鏡の中の名無しさん
ジェン
鏡の中の名無しさん
あれは、じっとしていても汗が滲むような暑い夏の日のこと。
仲間内の気まぐれなノリで、地元の有名な心霊スポットに行くことになった。
そういうオカルト系に無関心な俺は気乗りしなかったが、夏といえば肝試し。
その場の空気を白けさせるのも気が引けたため、仕方なく俺も黙って同行することに。
まあ、結局は目的地に到着するや否や全員が弱気になってあえなく中止となったのだが。
無論、帰り道に心霊現象のせいで事故に遭うというベタな展開もなく、ただただガソリンと気力を浪費しただけで家に帰ってきてしまった。
あんなところに行くくらいなら、カラオケでも麻雀でもやった方がよかった。
ドライブにしてもつまんなかったし、テンション下がるわ。
盛大な溜め息を吐き出し、俺は洗面台へと向かった。
シャワーを浴びるのも面倒くさい。
今日は顔だけ洗って寝るとしよう。
思い返せば、今日はいろいろとツイてなかった。
久々に出かけるというのに寝坊するわ、見つかったからよかったものの財布を落とすわ、定食屋で俺の注文だけ通ってないわ。
挙句の果てに虚無な肝試し、せっかくの休みが台無しだ。
鏡に映るは、疲弊の色が滲む俺の顔。
今日だけじゃない、日頃のストレスが蓄積してこの顔を作り上げている。
ああ、ひどい顔だ。
まるで狭間を彷徨う亡者のような、生気を失った顔。
両手で水を掬い上げ、勢いよく顔面へとたたきつける。
冷たさが肌に沁み、汗が洗い流されていくのを感じる。
顔を上げる。
水滴が顎先を伝って滴り落ちる。
鏡に映るは、疲弊の色がわずかながら薄まった俺の顔――ではなかった。
背中まで垂れ下がる黒髪、赤いワンピースに映える真っ白な腕。
それは、明らかに女の後ろ姿だった。
冷えたはずの額にじわりじわりと汗が湧く。
視線が一点釘付けになる。
本来、鏡には俺の虚像が映るはず。
いや、今目の前で起きている現象はそれ以前のあり得ないことだ。
――見知らぬ女、生死も知れぬ女。
女は画像のように微動だにしない。
相変わらず視線を逸らせない。
瞬きできない眼球が乾きに痛み出すと、女の頭が微かに動いた。
徐々に露わとなっていく白い横顔。
振り返ろうとしている。
本能が告げている――女と目を合わせてはいけない。
目が合うとどうなるかわからないが、わからないからこそより恐怖心が煽られる。
女の瞳が垣間見える刹那、俺は反射的に後退って洗面台から離れた。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ感情のない漆黒の瞳に吸い込まれそうになった。
人間味も、物悲しさも、何かを伝えようとする意志さえもない瞳。
はっとする――あれは、俺の目だ。
ベッドの端に腰を下ろし、額に溜まった冷や汗を拭う。
ゆっくりと時間をかけて荒い呼吸を整えていく。
鏡と女、冷え切った瞳。
どんなに考えたって、あの女が俺の前に現れた理由などわかるはずもない。
唯一俺にできるのは、あの女を忘れ決別することだ。
ようやく落ち着きを取り戻し、俺は全体重をベッドに預けた。
俺は幽霊なんて信じない。
かといって、今起きたことは疲労が見せた幻覚とも思えない。
いずれにせよ、理解不能な出来事だったのは事実。
それ以上でもそれ以下でもない。
答えを知る必要もなければ、知りたいと思う必要もない。
俺は複雑に絡まりかけた思考を止めた。
そして、静かに瞼を閉じた。
鏡の中の名無しさん ジェン @zhen_vliver
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