蜜と唾

片山勇紀

第一部

 電車のシートに置き去りにされたストロングゼロの空き缶は、むしろこちらを眼差す光に見えた。

 南北線の白金台駅を降りれば、ぼくの職場はもうすぐだ。大学では、一般教養として学部生向けに「現代思想と精神分析」の講義を担当している。かつては、ぼくの書いた博士論文が書籍化され学会の華となったことなどがあったが、いまや研究にも飽き、漫然と教員の身分をやり過ごす日々である。

 ぼくは今年で四十歳になる。村上春樹=東浩紀が指摘した「三十五歳問題」(人生の半分を過ぎれば、未来の可能性の分岐よりも理想自我ばかりが肥大して憂鬱になる状態)を経由し、ウエルベックが『素粒子』で述べた「四十代の危機」(中年に差し掛かると若い女を抱きたくてしょうがなくなる状態)に苛まれている。ぼくはフロイトやラカンの問題提起よりも、いかに女子学生を口説くかに頭を巡らせているところだ。何人か目を付けている学生がいるが、いかんせん彼女らのファッションセンスの無さにより(謂わゆる「量産型女子大生」だ)、積極的なアプローチに踏み込めないのが現状である。まあ、積極的にアプローチしてしまっては職を失うわけだが、そこをなんとかするのが男の甲斐性というものだ。

 ぼくの貯金が増えないのは、薄給のせいでもあるが、何よりファッションに注力しているためだ。今日は、オーバーサイズのブラックのハーフパンツをロープベルトで留め、トップスの花柄のような縫製でできているホワイトのロンTを合わせている。ぼくは中学時代の「生活指導」、すなわち髪型と服装の画一化にうんざりし、私服で通学できる高校へ進学した。高校生、そして大学生時代、ぼくのファッションセンスは冠絶していた自信がある。そして今もそうだ。博論が評価され教職の声が掛かったとき、ぼくは一寸の迷いなく快諾した。大学教員ならば、あの醜悪なビジネススーツに身を包む必要がなくなるからだ。よってぼくのファッション嗜好はアンチ権力の面があるとも言える。いずれにせよぼくは強迫的なまでにファッションが好きだ。だからパートナーにも相応の実力を求めてしまうのだ。


 旧友たちからの結婚式への招待は、ぼくが二十代後半のころにピークを迎えた。そのすべてにぼくは「欠席」の欄に丸を付けていた。同僚もほぼ所体持ちだ。むろんぼくは独身である。なぜみな結婚などしたがるのだろう。ほんの少しの合理的な思考を働かせれば、夫婦関係などという不自由な檻など回避するはずなのだが(ましてや出産や住宅ローンなどの人生の可能性を限定づける決断主義など!)。結婚とは、二者関係を国民国家の一員として承認される契約である。左派であるぼくにとってこれはクソ喰らえなのだが、驚くべきことに、フランス現代思想(特にドゥルーズ&ガタリのアナーキズム)を学んだ者たちでさえ、結婚していくのである。これが社会における最大の謎だと言ってよい。そんなに大他者からの承認が欲しいほど実存に自信がないのだろうか。ワイルドに生きるための自己愛の涵養が必要だ、と主張すれば、罵詈雑言を食らうのか? ぼくの主張に賛同してくれるマイノリティとだけ関わっていきたい。

 ここで反出生主義という思想的立場について触れねばなるまい。「産まれたくなかった」と人生を嘆くシオランに代表される思想だが、そう大衆に理解されてしまえば、この思想が持つ射程の長さ(例えば、生殖を批判することで必然的に導かれるアナーキズム)が伝わらず無視されてしまうだろうゆえ、ぼくは「反生殖主義」と呼ぶことをTwitterで提案したことがある。当該ツイートは多くのリツイートを得、フォロワーが一気に増えた(Twitterなど、肩書きと多少の知識を披露すれば簡単にフォロワーが増えるものだ)。ぼくは屈強な反出生主義者である。政治家をはじめとするナショナリストは生産性がないなどと喰らいつくだろうが、生産性がないなどむしろ褒め言葉である。なにが「子育て支援」だ。左派なら子供を産むなと言え。

 

 季節は流れ、大学が夏休みに入ろうとしていた。夏は嫌いだ。端的に過ごしにくいから。夏は青春を謳歌する若者のための季節だ。今日はブラックで総柄のTシャツにグレーのスウェットパンツ、そしてレッドのエアジョーダンを合わせて通勤した。ぼくには珍しくストリート系のコーディネートだ。ぼくは大きめのサイズのトップスを好んで着る。なぜなら出てきた腹を隠せるからだ。男は三十を過ぎれば腹が出てくるものだ。それを諦念とともに受け入れるか、筋トレを始めてガチムチになるか、ぼくは多くの男性がそうするように前者を取った。精神分析的に言って、ジムに通うような男は「女性」的だ。それが悪いと言っているわけではなく(ドゥルーズはむしろ「女性」化を推奨している)、ぼくは端的に「男性」なのだった。去勢された男性には「身体」がない。なぜなら「身体」はイマージュの領分に入るからだ。それはいいとして、ぼくは粛々と期末試験の採点に取り掛かった。ぼくは出題する試験を小論文の形式にしている。ぼくの大学だけだろうか、はっきり言って今の学部生の教養のレベルは低すぎる。二十代前後の若者にラカンの『エクリ』を読めとは言わないが(『エクリ』はキャリアを積んだプロにしか読めないだろう)、ぼくの講義をもっと真面目に聴いて欲しいものだ。カントは大衆への啓蒙を統整的理念だと言った。それはその通りで、無知な学生を探求へと導くのがわれわれインテリの使命なのだが、知的好奇心すらない子供相手に何ができるというのか。うんざりしながら採点を進めていくと、ひとつの論文に目が留まった。論文自体ではなくーーその内容は他と同様にひどいものだったーー、その文末だ。「一七時、チャペルの前で待っています」と書かれている。名前を確認すると、新藤さくらという二年生だった。ついに来たか、と思った。せめて顔の整った生徒であることを願いつつ、定刻までに仕事が片付かるよう努めた。


 新藤さくらは美少女だった。さらに特筆すべきはその太ももである。本人も自覚しているようで、ホットパンツを履いてその太さを強調している。これには大いに性欲を掻き立てられた。ぼくらは逢瀬の場を近くのカフェに決めた。

「先生、いつもおしゃれですよね」さくらが切り出した。

「きみみたいな可愛い子にそう言ってもらえると嬉しいよ」好意を抱いている相手に可愛いと言われて嬉しくない女はいまい。

「わたし、先生のことが好きです。誰にも言わないので、わたしとお付き合いしていただけませんか」彼女もわれわれの関係性に配慮しているようだ。

「ああ、いいよ。このことはぼくらだけの秘密にしよう」

 かくして、ぼくは女子大生と性交するチャンスを得た。しかし女性は男性と違って、相手への好意に性欲を含まない。女性はまず「関係性」の成就を試みるものだ。これも精神分析の教えである。女性にとって性行為は、互いの愛の確認のための儀式なのだ。

「じゃあこんど映画でも観にいこうか」ぼくがそう提案すると、「あっ、じゃあわたし『ぼっち・ざ・ろっく!』が観たいです」と彼女は応じた。『ぼっち・ざ・ろっく』? 「アニメかい?」「はい! とても面白いんですよ。アニメはお嫌いですか?」今の若い子はハイカルチャーとサブカルチャーを区別しない。「オタク」という異質なトライブはゼロ年代に消滅し、いまやアニメ、漫画といったインドアな趣味は散種されている。よって差別心は微塵もないが、とはいえぼくはアニメの教養に疎く、「嫌いじゃないよ。エヴァンゲリオンなら子供のころ観てたしね。どんなアニメなの?」と返した。すると彼女は熱のこもった声で、「陰キャでコミュ障な女子高生がバンドを組んで成長していく日常を面白おかしく描いたコメディです! そのバンドーー結束バンドって言うんですが、曲がまた良いんですよ」と捲し立てた。ぼくとしては彼女と共有できるコンテンツがあれば良いので、この流れに乗ることにした。「へえ、CDなんか出てるの?」「出てますよ。明日持ってくるのでお貸ししますね」ぼくは頷いた。今日はこれで解散となり、また明日、と手を振って別れた。


 ぼくは帰宅後、『ぼっち・ざ・ろっく!』についてネットで調べた。なるほどいま公開中の映画は総集編らしいので、予備知識なしでも観れるだろう。YouTubeで結束バンドの楽曲も聴いた。ぼくがイメージしていたアニメソングとはまったく異なっていて、「フラッシュバッカー」なんかはぼくの琴線に触れた。明日さくらと会うのが楽しみになった。


 残りの事務処理を済ませ、夏季休暇が訪れた。第一線を退いて久しいぼくにはシンポジウムや講演会、読書会といった依頼はなく、またゼミの担当もない。要するに暇である。今日はいよいよさくらと映画を観に行く予定だ。ぼくはコムデギャルソンのホワイトのTシャツに、アディダスのスカイブルーのパンツを合わせてデートに臨んだ。ぼくにとって夏はただ暑くて不快な季節だが、さくらにとっては光輝く青春の日々となるのだろう。待ち合わせ場所の新宿駅南口に、二人とも約束の五分前に出合わせた。さくらは今日もホットパンツを履いていた。ぼくは舐めるように彼女の太ももを見つめた。それに気づかないわけがない彼女だが、「先生、来てくれてありがとうございます。さあ、行きましょう」とぼくの手を取り歩き出した。異性関係に積極的なタイプか、悪くない。

 バルト9で『劇場総集編ぼっち・ざ・ろっく!』を観た。端的に言ってすごく面白かった。後編も一緒に観に行きましょうね、と言うさくらに大きく頷いた。帰り道も手を繋いで歩いた。新宿四丁目の交差点を過ぎたとき、不意にさくらがぼくの前面に身を出し、ぼくの手を自身の乳房に押し当てた。「わたし、先生にとっての身体目当てでもいいんです。だから……、ずっと一緒にいてください」美少女がそんなことを言った。そこでぼくも気付いた。さくらを愛し始めている自分自身に。ぼくはさくらを抱きしめた。ありがとう、と彼女は言った。ウエルベックは『服従』のなかで、男にとって愛とは、快楽をくれることへの感謝に過ぎない、と述べた。おそらくそれは間違っていない。ぼくもいつかはさくらに別れを告げなければならないだろう。


 ラブホテル街はどこも同じだ。荒んだ、灰色の空気が澱んでいる。愛と裏表の暴力への恐怖の空気だ。カップルが愛し合っている空間とは思えない空虚さがある。ぼくとさくらはそこに辿り着いた。これからぼくらは二人の愛を別々の仕方で確認し合う。

 部屋に入り、二人でシャワーを浴びた。ぼくの勃起したペニスをさくらは手でしごいてくれた。まだイっちゃだめですよ、と囁かれた。浴室から出るやいなや、ぼくは彼女に襲いかかった。ベッドに押し倒し、彼女の身体中を舐めまわした。さくらの吐息も熱を帯び始め、喘ぎ声を漏らし出した。ぼくはペニスを彼女の口に突っ込んだ。さくらもフェラチオに応じてくれた。ああ、愛おしい。さくら、さくら! ぼくは彼女の口内に情熱をぶち撒けた。さくらはそれを飲み込んでくれた。こんなにも可愛い子がなぜぼくなんかと付き合っているのだろう。今さらそんなことを考えた。しかしそんな冷静さよりも身体が彼女を求めていた。再び硬直したペニスをさくらのヴァギナへ挿入した。さくらは喘ぎ声も可愛い。数分の運動量でぼくは彼女の膣内で射精した。さくらは言った。「素敵でした……」それでぼくの頭の中で何かが弾けた。両手で彼女の首を掴み、力を込めた。さくらは暴れたが、ものの数秒でぐったりと倒れた。さくら、愛してる。かくしてぼくは殺人犯になった。

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