第1章 銀の乙女

第1話

『真実はいつだって厳しく、残酷だ。

しかし、それでも決して絶望に負けてはいけない。

たとえ世界が終わるほどの絶望だとしても。』




「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ」


月明りがわずかに差し込む森の中で、どれだけ全力疾走しただろうか。

20分以上走り続けた気もするしまだ3分も走ってないかもしれない。

いずれにせよ子供の足ではそう長く走れることもないし、追ってくる相手から逃げ切れるわけもないだろう。


「はぁ、はぁっ、…あっ!」


木の根に足をとられ、とっさにバランスをとることもできず、不格好に倒れこむ。


「痛た………うぅっ。」


右膝がひどく熱い。どうやら擦りむいたらしい。

しかし、ここで痛みにうずくまることはできない。

なんとか歩けるため足を引きずるようにして進む。

すぐ後ろからいくつもの荒い息遣いが聞こえる。


「はぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁっ……」


いつの間にか木々が密集するほうへと来ていたのかあたりは足元さえ見えないほど暗かった。

加えて道は先ほどまでよりもさらに凸凹しており、とても歩きにくい。

木々の間にわずかな月明りが見え、そちらへ注意深く、しかし着実に歩いていく。


「はぁっ…はぁっ………あぁっ」


木々の間を抜けた先は開けていたものの数メートル先に待っていたのは壁だった。

そこは崖になっていて大の大人でも上ることはできない高さだった。

子供の自分では、ましてや怪我をしている状態ではとても無理だろう。

左右に行こうにも一方のはるか先には流れの早い滝と川が見え、もう一方は落石があったのか大きな岩が道をふさいでいた。

引き返す時間はない。いくつもの唸り声はすぐ後ろで聞こえた。

震える体を動かし後ろを振り向く。

数は5対はあろう、黄色い目の持ち主たちが木々の間からゆっくりと姿を現す。


野犬の群れだ。


大きさは大人ほどで、黒い体毛は(皮肉にも今の状況に適していて)地獄から来た死神を思わせる。

ゆっくりと崖を背に後ろへと下がっていく少年とは対象に、犬どもは少年を取り囲むようにして左右へと展開していく。

背に崖が触れると同時くらい、狼ほどの大きさはあろう一回り大きな犬が最後に姿を現す。

獲物に舌なめずりする取り巻きとは対照的にその群れのボスは静かに少年を見つめておりそのことがかえって少年に絶望を感じさせた。


もうだめだ。助かる道はない。


ジリジリと近づく犬どもを前にして少年は力なく座り込んだ。

今にもとびかかろうとする彼らに対しせめてもの抵抗にと固く目を閉じる。


瞬間、聞こえてきたのは、何か速いものが空を切る音と、情けないキャウンという鳴き声だった。

それも1度ではなく、2度、3度と続けて起こる。

ゆっくりと目を開けると犬どもは混乱状態だった。

あるものは体を赤く濡らしており地面に力なく伏せていた。

またあるものは何かに向かって威嚇するように強く吠えていた。

犬たちの視線の先、大きな落石の上に人影が見えた。


その者は月明りを背にフードをかぶり弓を構えていた。

正確無比な一射がまた1匹の犬の首筋に刺さる。

とうとう諦めたのか犬たちは這う這うの体で逃げていく。

去り際、ほんの一瞬であろう群れのボスと視線があったがすぐに踵を返し逃げていく。


「助かった…のか……?」

放心状態になる少年に対しフードの弓使いは小走りで近づいてくる。

「君、大丈夫?」

おそらく20代くらいだろうか、若い女性の声だった。

「怪我はないかい?ああ、膝をすりむいているようだね。」

女性はゆっくりとフードをとる。


一瞬、彼女は人間ではなく昔絵本ででてきた月の女神でないかと考えた。


髪は月明りに映える長い銀髪であった。

色白で目鼻立ちは整っており、いままで会ってきた女性の誰よりも美人であると確信できる。

目は吸い込まれそうな、水晶のように深い紫色だった。

そのきれいな唇がなにか呪文のようなものを口ずさむ。


それと同時に少年は自分の膝が淡く光り、痛みがゆっくりと引いていくのを感じる。

また、何か自分の体を巡る生命力のようなものが吸い上げられて脱力していくのも感じていた。

「ごめんよ、治癒魔法はあまり得意でないんだ。こんなもので勘弁してくれ。」

女性は困ったように笑った。

先ほど野犬の群れに襲われていた恐怖、そこに至るまでに起こったはるかに大きな絶望に対して、あまりにも小さいがしかし確かな安心感に包まれ、少年の意識はゆっくりと闇に沈んでいった。

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