてましたし」

 ふむふむ。華岡先生が頷く。僕の死にたい気持ち、伝わったかな。

「早送り、かあ」

「はい。そうすればいつか死に辿り着く」

「そんなに魅力的なのか、お前にとって」

「そうです」

 先生は手札を失ったらしい。黙りこくってしまった。

「外歩こうか」

「ええ……」

「そんな顔すんな」


 外といっても、ここは閉鎖病棟だから廊下を一緒に歩くだけだ。

 歩きながら僕たちは話をした。相変わらず天窓から差し込む明るい光が、「穏やか」を演出していた。きらきら輝くフローリングは学校みたいなのに、ここは病める人のための場所だ。

「あの人たちの病気はなんなんですか?」

 いつも疑問だった。特有の前傾姿勢と強張った表情で歩く人たち。同じ精神科にかかる人としても、あまりにも僕やトモエくんたちとは違う。イチさんは少し似ているが。

「統合失調症、かな。色んな病気があるんだよ。薬の副作用でちょっと歩きにくかったりするみてえだ」

「薬の……」

 そんな副作用が出る薬を飲ませているのか。それって本当に必要なんだろうか。

「それ、飲まないとダメなんですか?」

「ああ」

「どうして?」

「どうして、って……幻覚や妄想が出たら困るだろ」

「でも強い薬なんでしょう?」

「強いってわけじゃねえけど……」

 難しい顔をしてまた華岡先生は黙ってしまった。仕方ない、僕が助け舟を出そう。

「イチさんみたいな病気ですか」

「あー……あんまり言っちゃダメだけど、そうだよ」

 イチさんはまだ保護室の中だ。一度チラッと中を覗いたら、保護室の中をうろうろしていた。やっぱり動物園の檻だと思った。

「イチさん、普通なのに」

「みんな普通だよ」

「そうなの?」

「ああ、みんな普通」

「変なの」

 じゃあなんで薬を飲ませるのだろう。普通なら、放っておいてくれればいい。

「僕は……僕は?」

 普通と言わないで欲しかった。だって僕はこんなに苦しい。それが普通と言われてしまったら、どうしてだか耐えられないと思った。

「……さあな」

 華岡先生は逃げた。そのことに苛立ちながら、僕たちは廊下を歩いた。歩き始めたところから反対側の壁に突き当たったところだった。

「なあ、ところで、お前さ。トモエのこと、好きなのか?」

「へ……?」

 その瞬間、ある種のノイズで華岡先生の顔が塗りつぶされた。聞かないで欲しい、と端的に思った。そんなこと聞くなんて――そうだ、野暮。野暮ってもんだ。

「……先生なんて、嫌いだ」

「悪かったよ、失礼なことを聞いちまったな」

 じゃあ終わり、と告げて先生はナースステーションの方に歩いた。鍵を開けて消えていく。

「……本当、失礼だよ」

 トモエくんのこと? 好きって?

――意味、わかんない。



13



 トモエくんはいつも僕の知らない本を読み、知らない音楽を聴いている。先日は坂口安吾の『堕落論』をショパンを聴きながら。今日はチェーホフの『桜の園』をモーツァルトを聴きながら。僕が知らないおしゃれな本、おしゃれな音楽。それを背筋を伸ばして読むトモエくんの横顔は、切長で涼やかな瞳をきらきら輝かせていて、この病院の中においては特に際立って美しく気高かった。その側で同じ空気を吸っていると、自分まで美しくなれたような気がしたいた。

「綺麗だ」

 明るく光を取り込む天窓。このベンチに座って廊下を見ていると、回遊魚たちは案外イキイキしていることに気付く。魚ごとの違いもある。

 例えば長い髪のあの女性。夫と離婚したけど、ずっと家族のことをあれやこれやと僕たちに語りかけてくる。でもそれは彼女にとってそれだけ家族が大切だからかもしれない。

 ずっとガンダムに出てくる言葉で喋るおじさん。細かいことはわからないけど、ゲームが好きらしくて、僕たちともゲームの話をしてくれた。ガンダムは彼の青春だったのだろう。

 愉快なサングラスをかけた女性。どうして、と聞けばおしゃれだからと笑った。確かにおしゃれはいつだって忘れてはいけない。

 僕は。僕はどうなんだろう。トモエくんは、なんだかよくわからないけど人格がたくさんできるくらい辛い思いをしているのに、凛々しく生きている。

「オオゾラ、UNOやるって」

「お、分かった」

 変わらず僕たちは集まり、トランプやらで遊び、時間を消費する。ここではODによる「早送り」は許されない。1秒1秒に向き合うことを強要される。こんなに腹立たしい時間が未だかつてあっただろうか。これなら辛い思いをして寮で蹲っている方がずっといい気がしてくる。

「リバース」

「俺の札減らねえ」

「イチさんばっかりずるいぞ!」

 カードの引きがいいイチさんが今は優位に立ってカードを捨てている。だがツキは回らず、結局イチさんが最下位になった。

「ああ……何しようか」

 オオトモくんが疲れ切って机に突っ伏した。これはいつまで続くのだろう。もちろん嫌いな時間じゃないし、彼らと話すのは楽しかった。だけど、「外へ出て」からもとは思わないし、終わって欲しくないとは口が裂けても言えなかった。そしてそのことも口が裂けても言えない。だって申し訳ないからね、みんなに。

「なあ、トモエ。お前は、『トモエ』以外の人はいるのか?」

 気になっていたことだった。要は多重人格なのだというトモエくん。主人格のことは一向に話してくれないし、その人も「出てこない」、名前さえ知らない。

「俺以外? いるよ、本体以外いるよ、二人。あまり出てこないけど、ちゃんと君たちのことも知ってる。だから、出てきたら優しくしてあげてね」

「どんな人か分かる?」

 人の病気の話を聞くのは忍びない。ここにいる人は皆病む人たちだけど、背中につけたゼッケンをわざわざ見るなんて仕草は下品に思えた。でも興味があった、それが親しい人なら尚更のことだ。

「構わないよ」

「ありがとう」

 トモエくんは僕の後ろめたさに気がついて、目配せし笑ってくれた。

「一人は、小学生だよ。名前はトマト。もう一人はちょっと乱暴で……こう言うと怒られそうだけど、オラオラ系の、まあよく言えばカッコいい人かな。名前はマコト」

「どういう時に入れ替わるんだ?」

 オオトモくんも興味があるようだ。イチさんは何も言わず不思議そうな顔をしている。イチさんはいつものんびり屋さんだ。

「さあ、自分でもよく分からない」

「ふうん……それは、薬で治るのか?」

「治らないってユング先生は言ってた」

 何も困らないよ、とトモエくんは言う。

「たまに……少し、辛くなるだけ」

 トモエくんが顔を曇らせてしまうのがなんだか苦しくて、僕は自分の体を抱きしめた。もし僕が神様なら、彼を楽にする方法を考えるのに。それか、「消えるボタン」を用意する。でもどこかで、彼には消えて欲しくないと思った。ただそれは酷く我儘なことで、それこそ自分が他人から向けられ、鬱陶しくて堪らなかった感情だ。死なないで、なんて誰もが言った。そしてもはや、誰も言わなくなった。鳴き声みたいなものだと思われているのだ。

「あ、ユング先生だ」

「ああ、俺かな。行くね、諸君」

「また後でな」

 診察室に入っていく後ろ姿を見守った。華奢な体はしなやかな体幹に支えられている。それなのに、死にたいのだと言う。



14



 そっと、手を繋いでみた。ある夜のことだ。眠れない時間が続き、またオオトモくんがいないかとホールに僕は顔を出した。そしたら、オオトモくんじゃなくてトモエくんがいたのだ。僕たちはいつものベンチに腰掛け、眠れない夜特有の、スッキリ起きている朝とは違う過覚醒の中で、心を輝かせながら暗闇の一つ一つを眺めていた。

「朝、起きるのってすごく嫌じゃない?」

「そうだね」

 起きるのが嫌なら眠らなければいいが、起きて=生きているのは嫌いだった。

「ずっと眠って一生過ごせればいいのになあ」

「眠り姫みたいだね」

 そう話しながら、僕たちの手は自然にそっと重なり合った。トモエくんの細く白い指先が触れたとき、はっとして僕はそこを見た。

「…………」

「…………ふふ」

 トモエくんは笑った。僕はその悲しげな笑顔を見て、何もかもを話してしまいたくなった。今のトモエくんは僕を全て受け止めてくれるだろう。そして咀嚼はせず、そのまま全てを東京湾に捨ててくれる。

「あのね」

「うん」

「あのさ……」

 指先に走る甘い感触を確かめながら、僕は喉をくすぐられる猫ちゃんみたいになった。猫だったことないから知らんけど。くすぐったさに目を細め、その甘さにほっぺたを丸く溶かした。

「起きると、この世の全ての絶望が襲いかかってくるみたい」

「わかる」

「でも眠れないよね」

「わかる」

 僕の心はどうしてしまったのだろう。喜びのあまり無限に空気が入る風船みたいに膨らみ浮かんでいく。この夜は素敵かもしれない。こんな夜なら、ずっと続いてもいいかもしれない。それは僕にとって稀有な発見だった。

 生きていて。

 ずっと。

――嫌なことしかなかった。

 ずっと、ずっとずっと。

 でもトモエくんは「わかる」と言ってくれた。トモエくんの朝にもまた、絶望が襲い来るのだと。この苦しみがこの世で一人ではなく、トモエくんと二人で分かち合えるのなら、特別な体験として受け止めることができるのではないかと思ったのだ。

「トモエくん、僕ね」

「どうしたの」

「……どうして、死んだらいけないんだろう」

 秘密を打ち明けようかと思ったけど、僕はそれよりもっと、自分にとって大切なことがあると気が付いた。いつも生きていたくなかった。でもみんなはそれはダメなのだという。華岡先生は止めた。どうして、と聞けば、やっぱり先生は困った顔をして「俺が医者だから」と答えた。所詮、そんな倫理なのだろうと思った。

 ナースステーションには一人夜勤の看護師がいるだけだった。医師の姿もない。余程のことがなければスタッフに特に動きはないはずだ。夜間の就寝を確認する時間はもうすぐだろうか。

「どうして、生きてなきゃいけないんだろう」

「そうだなあ……」

 トモエくんはベンチから立ち上がり、ホールの窓辺に立った。ここに閉じ込められた、陳腐な表現をすれば籠の中の鳥である僕たちに、唯一世界に開かれた窓だ。しかしそこさえも大きなガラスで隔たれている。新しく建て替えたという新築病棟にとって、現代社会に生きる精神障害者への「慈悲」という感じがした。これはケンコウナニンゲンという特権階級から与えられた贈り物なのだ。

 そんな窓からは、月や星が見えた。その景色だけは、誰もに平等だった。そこに立つトモエくんは、まるで神様みたいだ。彼を中心に月も星も回るのだ。

「オオゾラくんは自殺未遂をしたんだろう? どんな自殺未遂をしたの」

「薬を沢山飲んで、手首を切った」

「そっか」

 神は言う。

「死ねなかったってことがさ、生きてろってことなんじゃないの」

 そして、トモエくんは傍に立つ僕の左手首を優しく掴んだ。

「傷になってる」

「……うん。痕が残っちゃったよ」

 そう言いながら、僕の左腕には沢山の切り傷が盛り上がっている。精神科関係者じゃなくても、その異様さに気づくことだろう。そしてこの男はリスカしたのだと気付かれる。

「残っていいじゃないか」

「え……?」

「とってもいいことだ。その傷が、君に生きてろっていつも言ってくれる、それなら無敵だ」

 そう言って、僕の傷口にトモエくんはキスをした。

「ッ……」

 滑らかで淀みないそのキザな仕草に、僕は頬を赤らめた。どうしてだか胸がドキドキして、真っ直ぐトモエくんを見ていられない。でも離れるのは惜しくて、もっと「欲しいもの」が与えられるのではないかと密かに期待しながら立ちすくんでいた。

「オオゾラくん、トモエくん。寝なくていいの?」

「眠れないんです」

 寝ているかどうか確認して記録をつけている看護師が通りかかって僕たちに声をかけた。彼は結構甘い看護師なので、眠れないんだと言えば「そっか」とだけ言って笑ってくれた。

「眠くなったら寝てね」

「はい」

 それから僕たちは太陽の気配が見えるまで、黙ってホールに座って、窓越しの星空を眺めた。こんな時間が無限にある夜に、昔の人は星座とか考えたのかもしれない。トラツグミの鳴き声が聞こえ始めたあたりで、僕たちは特に示し合わせもせず席を立った。

「おやすみ」

「うん、おやすみ」

 眠れなかったけど、眠れたと思う。あの夜のことを、僕は一生忘れない。



15



 カンファレンスで自殺完遂患者のプレゼンがなされ、目を瞑った日のことだった。仕事帰りに俺とユングは適当な居酒屋に入ることにした。

「ああいう時、どういう顔していいのかわかんねえ」

「ああ、あれ? みんなで黙祷するわけにもいかないしね」

 生ビールを注文して、料理が来るのを待っていた。メニューに並んでいる焼き鳥を吟味していく。ぼんじりがねえ。

「そんなに多いのか、その……のやつ」

 精神科に来てまだ間もない俺は、担当した患者もそう多くない。だから必然的にその出会いも少ないだろう。

「多い……多いのかな、他の診療科だって人は死ぬだろ。お看取りやってる高齢者施設の医者なんて特にそうじゃないか」

「だってその……と、普通に死ぬのとじゃ違うだろ」

「それはそう。あ、僕コブクロ食べたい。罪深い食べ物でいいよね〜」

「俺はコブクロ嫌い」

「まあでもね、割と死ぬよ、うん」

 ユングはおしぼりを広げてメガネを拭いていた。だからお前のメガネはいつも汚いんだぞ。

「案外死ぬ。人は死ぬ時には死ぬ」

「じゃあどうやったら気付いてやれるんだ?」

「そんなのできるわけがない」

 灰皿を手繰り寄せ、ユングは煙草に火をつけた。

「いつもやれる限りやるしかない。それだってどこまでやれるか僕には分からない。ま、今は考えるのをおやめ、辛くなるだけだから」

「……ああ」

 オオゾラ、また病棟でODした。飲んだフリをしてかき集めた向精神薬をまとめて飲み、わざわざ空き缶を加工して作ったナイフで腕を傷つけた。何がそこまで、彼を自傷行為に掻き立てるのだろう。

「見てこれ、心臓だ!」

 早速席に運ばれてきたハツを見てユングは喜んでいる。

「これは腱付着部だね、きっと。もう随分と昔のことで、忘れちゃったよ」

 ふふ、と笑う。いつだったか昔々の解剖学を思い出しているのだろう。俺も解剖学を学んだ時間を思い出した。あの時ともに学んだ、もう一人のかけがえのない「アイツ」が心に滲んだ。気が付かないふりをして、焼き鳥の匂いを吸い込んだ。

「においが辛かったよな」

 この臓物は全然そんなにおいがしない。香ばしい炭火と醤油ダレのにおい。解剖学で対面するご遺体にはホルマリンがしっかり染み付いていた。マスク一枚で実習を受けるから、どう足掻いたってにおいから逃れることはできない。二枚重ねる者もいたが、自分が息苦しくなるので真似するのはやめた。

「ねー、ほんとさ、脂でべっとべとになるしね。ふふ、あの時から外科に行くって君は言ってたのさ。結局僕と同じ精神科なんて、アイツもきっと笑っちゃうだろうね」

「俺自身が意外すぎてびっくりしてるよ」

 外科から精神科へ転科した理由は、とある依存症患者との出会いだった。患者としてではなく、友人として出会ったそいつの「困り事」を手伝う度に、俺も苦しみもがいた。そいつが友人だったからだ。

「君は真面目で正義漢でカタブツだから、だから精神科なんて向いてないんだよ。そもそも医者に向いてないんだ」

「それを言われるとマジでどうしていいかわかんなくなるからやめてくれ」

 救うなんておこがましい。

 いつもユングは言った。その意味が分からなくて何度も意味を尋ねたが、ユングもまた「僕も言語化できない」と答えた。

「今ずっと患者のこと考えてるだろ、そういうとこだよ。ほら、コブクロが来たよ。食べてみなって」

「うわ……精神的に無理」

 ユングは平気な顔をして咀嚼し、コリコリして美味しい、ポン酢好き、と呟いている。子宮だと思うだけで何だか嫌だった。それは神聖さに裏打ちされた、穢らわしいという感覚のせいだと思う。

 その日は焼き鳥をたらふく食って、結局ラブホに二人で駆け込んでセックスをして過ごした。



「これから服薬したら口腔内チェックするからな」

「はい」

 今オオゾラは保護室にいる。病棟でODがバレて、ベッドで眠りこけているのを発見されたのは昨日のことだ。メタメタに切られた左腕は酷い有様だった。

「はぁ……なあ、俺こういうことつい聞いちまうけど、なんでやるんだ?」

 保護室の、オオゾラが腰掛けるベッドの横で、俺は腕組みしていた。ごめんな、オオゾラ。ここに閉じ込めたいわけじゃないんだ。でもそうしなきゃだめみたいなんだ。俺もそうしろって言われてるんだ。いつ見ても、保護室には何もなかった。何も、ない。

「……先生には分かんないよ」

 明確な拒絶の言葉に、俺は黙った。二人の間を沈黙が包み、どちらもが唇を開く音を待っていた。

「ごめん」

「うん」

 ちらっと合わせた視線で、オオゾラは許すよ、と言ってくれていた。

「ずっと保護室? 中断は?」

 初めて入院したはずのオオゾラも、いつの間にか病棟のルールに詳しくなっていた。保護室に入る場合、状態さえ安定すれば「中断」という形で「お試し出室」ができる。ずっと保護室にいるのは嫌だ、と言いたいのだろう。

 もうすっかりオオゾラも患者になってしまった。

 でも俺は逆に大概甘く、まだセンセイになり切れていない。

「いいぜ、じゃあ夜だけ鍵閉める」

「やった!」

 後で他の看護師からは責められるかもしれない。何かあったらどうするんだと。何か……何か、あるんだろうか。

 俺が一度だけ出会った自殺を思い出した。入院ではなく外来でのことで、自分の患者ですらない。だけど俺は、そいつを一度だけ診察した。不在の主治医の代診だ。

『薬たくさん飲みました』

 またか、と思った。嫌味じゃなく素直な感想だ。そのくらい頻繁に皆ODする。

『入院は嫌なんです。明日生活保護のこと市役所に聞きにいかなきゃいけなくて』

 死にたいのに生活保護かよ。これも嫌味じゃなく、素直にそのギャップに驚いた。そう思ってから、ああこの子にとっては、死か生活保護しか残されていないのだと思った。

『じゃあ来週先生にその話ちゃんとしろよ? 約束だぞ』

 後日、俺の元には警察からの問い合わせが入った。



16



 うっすらと目を開けると、目の前にトモエくんの端正な横顔があって、驚きのあまり息が止まりそうになった。ガバリと身を起こす。そうだった、ここトモエくんのベッドだった。この頃、保護室に眠りに戻るのがなんとなく嫌で、昼間はここで過ごしたりしているのだ。もちろん、トモエくんの許可は取っている。しかし他室へ入ることは禁止されているので、看護師の目を盗んで入っていた。

 真っ白いシーツ。穏やかに差し込む日差し、揺れる緑のカーテン。文字だけ切り取ればどれだけ長閑な空間かと思うだろう、でもここは精神科病院だ。いや、だからこそ長閑なのかもしれない。人類に遺された、最後の「穏やかさ」だったら、ちょっと面白いな。

「……トモエくん?」

「……う、ん」

 頬をつつけば、トモエくんの長い睫毛が蝶の羽根みたいにしぱしぱして、ゆっくりと綺麗な黒目が見えた。

「ああ、起きたの」

「うん、ごめんね、寝ちゃってたみたいだ」

 そっか、とトモエくんは伸びをする。

「部屋で寝ないの? もっと寝たら? 別に宿題も仕事もないんだし」

「いや、今保護室だからさ。あそこ、なんか嫌なんだ」

「好きな人はいないだろうね」

 もう少し横になっていようよ、とトモエくんは僕の腰を抱いた。少しドキッとして固まってしまう。この頃、トモエくんはよく体を触れ合わせる。どこかで、それはいけないことだと知っていた。だけど、やっぱり僕もそれを望んでいた。一瞬力の入った体を緩める。そうすれば、彼の熱を受け入れるのが心地良くなるのだ。

「そういえばどうしてまた保護室に?」

 トモエくんが不思議そうに尋ねた。

「ああ……これ」

 僕は何てことない顔で左腕を曝け出した。僕が頑張って作った空き缶の刃。それで貫いた傷跡が三本、残っている。

「おや。またか。よく頑張ったね」

「ふふ、そうかも。頑張った」

 トモエくんは決して僕を、その傷を咎めなかった。なんでもないことのように、あるいは少し頑張ってつたい歩きをした幼児を褒めるみたいに、トモエくんは目を丸くしていた。

「トモエくんはしないの? リスカ」

 目を凝らせば見えるだろうか、と彼の左腕を見るが、何も見えない。構わない、と身振りで表されたので、僕はゆっくりと服を捲り上げた。やっぱりリスカ痕はなかった。

「ODは?」

「するよ」

「どうしてリスカはしないの?」

 僕の問いに、トモエくんは少し困ったような顔をした。何かまずいことを言ってしまったのだろうか。

「……痛いのは、好きじゃないから」

 そっか、と僕は答えた。そりゃそうだろう、痛いのは好きじゃないよね。リスカをする瞬間、確かに鋭い痛みはあるけれど、それが気持ちいい。水風呂に入るのと似ているかもしれない。

「? どうしたの?」

 トモエくんの考え込んでいるような表情を見て、僕は少しだけ不安になった。

「……うん。なんでもないよ」

 へらへらと彼は笑う。

「それより見せてよ。君の生きた証」

「うん? 生きた証?」

「左腕の傷。戦士が負傷したみたいなものだ」

 そっか。僕は袖を捲って、肘から先を曝け出した。カミソリやカッターで切った傷だから、ガタガタして確かに綺麗じゃない。だけどその歪みは、今僕が閉鎖病棟で感じている苦痛を、僕の代わりに表現してくれているようだった。

「もっと見せて」

 トモエくんは僕の手首を優しく掴み、ゆっくりと角度を変えさせた。トモエくんの白く細長い指先が、赤黒い凝血塊をなぞる。膿に丁寧な治療を施すナイチンゲールみたいだ。

「かわいそうだ」

「……うん」

 その言葉を、僕は待っていたのかもしれない。かわいそう。そう、かわいそう。僕はかわいそうなんかじゃない。だけど、かわいそうと言われて然るべき存在だ。トモエくんが浮かべた哀れみは、僕の心に染み入った。

「痛い?」

 少しトモエくんが傷口を押す。

「痛くないよ、全然」

「痛そうだ」

「ひぁっ!?」

 ぺろり。トモエくんの薄い唇がかぱっと開いて、てらてらした真っ赤な舌が覗く。その舌先が、僕の傷痕を舐めた。

「かわいそうに……」

「ん……」

 本当にかわいそうなのは、誰? トモエくんの舌が動く。子犬がミルクを舐めるように、なんてもんじゃない。ひどく官能的で、ヘビが獲物を食べる前に舌をちろちろさせているみたいだった。グルーミングしているのだろうか。その傷を懐柔せんとして。

 ぺろり。真っ赤な舌が、赤黒い血液の盛り上がりを舐める。美味しいのかな。ぺろり。一本。ぺろり。二本。全ての傷痕を、丁寧に舐めていく。

 指先で触れるより、きっと濃厚なケアだったことだろう。より深いところで交われる悦びに僕は震えた。かわいそう、痛い? と繰り返し聞かれ、痛い、痛かった、と答えた。だんだん笑えてきて、僕は「もういいよ」と言う。

 ごちそうさま、とトモエくんは笑った。

 何を食べたんだろう、何を食べてくれたんだろう。僕の不幸かな。

――君の方がもっと不幸なのに。



17



「あの二人、確かに距離近いな」

 昼間のナースステーションだ。隣でカルテを整理しているユングを見ながら、俺は腕組みしていた。精神科病院は規模が小さなものが多く、電子カルテを導入していない病院も多い。ウチもそうだった。外科医から精神科医への転向を決め、この病院へ迎え入れてもらった時、医者人生で初めて扱う紙カルテに苦戦した。

「そこどいてくれ、僕に重労働は見合わない」

「……お前、精神科あってよかったな」

 カルテ四冊ごときを、実に重そうに顔を顰めながら持ってくるので、俺は苦笑いした。

「どういう意味だ」

「内科にも外科にも向いてないってこと」

「そんなの幼稚園児の頃から知ってるよ」

 ちょっと憧れたけどね、と笑ってユングは診察用のデスクにカルテを下ろした。

「外科医ってかっこいいじゃん。ドラマとかになるし」

「まあ確かに精神科はドラマ向きじゃねえな」

 精神科の対象は、社会からは抹消された人たちだ。多くの人は、それを直視することに嫌悪感を抱くだろう。

「それで。『あの二人』ってトモエとオオゾラのことか?」

 ユングはカルテ用のスタンプを握って、2号用紙をめくっている。

「ああ。たまに見えないところで手とか繋いでるしな。話す時距離もめちゃくちゃ近い」

「やっと君も気付いたのか! ありゃデキてるね。引き剥がさないと」

 え、と俺はユングを見た。引き剥がす? そりゃ望ましいことではないのは分かるが、俺たちがそんなことしていいのか?

「だめなのか? あ、いや、あんまり良いことじゃねえのは分かるけど」

「そりゃ良いことじゃないよ。恋愛なんて大きな刺激は、少なくとも今ここで彼らに耐えられる負荷じゃない。治療に差し障るし、そもそも病棟内での人間関係トラブルにつながる」

「……そっか」

 確かに、恋愛は感情をジェットコースターにする。患者は、根本的に感情の揺れという刺激に弱い。

「後でトモエには注意しておくよ。君もオオゾラに言っておいて」

「なんていうんだ?」

「今言った話を。トラブルになるからやめろって言えばいい」

「…………わかった」

 感情ではなく理性が、「それは正しいことなのか」と俺に問いかけていた。でも感情は「良くない」と告げている、恐らくこれは直感に従った方が良いのだろう。



「そういえばサブスペ何にするの?」

「え、まだ早いだろ。指定医も取ってねえのに」

 仕事を終えて俺たちはまた居酒屋に来ていた。お互い独身なのでこうなる。じゃあ同居しろよと言われればそうなのかもしれないが、生活破綻が著しいユングの汚部屋を思えば絶対に同居したくなかった。

「別に勉強は並行してもいいし、資格取得の要件は見ておいた方がいいよ」

 精神保健指定医は精神科医にとって必須の資格だ。これがないと、非自発的入院の手続きや隔離・拘束の業務が行えない。いわば正当に人権侵害をする資格である。それを前に言ったら上司には絶対言うなよって笑われた。

「お前は? サブスペ」

「僕は統合失調症と精神分析」

「ああそうか、お前確か通ってたな、フロイトのなんかすげえ……怪しいやつ」

「怪しくない」

 腹が立ったのか、唐揚げについてたレモンを白米の上に絞られてしまった。

「どうすっかな……なんか目の前のことで精一杯で分かんねえよ」

「君ぐらいの時はそうだろうさ。その内やりたいことが見つかるといいね」

「ああ」

 それから運ばれてきた手羽先を無心で齧った。ユングが口の周りをぐちゃぐちゃにしているので、笑って拭いてやる。

「そういえばさ、なんで病棟にいてもリスカとかするんだ? ストレスないだろうに」

 オオゾラの、ガタガタに切った傷口を思い出して俺は言った。縫合なら得意だったから、精神的ケアも兼ねて縫った。病棟では悩みからは解放されているんじゃないのか。それなのにどうして、空き缶を加工してまでリストカットをするのか。懸命にバレないように薬をためてODするのか。

「? なんでだろうね。とりあえず僕は分かんないから、考えるのをやめてる」

「なるほどな……なあ、お前やったことある? リスカ」

「はあ? なんで?」

「いや、切ってたら気持ち分かるかなって」

 自分で切るなんてちょっと勇気がいるけど、辛くてやけになると考えると、なんとなく分かる気がする。

「切ってみたら分かるかもよ」

「自分でかよ……まあ一回ならアリだな」

「一回くらいならいいんじゃない。痛いよ、切るのは」

 ユングが目を細めた。ビールを一口飲んで、手首を撫でていた。愛おしげな表情に思うところがあって、俺は顔を強ばらせる。

「一回切ってみたよ。アイツの時にさ」

「なんで」

「死にたかったから。『ラストエンペラー』の最初のさ、溥儀が逃げ出して手首切ってるシーン……あれ思い出して、切った。だから、彼らのリストカットとは本質的に違う。若者のリスカは死にたいからやってるんじゃない、そうだろう」

「…………お前」

 そんなに辛かったのか、と言いかけて、大切な親友を失ってユングが辛くなかったわけがないことに思い至った。俺だって、アイツを失って悲しいとかの前に呆然とした。いつも一緒に勉強した麻雀サークルに行っても、アイツはもう二度と牌を握っていることはなかった。でも、死にたくて手首を切ったなんて初耳だった。

「そういう日もあるよ」

 いつも診察でそうするみたいに、ユングは肩をすくめた。そうだよな、お前の言う通り人生には色んな日がある。



18



「別にそんなことないですよ?」

 華岡先生に診察室に呼び出され、トモエくんとの距離が近いと指摘された。やっぱりいけないことだったんだ、という気持ちがあったから、僕はむくれることもできず、初耳ですねェとばかりに、無理矢理口笛を吹いているみたいな口を作った。

「なんでだめなんですか。男同士だから?」

「いやそうじゃなくて」

「先生だってユング先生と付き合ってるでしょ」

「いやだからそうじゃねえって、マジで。人間関係のトラブルが起きたら困るんだよ、それってお前にとっても良くないだろ」

「……そうですか」

 ここで「トラブルなんて起きない」って反発するほどコドモじゃなかった。気をつけます、とだけ答えたら、華岡先生は納得せざるを得ない様子で頷いた。

「そういや落ち着いたか? 最近どうだ」

「元気ですよ。早く退院させてください、僕もう元気です」

 自分で言ってて、これみんな言ってる言葉だなと思ってしまい笑えた。

「ぶふっ」

「先生まで笑わないでくださいよ。3ヶ月なんでしょう、医療保護入院だから」

「ああ、まあそんくらいは入院しててほしい。心配だから」

 心配だから、か。先生はどれだけ僕のことを「心配」してくれているんだろうか。先生に僕の自殺を止める義理なんてない。自傷行為だってそうだ。

「お前、親御さんのことどう思ってる?」

 今日はその話してみようかと思って、と華岡先生はカルテとメモを開いた。

「親? 父親ですか、母親ですか」

「母親、かな」

「母さん、か」

「一言で言うとどんな人だ?」

「……厳しい、母」

 そう、母は厳しかった。特に姉には厳しい。スカートの長さは長く。髪は伸ばして。染めないで。ポニーテールにして。

「僕にはあんまり厳しくなかった。二番目だし、男だからかな」

「お前には甘かったのか?」

「甘いっていうか、放任主義ってやつだと思う。勉強しろなんて言われたこともなかったし、ゲームやってても怒られなかった」

 どんな思い出があるだろうか。記憶の海を辿る時、やはり父と姉の自殺は大きなマイルストーンだ。

「多分……自分がしっかりしなきゃって思ったんでしょうね。全然泣いたりしなかった。お葬式とか忙しかったからかも。昔から優しい人で、お母さんが優しくしてくれたら嬉しかった」

「『優しくしてくれたら』?」

 華岡先生がポカンと口を開けて僕を見ているので、そんな奇妙なことを言ったろうかと僕は首を傾げた。

「ああいや、なんでもない。続けて」

「うん。でも、特に何かしてもらった記憶もないかなあ。家族ってそんなんじゃないかな。問題がある家庭とかじゃないでしょ、ね」

 華岡先生は僕が死にたい原因を家庭に見出したかったのだろう。でも残念だけど、理由なんてない。一つだけ、話したくなった思い出があった。

「引っ越したんだ、小さい時。大きくなってから、自己破産したんだって分かった。でも僕はその家すっごく好きでさ。引きこもってて喧嘩になった日、僕その家まで30分、裸足で走ったんだ」

 あれは冬の、凍えるようなアスファルトの上での出来事だった。

「あの時の僕は、多分母さんに、悪いのは引っ越したことなんだぞって言ってやりたかったんだと思う」

 走り続ける僕を、母さんはやっぱり走って追いかけた。マフラーを巻いて、白い息がマラソンランナーみたいに母を包んでいた。母もサンダルを突っ掛けただけで、走るには到底向いてない格好で僕を追いかけた。

『帰ろうよ、オオちゃん』

 立派な家だった。壁だけが、黄色く下品な色に塗り替えられていた。窓からは明かりが漏れていたけど、家族の団欒に見えなかったことが救いだった。

『だめだよ、ここにいたら通報されちゃうよ』

 家の前で泣きながらうずくまる僕に、母は声をかけた。

『……うん』

 母さんはきっと、何かのせいにしたかった僕を分かっていた。通報されちゃうよ、の一言が、僕をユートピアから連れ戻した。

「……だから何だって話ですよね」

 困ったように笑った。黙って聞いていた華岡先生は、微笑ましい話を聞いたという感じで笑っていた。

「引っ越しって案外寂しいらしいな」

「寂しかった。だから僕、家買いたいんだ、頑張って仕事して」

「前向きだな。いいじゃねえか」

 じゃあな、と先生に見送られて診察室を後にする。壁際に立って待っていてくれたトモエくんと手を繋いで、また僕たちは廊下を歩き出した。



19



 語らう時間しか、僕たちにはなかった。それも無限だった。いつしか四人で囲んだテーブルは解散し、僕とトモエくんだけで過ごす時間ばかりになった。今度はオオトモくんが体調を崩して保護室に入ったらしいことをイチさんから聞いたばかりだ。

「カフカの『変身』だけどね。読んでくれた?」

 優雅なティータイムとはいかない。給湯器でプラスチックのマグカップに汲んだほうじ茶を飲みながら、ホールの椅子に座り、オセロをしていた。

「うん、読んでみたよ。でも僕には難しかったな」

「そんなことない、感じたままを、話してみればいいんだ。カフカに正解なんてない」

 トモエくんが読む難しい本に憧れて、読みたいと申し出たところ、彼からカフカの『変身』を渡された。気持ち悪い虫の話だった。虫のイラストがないせいで、余計にザムザは最悪に気持ち悪い虫だった。

「最高のバッドエンドだと思わない?」

「バッドエンド?」

 うん、とトモエくんは頷いた。

「人が死んで終わるとかよくあるけどさ。これこそ最悪のエンディングだなって思ったんだ。誰にも認識されずに、気持ち悪い虫になって死んでいく」

「え、でも一人お世話してくれる人がいたよ」

「そうだね、でもそのせいで余計にザムザがかわいそうだ」

 自殺だったらよかったのにね、とトモエくんは付け加えた。

「そう、自殺だったら素敵だった。窓から飛び出して車に轢かれるとかさ、最高」

「虫だから身投げしても死なないんじゃないかな」

「確かに! 本当にかわいそうだね、かわいそう!」

 何が面白いのか、トモエくんはゲラゲラ笑ってオセロをひっくり返した。

「俺、最近考えてるんだ。……最高の自傷行為って、なんだと思う?」

「最高の? 自傷行為?」

 ここからはナイショバナシだよ、と言わんばかりにトモエくんは声を顰めた。自然と僕たちの距離は近くなる。

「ODやリスカがあるだろ? でもそんなのまだまだ最高じゃないよ。きっとあるはずなんだ、ザムザみたいな最高の自傷行為が」

「もっと気持ちいいこと、ってこと?」

 自傷行為は気持ちいい。ODやリスカより苦しいこと? それってなんだろう。

「いいかい? ……セックスだよ」

「え、エッチのこと?」

 トモエくんの綺麗な顔から「セックス」という単語が漏れたことに僕は激しく動揺し、顔を赤らめた。

「あ、でも、君は……その」

 親から性的虐待を受けていた。少しだけ知ったトモエくんの真実がそれだ。ここにきて、トモエくんの本名さえ知らないんだと思うと、なんだか悲しくなった。

「ど、どうしてエッチが自傷行為になるの?」

「だってセックスは気持ち良くないのに、相手は気持ち良くなるだろ。想像してみたんだ。すごく惨めな気持ちになる。惨めになってるってことすらわからないくらいに。だからそうしてみるよ。退院したら、街角で知らないおじさんに声をかけて、抱いてもらう。お金も貰わない」

 トモエくんに言われて、僕は想像した。そこはきっと、ううんと。センター街とかみたいな場所で、ラブホテルとかある。キラキラした夜の看板の近くにトモエくんがいて、汚いおじさんと手を繋いで、ホテルへ。

「そ、そんなのだめだ!」

「? どうして?」

「だ、だめだったらだめ! そ、そんなの、かわいそうすぎるよ」

「かわいそうだからいいんじゃない」

 変なの、とトモエくんは目をぱちくりさせている。でも僕はそんなことを想像しただけでおぞましく、鳥肌が立つ思いがした。嫉妬じゃない、同情だ。そんな酷い目に遭うトモエくんを感じたくなかった。

「レイプされるとかじゃない。自ら望んでだからいいんだ。レイプされる方が美しいよね、多分。ねえそうだろう、オオゾラ」

「……僕には分からない」

 強姦、されてたんじゃなかったっけ。お父さんに。でもどうして『その方が美しいよね』なんて言えるんだろう。辛くなりたくないから、自分でそう言っているようにしか僕には思えない。

「どうしてそんな顔するの? 君だって自傷行為好きだろ。ブロンまで手を出したって言ってたじゃないか」

「そりゃそうだけど……でも僕は、その」

「君は?」

「――早送り、したかったんだ。現実、見たくなくてさ。起きてても、辛い気持ちになるだけだから。全身麻酔みたいにさ、目が覚めたら人生終わってたら、どんなにいいだろうって」

 分かる、とトモエくんは頷いてくれた。でも、本当に分かる? 君が今言う自傷行為は、ODと違って、リスカと違って、ちっとも気持ちよさそうじゃない。

「……生きててもいいことなんてなかったね」

「……うん」

 一気に捲し立ててしまった後、僕はそう言って息を落ち着けた。やっぱり、トモエくんが言う「自傷行為」は理解できない。

「や、やるならさ、危なくない方がいいと思う」

「そうだね、それはそうだ。まあ、うっかり死んじゃっても悪くないけど」

「……ふふ」

「ふふふ」

 うっかり死んじゃう、か。君らしいや。

 トモエくんは僕の手をとった。白く、なめらかな肌。穢れを知らない、という比喩がぴったりだ。たとえトモエくんがお父さんに何度犯されていたとしても、トモエくんの肌は純潔なのだろう。彼の魂が高潔である限り。

 誰にも犯せない部分を、「汚いおじさん」に売り渡すことで、自分を傷つけようとしているんだ。

 そう思い至って、僕はトモエくんの手首に小さな黒子を見つけてしまった。ここから、バイキンが広がっていくんだろう。この黒子から「おじさん」は付け入って、トモエくんを犯すのだ。

「試してよ」

 トモエくんの瞳は、子牛みたいだ。牧場から連れて来られる、とびきり血統のいい黒毛和牛の子牛。高速道路に乗って運ばれて、屠殺場の入り口で自分がこれから殺されることに気付く、子牛の真っ黒い、なめらかな瞳。そうして焼肉屋に管理番号と鼻のスタンプで飾られてしまう。

「え?」

 僕の困惑した顔が、その黒い球面に映り込んだ。まるで君の世界に侵入していくみたいだ。……いやだ。

「試してみさせて、君で」

 僕は黒子になりたくない。

「えっと」

 僕は「汚いおじさん」じゃないんだ。

「ね、しようよ、オオゾラ」

「――えっと」

 それきり、僕は何も言えずに黙ってしまった。よく考えなくても、これは直球のセックスのお誘いだ。興味はあったし、トモエくんの肌は魅力的だった。

 リストカットの傷を舐められた日、僕はトモエくんの舌が、僕の赤黒いペニスをちろちろ舐めるところを想像して射精したのだから。

「…………」

「ごめんね?」

「……うん」

 ごめんね、と言うけどトモエくんは悪びれもしない。ちっともごめんと思っていない。人混みを掻き分けるときの「ごめんね」だった。

 僕はコップを抱えたまま俯いて、股間を勃起させていた。



20



 多重人格なんて信じていなかった。妄想の世界も。ここへ来て初めて知った幻覚と妄想の織りなす不思議な世界。

 時々オオトモくんは「今うるさくて」と困ったように笑う。何のことか分からなかったが、やがてそれが幻聴のことなのだと気がついた。

『何が聞こえるの?』

『え? えーっと、そうだな。どう言っていいのか分かんねえけど、俺のこといっつも応援してくれてる感じ』

『応援???』

 もっと怖いものだと思っていた僕は、ちょっとびっくりした。

 相変わらずフラフラと廊下をくらげみたいに歩く、髪の長い女の人は、もう失った家族の話をずっとしていた。2億円の財産が狙われている人もいたし、ジャスティン・ビーバーとメールしている人もいた。大麻精神病の女の子は、僕達に大麻を吸うことを勧めた。

 腑に落ちないと分かってしまえば、どれもこれも腑に落ちる話だ。

 その朝は、やはり起きた瞬間からこの世の絶望全てが、これから先僕が体験する絶望全てが、胸の上にのしかかった。途端に情けなくビクンと跳ねてしまいそうになる体を抑える。「おはよう」と迎えにくる希死念慮が僕の肩をやかましく叩いた。

「おはよう、トモエくん」

 朝食はまだ配膳されていない。ホールにお茶を汲みに出ると、トモエくんが既に起きていて、テレビの前に座っていた。

「トモエくん?」

 話し掛けても振り向かないので、僕はもう一度声をかけた。テレビでは幼児向け番組が流れていて、着ぐるみが二体踊っていた。

「トモエくんってば」

「ん? ああ」

 肩を叩けば、彼は振り返ってくれた。少しだけ違和感を感じて、僕は指先を震わせた。茶色くて柔らかそうな髪も白い肌も、涼やかな目もそのままなのに、どこか険しい表情だった。以前、イチさんを保護室で見た時を思い出した。一点を凝視し固まっていたイチさんだ。もしかして、トモエくんも「体調が悪くなって」しまったのだろうか。

「大丈夫?」

「お、……ああ、お前がオオゾラ?」

「え? あ、え?」

 剣呑な瞳に見据えられて、僕は後ずさった。どうしちゃったんだろう、と思って、多重人格の存在をやっと思い出した。どうやら、僕はトモエくんが「解離」する瞬間に立ち会っているらしい。驚きはしたが、妄想や幻覚を迎え入れるのと同じようにしなければと、僕はこの短期間で学習していたらしい。

「は、初めてだよね。オオゾラだよ、君とは初めまして」

「うん、トモエがいつも言ってた」

「トモエくんが?」

「ああ、いつも聞いてるぜ」

「名前……」

「うん?」

「名前、は?」

 ああ、と『トモエ』くんは髪を掻き上げた。

「マコト」

「……ああ、あの」

 ちょっと荒っぽい人格がいると聞いた気がする。だとしたら、今目の前の『マコト』くんがその人格なのだろう。 僕はマコトくんの横にある椅子に腰掛け、一緒にテレビを見た。そこから会話が進むことはなかった。僕は初めて出会う彼に何と声をかけて良いか分からなかった。

「……朝飯。どこで食うの?」

 アサメシとかクウとか、トモエくんはそんな言葉遣いをしない。同じ穏やかな声とは思えない。声帯は同じはずなのにどこか低い。実際、低いのだろう。でも戸惑いながら、受け止めなければと僕は精神を研ぎ澄ませた。こんなことでトモエくんを否定したくなかった。

「いつも部屋で食べてるけど。君は?」

「いや、お前がいるならホールで食おうかなって」

「いいよ、じゃあ一緒に食べよう」

 それからマコトくんと食事を共にした。なんせ「初対面」みたいなものだ。マコトくんの好みも知らない。マコトくんが読む本も聴く音楽も知らない。KISSとか聴くんだろうか。いや、そもそも「彼」はいつも、どのくらいの長さで、「オモテ」にいるのだろう。ひっそりと、「僕のトモエくん」が早く帰ってきますようにと祈った。

 結論から言うと、トモエくんはもう二度と帰ってこなかった。



21



 パリンパリン。暴力って空虚な音がする。性は生臭い。俺の体を貪るのは暴力で、支配欲。生理的な嫌悪感で胸がいっぱいになる。だからどうだっていうんだ、どうしようもないじゃないか。

 そう思ってたのに、その日は違った。月が明るい夜だった。酔っ払いが俺に手を触れたので、俺は振り払った。俺は蟻じゃない、羽虫じゃない。力あるかぶとむしだ、毒のあるムカデだ。

『えいっ、えいっ』

 月が明るいから、俺と月の軸は真っ直ぐにつながっていて、地球と宇宙を結ぶランウェイを走っている気分だった。

 生暖かい樹液が俺に降り掛かり、生まれて初めてお前は俺を温めた。手をぬらぬら濡らし振り下ろした傘の先に刺さる球体を眺める。まるで今日の月みたいだと思ってねちゃねちゃと捏ね回した。これは後で部屋に飾ろう。

 俺はそのまま旅に出る。このまま歩いて宇宙へ行こう。だって地球より楽しいことが待ってるかもしれない。このままどこへでも歩いていける。俺は歩いた、周りの人は異形を見るみたいに俺を避けたけれど、それは俺がこれから世界で一番幸せな人間になるから、羨ましかったのだろう。

 燦々と照らされる道を歩き、ドヴォルザークの新世界第一主題を口ずさんだ。

 赤ん坊が泣いていたのでキスをした。母親は隠すように拒んだ。俺は嫉妬した。

 誰一人俺を大切にしなかったのに君は愛されている。



22



 トモエくんを壊してしまう決定打は、唐突な夕方にやってきた。今日も沢山歩き、ホールに差し込む日差しにまどろみ、栄養の調節された食事を摂った。華岡先生の診察も受け、今日は僕の「辛さ」について話をした。

『どんな時死にたくなる?』

 華岡先生はやはりメモをとりながら僕に話しかけた。診察室は相変わらず無機質なテーブルと椅子があるだけで、なんだか取り調べでも受けてるみたいな気持ちになる。実際取り調べだと思っていた。僕は何も悪いことしてないのに。ただ、この閉じた空間はホールよりも落ち着いて話せた。誰も僕に干渉しないという安心感があったからだ。

『なんでもない時に、突然ふって』

『何かきっかけとか?』

『ないですよ。みんなそう聞くんです。でもないです、ない、マジで』

 みんな『なんで死にたいの? 教えて、あなたの助けになりたいから』って「手を差し伸べる」。でも、『分からないんです』『なんでもないのに死にたくなります』と答えると、訳が分からないものを見てしまったように、困った笑顔――本当は、がっかりした表情を浮かべる。自分が救えなかったことにがっかりしているのだ。つまり、自分が僕にとっての救世主になれなかったことに落胆している。その顔を華岡先生に見出したらいっそせいせいすると思って、僕は彼の顔を窺った。

『……なんかあるだろ』

『ないですって』

 諦めない。でも、僕も諦めない。あなたがキリストになれなくて落胆するのを見たい。それが僕にできる復讐だからだ。

『色々紐解けば何かあったりする。無意識って聞いたことあるだろ』

『はい』

『無意識の世界はブラックボックスだ。刺激Aを入れて、死にたい感情が計算の結果出る感情が『死にたい』だったりする』

『はぁ……』

 何か、説得のような姿勢に入ったと感じた。初めて出会う態度だった。

『サザエさんを見て憂鬱になるのは、サザエさんが日曜日の夜にやっている番組で、明日からまた一週間が始まることを連想させるからだ。だから憂鬱になる。サザエさんは怖くないのに。これを無意識の世界がやってる。お前には、普通の人なら嫌じゃない刺激がサザエさんになってるだけだ』

『なんか嫌なんですけど』

 僕の死にたい気持ちを日曜夜のほのぼのアニメと一緒にされたくなかった。

『嫌かもしれねえけど、考えてみれば? それで解決する可能性がちょっとでもあるなら、やってみても良いと思うんだが』

『…………』

 なんだか、こんな触れられ方、されたことがない。そして、そうされたくない。

――暴かれたくない。

 死にたい気持ちは僕を死にたい気持ちにさせたけれど、同時にそう思えていることがどこか救いになっていたのだと気付いた。僕を簡単に分からないで。

『……先生に分かるわけがない』

 医者なんだろ。きっと親も医者でお金持ちで、頭も良くてモテて、挫折なんて経験したことがない。そんな華岡先生に分かられてたまるか。

『そうかもしれねえけど。役に立てばいいかなと思って……気を悪くしたならすまん』

『……はい』

『薬どうだ? なんか変わった? 副作用っぽいの出てねえ? ふらついたりとか』

『大丈夫です、おかげ様でなんにも変わってませんから』

 それが精一杯の皮肉。

 診察室を後にすれば、マコトくんの下へ行く。マコトくんは、トモエくんみたいに僕を診察室の前で待ってくれはしないけど、でもホールで迎えてくれる。そんな風な一日の夕暮れのことだった。


 夕焼けを一緒に眺めていた。山に滲む青と橙のグラデーション。

「華岡先生は、死にたくなるのに理由があるって言ってた」

「そうか」

「マコトくんは、死にたくなる?」

 トモエくんはそうだったけれど、マコトくんは違うのかもしれない。

「逆にならねえ方がおかしいだろ」

「だよね」

 安心した。華岡先生なんかより、やっぱりトモエくんたちは頼りになる。僕の味方をしてくれる。

「そうだ、提案があるんだけど」

「うん? 提案?」

「ああ。お前覚えてるか? トモエが凄い自傷行為思い付いたって言っててさ」

「…………」

 凄い、自傷行為。きっとそれは、先日トモエくんが僕に「内緒だよ」と語りかけてくれた、あの話だ。誰でもいいセックスをするのだと、彼はそう言っていた。

「……それが、どうしたの」

 僕は警戒した。マコトくんがこれから残虐な悪戯をするのだと蛇みたいにチロチロ舌を見せていたからだ。そして僕には、どんな暴行を受ける羽目になるのか、理解できてしまっていた。

「ヤろうぜ。ほら、ベッド行くぞ」

「…………」

「どうしたんだ? お前トモエのこと好きだったろ?」

「なっ……」

「バレバレだって。体は一緒だけど人間は違うんだ、最高じゃね? 俺でトモエの練習しろよ。そうしたらトモエも気持ち良くて最高って言ってくれるかもな」

 俯いて、こっそりとマコトくんを睨みつける僕の手を、彼が掴んだ。強い力で引かれ立ち上がる。嫌だと思うけれどどうしてだか抵抗できなかった。心のどこかでそうなることを望んでいたのかもしれないが、それというよりは今のマコトくんに抵抗は不可能であることを見抜いていた。


 カーテンを閉めたささやかな密室。四人部屋の、マコトくん以外の人は皆カーテンをぴっちり閉めていた。時々ここでトモエくんと過ごしていたから知っている。残りの三人は幻想の世界に浸っていたり、病気と闘いながらぐったり眠っている人なんかで、僕たちのことを察知することもないだろう。そもそも他人の部屋に入ること自体が禁止されているのに、多分最も禁止されているであろうことを、僕たちはこれからやろうとしている。

「今日はとりあえずフェラ」

「うん」

 そうして、ズボンの前をくつろげ、取り出した陰茎に彼はむしゃぶりついた。粘液質な音が多少はしたが、行為はしめやかに行われた。物音ひとつ立たない。窓越しにカーテンに夕焼けが滲む。その中で、初めて感じる快感に身を焦がし、マコトくんを通してトモエくんを見ようとした。

 やがて限界が訪れた時に僕は呻く。おもむろにマコトくんは陰茎から口を離し言い放った。

「トモエのことだけどさ」

「ん……」

 込み上げる射精感に脳を支配されながら僕は頷く。

「お前のことは別に好きじゃないんだって」

 そう言われて、僕は一瞬で理性に取り戻される。驚きに目を見張る中、一際強くマコトくんは刺激を与え、僕は本能のままに果て、彼の口腔内に精を放った。僕にとって生まれて初めての性的な体験だった。



23



 どうしよう、と混乱した気持ちになるのに、止められなかった。

『お前のこと別に好きじゃないんだって』

 マコトくん、そう言ったよね。今でも思い返すと氷みたいに冷たいものが胸に差し込まれたようになる。それなのに僕の本能は悦んでしまって、排泄を見られてしまったみたいにゾクゾクする。

 あれから僕たちは何度も体を重ねた。眠れない夜も体を融かして分かち合った。こんなこといけないって思うのに、僕はどうしてもマコトくんを拒絶できず、トモエくんが望んだことなんだと自分に言い聞かせた。音を立てるわけにはいかなかったから、彼の声は知ることができなかったが、僕の下で乱れるマコトくんに、どこかトモエくんの気配を感じた。トモエくんに早く会いたかった。彼はどこに行ってしまったのだろう。


***


「マコト……くん?」

「ふふっ」

 別に邪なことをしようと誘いに来たのではない。ホールに彼の姿がなく、声をかけようとバレないように彼の部屋に来ただけだ。その日も、刷毛で描いたオレンジが空を彩っていた。

 カーテンを開ければ、虚な二つの瞳が僕を見上げていた。いつかに見た、子牛の瞳。ひと目見て、僕はそれがトモエくんなのだと気が付き、次にベッドを染める真紅を認めて、叫び出しそうになった唇を押さえた。

「ど、どうしたの! 看護師さん呼んでくる!」

「行かないで」

 トモエくんが血まみれの腕を僕に伸ばした。鮮血が彼の真っ白い腕を手首から伝い落ちる。どこでどう手に入れたのか分からないが、リストカットしていたのだ。

「行かないで」

「で、でも……!」

 どうせこんなに出血して派手にやらかしているのだ。リストカットしたことはじきにスタッフにバレるだろう。そしてその次に、彼は保護室に入ることになるだろう。何よりも、手当をしないと。

「君が手当てして」

「タオルも何もないよ、血を綺麗にしなきゃ」

「君が舐めてくれたらいい」

「…………」

 怖かった。確かにトモエくんは僕の傷を舐めてくれたけれど、僕には、今目の前にある血まみれの腕を舐める勇気はなかった。傷口から伝い落ちるだけなはずなのに、その血液は脈々と波打っているように感じられた。心臓の鼓動に合わせて、ドクンドクンと吹き出し、僕を津波に巻き込もうと構えているようだ。

「ご、ごめん」

 奇妙なトモエくんの気迫に僕は後ずさる。何もできない。何も。

「よ、呼んでくるから」

「行かないで」

 踵を返した僕の背中に、トモエくんが言葉を投げかける。待ってて、と返事すれば、彼は顔を曇らせて押し黙った。

「なんでだよ……」

「とにかく呼んでくる!」

 何かが僕たちを決定的に違えた。そのことを理解しながら、それでも僕は看護師を呼ぶ方を選んだ。それが正解だと思ったから。



「何があった」

 騒ぎを聞きつけて看護師も主治医も飛んできた。華岡先生に呼び出され、僕は俯いて診察室に座っている。今回ばかりは、本当に取り調べだ。なぜ「トモエくん」が戻ってきて、腕を切ったのか僕には分かっていた。きっと先生にだってもう気付いているのだろう。

 僕と肉体を交えたから、トモエくんが呼び戻されたことに。

「…………」

 押し黙っていても、ドラマで見る警察官みたいに華岡先生が声を荒げることはなかった。

「ま、別に言いたくなけりゃ言わなくてもいいけどよ」

「はい……」

「トモエからの話も聞いてる。意味は分かるな?」

「はい……」

 僕が告白しなかったところで、もう全て筒抜けなのだろう。ここにきて、あまりにもチープな秘密だったと恥ずかしくなった。

「とりあえず、受け入れ先が整い次第転院してもらおうと思ってる」

「…………はい」

「少し時間がかかるけど待っててくれ。あとあんまり動揺するな、しんどいだろ」

 華岡先生の大きな手が、僕の頭をくしゃりと撫でた。え、という表情をしたのを見抜かれたらしい、すまん、と小さく先生は謝った。

「俺まだ精神科慣れてなくて……いやそういう問題じゃねえか、すまん」

「……いいですよ」

 初めて僕に寄せられた素直な同情だと思った。華岡先生は僕を治療者として見下しモルモットのように言葉で切り刻もうとしていると、勝手に思っていた。理解しようなんて都合のいい言葉で僕を解剖しているのだと。そのことが僕に強烈な羞恥心をもたらした。

「……トモエくんのことですけど」

「うん?」

「僕、彼と寝てました。彼のベッドで」

「ああ、知ってるよ」

 知っているのだろうとは分かっていた。だけど自分の口から言いたかった。

「トモエくんは、『最高の自傷行為』として、性行為を無理矢理されたがっていました」

「そうだったのか」

「マコトくんが、僕をベッドに誘いました。でも誘いに乗らなければよかったと思ってます」

「そうだな、その通りだ」

「……彼は、悪くないです」

「そうかもな」

 華岡先生は否定はしなかったが肯定もしてくれなかった。そうして、僕たちは引き剥がされた。ぼんやりと、ホールでコップにお茶を注いでいた時、僕はやっと気付いた。どうしようもなく、彼を傷つけてしまったのだと。生まれて初めて、好きになったひとを。



24



 保護室に隔離されている間は、医師の指示がない限り外へは出られない。保護室には本当に何もない。壁、床、ベッド。あとトイレ。小さな個室トイレにも、外から見られるように小窓がついている。

 例えば首吊り自殺をしようとしたら、引っ掛ける場所が必要だ。その引っ掛けるべき突起がなければ? 自殺ができない。飛び降りたい? 窓は強化ガラスだ。ODしたい? 薬は全て管理されている。刃物で手首を切りたい。刃物なんてない。

 徹底的に自殺の可能性を取り除いた部屋は、部屋として最低限の機能しか持たない。何もない。テレビを見ることも雑誌を読むことも、医師の許可がなければ許されない。

 刺激を遮断することで落ち着かせる意味がある、と看護師が言っていた。確かにスマホで嫌な情報を拾うこともないのはいいだろうが、刺激が無いなんてレベルじゃない。あそこに閉じ込められるだけで気が狂いそうになる。

 そんな酷い部屋にトモエくんは放り込まれてしまった。

 僕は日々ホールで時間を持て余した。オオトモくんとイチさんが再び声をかけてくれたことが救いだった。トモエくんにはそれすらないことが辛かった。悪いのは僕なのに。

 トモエくんが僕たちの輪からいなくなっても、何かが変わるわけではなかった。以前と同じように廊下を歩き続け、イチさんと「おかあさんといっしょ」を眺めた。時にトランプに誘われたが、僕は断った。トモエくんがいないことを実感してしまうのが辛かった。相変わらずあの女性は夫の話を僕にしたし、大麻の女の子は廊下を歩いていた。

 そんな裏寂しい静寂を打ち破るものがあった。


『コードブルー、コードブルー、2病棟』


 スピーカーから声が流れ、直後、ものすごい勢いでストレッチャーを携えた看護師が詰所から飛び出してくる。その場にいた医師が集合した他、いなかった医師までもが走って行く。こんなことは今までにないことだ。にわかに僕たちはざわめいた。

「どうしたんだろう」

「心肺停止か? どこだ? 誰かぶっ倒れてる?」

 オオトモくんは実は医療関係の専門学校に行っていたらしく、こう言ったことに詳しかった。イチさんもテレビの前の椅子から立ち上がり、不安げに廊下に出てくる。回遊魚たちは立ち止まり、皆が皆、詰所を恐る恐る覗き込んでいた。浴室の方だろうか。凄まじい速さで向こうから詰所へ滑り込んでくるストレッチャーに、白い素肌が見えて、僕は凍りついた。

――トモエくんだ。

 それから僕が目撃したものは、網膜に焼き付いて絶対に失われることがない。今も、これからも。もし生まれ変わっても。

 オレンジの毛布に包まれたトモエくんの裸体が処置室へ消えていった。配慮のためか、シャッとカーテンが閉められたが、中途半端で中は丸見えだった。僕は詰所の窓に張り付いた。

「おい、オオゾラ、見ねえほうがいいぞ」

 僕への配慮からかオオトモくんがそう声をかけるが、僕は決して目を離さなかった。

 トモエくんの胸が、心臓マッサージを受けて軋む。肋骨を折るほどの強すぎる力に、今や意思を失った体は死んだ魚が跳ねるみたいに無様に飛び上がった。それが何度も何度も繰り返される。何度も物体として飛び跳ね落ち、飛び跳ねる。

 命を繋ぐための行為のはずなのに、とんでもなく無様だった。

 やめて、と言いたい言葉を唇の中に留めた。やめていいわけがない。これはトモエくんを生き返らせようとしてみんながやっていることなんだ。

「うう……う……」

 やめてよ、と小声で言った。やめて、やめて、と続けた。トモエくんの綺麗な体が、汚い死骸になってしまう。電気ショックだろうか。受けるたびに体が変にビクつく。モニターからの絶叫みたいなアラームと、機械の音声が聞こえてきた。やめて、と啜り泣く僕を、心配そうにオオトモくんが庇ってくれた。イチさんも僕を抱きしめてくれている。

 ごめん、ごめんね、オオトモくん。イチさん。

 あなたたちは変な怖い人なんかじゃない。いつだったか、『僕はあの人たちと違う』と華岡先生に言ってしまったことを思い出した。違ったのは僕だ。僕は、トモエくんが助かるより死ぬことを望んでいる。それは彼のためとかじゃない。こんな醜い処置を受けず、綺麗なままのトモエくんでいてほしいというだけの、僕のエゴだ。こんな異形の感情を抱く僕の方がバケモノだ。

 救急隊の到着とストレッチャーの搬出と共に、騒ぎは終わりを迎えた。トモエくんは予想通り、浴室で自殺を試みたのだという。決して死にたいって言わなかったのに。

 僕はトモエくんを殺してしまった。



25



 主治医って他人なんだと思い知らされる。

 こんなに必死に心臓マッサージをしたことなんてなかった。精神科医になってから、コードブルーは稀だった。心マもそう。精神科病院に長期入院している患者は、今や高齢者がほとんどで、DNRつまりDO NOT RESCUEが選択されている場合が大半だ。だから若い男性の蘇生処置なんて久しぶりだった。

 そして、これほどに戻ってこいと願った心マはなかった。

 元身体科の医師として、挿管やアドレナリンの投与が迅速に行えたことは幸いだ。でも生き返らなきゃ意味がない。一度止まった心臓は、胸骨の上から揉まれるに従い、その筋肉を歪め、心電図モニタに瀕死の波形を生み出した。


「お先に失礼します」

「おう、お疲れ様」

 定時になり、帰宅する同僚を見送りながら、医局に掃除機をかける。そんなことしなくていいと何度も言われるが趣味だ、趣味。

「おい、邪魔だ。あと足くっせえからスリッパ履け」

「え、臭い? おかしいな、お風呂こないだ入ったよ」

「毎日入れ」

 医局のソファに陣取るユングが邪魔で、掃除機の柄で蹴散らしつつ埃を吸い取っていく。

「……あのさあ」

「うん?」

 掃除機のスイッチを止めた。帰っていく看護師たちの挨拶が聞こえる。ブラインドから差し込む明かりはいつもと変わらない。

「あの子、どうなったんだ」

「ああ、トモエのこと?」

 なんてことない、普段症例を分かち合うみたいにユングは言った。そのことが妙に悲しく、呆気からんと穏やかに笑みを作る彼が、同級生だったはずなのに不気味に感じた。

「ご家族には状況を説明してある。搬送先の病院で脳死判定されたらしい」

「そうか……」

「ご家族も希望されて、臓器提供することになったらしいよ、うん。そうだねえ……君は自殺は初めてかい?」

 ユングは勝手に俺のコーヒーセットに手を伸ばしながらそう言った。俺が丹精込めて、美味いコーヒーが淹れられるように集めたグッズだ。

「初めてじゃねえよ。案外みんな死ぬなって思ってたところだ。死にたい死にたい言ってなんだかんだ死なねえって信じてたのに」

「そうだね、死なない奴は死なないよ。二分の一なのかもね」

「死ぬか生きるかだから二分の一か? そうかな」

「見送るのは仕方ないさ。命だもの」

「……医者なのに」

 俺が外科医の頃担当した、終末期のがん患者のことを思い出す。死にたくないなんて言いはしなかった。生きたいとも言わなかった。ただ流れに任せて、死を多かれ少なかれ受け入れていった。誰もが受容に至るまで葛藤があったろうことは分かっていたし、どう足掻いても別れは辛かった。

「君の言いたいことはわかるけどね。はい、コーヒーどうぞ」

「おう。……助けられなかったこと、嫌じゃねえの」

「君は自殺だからって特別だと思いすぎなんだ。末期がんの患者だっていつか死ぬだろう」

「でも……防げたかもしれねえじゃねえか」

 そうだ、かける声さえ間違えなければ。あの日、俺が土下座してでも『死なないでくれ』って言えば。何か、変わったはずなんだ。

「あのね」

 ユングは医局のテーブルにあった書類を片付けながら困ったように笑っていた。

「もう終わったことだよ。どれだけ後悔してもトモエは蘇らないよ」

「そんなの知ってるよ」

「だからだよ。僕達にできることは、ただ悼むだけだ。自殺が成功したなら、それで……」

 ユングが少しだけ躊躇った。世間の常識からはかけ離れたことを言おうとしているのだと分かった。

「……ただ、悼むだけなんだよ」

 結局言い切らずにユングは言葉を呑み込んだ。しかしそれが彼の言いたいことを総括したものだったのだろう。

「……死にたい気持ちを、否定しないであげて。自殺も」

「ああ、しねえよ」

「否定したら、浮かばれないだろ。別に罪なんかじゃない。ただ、闘病の果てに燃え尽きただけなんだ……君がそう思うことで、多分誰か救われる」

 救世主になるのは好きだろう、とユングは付け加えた。

「僕には理解できないよ、死にたくなる気持ちは」

「俺にも分かんねえ」

「理解できないことだってある。無理に解剖しようとしなくていい。ただそういう時もあるって受け止めてあげればいい」

 ユングはいつになく饒舌に語り、コーヒーを揺すっている。

「トモエは誰かの心臓になるよ。それが彼の望みなんだ。いいじゃないか、たまにはロマンを感じたって。この世でちっとも報われなかった命があったっていい、それを否定したらあんまりにも報われない」

「オオゾラには」

「うん?」

 オオゾラにこのことは言っても良いのだろうか。俺は迷っていた。誰よりもショックを受けているのは彼なのだろうと思う。そりゃ家族だって悲しんでるだろうが、自殺のきっかけを作ったのはオオゾラだ。自責の念に苛まれても不思議じゃなかった。

「……言っていいか。心臓の、こと」

「そうだな」

 ユングが少しだけ考える素振りをした。

「うん。僕達には、守秘義務があるね」

「……お前って残酷だな」

 お話の結末がハッピーエンドなのかバッドエンドなのか。それを知ることができるのが、一番安心できるのに。

 オオゾラにそれが許されないなら、それが彼への罰なのだろう。



26



 秋晴れの空を眺め、夕暮れを見送り、夕闇に溶ける。結局転院はせず自宅退院となった僕は、実家に戻らされ、母のこの上ないハグに迎えられた。遺された僕の、ただ一人の家族、母。父と姉を見送り、そして僕さえも失いかけた母親。

 トモエくんの家族はどうだったんだろう。やはり本名さえ知らない。トモエは「彼」本体ですらない。「彼」が辛い現実から逃れるために作り出した、かりそめの魂だ。

 僕が入院していたのは二ヶ月だった。二ヶ月も入院したのに、僕の心は相変わらず曇り空だ、大空なんて名前に似合わない。大学は休学することになり、実家にこもりきりの僕は、母に勧められよく散歩をするようになった。

 その日も、オレンジが西の空に滲んでいた。橙を見つけるたびに、夕暮れの病室で、僕を求めて手を伸ばした、あの血まみれの腕を思い出す。そして僕は、死にたくなる。

 トモエくんはどうなったのか華岡先生に尋ねたことがあったが、守秘義務があると教えてもらえなかった。でもその苦い顔を見て、僕は大体のことに見当がついた。本当に先生は詰めが甘い。医者なのに僕を抱きしめてしまう人だから。

 何度も言うが入院したからって僕の世界は少しも変わらなかった。オオトモくんとイチさんとは連絡先の交換すらしていない。禁止されてはいないようだった、わざとそうした。あの世界のことは、扉の向こうに置いておきたかった。だから、どこかにアニメみたいに、異世界に行って帰ってきたみたいな感じなんだ。

 死にたい。

 空が美しい時、死にたくなる。秋風に煽られる蜻蛉の死骸を見て、泣きたくなる。翻るコートの裾に死にたくなる。その度にやっぱり僕はリストカットする。

 切りやすいから買った、安全じゃないカミソリ。その刃に僕の瞳が映る時、あの子牛の瞳を思い出す。

 今日も死にたい。だから切る。少しでも時間を楽に過ごすために、ODする。同じことを繰り返す、お前は変わってないと詰られる。だけど仕方がないよ、僕はそうなんだもの。

 一つだけ変わったことがある。

 リストカットする度、僕はトモエくんの腕を切る。ODする度、やっちゃったねとトモエくんが笑う。

 死にたいと言った僕に、そうだねと応えてくれた君を忘れない。今日も薬に塗れ、ヘベレケになりながら、僕の心臓は早鐘を打つ。

 そこにいるんだね。トモエ、くん。

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夢現の回遊魚たち @kousakashu

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