奈落
@Mamama_Mimimi
第1話
2024年6月21日。
兵庫の公立高校に通う、東岡命(アズオカメイ)はクーラーが良く効いた教室の机で突っ伏していた。
今は午前11時半授業の真っ最中だ。今年で高校三年生になる命は大学受験を控えていた。その為、顔を上げて真剣に授業に取り組まないといけなかったが学校に来てから睡魔と戦い続けている。
現在授業を行っている国語教師の久保田(クボタ)は授業よりも生徒の事を第一に考えている為、うるさくしなければ基本は他の教科の勉強……所謂”内職”を行っている生徒も眠っている者に対しても何も言わない。見た目は短い髪にどこか怒っていると思わる様な顔つきをしている。厳しい男の様に見えるが実はめちゃくちゃ優しい、それもあってか久保田への好感度はとても高い。
命も久保田の事を良い人だと思っているし、しっかり授業を受けようという意思はある。しかし頭が重い。眠くて仕方がなかった。夜中まで誰かとゲームで遊んでいた、勉強していたという訳ではない。最近上手く眠れない。定期的に眠りから覚めてしまい、長時間の睡眠がとれない。
「あの夢さえ見なけりゃなぁ」
命は最近よく意味不明な夢を見ていた。それは真っ暗な道を歩いていると後ろから知らない女性がついてくる。そんな夢だ。ゾンビの映画を見ると夢でゾンビに追いかけまわされたり、銃を撃つゲームをすると自分が銃を撃つ夢を見るなど、見る夢に影響を及ぼすキッカケがあるのかと思っていたが彼自身何も覚えがなかった。
しかもその夢は彼が不快で飛び起きるたびにゲームの様に、セーブが書き込まれる。睡眠欲求に耐えきれず眠りについた瞬間、前回起きた所から始まる。もう一つ不快な点は、夢の中での距離は段々と縮まってきてあと数回寝たら追いつかれる。それもあってか最近は眠ることが嫌で嫌で仕方がなかった。
「おい、東岡」
コクコクと船を漕いでいた東岡を見て久保田は授業を中断して話しかけた。トロンと眠そうな目で久保田を見る。
「はい」
「目の隈凄いぞ。ちゃんと寝てるのか?」
しっかり生徒一人一人に向き合っている久保田は生徒の体調にもすぐ気が付く。命は「最近なんか寝れなくて……」と返すと、
「今日は前回の復習だから、内容を覚えているのなら寝ててもいいぞ」
「あざっす……」
先生からの了承も得た命は言葉に甘えて家から持ってきた汗を拭く用の大きめのタオルを畳んで簡易的な枕を作ってそこに頭を乗せた。
眠りたくない。彼はそう思っていたが体は正直なもので数分もしない内に深い眠りに入った。
暗い夜道。草木の香りがする。街灯は無く月の光がやや照らしている程度。彼はこの道に、見覚えは無い。
これは夢だ。でも”リアル”すぎる。
そう思っていても歩くしかできない。無理矢理脳を覚醒まで持って行こうとしてもできない。これは夢だと知っていながら進み続ける。
コツ、コツ。
彼が今一番聞きたくないあの足音だ。後ろを振り向く。そこには白いワンピースに身を包み、白い大きな帽子を被っている。黒い瞳。肩甲骨辺りまでまっすぐ伸びた暗い赤い髪。整った顔。
「最悪だ……」
あの女だ。
昨日、昨日飛び起きて終わった距離にいる。走ればすぐに捕まる距離に。
「どうして逃げるの?」
女性が命に話しかけた。しかし無視して走り出す。この夢の気持ち悪い所はもう一つある。それは走っても歩いても距離は変わらない事だ。
「アナタに会いに来たの。だから逃げないで」
「ふざけんな。こんな気味悪い夢で訳のわからん女に捕まったらヤバいだろ」
「ヤバくない。だから止まって。私を信じて。止まったら”この夢は終わる”」
今まで会話をしなかった訳ではない。何を言おうとずっと「止まって」や「会いに来た」などを復唱していたがここに来て初めての言葉を放った。
「終わるってどういう事だ」
「そのままの意味よ。もう見なくなる」
この答え方も気持ち悪くて仕方がなかった。同じことを何度も話すBOTとは違い、まるで考えて自我を持っているような話し方。
しかし、見なくなるという言葉は続く睡眠不足で心も体も疲弊している命にとっては感情が揺さぶられる甘美な言葉だった。本当に見なくなる確証は無い。だが、
「これは夢なんだ。死ぬ訳無い。映画の見すぎだ」
今までの自分の考えを否定して、楽な方へ逃げようとしていた。
そして足は…………止まった。
その直後右肩に手が置かれる。夢じゃない。まるで本当に触られているような感覚だ。その気持ち悪さを耐える。すると、
「ようやく、捕まえた。探していたのよずっと。十数年間ずっと……。アナタを奪われてからずっと……」
耳元でそう囁かれた。まるでずっと探し続けていたモノをようやく見つけたような感情が籠った言い方だった。その瞬間、判断を誤った事を後悔した。逃げ出したい感情を押し殺して質問をした。
「十年前に俺が奪われた? 誰に?」
「――――」
女性の返答は上手く聞き取れなかった。どうにか聞き取れた言葉は「ア・ズ・カ・リュ・ジ」。その時脳内に一人の男がよぎる。
「東岡竜司(アズオカリュウジ)…………」
「そう、奪ったから。…………殺す」
全身に悪寒が走る。逃げ出そうと肩を前に振って乗っていた手を振り落とす。しかし体が動かなかった。全身が凍った様に動かない。
「どうして、逃げるの?」
「これが俺の夢じゃないからだ。東岡竜司は俺の父親で、夢でも殺したいなんて思わないからだよ!」
「そう、アナタはあの人が良いのね。じゃあ私がいないとダメなようにしてあげるわ」
「ふざけんな! お前みたいな女に好かれる筋合いは無いぞ!」
愛は少し黙った後、命の耳元でこう囁いた。
「アナタは私を嫌っても、私はアナタを一生愛するわ」
その言葉を聞いた瞬間、東岡は飛び起きた。額からは尋常じゃない程の汗をかき、息は切れ、心臓はうるさいほど鳴っていた。
急に立ち上がった為、クラス全員の視線を浴びる。
「大丈夫か? 命」
前の席に座っていた小学校からの友人である平野淳(ヒラノジュン)が心配そうにこちらを見てきた。しかし上手く喋れず頭だけを振った。
十一時四十分。眠ってから数十分しか経っていない。
「東岡、保健室で寝て来い。保健委員連れて行ってあげてくれ」
久保田先生は落ち着いた表情で指示を出し、保健委員の女子と保健室へと向かった。
「熱は無いけど、隈が酷いねぇ。うん、ちょっと寝よっか」
体温計などで測るも熱は無いが隈が酷い事を気にされ保健室の先生にベッドを使う許可をもらった。
東岡は布団で横になるが眠れなかった。興奮した脳を落ち着かせる為、起きた事を頭の中で整理していった。
愛と名乗る女。数十年前に奪ったという東岡の父親について。そんな事を考えていると段々落ち着いてきて自然と眠ってしまった。
「東岡君。先生来たよ」
保健室の先生が深く眠っていた東岡を起こす。東岡は久しぶりの快眠で気持ちよく目覚めることが出来た。時刻は午後一時。昼休みはもうすぐ終わるといった所だ。
「東岡調子はどうだ?」
ベッドから降りて入り口付近へ向かうと久保田先生が心配そうな顔で東岡を待っていた。
「久しぶりに良く寝れました。心配かけてすみません」
「いや、良いんだ。東岡が元気ならそれで。だが今日まで教師をやってきてあんな緊迫した表情で飛び起きた生徒は東岡が初めてだ。大事を取って今日は休め。先生が5、6限の担当に話しておくから」
「了解です」
「電話は大丈夫か」
「父は多分出ないんで大丈夫です」
命の父、東岡竜司は彼が中学生に上がり始めた辺りから海外で仕事をし始めた。最初は付いて行こう考えていた命だったが竜司から「その年から海外暮らしは言語的に難しい」という理由で止められた。元は二人で住んでいたファミリータイプのマンションに一人で暮らしている。
命は二人に軽く礼をして教室へと向かった。教室の扉を開くと他クラスの生徒も来ているのか見た事も無い生徒も楽しそうに昼食を取ったり、SNSに上げる動画を撮っていた。楽しそうな空気を感じながら自分の席へと向かう。机の横に置いていたリュックへ荷物を入れて帰る準備をする。
すると命の席から離れた場所で昼食を取っていた平野が近寄ってきて、
「お、命。帰んのか?」
そう、心配そうに質問した。その顔を見て命は何事も無いように軽く笑って返した。
「うん。久保田先生が帰れってさ」
平野と一緒に昼飯を食べていた小学校からの友人、黒部治(クロベオサム)も会話に入ってくる。
「凄かったな、お前。超追い詰められたみたいな顔してたけど何かあったのか?」
「いいや、ただ気持ち悪い夢を見ただけだ」
「大丈夫?」
半田清(ハンダキヨシ)も心配そうな顔で質問する。命は自分を気にかけてくれている事をとてもうれしく思い、
「大丈夫大丈夫。寝たら治るから」
安心させる為に半笑いで返した。
命と話しているこの三人は小学校からの腐れ縁でいつも一緒にいる面子だ。実力テストで常に上位に存在し、三年の中でも群を抜いて賢い半田。柔道部主将の黒部。コミュ力が凄く友達が多い平野。そして対して何も無い命。
いつも放課後は命の家で集合し、ゲームをする。黒部が部活が終わってからは皆でファミレスにいって喋りまくる。そんな日常だったが、これから人生を決める受験を控えている為、放課後の集まりも無くなり、全員が集合するのは昼食ぐらいしかなくなった。
「帰るわ」
「気を付けてな」「ゲームすんなよ」「何かあったら連絡してね」
リュックを背負って優しい友人達と別れて命は家へと帰った。
家に着いてから制服を脱いでシャワーを浴びる。寝巻に着替えて自室に向かう。扉を開けると窓を閉めていた為、とても暑かった。クーラーを26度に設定し、リングホルダーネックレスを首から外す。そこには何も装飾されていないシンプルな金色の指輪が装着されていた。それをスマホと一緒に机の上に置いた。そのままベッドに寝転がり、瞼を閉じた。
「もう、あんな夢見ませんように」
夢であの女を見る事は一度も無かった。
その後は特におかしな夢を見ることは無く、定期試験を乗り越えて高校最後の夏休みに突入した。朝十時に起床し、クーラーを付けニュース番組を見ながらやりもしないテキストを机の上へ雑に広げる。TikTokやyoutubeなどを見て時間が溶けていく。好きなチャンネルがアップした動画を見ていると急に動画が止まった。
ビクッとなった東岡だったが電話が来たため動画が止まっただけだった。電話をかけてきたのは父親の竜司だった。
「もしもし、命」
聞き覚えのある声が聞こえる。
「いきなり、どうしたの?」
「もう、そっちは夏休みに入ってるのか?」
「うん」
いきなりなぜ電話をかけてきたのかが不明だったが久しぶりに話す父親との会話に命は少し楽しく思っていた。
「なら良かった。俺の実家に行って取ってきて欲しいモノがあるんだ」
「因みに聞くけど何?」
「ん? あー、昔母さんが持っていたお茶入れる高そうな急須」
「何に使うんだよ」
「んー? 毎日コーヒーは飽きるからさー、たまには日本人らしくお茶でも飲みたいなって」
「自分で取りに来たら?」
「無理。今イギリスにいるから」
「はぁ……」
通話越しに大きいため息を吐く。竜司は命のため息を気にもしていないのかそのまま会話を続けた。
「そう言えば受験はどうなった? あの三人も含めて」
「淳は美容師の専門。治は柔道で大学行くらしい、清は東京の大学目指してる」
「お前は?」
「家から近い所の大学」
「そうか、皆とは離れ離れか」
スマホのスピーカーから少し寂しさを含んだ声が流れる。
「今生の別れじゃないんだから大丈夫だよ」
実際、命も少し寂しい所はある。しかし夏季休暇などの長期的な休みになればまた会える為、そこまで深刻に考えてはいなかった。
「じゃあ急須の件任せたぞ」
「は? おい!」
竜司は命にお願いを押し付けて通話を切った。竜司は命にお願いを押し付けると、自身の携帯電話を着信拒否をして放置する。
つまり、犯行の電話をしても無意味。命はため息をつきながら明日か明後日でさっさと終らそうと思った。
東岡命の祖母、東岡節子(アズオカセツコ)は大阪府の都会からかなり離れた場所にある桜龍町という田舎町に住んでいた。六年前、不慮の事故により亡くなってからめっきり来なくなった。しかし家は人が長年住まないとダメになるという持論で定期的に竜司が来て休暇兼家の改造を行っている。
「桜龍町か……婆ちゃんが死んで法事が色々済んでから行って無いな」
スマホで何となく最寄駅から桜龍町駅までの所要時間などを調べる。電車で片道3時間。その数字を見た瞬間、ため息がこぼれる。
「どうせ勉強もダラダラしてしないだけだし、気分転換で明日に行こう」
今の時刻は午前12時前。今日は夜更かしせず早く寝て明日頑張ろうと決めた。
日傘や手持ち扇風機などの暑さ対策グッズと着替えをリュックに雑に詰めて朝の9時に家を出る。近くのローカル線から阪急に乗り換えて梅田へと向かう。夏休みシーズンなので親子や学生などが車内に溢れていた。二、三十分電車に揺られて大阪梅田に辿り着く。桜龍町に行く為には、阪急からJRに乗り換える必要がある。しかも携帯の充電器を忘れている事に気が付き、駅の近くにある家電量販店で買う事を決意。空は青く雲は一つも無い。炎天下の中歩道橋の上をあるき店の入り口に近づくもそこには警察官が数名立っていた。しかも入り口には黄色いテープに黒で立入禁止と書かれたモノを張っている。
「えーと、入れない感じですか?」
立っている男性警官にそう聞くと、
「そうなんですよー。ごめんなさいね。今日一日は無理かな」
そう言われた。命は「わかりました。暑いんで気を付けてください」と話してその場を離れた。結局近くのコンビニで少々割高だが充電器一式を購入して当初の目的であったJRへと向かう。
熱気と人ごみで嫌になる。先程の件で少しだけだが時間をロスしてしまった為、もう一度乗り換えの時間などを歩きながら調べていると、
「おっと」
命は男性と胸へとぶつかってしまう。咄嗟に「ごめんなさい」と謝る。しかしぶつかった衝撃で命が手に持っていたスマホが地面に落ちる。スマホを拾う前にぶつかった男性の顔を見て謝った。
男性は命よりも身長が高く大体180はある高身長だった。髪色は黒で髪型はアップバンク。その髪型通りで爽やかなイケメンだった。
「……」
命は今まで見た男の中で一番と言って良いほどの顔を見た為少し固まっていた。
「大丈夫? じっと、顔を見つめて。そんな謝らなくて大丈夫だよ。はい、スマホ」
男性は命が自分を見つける視線を不思議そうに思いながらも地面に落ちたスマホを拾い、手渡した。その時男性と手が触れる。その後男性は「じゃあね」と一言言って人混みに消えた。
「イケメンってああいう人の事を言うんだな。だけどこんなクソ暑い日に何でロングコートなんか着てたんだろう」
思った謎をそう呟いた。数秒考えてから我に返り、目的の電車に乗った。
「急須を探すなら食器棚か倉庫だな」
命はJRから更に乗り換えて、ローカル線で桜龍町へ向かう。窓から見える景色は青々と茂っている稲の葉と電柱。急に家電量販店での出来事を思い出し調べようとした所で目的地に電車が停止する。予定よりも少しだけ遅れて桜龍町駅に到着。勿論スターバックスやマクドナルドなどの若者が好みそうな店は無く駅前にある桜龍町無料観光案内所やお土産ショップ。ファミリーマートとお食事処ほどしか店は無い。
駅前のコンビニはイートインスペースがあったためそこで冷やし中華を平らげた。
「昔は婆ちゃんが車で迎えに来てくれたけどあの距離歩くのは無理だな」
かと言ってタクシーがあるとは思えない。どうにかして足を手に入れたい命は飲み物を買うついでにレジの店員に質問をした。
「実は行きたい所があるんですけど、タクシーとかってあります?」
「あー、タクシーは電話した来ますけどここまで呼ぶのに別料金発生しますよ」
「了解です。ありがとうございます」
取り敢えず足は確保できたので命はさっそく教えてもらったタクシー会社の電話番号を打ち込み電話を掛けた。待ち合わせ場所と料金などを会社に教えてもらい到着するまでコンビニで購入したお茶を飲んでいた。
すると、一台のタクシーがコンビニの駐車場に止まる。それを見て命はコンビニを出た。
「ねぇ、暑い日は暑い食べ物が美味しいよね」
コンビニから出た瞬間にこの暑さの中炎天下で立ちながらコンビニのラーメンを食べている男に話しかけられた。命は少し驚いて「ああ、そうですね」と当たり障りのない返事をして急ぎ足でタクシーへ向かった。
「何だあの変な奴」
男の格好を思い出す。暑いのにラーメンを両手に持ち、なぜか色々ワッペンの付いた長袖のジャケットだけを着ていた。下はこれまた長いジーンズ。そして特徴的だったのは緑色の瞳だった。
「何億人もいる人間の中でおかしい奴も一人ぐらいいるよな」
そう呟いてタクシーに乗り込んだ。目的地の住所を運転手に伝えると車は動き出す。当たり障りの無い会話を運転手とした後、目的地である祖母の家までついた。料金は迎車料金込みで流石に高くついたがその分楽できたと思うと足し引き無料と変わらない。
「流石に帰りもタクシー一択だな」
貰った領収書を見ながら階段を見上げる。そこには東岡と書かれた表札。そのすぐ横に軽自動車一台程のスペースしかない車庫があった。祖母の家は小ぶりな山の頂上にある。行くには階段しかない。つまりどれだけタクシーで楽が出来ようと結局は炎天下の中歩くことは確定している。やはり道中楽が出来たのは良かったのか進みだした命の足取りは軽かった。
「暑い…………」
階段を昇って数分。汗が止まらない。小型扇風機や日傘などを使うも気休め程度にしかならない。コンビニで買ったお茶も少し温くなっている。暑さによるデバフで本来は数分もかからない階段を十分程かけてゆっくり登り目的地に着く。防犯対策で庭一面に砂利が敷き詰められている為、足を踏み入れると音が鳴る。その音を聞きながら玄関まで歩き、リュックから鍵を取り出し中に入ると生暖かい空気が出迎えてくれた。
「はぁ」
祖母の家は上から見るとアルファベットのLの様な形をしている。縦長の部分が居住スペースで下の短い棒が倉庫になっている。時代を感じさせる和風の作りで無論クーラーが無く暑さ対策は古い扇風機のみだ。取り敢えず真っ先に家の中全ての窓を全開にして空気の流れ道を開く。竜司はブレーカーを落とさず出国する為、冷蔵庫などにも電気が通っており、冷蔵庫を開けると冷気が漂う。命はそれを浴びながら冷たいモノは無いかと探していると缶のサイダーを発見して首元に当てながら扇風機の風を浴びる。
「あー、涼しー」
数十分もすると空気が入れ替わり気持ち涼しくなった。お願いされた急須を見つける為に食器棚などを探すが見つからずやはり倉庫においてあると確信した命は、水に浸した後冷蔵庫で冷やしたタオルを首に巻いて灼熱の倉庫へと入っていく。倉庫の中はやはり熱く、汗が止まらなかった。
流れてくる汗を首のタオルで拭い色々とモノが積んでいる所を探すも見つからず、諦めようとした時、「開けるな」と赤い文字で書かれた箱を発見する。
「開けるなって。何が入ってるんだよ」
取り敢えず命はその箱を端っこに置いておいて探し物を続行した。その結果なぜか倉庫にある壊れた冷蔵庫の中に急須が生身で入っていた。
「何で裸で置いてあるんだよ……。しかも壊れた冷蔵庫の中って……」
間違いなくここに置いたのは竜司だと考えた命は、メールで会った場所と送り先を聞いた。全てを打ち終えた後、
「よし、でよ」
汗をたくさん書いたため一旦シャワーをしようと思い倉庫を閉めて家へと戻った。シャワーで汗を流し持ってきた服に着替えて、汗で濡れた服や下着を洗濯機に入れて洗濯を始める。
「それで、この箱どうしよ」
扇風機で濡れた髪を乾かしながら、開けるなと書かれた箱と睨み合う。しかし好奇心には抗えず箱を開けるとそこには一冊の古い本が入っていた。
「なんて書いてあるんだ? これ」
一本の線をグチャグチャとしたような昔ながらの字を見て命は顔をしかめる。どうにかして読みたいと思い勉強用に持ってきた紙に見よう見まねで書いてみる。
「穢れでいいのか?」
「その後が人…………」
一瞬、竜司が昔書いた黒歴史ノートかと思った命だが紙質的にももっと古い時代のモノだと思い考えを改める。そうやって悩んでいると、その時インターホンが鳴った。
「はい」
扉を開けるとそこにはコンビニで暑いのにラーメンを食べていた緑の瞳の男が立っていた。
「やあ、穢レ人(ケガレビト)君」
「は?」
その瞬間、服の襟を掴まれ庭へ放り出される。命の身長は170後半で体重は60後半としっかりとした体格。だがそんな命を男は簡単に投げ飛ばした。命の体を襲う遠心力。
「コンビニで出会った時から臭うなーって思ったんだ」
「一体どういう事だ」
地面と接触し勢いが止まらず少しゴロゴロと転がった。思い切り砂利に落ちたので落下面が痛む。しかしすぐに立ち上がり、男を睨む。しかし男の目線は命を向いていなかった。
「本当にこれはどういう事だ」
第三者の参入。声がした方を向くとそこには駅でスマホを拾ってくれたロングコートの男性が立っていた。
「アンタ、スマホ拾ってくれた」
「穢レ人と穢レ人擬き(モドキ)が一人ずつ」
「取り敢えず、擬きを先に処分かな」
ジャリッジャリッと命へとロングコートの男は一歩ずつ近づき、命の鳩尾へ躊躇せず一発右の拳を放つ。突然の痛みにその場にうずくまる命。
「まさか、穢消師がここに来るとはね。しかも御三家」
「意外と物知りな穢レ人だな」
「そりゃあ、敵の情報は知ってれば知っておくほど良いんだから」
命は痛む腹を押さえながら男達の会話を聞く。しかし意味の分からない単語で話し続ける。
「御三家? 穢レ人?」
痛みで理性が削られ、正しい思考判断が出来なくなっていた。ずっと謎の単語が頭の中で反復される。
「名前は?」
「ボクは適(テキ)。君は?」
緑目の男は自分の名を適と名乗り命を殴った男に名を聞く。
「土御門幸明(ツチミカドコウメイ)」
適はその名前を聞いて驚いた表情で話す。
「ここに御三家がいるなんて驚いた。”あの人”にも伝えておかないと」
楽しそうに喋る適に幸明は喉仏を狙った突きを放つ。適は体を捻って余裕の表情で避け「離してるのに危ないなぁ」とすねた表情で返した。
「でも、今日は戦う気は無いんだよね」
適はお返しと言わんばかりに幸明の胸をを狙った鋭い前蹴りを放つ。幸明は腕で防ぐも相当の威力なのかザザザ砂利をかき分け後ろへ後退する。幸明はそのまま反撃をしようと足に力を込め、上げた腕を下ろすとそこに適の姿は無かった。
「消えた?」
命は目の前から突然消えた適に驚いていた。魔法のような現象を目の当たりにして思考が止まっていた。
「はぁ……逃げられたか」
幸明の声でハッと我に返り命は、
「人の敷地に勝手に入って何してんだお前」
と、幸明を睨む。
痛みが引いてきたので命はフラフラと立ち上がる。しかし幸明はズカズカと近づいてきて、前蹴りをかました。狙いは腹。またその場にしゃがみ込む。
「それで、お前一体何者?」
「どういう意味だよ」
痛む腹を押さえながら必死に耐える。
「何で穢レ人が少し混じってるの?」
「訳のわからない単語を使うな」
「質問に答えろ」
「穢レ人なんて知らない。今初めて聞いたんだ」
「……」
強烈な蹴り上げ。顎がズキンと痛む。口の中が切れて血の味がした。命の頭がグワングワンと揺れる。
「穢レ人の癖に立派な家に住んで人間ごっこか?」
幸明は命の髪の毛を掴んで無理矢理顔を上げさせる。その時胸に指輪が通った自作のネックレスを見つけた。幸明はそれを引きちぎって命の目の前に落とした。
「答えろ」
「返せよ。泥棒」
幸明はその指輪を力強く踏みしめた。命がそれを見て飛び掛かろうとした瞬間、幸明の鋭い蹴りが命の左肩を襲う。幸明は器用に命の肩を外した。そしてそのまま左に蹴飛ばし命は縁側にぶつかる。ガラスが飛び散り窓が外れる。
顎の骨にひびが入り、左肩脱臼。そして窓に勢いよく接触。これで少しは吐くだろうと幸明は思っていた。
「お前が今踏みつけたのは。俺の大切な人が一番大事にしてたものだぞ」
その時、命は人生で一番の怒りと殺意を感じた。
「お前がさっさと話さないからだ」
幸明は意外とタフな命に心底面倒くさいと思いながら悪びれる様子無く答えた。壊れた縁側の窓の残骸から割れたガラスが落ちる音と共に命が顔を出す。その顔を見た瞬間、幸明の顔色が変わった。
「お前、何で”血が赤い”んだよ。それに”首にガラスが刺さってる”のに何で平然と立ってられるんだ」
「知らねぇよ。人間は血が赤いだろ。それに何も痛くもねぇ」
幸明が目の前にいる命を見て驚いてる瞬間に、命は”一瞬で幸明の目の前まで移動した”。幸明は突然移動してきた命を見て何が起きたのかを理解できなかった。その直後、自分に向けられた底知れない殺意、敵意を感じた。
「今何が起きた」
強い殺意、敵意に当てられ幸明の体を創る細胞全てが”怯んだ”。どうせ弱い穢レ人だと思っていた。鼠が窮地に立たされると猫を噛むなんて無いと思っていた。
「何で……」
今度は逆に幸明の思考が崩れ始める。穢レ人の血は黒。つまり命は穢レ人ではない。正真正銘の人間だ。
何故首にガラスが深く突き刺さっても立てる?
何故、今自分自身を殴ろうとしている男の拳には穢レがついている?
その二つが脳を支配していた。全身怯んでいた幸明の体は”死”から逃れる為一歩だけ動いた。その時に鳴った砂利の音で先程までの思考が全て吹き飛び、今はただ命の攻撃から逃げる為に本能で動いた。だが数秒遅かった。目の前の男はもう完全に拳を構えていた。
「奥歯噛みしめろよ……」
言葉通り”全身全霊”の右拳の一撃は幸明の腹部に直撃した。
その瞬間、この世界の時間が止まったように静かになった。約2秒後耳が痛む程の轟音と衝撃で辺りの木々が大きく揺れる。幸明の体は車にはねられた様に数メートル吹き飛んだ。
「一発程度じゃ、テメェが踏んだ大切なモノの罪滅ぼしにもなんねーぞ」
命はまた右拳を握り込む。そのまま一歩ずつゆっくりと仰向けに寝そべる幸明へと近づく。そのまま幸明の顔へ拳を振り下ろす。どうにか避けようと思ったが腹部へのダメージと驚きで足や体は一ミリも動かなかった。
命の拳が幸明の顔に当たる瞬間で命は膝から崩れ落ち後ろに倒れて気を失った。
幸明はホッと安堵の息をつき、ゆっくりと起き上がる。殴られた腹はズキズキと痛みが体に響いた。
「イテェ……。どんなけ馬鹿力なんだよ」
幸明は殴られた腹部をさする。かなりのダメージだったのか中々動けなかった。
「やあ、凄い音がしたけど何事だい?」
ベストスーツに身を包んだ男性が幸明に話しかけた。
「今日はめんどくさい奴らに会う日だな。星野」
「たまたまだよ」
男の名前は星野哲太(ホシノテツタ)。身長は180前半で歳は幸明と差がない様に見える。ベージュのスーツパンツに黒のスーツベストを着用しており、見た目は会社の社長と言われても遜色ない。
哲太は気絶している命のそばを通り過ぎて、幸明が踏みつけた指輪のネックレスを手に取ってベストの胸ポケットに入れる。その後、命に近づいて上半身を起こし、そのままお姫様抱っこをしようとしゃがみ込むと、
「待て、俺もそいつに用がある」
幸明が哲太の肩を触って止めさせた。
「一回ダウンしたんだから君の負けだ。それに彼は君と話しないと思うよ」
負けと言われた幸明は「たまたまだ」と意地を張る。
「君が踏んだ指輪はこの家の住人、彼の祖母が亡くなる前に託した結婚指輪だ。彼は亡くなってから六年間肌身離さず付けていた代物。わかるだろ君はそんな大切なモノを傷つけたんだ」
「…………」
踏んだ指輪に大切な思い出があったとは知らなかった幸明は何も言えなかった。
「取り敢えず君が知りたい事実だけは教えるよ」
「彼の中には”穢レ人はいる”」
「っ!」
「でも、まだ契約はしていない。最近何かしらあって体への侵入を許したみたいだ」
だから穢レ人独特の匂いがしたのか、と幸明は理解する。しかし一つ疑問がある。
「さっきの馬鹿力は――」
「中にいる穢レ人の力と君が指輪を踏んだせいで起きた爆発的な負の感情の上昇が良いのか悪いのか上手く共鳴した。良かったね彼はまだ力の制御ができていなかった。多分あれでまだ20%から30%の間だ。もし100%だったら君も無防備だったしお腹に拳サイズの穴が開いてたかもね」
ケタケタと哲太は笑う。
「でも、あの一撃のせいで彼と穢レ人との融合が始まったみたいだ」
哲太は命の首に刺さったガラスを引き抜く。綺麗な鮮血が地面を染めるもその傷口がスーッと塞がる。
「本当にいるんだな」
「ああ、僕は彼の中にいる存在と彼を切り離したい」
「何でそこまで肩入れするんだ」
「肩入れしているように見えるかい?」
「ああ」
幸明から見て哲太はまるで我が子を大切にする親の様に見えた。
「……彼には普通に生きて欲しいんだ。ただそれだけだ。このまま彼を放っておくと多分、最悪な結果になる」
幸明は深く言及はしなかった。哲太は命を抱えて立ち上がる。そしてそのまま玄関へと歩き出す。
「君は逃がしたもう一人を探して欲しい。あれは禍津(マガツ)の手先だ」
「!?」
禍津という言葉に驚いている幸明を見て哲太は、
「ほら、早く行って。あー、あとこの子に謝る言葉も考えておきなよ」
といって、玄関の門をくぐり網戸を閉めた。
「ああ。わかってる」
網戸越しの幸明の言葉を聞いて哲太は優しく微笑んだ。
「うん、素直でよろしい」
「あれ、俺……何で家の中にいるんだ」
頭、首、腹がずんと痛む中で命は瞼を開ける。そこは見覚えのある家の中だった。
「やあ」
視野の範囲外から突然現れた見ず知らずの男に命は驚き声を出した。
「うわっ!?」
「そんなに驚かないでよ。誰かが階段を昇って行ったのを見て付いて行ったら君ともう一人が倒れているのを見つけてここまで運んだんだ」
命は「ありがとうございます」と言って頭を下げた。哲太は「いいよいいよ」と笑って返した。その時、命は先程までの戦いを思い出し、質問した。
「もう一人いませんでしたか」
「あー、あのロングコートの人はさっさと逃げてたよ」
「アイツ……」
また怒りが湧き上がる。拳を強く握りしめると哲太はその拳を優しく両手で包んだ。それに驚いた命は握っていた拳を開く。
「あの、手、離して貰っても良いですか?」
「君があの人を恨む気持ちはわかる。大切なモノだったのにね。彼にその事について話すととても後悔していたよ。それにもう一度面と向かって謝りたいって」
「…………」
哲太は優しい声色で命の怒りを鎮める。まるで親が子を説得するように。
「この件はまた後で考えよう。今は君に話したい事があるんだ」
「というか、えーと、お名前何でしたっけ? すごい親しみのある感じがしたんですけど初対面ですよね?」
「ああ、私は星野哲太。ここら辺に最近住み始めた老人だよ、勿論君とは初対面だ」
「老人……」
命は初対面どうこうの話の前に哲太の老人という言葉に引っかかった。どうみても見た目は20代。もし自分と二人並んで歩いていたら他の人には同級生としても見られる程若々しい見た目。命は首を傾げた。
「ま、まあ私の年齢は置いておいて大切な話があるんだ」
手を叩いて年齢の話を無理矢理放り投げ話題を変えた。
「君は最近、穢レ人という単語を聞かなかったかい?」
「聞きました」
「意味は知っているかい?」
その質問に命は横に振った。
「君の体には穢レ人という存在が住んでいる」
「は?」
大きく瞼を見開き口を開ける。哲太は机の上に置かれた例の穢レ人と書かれていた古い本を指差す。
「その本、貸してくれないかい?」
「良いですけど、読めないですよ? 字が汚すぎて」
命は本を手に取って哲太へ手渡す。お礼を言って哲太はパラパラとページをめくる。
「大丈夫。こういう本を読むのが昔からの趣味でね」
そう言って哲太は集中して読み始める。
「……」
「……」
哲太が黙って読み始めて数分が立った。蝉の鳴き声と扇風機の風を切る音だけが響く。良い人そうだと命は思うもあくまでも初対面。気を許しすぎて何かされるかもとどうしても思ってしまう為、じーっと哲太を見ていた。
やはり老人ではない……。と思っていた矢先、哲太は本を閉じて話始めた。
「穢レ人とは穢レを使って人を殺める者の事を言う」
唐突に重要な事を言う哲太。集中していなかった命は何も聞いておらずもう一度言って欲しいとお願いした。
「もう一回? えーと、穢レ人とは穢レを使って悪さをする連中です」
「穢レって?」
「君はその指輪を踏まれた時、体の奥から殺意とか、怒りが湧いただろ?」
首を縦に振った。
「そういう負の感情が産まれると穢レという普通の人には見えない塵みたいなのが発生するんだ。本来その塵は地面に落ちるだけ。特に害は与えない」
「突然の国語クイズだ。塵も積もれば?」
これまた唐突なクイズ。だが命はしっかりと聞いていた為、すぐに答える。
「山となる……」
「そう、正解。塵も積もれば山となる。山となった穢レはその重さが原因で下に落ちちゃう」
「下って?」
「地獄だよ。下は地獄で命と私が今いる場所が中立界(チュウリツカイ)。上は神様が住む神域2024年6月21日。
兵庫の公立高校に通う、東岡命(アズオカメイ)はクーラーが良く効いた教室の机で突っ伏していた。
今は午前11時半授業の真っ最中だ。今年で高校三年生になる命は大学受験を控えていた。その為、顔を上げて真剣に授業に取り組まないといけなかったが学校に来てから睡魔と戦い続けている。
現在授業を行っている国語教師の久保田(クボタ)は授業よりも生徒の事を第一に考えている為、うるさくしなければ基本は他の教科の勉強……所謂”内職”を行っている生徒も眠っている者に対しても何も言わない。見た目は短い髪にどこか怒っていると思わる様な顔つきをしている。厳しい男の様に見えるが実はめちゃくちゃ優しい、それもあってか久保田への好感度はとても高い。
命も久保田の事を良い人だと思っているし、しっかり授業を受けようという意思はある。しかし頭が重い。眠くて仕方がなかった。夜中まで誰かとゲームで遊んでいた、勉強していたという訳ではない。最近上手く眠れない。定期的に眠りから覚めてしまい、長時間の睡眠がとれない。
「あの夢さえ見なけりゃなぁ」
命は最近よく意味不明な夢を見ていた。それは真っ暗な道を歩いていると後ろから知らない女性がついてくる。そんな夢だ。ゾンビの映画を見ると夢でゾンビに追いかけまわされたり、銃を撃つゲームをすると自分が銃を撃つ夢を見るなど、見る夢に影響を及ぼすキッカケがあるのかと思っていたが彼自身何も覚えがなかった。
しかもその夢は彼が不快で飛び起きるたびにゲームの様に、セーブが書き込まれる。睡眠欲求に耐えきれず眠りについた瞬間、前回起きた所から始まる。もう一つ不快な点は、夢の中での距離は段々と縮まってきてあと数回寝たら追いつかれる。それもあってか最近は眠ることが嫌で嫌で仕方がなかった。
「おい、東岡」
コクコクと船を漕いでいた東岡を見て久保田は授業を中断して話しかけた。トロンと眠そうな目で久保田を見る。
「はい」
「目の隈凄いぞ。ちゃんと寝てるのか?」
しっかり生徒一人一人に向き合っている久保田は生徒の体調にもすぐ気が付く。命は「最近なんか寝れなくて……」と返すと、
「今日は前回の復習だから、内容を覚えているのなら寝ててもいいぞ」
「あざっす……」
先生からの了承も得た命は言葉に甘えて家から持ってきた汗を拭く用の大きめのタオルを畳んで簡易的な枕を作ってそこに頭を乗せた。
眠りたくない。彼はそう思っていたが体は正直なもので数分もしない内に深い眠りに入った。
暗い夜道。草木の香りがする。街灯は無く月の光がやや照らしている程度。彼はこの道に、見覚えは無い。
これは夢だ。でも”リアル”すぎる。
そう思っていても歩くしかできない。無理矢理脳を覚醒まで持って行こうとしてもできない。これは夢だと知っていながら進み続ける。
コツ、コツ。
彼が今一番聞きたくないあの足音だ。後ろを振り向く。そこには白いワンピースに身を包み、白い大きな帽子を被った女性がいた。
「最悪だ……」
昨日、昨日飛び起きて終わった距離にいる。走ればすぐに捕まる距離に。
「どうして逃げるの?」
女性が命に話しかけた。しかし無視して走り出す。この夢の気持ち悪い所はもう一つある。それは走っても歩いても距離は変わらない事だ。
「アナタに会いに来たの。だから逃げないで」
「ふざけんな。こんな気味悪い夢で訳のわからん女に捕まったらヤバいだろ」
「ヤバくない。だから止まって。私を信じて。止まったら”この夢は終わる”」
今まで会話をしなかった訳ではない。何を言おうとずっと「止まって」や「会いに来た」などを復唱していたがここに来て初めての言葉を放った。
「終わるってどういう事だ」
「そのままの意味よ。もう見なくなる」
この答え方も気持ち悪くて仕方がなかった。同じことを何度も話すBOTとは違い、まるで考えて自我を持っているような話し方。
しかし、見なくなるという言葉は続く睡眠不足で心も体も疲弊している命にとっては感情が揺さぶられる甘美な言葉だった。本当に見なくなる確証は無い。だが、
「これは夢なんだ。死ぬ訳無い。映画の見すぎだ」
今までの自分の考えを否定して、楽な方へ逃げようとしていた。
そして足は…………止まった。
その直後右肩に手が置かれる。夢じゃない。まるで本当に触られているような感覚だ。その気持ち悪さを耐える。すると、
「ようやく、捕まえた。探していたのよずっと。数十年間ずっと……。アナタを奪われてからずっと……」
耳元でそう囁かれた。まるでずっと探し続けていたモノをようやく見つけたような感情が籠った言い方だった。その瞬間、判断を誤った事を後悔した。逃げ出したい感情を押し殺して質問をした。
「十年前に俺が奪われた? 誰に?」
「――――」
女性の返答は上手く聞き取れなかった。どうにか聞き取れた言葉は「ア・ズ・カ・リュ・ジ」。その時脳内に一人の男がよぎる。
「東岡竜司(アズオカリュウジ)…………」
「そう、奪ったから。…………殺す」
全身に悪寒が走る。逃げ出そうと肩を前に振って乗っていた手を振り落とす。しかし体が動かなかった。全身が凍った様に動かない。
「どうして、逃げるの?」
「これが俺の夢じゃないからだ。東岡竜司は俺の父親で、夢でも殺したいなんて思わないからだよ!」
「そう、アナタはあの人が良いのね。じゃあ私がいないとダメなようにしてあげるわ」
「ふざけんな! お前みたいな女に好かれる筋合いは無いぞ!」
愛は少し黙った後、命の耳元でこう囁いた。
「アナタは私を嫌っても、私はアナタを一生愛するわ」
その言葉を聞いた瞬間、東岡は飛び起きた。額からは尋常じゃない程の汗をかき、息は切れ、心臓はうるさいほど鳴っていた。
急に立ち上がった為、クラス全員の視線を浴びる。
「大丈夫か? 命」
前の席に座っていた小学校からの友人である平野淳(ヒラノジュン)が心配そうにこちらを見てきた。しかし上手く喋れず頭だけを振った。
十一時四十分。眠ってから数十分しか経っていない。
「東岡、保健室で寝て来い。保健委員連れて行ってあげてくれ」
久保田先生は落ち着いた表情で指示を出し、保健委員の女子と保健室へと向かった。
「熱は無いけど、隈が酷いねぇ。うん、ちょっと寝よっか」
体温計などで測るも熱は無いが隈が酷い事を気にされ保健室の先生にベッドを使う許可をもらった。
東岡は布団で横になるが眠れなかった。興奮した脳を落ち着かせる為、起きた事を頭の中で整理していった。
愛と名乗る女。数十年前に奪ったという東岡の父親について。そんな事を考えていると段々落ち着いてきて自然と眠ってしまった。
「東岡君。先生来たよ」
保健室の先生が深く眠っていた東岡を起こす。東岡は久しぶりの快眠で気持ちよく目覚めることが出来た。時刻は午後一時。昼休みはもうすぐ終わるといった所だ。
「東岡調子はどうだ?」
ベッドから降りて入り口付近へ向かうと久保田先生が心配そうな顔で東岡を待っていた。
「久しぶりに良く寝れました。心配かけてすみません」
「いや、良いんだ。東岡が元気ならそれで。だが今日まで教師をやってきてあんな緊迫した表情で飛び起きた生徒は東岡が初めてだ。大事を取って今日は休め。先生が5、6限の担当に話しておくから」
「了解です」
「電話は大丈夫か」
「父は多分出ないんで大丈夫です」
命の父、東岡竜司は彼が中学生に上がり始めた辺りから海外で仕事をし始めた。最初は付いて行こう考えていた命だったが竜司から「その年から海外暮らしは言語的に難しい」という理由で止められた。元は二人で住んでいたファミリータイプのマンションに一人で暮らしている。
命は二人に軽く礼をして教室へと向かった。教室の扉を開くと他クラスの生徒も来ているのか見た事も無い生徒も楽しそうに昼食を取ったり、SNSに上げる動画を撮っていた。楽しそうな空気を感じながら自分の席へと向かう。机の横に置いていたリュックへ荷物を入れて帰る準備をする。
すると命の席から離れた場所で昼食を取っていた平野が近寄ってきて、
「お、命。帰んのか?」
そう、心配そうに質問した。その顔を見て命は何事も無いように軽く笑って返した。
「うん。久保田先生が帰れってさ」
平野と一緒に昼飯を食べていた小学校からの友人、黒部治(クロベオサム)も会話に入ってくる。
「凄かったな、お前。超追い詰められたみたいな顔してたけど何かあったのか?」
「いいや、ただ気持ち悪い夢を見ただけだ」
「大丈夫?」
半田清(ハンダキヨシ)も心配そうな顔で質問する。命は自分を気にかけてくれている事をとてもうれしく思い、
「大丈夫大丈夫。寝たら治るから」
安心させる為に半笑いで返した。
命と話しているこの三人は小学校からの腐れ縁でいつも一緒にいる面子だ。実力テストで常に上位に存在し、三年の中でも群を抜いて賢い半田。柔道部主将の黒部。コミュ力が凄く友達が多い平野。そして対して何も無い命。
いつも放課後は命の家で集合し、ゲームをする。黒部が部活が終わってからは皆でファミレスにいって喋りまくる。そんな日常だったが、これから人生を決める受験を控えている為、放課後の集まりも無くなり、全員が集合するのは昼食ぐらいしかなくなった。
「帰るわ」
「気を付けてな」「ゲームすんなよ」「何かあったら連絡してね」
リュックを背負って優しい友人達と別れて命は家へと帰った。
家に着いてから制服を脱いでシャワーを浴びる。寝巻に着替えて自室に向かう。扉を開けると窓を閉めていた為、とても暑かった。クーラーを26度に設定し、リングホルダーネックレスを首から外す。そこには何も装飾されていないシンプルな金色の指輪が装着されていた。それをスマホと一緒に机の上に置いた。そのままベッドに寝転がり、瞼を閉じた。
「もう、あんな夢見ませんように」
夢であの女を見る事は一度も無かった。
その後は特におかしな夢を見ることは無く、定期試験を乗り越えて高校最後の夏休みに突入した。朝十時に起床し、クーラーを付けニュース番組を見ながらやりもしないテキストを机の上へ雑に広げる。TikTokやyoutubeなどを見て時間が溶けていく。好きなチャンネルがアップした動画を見ていると急に動画が止まった。
ビクッとなった東岡だったが電話が来たため動画が止まっただけだった。電話をかけてきたのは父親の竜司だった。
「もしもし、命」
聞き覚えのある声が聞こえる。
「いきなり、どうしたの?」
「もう、そっちは夏休みに入ってるのか?」
「うん」
いきなりなぜ電話をかけてきたのかが不明だったが久しぶりに話す父親との会話に命は少し楽しく思っていた。
「なら良かった。俺の実家に行って取ってきて欲しいモノがあるんだ」
「因みに聞くけど何?」
「ん? あー、昔母さんが持っていたお茶入れる高そうな急須」
「何に使うんだよ」
「んー? 毎日コーヒーは飽きるからさー、たまには日本人らしくお茶でも飲みたいなって」
「自分で取りに来たら?」
「無理。今イギリスにいるから」
「はぁ……」
通話越しに大きいため息を吐く。竜司は命のため息を気にもしていないのかそのまま会話を続けた。
「そう言えば受験はどうなった? あの三人も含めて」
「淳は美容師の専門。治は柔道で大学行くらしい、清は東京の大学目指してる」
「お前は?」
「家から近い所の大学」
「そうか、皆とは離れ離れか」
スマホのスピーカーから少し寂しさを含んだ声が流れる。
「今生の別れじゃないんだから大丈夫だよ」
実際、命も少し寂しい所はある。しかし夏季休暇などの長期的な休みになればまた会える為、そこまで深刻に考えてはいなかった。
「じゃあ急須の件任せたぞ」
「は? おい!」
竜司は命にお願いを押し付けて通話を切った。竜司は命にお願いを押し付けると、自身の携帯電話を着信拒否をして放置する。
つまり、犯行の電話をしても無意味。命はため息をつきながら明日か明後日でさっさと終らそうと思った。
東岡命の祖母、東岡節子(アズオカセツコ)は大阪府の都会からかなり離れた場所にある桜龍町という田舎町に住んでいた。六年前、不慮の事故により亡くなってからめっきり来なくなった。しかし家は人が長年住まないとダメになるという持論で定期的に竜司が来て休暇兼家の改造を行っている。
「桜龍町か……婆ちゃんが死んで法事が色々済んでから行って無いな」
スマホで何となく最寄駅から桜龍町駅までの所要時間などを調べる。電車で片道3時間。その数字を見た瞬間、ため息がこぼれる。
「どうせ勉強もダラダラしてしないだけだし、気分転換で明日に行こう」
今の時刻は午前12時前。今日は夜更かしせず早く寝て明日頑張ろうと決めた。
日傘や手持ち扇風機などの暑さ対策グッズと着替えをリュックに雑に詰めて朝の9時に家を出る。近くのローカル線から阪急に乗り換えて梅田へと向かう。夏休みシーズンなので親子や学生などが車内に溢れていた。二、三十分電車に揺られて大阪梅田に辿り着く。桜龍町に行く為には、阪急からJRに乗り換える必要がある。しかも携帯の充電器を忘れている事に気が付き、駅の近くにある家電量販店で買う事を決意。空は青く雲は一つも無い。炎天下の中歩道橋の上をあるき店の入り口に近づくもそこには警察官が数名立っていた。しかも入り口には黄色いテープに黒で立入禁止と書かれたモノを張っている。
「えーと、入れない感じですか?」
立っている男性警官にそう聞くと、
「そうなんですよー。ごめんなさいね。今日一日は無理かな」
そう言われた。命は「わかりました。暑いんで気を付けてください」と話してその場を離れた。結局近くのコンビニで少々割高だが充電器一式を購入して当初の目的であったJRへと向かう。
熱気と人ごみで嫌になる。先程の件で少しだけだが時間をロスしてしまった為、もう一度乗り換えの時間などを歩きながら調べていると、
「おっと」
命は男性と胸へとぶつかってしまう。咄嗟に「ごめんなさい」と謝る。しかしぶつかった衝撃で命が手に持っていたスマホが地面に落ちる。スマホを拾う前にぶつかった男性の顔を見て謝った。
男性は命よりも身長が高く大体180はある高身長だった。髪色は黒で髪型はアップバンク。その髪型通りで爽やかなイケメンだった。
「……」
命は今まで見た男の中で一番と言って良いほどの顔を見た為少し固まっていた。
「大丈夫? じっと、顔を見つめて。そんな謝らなくて大丈夫だよ。はい、スマホ」
男性は命が自分を見つける視線を不思議そうに思いながらも地面に落ちたスマホを拾い、手渡した。その時男性と手が触れる。その後男性は「じゃあね」と一言言って人混みに消えた。
「イケメンってああいう人の事を言うんだな。だけどこんなクソ暑い日に何でロングコートなんか着てたんだろう」
思った謎をそう呟いた。数秒考えてから我に返り、目的の電車に乗った。
「急須を探すなら食器棚か倉庫だな」
命はJRから更に乗り換えて、ローカル線で桜龍町へ向かう。窓から見える景色は青々と茂っている稲の葉と電柱。急に家電量販店での出来事を思い出し調べようとした所で目的地に電車が停止する。予定よりも少しだけ遅れて桜龍町駅に到着。勿論スターバックスやマクドナルドなどの若者が好みそうな店は無く駅前にある桜龍町無料観光案内所やお土産ショップ。ファミリーマートとお食事処ほどしか店は無い。
駅前のコンビニはイートインスペースがあったためそこで冷やし中華を平らげた。
「昔は婆ちゃんが車で迎えに来てくれたけどあの距離歩くのは無理だな」
かと言ってタクシーがあるとは思えない。どうにかして足を手に入れたい命は飲み物を買うついでにレジの店員に質問をした。
「実は行きたい所があるんですけど、タクシーとかってあります?」
「あー、タクシーは電話した来ますけどここまで呼ぶのに別料金発生しますよ」
「了解です。ありがとうございます」
取り敢えず足は確保できたので命はさっそく教えてもらったタクシー会社の電話番号を打ち込み電話を掛けた。待ち合わせ場所と料金などを会社に教えてもらい到着するまでコンビニで購入したお茶を飲んでいた。
すると、一台のタクシーがコンビニの駐車場に止まる。それを見て命はコンビニを出た。
「ねぇ、暑い日は暑い食べ物が美味しいよね」
コンビニから出た瞬間にこの暑さの中炎天下で立ちながらコンビニのラーメンを食べている男に話しかけられた。命は少し驚いて「ああ、そうですね」と当たり障りのない返事をして急ぎ足でタクシーへ向かった。
「何だあの変な奴」
男の格好を思い出す。暑いのにラーメンを両手に持ち、なぜか色々ワッペンの付いた長袖のジャケットだけを着ていた。下はこれまた長いジーンズ。そして特徴的だったのは緑色の瞳だった。
「何億人もいる人間の中でおかしい奴も一人ぐらいいるよな」
そう呟いてタクシーに乗り込んだ。目的地の住所を運転手に伝えると車は動き出す。当たり障りの無い会話を運転手とした後、目的地である祖母の家までついた。料金は迎車料金込みで流石に高くついたがその分楽できたと思うと足し引き無料と変わらない。
「流石に帰りもタクシー一択だな」
貰った領収書を見ながら階段を見上げる。そこには東岡と書かれた表札。そのすぐ横に軽自動車一台程のスペースしかない車庫があった。祖母の家は小ぶりな山の頂上にある。行くには階段しかない。つまりどれだけタクシーで楽が出来ようと結局は炎天下の中歩くことは確定している。やはり道中楽が出来たのは良かったのか進みだした命の足取りは軽かった。
「暑い…………」
階段を昇って数分。汗が止まらない。小型扇風機や日傘などを使うも気休め程度にしかならない。コンビニで買ったお茶も少し温くなっている。暑さによるデバフで本来は数分もかからない階段を十分程かけてゆっくり登り目的地に着く。防犯対策で庭一面に砂利が敷き詰められている為、足を踏み入れると音が鳴る。その音を聞きながら玄関まで歩き、リュックから鍵を取り出し中に入ると生暖かい空気が出迎えてくれた。
「はぁ」
祖母の家は上から見るとアルファベットのLの様な形をしている。縦長の部分が居住スペースで下の短い棒が倉庫になっている。時代を感じさせる和風の作りで無論クーラーが無く暑さ対策は古い扇風機のみだ。取り敢えず真っ先に家の中全ての窓を全開にして空気の流れ道を開く。竜司はブレーカーを落とさず出国する為、冷蔵庫などにも電気が通っており、冷蔵庫を開けると冷気が漂う。命はそれを浴びながら冷たいモノは無いかと探していると缶のサイダーを発見して首元に当てながら扇風機の風を浴びる。
「あー、涼しー」
数十分もすると空気が入れ替わり気持ち涼しくなった。お願いされた急須を見つける為に食器棚などを探すが見つからずやはり倉庫においてあると確信した命は、水に浸した後冷蔵庫で冷やしたタオルを首に巻いて灼熱の倉庫へと入っていく。倉庫の中はやはり熱く、汗が止まらなかった。
流れてくる汗を首のタオルで拭い色々とモノが積んでいる所を探すも見つからず、諦めようとした時、「開けるな」と赤い文字で書かれた箱を発見する。
「開けるなって。何が入ってるんだよ」
取り敢えず命はその箱を端っこに置いておいて探し物を続行した。その結果なぜか倉庫にある壊れた冷蔵庫の中に急須が生身で入っていた。
「何で裸で置いてあるんだよ……。しかも壊れた冷蔵庫の中って……」
間違いなくここに置いたのは竜司だと考えた命は、メールで会った場所と送り先を聞いた。全てを打ち終えた後、
「よし、でよ」
汗をたくさん書いたため一旦シャワーをしようと思い倉庫を閉めて家へと戻った。シャワーで汗を流し持ってきた服に着替えて、汗で濡れた服や下着を洗濯機に入れて洗濯を始める。
「それで、この箱どうしよ」
扇風機で濡れた髪を乾かしながら、開けるなと書かれた箱と睨み合う。しかし好奇心には抗えず箱を開けるとそこには一冊の古い本が入っていた。
「なんて書いてあるんだ? これ」
一本の線をグチャグチャとしたような昔ながらの字を見て命は顔をしかめる。どうにかして読みたいと思い勉強用に持ってきた紙に見よう見まねで書いてみる。
「穢れでいいのか?」
「その後が人…………」
一瞬、竜司が昔書いた黒歴史ノートかと思った命だが紙質的にももっと古い時代のモノだと思い考えを改める。そうやって悩んでいると、その時インターホンが鳴った。
「はい」
扉を開けるとそこにはコンビニで暑いのにラーメンを食べていた緑の瞳の男が立っていた。
「やあ、穢レ人(ケガレビト)君」
「は?」
その瞬間、服の襟を掴まれ庭へ放り出される。命の身長は170後半で体重は60後半としっかりとした体格。だがそんな命を男は簡単に投げ飛ばした。命の体を襲う遠心力。
「コンビニで出会った時から臭うなーって思ったんだ」
「一体どういう事だ」
地面と接触し勢いが止まらず少しゴロゴロと転がった。思い切り砂利に落ちたので落下面が痛む。しかしすぐに立ち上がり、男を睨む。しかし男の目線は命を向いていなかった。
「本当にこれはどういう事だ」
第三者の参入。声がした方を向くとそこには駅でスマホを拾ってくれたロングコートの男性が立っていた。
「アンタ、スマホ拾ってくれた」
「穢レ人と穢レ人擬き(モドキ)が一人ずつ」
「取り敢えず、擬きを先に処分かな」
ジャリッジャリッと命へとロングコートの男は一歩ずつ近づき、命の鳩尾へ躊躇せず一発右の拳を放つ。突然の痛みにその場にうずくまる命。
「まさか、穢消師がここに来るとはね。しかも御三家」
「意外と物知りな穢レ人だな」
「そりゃあ、敵の情報は知ってれば知っておくほど良いんだから」
命は痛む腹を押さえながら男達の会話を聞く。しかし意味の分からない単語で話し続ける。
「御三家? 穢レ人?」
痛みで理性が削られ、正しい思考判断が出来なくなっていた。ずっと謎の単語が頭の中で反復される。
「名前は?」
「ボクは適(テキ)。君は?」
緑目の男は自分の名を適と名乗り命を殴った男に名を聞く。
「土御門幸明(ツチミカドコウメイ)」
適はその名前を聞いて驚いた表情で話す。
「ここに御三家がいるなんて驚いた。”あの人”にも伝えておかないと」
楽しそうに喋る適に幸明は喉仏を狙った突きを放つ。適は体を捻って余裕の表情で避け「離してるのに危ないなぁ」とすねた表情で返した。
「でも、今日は戦う気は無いんだよね」
適はお返しと言わんばかりに幸明の胸をを狙った鋭い前蹴りを放つ。幸明は腕で防ぐも相当の威力なのかザザザ砂利をかき分け後ろへ後退する。幸明はそのまま反撃をしようと足に力を込め、上げた腕を下ろすとそこに適の姿は無かった。
「消えた?」
命は目の前から突然消えた適に驚いていた。魔法のような現象を目の当たりにして思考が止まっていた。
「はぁ……逃げられたか」
幸明の声でハッと我に返り命は、
「人の敷地に勝手に入って何してんだお前」
と、幸明を睨む。
痛みが引いてきたので命はフラフラと立ち上がる。しかし幸明はズカズカと近づいてきて、前蹴りをかました。狙いは腹。またその場にしゃがみ込む。
「それで、お前一体何者?」
「どういう意味だよ」
痛む腹を押さえながら必死に耐える。
「何で穢レ人が少し混じってるの?」
「訳のわからない単語を使うな」
「質問に答えろ」
「穢レ人なんて知らない。今初めて聞いたんだ」
「……」
強烈な蹴り上げ。顎がズキンと痛む。口の中が切れて血の味がした。命の頭がグワングワンと揺れる。
「穢レ人の癖に立派な家に住んで人間ごっこか?」
幸明は命の髪の毛を掴んで無理矢理顔を上げさせる。その時胸に指輪が通った自作のネックレスを見つけた。幸明はそれを引きちぎって命の目の前に落とした。
「答えろ」
「返せよ。泥棒」
幸明はその指輪を力強く踏みしめた。命がそれを見て飛び掛かろうとした瞬間、幸明の鋭い蹴りが命の左肩を襲う。幸明は器用に命の肩を外した。そしてそのまま左に蹴飛ばし命は縁側にぶつかる。ガラスが飛び散り窓が外れる。
顎の骨にひびが入り、左肩脱臼。そして窓に勢いよく接触。これで少しは吐くだろうと幸明は思っていた。
「お前が今踏みつけたのは。俺の大切な人が一番大事にしてたものだぞ」
その時、命は人生で一番の怒りと殺意を感じた。
「お前がさっさと話さないからだ」
幸明は意外とタフな命に心底面倒くさいと思いながら悪びれる様子無く答えた。壊れた縁側の窓の残骸から割れたガラスが落ちる音と共に命が顔を出す。その顔を見た瞬間、幸明の顔色が変わった。
「お前、何で”血が赤い”んだよ。それに”首にガラスが刺さってる”のに何で平然と立ってられるんだ」
「知らねぇよ。人間は血が赤いだろ。それに何も痛くもねぇ」
幸明が目の前にいる命を見て驚いてる瞬間に、命は”一瞬で幸明の目の前まで移動した”。幸明は突然移動してきた命を見て何が起きたのかを理解できなかった。その直後、自分に向けられた底知れない殺意、敵意を感じた。
「今何が起きた」
強い殺意、敵意に当てられ幸明の体を創る細胞全てが”怯んだ”。どうせ弱い穢レ人だと思っていた。鼠が窮地に立たされると猫を噛むなんて無いと思っていた。
「何で……」
今度は逆に幸明の思考が崩れ始める。穢レ人の血は黒。つまり命は穢レ人ではない。正真正銘の人間だ。
何故首にガラスが深く突き刺さっても立てる?
何故、今自分自身を殴ろうとしている男の拳には穢レがついている?
その二つが脳を支配していた。全身怯んでいた幸明の体は”死”から逃れる為一歩だけ動いた。その時に鳴った砂利の音で先程までの思考が全て吹き飛び、今はただ命の攻撃から逃げる為に本能で動いた。だが数秒遅かった。目の前の男はもう完全に拳を構えていた。
「奥歯噛みしめろよ……」
言葉通り”全身全霊”の右拳の一撃は幸明の腹部に直撃した。
その瞬間、この世界の時間が止まったように静かになった。約2秒後耳が痛む程の轟音と衝撃で辺りの木々が大きく揺れる。幸明の体は車にはねられた様に数メートル吹き飛んだ。
「一発程度じゃ、テメェが踏んだ大切なモノの罪滅ぼしにもなんねーぞ」
命はまた右拳を握り込む。そのまま一歩ずつゆっくりと仰向けに寝そべる幸明へと近づく。そのまま幸明の顔へ拳を振り下ろす。どうにか避けようと思ったが腹部へのダメージと驚きで足や体は一ミリも動かなかった。
命の拳が幸明の顔に当たる瞬間で命は膝から崩れ落ち後ろに倒れて気を失った。
幸明はホッと安堵の息をつき、ゆっくりと起き上がる。殴られた腹はズキズキと痛みが体に響いた。
「イテェ……。どんなけ馬鹿力なんだよ」
幸明は殴られた腹部をさする。かなりのダメージだったのか中々動けなかった。
「やあ、凄い音がしたけど何事だい?」
ベストスーツに身を包んだ男性が幸明に話しかけた。
「今日はめんどくさい奴らに会う日だな。星野」
「たまたまだよ」
男の名前は星野哲太(ホシノテツタ)。身長は180前半で歳は幸明と差がない様に見える。ベージュのスーツパンツに黒のスーツベストを着用しており、見た目は会社の社長と言われても遜色ない。
哲太は気絶している命のそばを通り過ぎて、幸明が踏みつけた指輪のネックレスを手に取ってベストの胸ポケットに入れる。その後、命に近づいて上半身を起こし、そのままお姫様抱っこをしようとしゃがみ込むと、
「待て、俺もそいつに用がある」
幸明が哲太の肩を触って止めさせた。
「一回ダウンしたんだから君の負けだ。それに彼は君と話しないと思うよ」
負けと言われた幸明は「たまたまだ」と意地を張る。
「君が踏んだ指輪はこの家の住人、彼の祖母が亡くなる前に託した結婚指輪だ。彼は亡くなってから六年間肌身離さず付けていた代物。わかるだろ君はそんな大切なモノを傷つけたんだ」
「…………」
踏んだ指輪に大切な思い出があったとは知らなかった幸明は何も言えなかった。
「取り敢えず君が知りたい事実だけは教えるよ」
「彼の中には”穢レ人はいる”」
「っ!」
「でも、まだ契約はしていない。最近何かしらあって体への侵入を許したみたいだ」
だから穢レ人独特の匂いがしたのか、と幸明は理解する。しかし一つ疑問がある。
「さっきの馬鹿力は――」
「中にいる穢レ人の力と君が指輪を踏んだせいで起きた爆発的な負の感情の上昇が良いのか悪いのか上手く共鳴した。良かったね彼はまだ力の制御ができていなかった。多分あれでまだ20%から30%の間だ。もし100%だったら君も無防備だったしお腹に拳サイズの穴が開いてたかもね」
ケタケタと哲太は笑う。
「でも、あの一撃のせいで彼と穢レ人との融合が始まったみたいだ」
哲太は命の首に刺さったガラスを引き抜く。綺麗な鮮血が地面を染めるもその傷口がスーッと塞がる。
「本当にいるんだな」
「ああ、僕は彼の中にいる存在と彼を切り離したい」
「何でそこまで肩入れするんだ」
「肩入れしているように見えるかい?」
「ああ」
幸明から見て哲太はまるで我が子を大切にする親の様に見えた。
「……彼には普通に生きて欲しいんだ。ただそれだけだ。このまま彼を放っておくと多分、最悪な結果になる」
幸明は深く言及はしなかった。哲太は命を抱えて立ち上がる。そしてそのまま玄関へと歩き出す。
「君は逃がしたもう一人を探して欲しい。あれは禍津(マガツ)の手先だ」
「!?」
禍津という言葉に驚いている幸明を見て哲太は、
「ほら、早く行って。あー、あとこの子に謝る言葉も考えておきなよ」
といって、玄関の門をくぐり網戸を閉めた。
「ああ。わかってる」
網戸越しの幸明の言葉を聞いて哲太は優しく微笑んだ。
「うん、素直でよろしい」
「あれ、俺……何で家の中にいるんだ」
頭、首、腹がずんと痛む中で命は瞼を開ける。そこは見覚えのある家の中だった。
「やあ」
視野の範囲外から突然現れた見ず知らずの男に命は驚き声を出した。
「うわっ!?」
「そんなに驚かないでよ。誰かが階段を昇って行ったのを見て付いて行ったら君ともう一人が倒れているのを見つけてここまで運んだんだ」
命は「ありがとうございます」と言って頭を下げた。哲太は「いいよいいよ」と笑って返した。その時、命は先程までの戦いを思い出し、質問した。
「もう一人いませんでしたか」
「あー、あのロングコートの人はさっさと逃げてたよ」
「アイツ……」
また怒りが湧き上がる。拳を強く握りしめると哲太はその拳を優しく両手で包んだ。それに驚いた命は握っていた拳を開く。
「あの、手、離して貰っても良いですか?」
「君があの人を恨む気持ちはわかる。大切なモノだったのにね。彼にその事について話すととても後悔していたよ。それにもう一度面と向かって謝りたいって」
「…………」
哲太は優しい声色で命の怒りを鎮める。まるで親が子を説得するように。
「この件はまた後で考えよう。今は君に話したい事があるんだ」
「というか、えーと、お名前何でしたっけ? すごい親しみのある感じがしたんですけど初対面ですよね?」
「ああ、私は星野哲太。ここら辺に最近住み始めた老人だよ、勿論君とは初対面だ」
「老人……」
命は初対面どうこうの話の前に哲太の老人という言葉に引っかかった。どうみても見た目は20代。もし自分と二人並んで歩いていたら他の人には同級生としても見られる程若々しい見た目。命は首を傾げた。
「ま、まあ私の年齢は置いておいて大切な話があるんだ」
手を叩いて年齢の話を無理矢理放り投げ話題を変えた。
「君は最近、穢レ人という単語を聞かなかったかい?」
「聞きました」
「意味は知っているかい?」
その質問に命は横に振った。
「君の体には穢レ人という存在が住んでいる」
「は?」
大きく瞼を見開き口を開ける。哲太は机の上に置かれた例の穢レ人と書かれていた古い本を指差す。
「その本、貸してくれないかい?」
「良いですけど、読めないですよ? 字が汚すぎて」
命は本を手に取って哲太へ手渡す。お礼を言って哲太はパラパラとページをめくる。
「大丈夫。こういう本を読むのが昔からの趣味でね」
そう言って哲太は集中して読み始める。
「……」
「……」
哲太が黙って読み始めて数分が立った。蝉の鳴き声と扇風機の風を切る音だけが響く。良い人そうだと命は思うもあくまでも初対面。気を許しすぎて何かされるかもとどうしても思ってしまう為、じーっと哲太を見ていた。
やはり老人ではない……。と思っていた矢先、哲太は本を閉じて話始めた。
「穢レ人とは穢レを使って人を殺める者の事を言う」
唐突に重要な事を言う哲太。集中していなかった命は何も聞いておらずもう一度言って欲しいとお願いした。
「もう一回? えーと、穢レ人とは穢レを使って悪さをする連中です」
「穢レって?」
「君はその指輪を踏まれた時、体の奥から殺意とか、怒りが湧いただろ?」
首を縦に振った。
「そういう負の感情が産まれると穢レという普通の人には見えない塵みたいなのが発生するんだ。本来その塵は地面に落ちるだけ。特に害は与えない」
「突然の国語クイズだ。塵も積もれば?」
これまた唐突なクイズ。だが命はしっかりと聞いていた為、すぐに答える。
「山となる……」
「そう、正解。塵も積もれば山となる。山となった穢レはその重さが原因で下に落ちちゃう」
「下って?」
「地獄だよ。君と私が今いる場所が中立界(チュウリツカイ)。上は神様が住む神域(シンイキ)因みに天国もこの中に含まれる。そして下は地獄」
哲太は命が持ってきた紙にシャーペンで先程まで言っていた事の一連の絵を描いた。
上から神域、中立界、地獄。
「はは、そんなアニメみたいな事が――」
「起きているんだ。例えば今日起きた梅田の家電量販店でそれが起きた。多分、今テレビ付けたらやってるかも」
命はその言葉を聞いて思い当たる節があった。急いでテレビを付けるとそこには赤いテロップで、
大阪梅田で意識不明者続出! 原因は不明。ガス漏れか?
その内容でニュースキャスターと出演者が議論をしていた。それを見ていると、
「沢山人が集まる所はそれだけ穢レが積もる。するとバランスが崩れて下に落ちる」
「じゃあこの意識不明の人達は皆地獄に?」
「正確には地獄じゃない。中立界と地獄の間。”奈落(ナラク)”に落ちる。そこに落ちると普通の人は意識不明になるんだ」
「何で」
「簡単さ、奈落は穢レで溢れている。少量なら特に何の害の無い。でも大量に浴びるとなると話は別だ。さっきも言ったけど穢レとは負の感情が産んだもの。浴びすぎると負の感情を一気感じる。とてつもないストレスと脳へのダメージで人間は心が壊れる。耐えられない程の精神的苦痛を受けるって事なんだ。良くて数日で目が覚める。でも最悪の場合は”死に至る”」
「……」
「でも、大丈夫。穢消師(エショウシ)って助ける人達がいるんだ。彼ら彼女らが奈落に落ちた人達を救助する。君を殴る蹴るした彼だ」
命は、初めて幸明と出会った時に言われた事の理由を理解した。そこで初めに言われた事を思い出す。
「結局俺の中にいるとか言ってる穢レ人って? 人殺しとか言ってたけど」
「人間の大半は死ぬと地獄に落ちる。天国に行けるとかいう人もいるけど何千人を救ったとかのレベルじゃないと天国にはそうそういけない。でも地獄も言うほど悪い場所では無いんだ」
「まるで行った事あるみたいな口ぶりだな」
「(^▽^)」
絵文字で表現できるような笑顔で命を見た。
「冗談だよな?」
ただ笑うだけで何も言わない哲太に命は恐る恐る聞いた。しかし「冗談だよ」とこれまた笑い飛ばして哲太は話し出す。
「地獄に落ちた人間は生き返られない。当たり前だ、死んだのだから。でも死んでもやり残した事をしたいと強く願う連中もいる訳だ。愛した人に会いたい。子供に会いたいとかね。そんな理由なら可愛いもんさ。でも”人を殺したい”と強く願う連中もいる。地獄は変な創りでね。一回だけ蘇れるんだ。ただし酷い精神的苦痛を伴う。気が滅入る様な痛みが全身を襲ったりする。死者は地獄で暮らすというこの世界のルールを無視するぐらいだからね」
「は?」
地獄から蘇れる。そう聞いた時命は目の前にいる哲太も蘇ったのではないかと思い質問した。
「因みに、哲太さんって蘇ったりしました?」
「さあ、どうかな」
またもや含みのある答えに命は戸惑った。
「私が蘇ったかどうかは分からないけど確実に蘇ったと分かる奴ならいるよ。もう一人いた男だ」
「あの緑の瞳の男」
「そう。彼は地獄から這い上がってきた一人。そういう蘇った連中を穢レ人っていうんだ」
哲太は穢レ人はどれほど恐ろしいのかを昔話の様に命に教えた。その内容はとても鮮明で想像できてしまう。自分を迫害した村を皆殺しにした者。裏切り殺されたから裏切った者の家族親戚を全て殺した者など少し同情してしまう内容もあった。
「俺の中にいるのはどういった奴なんだ」
「まだ分からない。でも君の体からは少しだけ中の穢レ人の匂いがする」
「どういう匂い?」
「酷い血の匂いだ」
「……」
つまりそれは大量に人を殺めているという事を示している。
「それに君は見えていないだろうけど、君の体の周りに穢レが大量に湧き出ている」
「は?」
「ハッキリ言ってかなりヤバい奴の可能性がある」
「……」
「心して聞いてほしい。この量の穢レを被っても元気なのは異常だ。もしかすると近々体調が優れなくなるかもしれない」
「さっき言ってた。心が壊れるってやつですか」
「ああ。最悪死ぬ」
嫌な汗をかく。訳の分からない女に付きまとわれて生命の危機を伝えられる。命の鼓動が少し早くなった。
「何か最近おかしなことはなかった? 君の体の中にどうやって住み着いたのか知りたい」
おかしなことと言われると一つしか思い浮かばなかった。あの悪夢だ。すぐに、
「ある。変な夢を見たんだ。愛って女がずっと追いかけてくる夢」
そう答えた。
「続けて」
「俺は逃げてたんだけど、愛って奴が「止まったらこの夢は終わる」って言ったんだ。だから信じて止まったら「やっと見つけた」って」
「……」
哲太は黙り込み、命の喋る声も小さくなり黙った。そして一つの疑問を問いかけた、
「どうしたら俺の中にいる穢レ人は出ていくんだ?」
「はっきり言うよ。君は愛に一枚とられた」
「え?」
予想外の答え。
「止まったらこの夢は終わる。それは上辺だけの言葉だ」
「どういう事だよ」
「止まったらこの夢は終わる。それを君は了承した。そこまで良かった。あくまでも夢を止めるだけ。出ていくとは言っていない」
「何だよそれ、穢レ人とか知ってたら出ていけって言ったかも知れないけど……」
命は自分の無知とそれを逆手に取る中にいる愛に腹が立った。
「そういう汚い手も使う連中だ。結果としていつかは君の体から出る可能性もあるけど、もし出たら出たでまた悪夢が始まるかも」
「んだよ……それ……」
「そして次は「君の中にずっといさせてくれるなら悪夢を止める」そう言うはずだ」
自分の中に得体のしれないモノがいる不快感とそれは出ていく気が無いという現実に命は絶句した。
「契約は絶対だ。途中で破棄は何らかの形の代償が払わされる可能性もあるから今は無理にすべきではない」
「でも、日にちの指定は無かった。死ぬまでとか一年とか」
「なら尚更取り敢えずの契約だと思っていい。場を凌ぐ為の、君という存在とパイプを繋ぐための仮契約だ」
「俺はどうしたらいい?」
藁にもすがる思いで哲太に聞いた。
「もし、悪夢を見たら僕に教えて。その時は知恵を貸すよ。これ僕のLINEのQRコードね」
「年寄りって言ってた割には、若者らしいモノも使うんだな」
「ははは、何歳になっても便利なものは難しくても使うに越したことは無いからね」
そう言いながらテキパキと友達登録をすました。名前は星野哲太。シンプルな名前だった。
「じゃあ今日はお暇するよ。千福町にはいつまでいる予定かな?」
「一応明日帰ろうと思ったけどまだ色々と聞きたい事があるから一週間ぐらいはいようかな」
「車持ってるから買い物とかあったら言ってね」
哲太は立ち上がり玄関に座り込んで革靴を履く。履き終え立ち上がったのを見て命は感謝の言葉を伝えた。
「なあ」
どうしても気になることが一つだけあった。
「ん?」
「何で、見ず知らずの俺にこんだけ良くしてくれるんだ?」
「知らないのかい? 田舎の人は他人に親切なんだよ? じゃあ早いけどおやすみ」
「ああ、おやすみ」
相変わらず本音かどうか分からない返事を聞いて戸惑う命。
その後、命は内容が濃すぎた一日を過ごして頭が疲れているのか特に空腹を感じなかった。風呂を入れて、暗い部屋でテレビを見る。そうでもしないと気が気では無かった。アニメやゲームのような穢レという存在。愛が自分の体にいるという気持ち悪さ。そしてどうにもならない現実への絶望。
「実は全部夢で明日起きたら何にも無かったとかねぇかなぁ……」
段々と眠くなり、布団も敷かず座布団を畳んで枕にして眠りについた。
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