悪意の居留守

伊藤東京

第1話

 表情のことなんか気にもかけずに、一生懸命に口を開けて最後の歌を歌った。

 温暖すぎる気候のせいで桜の雨が降る演出はないけれど、それでも私たちは胸を高鳴らせて卒業式に挑んだ。やっぱり何人かの女の子たちが唱歌中に泣きだして、私の目も潤んだけれど何とか堪えた。とはいえ、ほとんどのクラスの人たちは同じ付属高校に通うことになるから、男子の何人かは泣いている女子を見て、からかうような笑みを浮かべていた。女々しいなと嘲笑したのかもしれない。

 中学校生活があっという間だったように、卒業式もあっという間だった。会場から退場した後の私たちは卒業証書を持って、ほとんど散りかかっている桜の木の前で写真を撮った。仲が特別いい女の子同士は、二人並んで自撮りをしたりして、それを見て私も隣にいる親友の朱莉に「写真撮ろう」と声をかけた。

「いいよ。優香泣かなかったんだね」

「そりゃそうでしょ。ほとんどクラス変わらないし。それに朱莉いるし」

「そっか。その点美佐のところは別々の高校でお別れだもんね」

 後ろからする泣き声だけで、美佐を含めた5人グループの女の子たちが泣きながら美佐との別れを悲しんでいる様子がよくわかる。美佐が抜けた四人グループは、やはり誰かが欠けているというような感じがする。

 二人で記念撮影を思う存分した後、卒業証書を持っていつものように下校した。結局大多数の人が同じ高校に行くので、クラスの半分の親は卒業式に参加しなかった。お母さんも、朱莉の親が来なかったので、友達同士帰りたいだろうからと先に帰った。だから二人で田んぼが広がる帰り道を、いつも通り下校する。

卒業式という一世一代のイベントのはずなのに、思っていたよりずっと呆気なくて、肩透かしを食らった気分だった。

「なんか、卒業したって感じしないね。どうせみんな付属高校に行くだけだし」

「そうねぇ。でもね優香」と朱莉が急に立ち止まった。ん? と振り返ると、朱莉はポケットから何かを大切そうに取り出した。

「卒業式っぽいこと私したよ」

 そう言って顔を少し赤くしながら、笑顔で朱莉が両の掌で作ったつぼみを開いた。そこには金色に光るボタンがあった。まさか。

「これ、第二ボタン?」

 うん。と朱莉が首を縦に振った。

「陽介くん、他の高校に行っちゃうから、お願いしてみたの」

 呼吸が浅くなって、頭が急にさぁっと白くなった。特別な日だと浮かれていた心は既にゴムみたいに固くなってしまって、次の瞬間、頭に血が上っていた。

「教室出る前に声かけたの。だから、多分誰にも見られてないと思う」

そう言った朱莉の言葉が、ぐわんぐわん鳴る頭のせいで、うまく理解できない。朱莉のことが急に赤の他人のように白々しく感じられて、もじもじしている朱莉をよそに、私はぱっとそのボタンを奪い取った。そして目一杯振りかぶって、できる限りの力で、ぶんっと腕を振った。

 私の手から離れた第二ボタンは快晴の空にキラキラと光りながら、綺麗なカーブを描いて田んぼに落ちた。音はしなかった。

 口をぽかんと開けて、ボタンの行方を目を見張って眺めている朱莉を無視して、私はそのまま家に向かって速足で帰った。振り返らずに家まで辿り着いた。後ろにいたはずの朱莉は、何も言ってこなかった。

私は自分の部屋に行くなりベッドに倒れ込み、枕を抱え込んだ。朱莉にしたことに対して泣いているのか、失恋から泣いているのか、よくわからなかった。今になって感情と思考が頭に雪崩込んできて、小さな嵐が心を乱していく中、後悔ばかりが目立った。

 どうしてあんなことをしてしまったんだろう。親友の私にだけ分けてくれた秘密。勇気を振り絞って勝ち取った思い出を、いとも簡単に壊してしまった。そもそも陽介くんだって、ボタンを渡しただけかもしれない。付き合ってるわけじゃないのかもしれない。最初から、陽介くんが好きなんだって、朱莉が打ち明けてくれた時に、実は私もそうなのって言えばよかった。変に気を遣って応援してるね。なんて言うんじゃなかった。でも、そんなことしたら嫌な雰囲気になってたんじゃないの? じゃあ私はどうしたらよかったの?

 でも、暫くは学校で会わなくてもいいんだ。

そう思った時、母親が大声で私を呼ぶ声が聞こえた。

「優香? 今日はご馳走作ったよ! 降りておいでー!」

「今行くー!」

 今は、特別な日に溺れていたい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る