6.
「信じては頂けないと思いますが、神に誓って、お2人の仲を荒すつもりはございませんでした。スレド伯爵のご相談はありましたが、問題が見られなければただ粛々と日々を過ごして務めを果たし、折を見てスレド伯爵家を離れるつもりだったのです」
「……なぜ、ナディアがそんな損な役回りを……っ」
うら若き令嬢にとっての結婚と離婚は小さくない問題である。そんなリスクをナディアが取る理由がないと、困惑するアレンの顔を見上げて、ナディアも困ったように笑う。
「……もう、お会いすることもきっとありません。お優しいアレン様の幸せを心からお祈りしております。この度は、誠に申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げて身を翻すナディアの腕を、アレンがパシリと掴み取る。
「ナディア……っ! 待ってくれ!!」
「……お叱りでしたらもちろんお受けする覚悟です」
「違う! そうではなくて、僕が以前……メアリーを愛していると伝えたことを、訂正したい。そう伝えた理由を、ナディアに聞いて欲しいんだ……っ!」
「………………」
腕を掴まれたまま顔をあげないナディアに構わずに、アレンは続ける。
「メアリーを愛していると伝えたが、僕は今も昔も妻として、彼女を愛したことはない。ただ、メアリーはあの気性だ。何も知らないナディアに、僕の寵愛と言う名の、夫人の座にしがみつく彼女の相手は荷が重いと思ったんだ」
「………………」
必死なアレンに対して、ナディアは未だ顔を上げない。
「父が何かを画策しているのはわかっていたから、ナディアが何かに巻き込まれて悲しむ姿を見たくなかった。……だって、以前、学生の頃、ナディアはーー……」
唇を噛み締めて、アレンは辛そうに顔を歪めた。
「ひどい扱いを受けて、泣いていただろうーー」
「…………覚えて、おられたのですか……」
ポツリと呟いたナディアに、弾かれるように顔を上げたアレンの瞳と、伺うようなナディアの黒い瞳が交錯した。
「辛い思いをしたことのあるナディアを、再びあの頃のような心境にさせたくなかった。……だから、気づかないふりをして遠ざけようとした」
困ったような顔で笑うアレンに、ナディアは唇を引き結ぶ。
「……おかしいですね、覚えていて頂けたことが嬉しいのと同時に、あんな姿は忘れて頂きたかったみたいです……っ」
中等部の頃、ナディアは今より一層地味で野暮ったく、簡単に結んだ飾り気のない髪に眼鏡と言う出立ちが表すように、性格も内気で話すことも苦手だった。
貴族の学校でも控えめな存在である一方、ある日を境に目をつけられたその行為は次第にエスカレートしていった。
果ては閉じ込められて水をかけられた合間に、学用品に落書きや破損を加えられ、更には学舎の裏にある池に捨てられていた。
何かしらと気に入らない者を順番に標的にしては、一方的に憂さを晴らしているように見えた、当時は幅を効かせていた権力者の娘を筆頭としたその集団。
その行為は見慣れたものであったが、多感な時期での終わりの見えない日々の蓄積は、毒を染み込ませるようにナディアの気力を削り取っていった。
一ミリとて喜ばせてやるものかと唇を噛み締めて堪えていた。そんな様も、余計に気に障ったのかも知れない。
人気のない裏池で、ご丁寧に落書きされた上で引きちぎられた教科書を水に浸かりながら引き上げた所で、ふと惨めな感情に飲み込まれてしまった。
泥水に濡れた足と指先やスカートを見下ろして、ぽろりと溢れた涙を袖口で拭った所で水音が響く。
「これはひどいな」
「……っ!? あっ、こ、転んでばら撒いてしまっただけなので、どうかお気になさらないでくださいっ!! お洋服が汚れてしまいますから……っ! どうぞお気持ちだけーー」
「お気遣いありがとう。でももう水には浸かってしまったから、浸かった分だけ手伝わせてくれないか」
そう言って聞く耳を持たずにざぶざぶと、ズボンの裾を濡らしながら物を拾い上げていく青年に慌てて、ナディアも急ぎ拾い集めた。
「あの、本当に申し訳ありまーー……っ」
「……負けないで」
「…………え……?」
水に濡れたひどい有様の学用品を見れば、ナディアの嘘など見え透いたものだった。
そっと手渡された荷物と共に、ポツリと溢された思いもよらぬ言葉にナディアは顔を上げる。
「張り合う必要はない。勝つ必要もない。今は目の前しか見えないかも知れないけれど、世界はこんなにも広いんだ。例えこの行為に及ぶ何かの理由があったとして、こんな形で人を傷つける者に心を砕く必要なんてないと、僕は思う。だから、負けないために逃げたっていいんだ。最後にキミが、笑えてさえいればいいんだよ」
「……ぁ……っ……ありがとう……ございます……っ」
恥ずかしさから顔が上げられないナディアは、俯いてお礼を述べるだけで精一杯だった。
「……何も知らないのに、勝手を言ってすまなかった。ただ、こんな所で手折られるには、キミがあまりにも勿体無いと思ったんだーー」
そう言って気恥ずかしそうに笑った青年が、必死な形相でいる目前のアレンと重なった。
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