二〇章 戦争がはじまる

 門の前に置かれていた手紙に気がついたのは、エルの屋敷やしきやとわれているボーイのひとりである、ドナルドだった。

 まだ一五歳にもならない彼は、屋敷やしきで働く男性使用人の見習いとしてやとわれている身だった。

 当然、大した仕事を任されるわけもなく、雑用ざつよう専門。ガーデナー(庭師)の下働きとして土や肥料ひりょうを運んだり、グルーム(厩舎番きゅうしゃばん)に命じられるままにを運んだり、ウマの体を洗ったり、まきを割ったり、石炭を運んだり、さらにはキッチンでのナイフみがき、靴磨くつみがきに庭の掃除そうじ、玄関での応対等々。

 とにかく、屋敷やしきのなかのありとあらゆる雑用ざつよう――専門技能を必要とせず、他の誰もやりたがらないような仕事――はすべて、かのとその仲間であるボーイの仕事だった。

 そのなかには年若い少年にはつらい力仕事も少なくなかった。靴磨くつみがきひとつとってもバカにはできない。なにしろ、貴族の屋敷やしきともなれば家族の分に加えて、ゲストのくつ、上司や先輩と言った数多くの使用人たちのくつまで含まれ、その数は何十にも及ぶ。それを毎日まいにち、みがかなくてはならないのだ。

 その上、屋敷やしきの奥さまがくつを買うのが趣味しゅみだったりするともう地獄じごくだ。くわけでもないのに、『気に入ったから』という理由だけで買い込まれたくつが何十、何百と並び、しかも、そのそれぞれが手入れの仕方がちがう。

 ひとつでも手入れの仕方をまちがえれば、たちまちメイド長であるハウスキーパーからこっぴどく叱られる。ときには、平手打ちを食らうこともある。

 幸い、この屋敷の奥さまであるアンナはくつにはさして興味きょうみがなく、数も種類も少ない。その意味ではまだ楽だと言える。そのかわり、服やアクセサリーには非常に熱心なので、それらを管理する役にある侍女じじょは毎日、大変な思いをしているのだが。

 それでいて、ボーイの給料はごく安い。何しろ、ボーイの任される仕事は『誰でもできる雑用ざつよう』なので、いくらがんばっても誰からも評価されない。てい賃金ちんぎんが当たり前。どれぐらい安いかというと、『結婚したいならその役職やくしょくのままでいることはできない』というレベル。

 規律きりつきびしい。上級使用人の前では口を効くことすら許されない。まして、主人やその家族に対しておや。

 屋敷やしきないに引かれた線の上だけを歩くように義務づけられ、そこから外れることは許されない。万が一、主人一家の目にふれようものなら『お目汚めよごしをした』と叩かれる。言ってしまえば少しばかり金をもらえる奴隷どれいのような存在だ。

 そんな待遇たいぐうえかねてやめていくボーイたちも少なくない。自分からはやめなくても一四~一五歳になると、年齢ねんれいを理由にクビになるボーイも多い。成長して扱いづらくなったボーイをそのままやといつづけるより、新しくおさない少年をやとった方が安上がりだし、言うことを聞かせやすいからだ。

 そんななかにあって、あと数ヶ月で一五歳、と言う年齢ねんれいまでボーイとしてやとわれているドナルドはきわめて優秀ゆうしゅうな存在と言えた。

 実際、かの勤勉きんべん辛抱しんぼうづよく、命じられた仕事はそれがどんなにつらく、つまらない仕事でも黙々もくもくとこなした。

 上司や先輩からの理不尽りふじんな仕打ちにもじっとえ、口答くちごたえひとつしなかった。

 ボーイとして屋敷やしきつとめることはたしかにつらい。それでも、ドナルドは自分の父親に比べればずっとましだと思っていた。

 かのの父親は下界げかい鉱山こうざんで働く鉱夫こうふだった。毎日まいにち奥深い穴にもぐり、真っ黒になって働いていた。そしてある日、落盤らくばん事故じこい、帰らぬ人となった。

 下級の鉱員こういんとあってたくわえもなく、残された家族はたちまち困窮こんきゅうにあえぐこととなった。まだ一〇歳にもならないドナルドとその母親はそれまで住んでいた借家しゃくやを追い出され、パン一かけ手に入らない日々がつづいた。

 そんななか、わざわざゾディアックからやってきたダナ家の使用人募集のおふれを見て、強引ごういんやとってもらったのだ。それこそ、面接めんせつかんの足にしがみつくようにして。

 あの頃に比べれば屋根の下で暮らせるし、食事の心配もない。父親のように事故にってあっけなく死ぬ心配もない。なにより、ボーイという仕事には将来への希望があった。

 たしかに、いまはまだ単なる雑用ざつようがかりで誰からも尊敬そんけいされない。

 でも、ボーイは一生、ボーイでありつづけるわけではない。ボーイとして充分な経験を積み、多くの仕事ができるようになればいずれはフットマン(従僕じゅうぼく)への道がひらける。フットマンになれば給料もあがるし、待遇たいぐうだってずっとよくなる。

 フットマンとしてさらに経験を積めば、やがては執事しつじになることもできる。執事しつじともなれば、もはや単なる使用人ではない。屋敷やしきで働くあらゆる使用人を監督かんとくする立場であり、主人の分身として、ときには代理として屋敷やしきを切り盛りする立場になれるのだ。

 そうなればまわりの人々から尊敬そんけいされる。取り替えの効く道具ではなく、『かけがえのない存在』として扱ってもらえる。

 そのためには『ダナ家のボーイ』という立場はとても都合つごうがよかった。下界げかいでも名の知れたゾディアックの名門の屋敷やしきで働いていたとなれば、他の屋敷やしき転職てんしょくするさいにも高く評価される。それだけ有利になる。ボーイではなく、フットマンとして雇ってもらえるのは確実だ。そうなれば、念願ねんがん執事しつじへも一歩近づくことになる。

 ――いつかきっと、大きな屋敷やしき執事しつじになってみせる。

 ドナルドはその日を目指して毎日まいにち、朝早くから深夜にいたるまで仕事にはげんでいた。

 そんなかのにとって実は、エルのいないここしばらくはかなり過ごしやすいものだった。なにしろ、エルは貴族の娘としてはめずらしく、ボーイやメイドと言った下級使用人にもへだてなくせっする。見かけると気さくに近よってきて声をかける。

 それはいい。ドナルド自身、元気で、おてんばで、誰にもへだてなくせっするエルおじょうさまは気に入っている。

 でも、しょせん、おじょうさまはおじょうさま。下級使用人の置かれている立場がわかっていない。

 主人の娘とおしゃべりしているところを上司に見られたりしたら、『身分をわきまえろ!』とどなられ、殴られるのはかのたちなのだ。もちろん、エル自身は知らないところで行われていることだけど。

 おまけに、活発かっぱつすぎるエルは服でもくつでもとにかく汚す、汚す。泥だらけになり、草やら、草の実やら、ときには動物のふんまでついたくつを洗い、ピカピカにみがきあげるのはボーイたちの誰もがいやがる仕事だった。

 誰もがいやがる仕事だからこそ、毎日まいにち執事しつじを目指して熱心に働くドナルドにまわってくる。『エルの靴磨くつみがき』というのは、ほとんどドナルド選任せんにんの仕事だった。

 そのエルがいないのだ。泥だらけのくつみがかなくていいぶん、仕事は少しでも楽になる。世間知らずのおじょうさまに話しかけられ、あとで上司にぶん殴られることもない。ドナルドにとってエルのいない日々はずっと気楽なものだった。

 ……もちろん、そんなことは決して口にしない。誰かに聞かれたが最後、まちがいなく主人に告げ口される。そうなれば、むちでさんざん叩かれたあげく、身ひとつで放り出されるのは目に見えている。

 それを思うと、ドナルドは背中に氷でも当てられたかのようにブルッと身がふるえる。

 ――おじょうさまがいないことを喜んでたりしてはいけない。少しでもそんな素振そぶりを見せてはいけない。

 ドナルドは毎日、自分にそう言い聞かせ、執事しつじやメイドたちのように『おじょうさまのことが心配でたまりません』といった顔をして働いていた。

 そのドナルドが門の前に置かれたエルの手紙を見つけた。

 いつもの朝の掃除そうじの最中のことだった。門の前で掃除そうじしてくると、門の外に分厚い封筒ふうとうが落ちているのに気がついた。

 ――なんだろう?

 何気なくそう思い、落ちている封筒ふうとうを手にとった。もちろん、行方不明のおじょうさまからの長文の手紙だなどとはチラとも思わなかった。

 封筒ふうとうに書かれている名前を見て仰天きょうてんした。そこには『お父さま、お母さまへ。エルより』とあった。

 ドナルドは文字通り、飛びあがった。おどろきのあまり、封筒ふうとうを放り出してしまうところだった。

 ――このまま捨ててしまおうか。

 そう思わなかったと言えばうそになる。

 きっと、このなかにはエルがいま、どこにいて、どうしているかがしるされているのだろう。主人がそれを知ればすぐさま騎士団を動員どういんして連れ戻すにちがいない。

 そうなれば、エルが屋敷やしきに戻ってくる。泥だらけのくつを洗い、無邪気むじゃきに話しかけられては執事しつじに殴られる。そんな日が戻ってくるのだ……。

 それでもやはり、手紙を捨てることはできなかった。たしかに、いろいろ迷惑めいわくをかけられもした。でも、それはエルのせいではない。エルの知らないところで、『屋敷やしき規律きりつ』という怪物のせいで行われていたことだ。

 結局のところ、ドナルドは元気で、おてんばで、自分たち下級使用人にもへだてなくせっしてくれるエルおじょうさまが好きだった。なにより、ドナルドはいたって善良ぜんりょうな少年だったのだ。

 だから、ドナルドはすぐに封筒ふうとうを届けることにした。結果から言えば、見なかったことにして、そのまま焼き捨ててしまった方がずっとよかったのだけど……。

 ドナルドは封筒ふうとうを手に屋敷やしきに飛んで帰った。届けると言っても主人であるニールや奥さまであるアンナに直接、届けるわけではない。雑用ざつようがかりに過ぎないボーイが屋敷やしきの主人や奥さまに直接、目通めどおりするなど許されないことだった。

 執事しつじでさえ、ドナルドにとっては雲の上の存在だった。だから、直接の上司であるフットマンに届けた。フットマンは封筒ふうとうを見るなり、顔全体を青ざめさせた。そのまま奇声きせいをあげて走り出し、執事しつじに届けた。執事しつじ執事しつじ奇妙きみょうな声を発して飛びあがった。

 そうして、その執事しつじの手からようやく、エルの手紙が父親であるニールに手渡されたのだった。

 ニールは封筒ふうとうを文字通りひったくった。名門貴族にあるまじき乱暴なやり方で封筒ふうとうを引きちぎった。なかからは一抱えもある紙のたばがドサドサと落ちてきた。

 ニールとアンナはほおをぴったりよせて、長いながい手紙を読んだ。

 品のいい、いかにも貴族という感じの顔が見るみる紅潮こうちょうしていく。ふたりは同時に怒りの声を張りあげた。床をみならした。

 ドナルドが手紙を渡したことを後悔こうかいしたのはこのときが最初だった。それほど、ニールの怒りはすさまじいものだった。もっとも、この手紙がきっかけになって引き起こされる事態を知っていれば、『後悔こうかい』などという生やさしいものではすまなかっただろうけど。

 ニールはどなりちらしながら馬車を呼んだ。ダナ家当主とうしゅ、ク・ブライアンのもとへと一目散いちもくさんに駆け込んだ。

 ク・ブライアンは六〇代半ばの威厳いげんある男性で高齢こうれいとなったいまもなお、その肉体は古いオークの木のようにたくましい。ワシのような鋭い眼光は一睨ひとにらみでその辺の一〇代など威圧いあつしてしまう。何事にも同じることのない要塞ようさいのような男だった。

 その男が手紙を読み終えるととたんに怒りをあらわにした。顔を真っ赤にし、頭から湯気をきあげた。手紙をめちゃめちゃに引き裂き、叫んだ。

 「なんだ、これは⁉ ふざけるのにもほどがある!」

 「まったくです」

 アンナが熱心にうなずいた。

 「妖精の国で暮らしているなんて……でたらめもいいところです! ああ、かわいそうなエル! きっと、ミレシアの小僧こぞうにだまされて連れて行かれて、どこかに監禁かんきんされているにちがいありません。わたしたちがさがさないよう、こんな手紙を書かされたんです。ほら、その証拠しょうこに涙でれたあとが……!」

 そんなあとはどこにもないのだが、娘を心配するあまり半狂乱はんきょうらんになっている母親には見えてしまうのだった。

 「うむ、まさしく」

 そうにちがいない、と、ダナ家当主とうしゅク・ブライアンはうなずいた。

 「こんな荒唐こうとう無稽むけいな、子供の考えたようなお伽話とぎばなし我々われわれをごまかせると思うあたりが劣等れっとう種族しゅぞくのミレシア家らしいあさはかさよ。だが、我らはやつらとはちがう。魔王エーバントニアよりゾディアックのまちを任されたえあるダナ一族だ! こんな見えみえのうそにはだまされん!」

 「ああ、お願いです、ク・ブライアンさま! どうかわたしの娘をお助けください」

 「もちろんだ」

 ク・ブライアンは決意を込めてうなずいた。

 「赤枝あかえだ騎士団きしだん総動員そうどういんして、ミレシア家につめよってくれる。あくまでも返さないと言い張るのであれば……」

 ク・ブライアンの目に剣呑けんのんな光がきらめいた。

 「皆殺しにしてやるまでだ」

 一方、ミレシア家のほうでも事態は似たようなものだった。ニーニョの両親からいきなりの訪問ほうもんを受けたミレシア家当主とうしゅフィン・ブライアンはやはり、顔を真っ赤にして怒りをあらわにし、頭から湯気をき出して手紙を引き裂いた。

 「おのれ、おのれ、卑劣ひれつうそつきなダナ家めが! 我らが一族をさらった上、こんな子供だましの大嘘おおうそわれらをだませると思うとは! バカにするにもほどがある!」

 フィン・ブライアンの怒りはあるいはク・ブライアン以上のものだったかもしれない。なにしろ、ヤンチャで元気いっぱいのニーニョ少年はこの当主とうしゅのお気に入りだったから。

 「こうなったら全面戦争だ! ダナ家のうそつきどもを皆殺しにしてでもニーニョを取り戻してくれるぞ。我らこそ魔王エーバントニアからゾディアックのまちを任された聖なる一族であることを教えてくれるわ!」

 結局のところ、エルとニーニョはやはり子供だったのだ。子供だから作り話でみんなを納得なっとくさせられるものと思っていた。

 ところが、おとなたちはそんな話を信じるほど無邪気むじゃきではなかった。ふたりの子供の浅知恵あさぢえは両家の全面戦争をまねく結果になったのだった。

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