第34話 【閑話】バビーとのお別れ
結局、院長先生の考えを聞けぬまま、私は自室に戻りその日は休むことになった。
少しもやもやした気持ちを抱えたままだった私はなかなか寝付くことが出来ず、ようやくうとうとし始めたのが昼前。
しばらくして私は、扉を叩く音で目が覚めた。
「……はい。」
ベッドに入ったまま、ややぼんやりした頭で返事をすると、穏やかな声が聞こえた。
「ミーシャ、寝ているところをごめんなさいね。 そろそろ出発の時間よ。」
扉の向こうから掛けられたシスター・サリアの声に、眠い目をこすりながら時計を見ると13時を少し回っており、私は慌てて顔を洗うと、髪を整え、足早に養育室に向かった。
「遅くなって申し訳ありません。」
慌てて中に入ると、そこにはすでに院長先生が、綺麗な洋服に着替えたバビーを抱っこして立っており、その周りにはシスター・サリアも、ダリアも、マーナも、ハンナも、ノーマも集まっていた。
「さぁ、ミーシャ。 貴女で最後よ。」
私を見てにっこりと笑ってくれた院長先生に促され、静かにバビーに近づく。
「バビー。 おいで。」
「まっん! まっ!」
にこっと笑って、小さな両手をうんと私に向かって伸ばしてくれたバビーを院長先生の腕から受け取った私は、抱き上げたその体を、苦しくないように加減しながらも、両手でぎゅうぎゅうと抱きしめ、頬を摺り寄せた。
「きゃ~!」
抱き締められ、嬉しそうに笑うバビーの柔らかさと温かさ、腕にかかるしっかりとした重さ、子供特有の汗とミルクの混ざった甘い匂いに、私の鼻の奥がツンとし、目頭が熱くなるのを感じながら、さらに頬を摺り寄せ、その耳元でやさしく話す。
「バビー、貴方の未来に大いなる幸せを祈っているわ。 いっぱいお勉強をして、いっぱい遊んで、いっぱい愛してもらって、どうか素敵な紳士になって頂戴ね。」
「きゃっきゃ~~っ!」
私が耳元で話すのが擽ったいのだろう。 両手を振り、嬉しそうにキャッキャと声を上げて笑うバビー。 そんな彼を離し難く、私はすこしだけ両腕に力を込めた。
「きっと、きっと幸せになるのよ。」
どれくらいそうしていただろうか。
「さ、ミーシャ。 時間よ。」
院長先生の声に、さらに熱くなる目をぎゅっと閉じて、それから目を開けると抱きしめていたその小さく暖かな体を離し、院長先生に渡した。
そうして、こちらを見て笑う、濁りのない綺麗な深緑の瞳と目を合わせる。
「私は、貴方の幸せを心から祈っているわ、可愛いバビー。 どうぞ元気でね。」
「それでは行きましょうか、バビー。」
「んっ!」
きっと意味は解っていない。 けれど、最近覚えた『はいっ!』のしぐさを、きりっとしたいいお顔でしたバビーが、院長先生に抱かれて養育室から出て行くのを、私たちは静かに見送った。
しっかりと扉が閉まってしまう瞬間、にこっと笑ってくれた愛らしい笑顔を胸に焼き付ける。
これは幸せの門出。 だから泣いちゃダメ。
そう思えば思うほど、夜中に全然寝てくれなくて困ったこと、私の手からミルクを飲んで笑顔を見せてくれたこと、一緒に遊んだこと、お風呂に入れたり、オムツを変えたり。 1年間の思い出が、涙と一緒に溢れてくる。
あの子は、新しい両親と幸せになるんだから。
泣かないように頑張っている私の隣で、鼻をすする音が聞こえる。 そっと横を向くと、ダリアがアニーを抱っこしながらボロボロと涙をこぼしていた。
それを不思議そうに見たアニーが、涙の流れる頬を小さな手でぺちぺちと叩いている。
「……ダリア。 アニーに心配されてますよ。」
「わかってる、わかっているのだけどねぇ……」
私が手布を取り出してダリアに渡すと、受け取ったダリアは頬を拭う。
「こればっかりはねぇ、何度経験しても本当に辛いんだよ。 引き取られた先で、自分だけの抱きしめてくれる腕を得て、あの子はこれから幸せになるんだから喜んであげなきゃいけないことなのに……。 生まれた時から、我が子のように本当に育てて来たのに、一番可愛い盛りに、私たちは子供たちから手を離さなきゃいけないんだ。」
「ダリア……」
鼻をすすりながら涙声でそう言ったダリアに、シスター・サリアが寄り添う。
「それが私達『ナニー』の業なんだよ。」
小さな小さなダリルを抱っこしたノーマが、彼をあやしながら悲しげに笑う。
「夜泣きや寝ぐずりに悩み、笑顔や寝顔に癒されながら、慈しみ育てた子と離れるのは、寂しい、悲しい、苦しい。 それは当たり前なんだ。 けれどあの子を長く腹の中で育て、苦しみぬいて産み落としたあの子の母親だって同じなんだよ。 ここにいるどの赤ん坊も母親と離れ難かったろう。 産んだ母親だって、好きで手放す訳じゃない……どれだけ子から離れ難かったろう。 其処にどんな事情があったって、子と母親の幸せのためっていう大義名分があったって、子供が一番可愛い盛りを母親の代わりに見守りながら愛して育てる立場を母親から奪ってしまったんだ。 子を奪われた母親が辛い思いをして手放した時の苦しい気持ちを、こうして私たちが今度はその身でわからなきゃいけないんだ。 これが『ナニー』の業って奴さ。」
そんなノーマは、目元に涙を溢れてさせながら、ぽん、と、私の背を叩いた。
「泣いてやんな、ミーシャ。 初めての子離れだ、寂しい、辛い、悲しい。 泣いて自分を慰めてやりな。 今日だけ、今だけだ。 直ぐにその手はここにいる他の赤ちゃんを笑顔で育てなきゃいけなくなるんだから。」
くしゃっと、ノーマさんの顔が歪んだ。
「そんなにかっこつけなくていいから、泣いていいんだよ。」
その言葉に、私の胸の奥からたくさんの気持ちが溢れた。
言い表せないような、悲しい、苦しい、寂しい、愛おしい、可愛い、行かないで欲しい。
たくさんの言葉が、たくさんの笑顔や泣き顔、行ってしまったバビーの表情や、仕草と共に溢れて、いっぱいになる。
「……はい。」
目が真っ赤になっているシスター・サリアが差し出してくれた手布を掴むと、堪えていた涙が溢れて止まらなくなった。
どうか。
どうか幸せに。
今頃、新しい両親に抱きしめられて微笑んでいるだろうバビーを想像して、私はさらに涙を流した。
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