星座の街のエル&ニーニョ 〜世界を石に変えてしまったふたり〜

藍条森也

一章 空の街ゾディアック

 「こら、エル! まちなさい」

 ゾディアックの街にそびえる王立アカデミー。その初等部しょとうぶの廊下のなかを今日も赤毛のフラン先生の絶叫ぜっきょうが響き渡る。

 燃えるような自慢の赤毛を振り乱し、スカートをはためかせて廊下を走る。その前を駈けるのは小さな帽子をちょこんとかぶった五回生の生徒。よく日焼けした肌にシャツとズボンという軽装で、いかにも『追い駆けっこを楽しんでいます』的にイタズラっぽい笑顔を浮かべて、舌など出している。

 名前はエル。ちょっと見には男の子のようだけど、れっきとした女の子。それも、よく見るとけっこうかわいい。リスのような身軽さで廊下を駈け、フラン先生の追跡を振り切ろうとしている。

 フラン先生は逃がすまいと必死に追いかける。廊下で他の生徒たちとすれちがう。

 「おっ、エル。今日も脱走か?」

 「相変わらず元気だなあ」

 「がんばれよお、捕まるなよ」

 「任せといてよ!」

 上級生たちの無責任な応援にエルは片手を振って応える。キラキラ輝く汗の浮いた顔が本当に楽しそう。

 「なにを呑気のんきなことを言ってるの、捕まえて!」

 フラン先生は絶叫ぜっきょうする。

 でも、生徒たちはやっぱり生徒の味方。フラン先生の邪魔じゃままではしないけど、捕まえるつもりもない。それどころか、道をゆずって逃げやすくする始末。フラン先生は若い女性にも似合わない鋭い舌打ちをした。

 「……覚えてなさいよ」

 エルを見逃した生徒たちをにらみつけ、走り去る。生徒たちは『お~、こわ』と首をすくめて自分の教室へ移動していく。

 エルが王立アカデミーに入学してきた――させられた――五年前から今日まで、ほとんど毎日のように繰り返されてきた大騒ぎ。

 追いかけるほうは毎年まいとしかわっても逃げるほうはかわらない。おかげでエルの脱走技術とそれを追いかける先生の技量とは広がるばかり。

 どの時間にどこの生徒がどこに向かって移動するか。それを知り尽くしているエルはわざと生徒の多い廊下を選んで走る。

 小柄なエルは生徒たちの間をスイスイすり抜けて走れるけど、おとなのフラン先生はそうはいかない。いきなり飛び込んできた子犬のような女の子に驚いて廊下いっぱいに広がった生徒の群れに阻まれて右往うおう左往さおう。声を出し、腕をのばしてなんとか追い付こうとするけれど、エルの姿はどんどん遠くに行くばかり。

 さんざん追い駆けっこをさせられてもう息も絶えだえだ。いまにもへたり込んでしまいそう。

 そこへいくとエルは元気いっぱい。小さな体は疲れることを知らないようで息ひとつ乱れない。毎日のように先生たちを相手に追い駆けっこをしてきた成果だ。同い年でエルとまともに競争できるのは男子まで含めてもひとりしかいない。

 エルは学校の中庭に飛び出した。芝生のなかを石畳の道が走り、よく手入れされた花壇かだんのなかに赤と白のバラが咲き誇る。アカデミーで、いや、ゾディアックの街全体でももっとも美しいと言われる場所。一般にも解放されていて散歩に訪れる人も多い。

 この中庭はエルのお気に入りの場所だった。といって、その主な理由は風景の美しさではない。まったく別の理由だった。

 「サリヴァンさん!」

 エルはバラの世話をしている青年の姿を見付けて叫んだ。メガネをかけた庭師にわしの青年はいきなりのことに驚いて飛びあがった。振り返った。ものすごい勢いで駈けてくる帽子をかぶった女の子を見付けた。いかにもやさしそうな顔に苦笑めいた笑みが浮かんだ。

 「やあ、エル。また脱走かい?」

 「うん、そう。またよろしくね」

 言いながらサリヴァンの脇をすり抜け、バラの茂みの下に潜り込む。小さな体が刺の生えたバラの枝にすっぽり隠され、見えなくなる。サリヴァンは『やれやれ』と苦笑する。

 「サリヴァンさん!」

 エルの明るい声とは比べものにならない、『怒り心頭に達した』という感じの声が響いた。雷鳴らいめいのようなその轟きにサリヴァンはちぢみあがった。恐々こわごわと振り返る。息を切らし、汗まみれになり、自慢の赤毛もすっかり振り乱したフラン先生が駈けてくる。

 若くて、かわいくて、生徒にも人気のフラン先生だけど、こうして見るとけっこう恐い。サリヴァンの額を脂汗が一筋、たれた。

 「サリヴァンさん! エルがこっちにきたはずです! どこ⁉」

 たずねた。というより、尋問じんもんするような口調。サリヴァンになにかあるわけではないのだけど、さんざん走り回らされた疲れと怒りでついつい表情も口調もきつくなる。

 サリヴァンは細面ほそおもての顔にいかにも気の弱そうな表情を浮かべた。困ったように視線を泳がせる。

 サリヴァンもまだ若いけど、フラン先生はもっと若い。その年下の先生ににらまれて、サリヴァンはまるで自分こそが叱られている子供のように身をすくませた。

 「あ、ああ、あの子なら……」

 と、サリヴァンは指差した。

 「ついさっき、あっちの方へ……」

 「そう。ありがと」

 フラン先生は礼を言うと一休み入れることもなく走りだした。自慢の赤毛を乱暴になでつける。

 「まったくもう。ダナ家とミレシア家の人間には教えておかなくちゃいけないことが山ほどあるのに。あの子とニーニョにはほんと、困ったものだわ」

 そうこぼしながら外に通じる中庭の通路を駈けていく。フラン先生の姿が見えなくなったのを確認してからサリヴァンはそっとささやいた。

 「……もういいよ」

 エルがバラの茂みの下からひょこっと顔を出す。

 「へへっー、今日もありがと、サリヴァンさん」

 満面にイタズラっぽい笑顔が浮いている。

 これがエルがこの中庭をアカデミーでいちばん気に入っているその理由。バラがいっぱいに茂った花壇かだんは身を隠すのにもってこいなのだ。

 「素敵な共犯者もいるしね」

 と、エルはサリヴァンを見上げる。庭師の青年は困ったような表情を浮かべた。

 「あんまり、巻き込まれても困るんだけどなあ」

 「あはは、ごめん、ごめん。でも、こんなに気持ちいいんだもん」

 エルは両腕を広げ、思い切り胸を張った。芳しい自由の風を小さな体いっぱいに吸い込んだ。

 時は初夏しょか。真っ青な空に太陽は輝き、雲が流れ、吹きかう風は暖かい。中庭に咲き乱れるバラの香りがいっぱいに含まれ、風を吸っているだけでってしまいそう。

 ――天国はここにあった!

 いっそ、そう叫びだしたくなるほどの心地よさ。なにより、薄暗うすぐらくて、狭苦せまくるしい教室から解き放たれたこの解放感はすばらしい!

 気分はほとんど『悪の要塞から脱出した未来の勇者』。いや、実際、エルにとって『学校』などという施設は悪の要塞そのものだった。

 「こんなにお天気のいい初夏しょかの日に元気いっぱいの子供を建物のなかに閉じこめておくなんて拷問ごうもんよ! そんなんじゃ体も心も弱っちゃうわ。お日さまの照ってるときには子供は思いっきり外で遊ばなくちゃ。でなきゃ、丈夫じょうぶなおとなにはなれないわ」

 風が吹けば『子供は風の子!』、雨が振ったら『雨に負けるな!』で、雪ならもちろん『雪合戦しなくちゃ!』。

 とにかく一年中、なにがしかの理由をつけて校舎こうしゃを飛び出すエルだった。

 サリヴァンはいかにも気が弱そうな仕草しぐさで片手を頭の後ろにやると困ったように、でも、半分ぐらいは楽しそうに笑ってみせた。

 「あはは。たしかにそうかもね」

 「サリヴァンさんも子供の頃は学校を抜け出したりしてたの?」

 「いやいや、僕にはとてもそんな度胸はなかったからね。おとなしく教室に座って授業を受けてたよ」

 「かわいそうに。だから、そんなヒョロヒョロしたおとなになっちゃったんだ」

 「……それはちょっとキツいかな」

 「ごめんなさい」

 と、舌をピョコッと飛び出させながら言ったけど、表情は全然、あやまっっていない。

 そんなエルにサリヴァンは楽しそうな笑顔を向けた。

 「はは、いいよ、いいよ。ヒョロッとしているのは事実だしね。僕も君ぐらい行動的だったら、もっとたくましい男になれていたのかもしれないけど……」

 「いまからでも遅くないわよ。一緒にこない? 仕事なんかほっぽっちゃってさ」

 サリヴァンはその魅力的な誘いに苦笑を浮かべて首を左右に振った。

 「ありがとう。その誘いは素敵すてきだよ。でも、この歳になってさすがにそうはいかないよ。それに、このバラたちの世話は僕でなくちゃできないしね」

 「うん、そうだよね」

 エルは熱心にうなずいた。

 「ゾディアックの街にはあちこちにきれいな庭があるけど、ここほどきちんと手入れされている庭なんて他にないわ。『ゾディアック案内人』、このエルが保証する」

 と、エルは小さな胸を張ってみせる。

 「はは、ありがとう」

 と、サリヴァンは今度は心からうれしそうな笑顔を見せた。

 エルがふいにハッとなった。

 「あっ、いけない。もう行かなくっちゃ。じゃあね、サリヴァンさん。今日もありがと。これからもよろしくね」

 「ああ」

 と、サリヴァン。またも苦笑する。

 「どこに行くんだい?」

 「もちろん。秘密の冒険」

 エルはイタズラっぽく笑ってみせる。

 「エル冒険隊のメンバーが集まってるはずだからね」

 「エル冒険隊か。君は本当に勉強するのがきらいなんだね」

 サリヴァンは何気なくそう言っただけだったけど、エルの反応は意外なものだった。ドキッとするぐらい真剣な表情をすると両手を腰に当てて怒ってみせた。

 「ちがうわ、サリヴァンさん」

 「ちがう?」

 「そうよ。あたしは勉強がきらいなんじゃない。もっと好きなものがあるだけ。青い空、吹きかう風、緑の大地、空を飛ぶ鳥たちにいっぱいの木の実や果実! 世の中にはこんなに素敵すてきなものがあふれているのよ。それなのに、そのすべてから引きはなされて建物のなかで読み書きしたり、古いことを覚え込んだりするなんて人生の損失そんしつよ」

 思いがけない真剣な態度にサリヴァンも思わず居住いずまいをただした。貴婦人に対するように礼儀正しく頭をさげる。

 「なるほど。それは僕が悪かった。失礼をことを言った。許してくれ」

 エルはニコッと微笑ほほえんだ。

 「サリヴァンさんのそういうところ、大好き。こんなこと言ってちゃんと相手してくれるおとななんてサリヴァンさんだけだもんね」

 「それは光栄だね」

 サリヴァンもニコッと微笑ほほえむ。

 エルは走り出すのと、振り返るのと、手を振るのを同時にやってのけながら頼もしい共犯者に向かって叫んだ。

 「じゃあね、サリヴァンさん。彼女ができなくても泣かないでね。あたしがおとなになったら結婚してあげるから」

 「気長にまってるよ」

 そう答えながらサリヴァンは、屋のような勢いで駆けていく女の子の後ろ姿を両手に腰を当てて見送った。ため息をつきながらもついつい表情がほころんでしまう。

 嵐のような女の子が去ったあと、校舎こうしゃのなかから今度は別の追い駆けっこをする一組の声がした。

 「まて、ニーニョ! ミレシア家の人間には覚えなくてはならないことが山ほど……」

 「くやしかったら捕まえてみなって!」

 野太のぶとい男の声と元気いっぱいの男の子の声。

 見ると、中年の男の先生が男の子を追い回していた。チラッと見えた少年の表情はエルにそっくり。もちろん、顔立ちそのものは全然ちがう。

 でも、追い駆けっこを楽しんでいるとしか思えないイタズラっぽい表情や、生気に満ちたキラキラと輝く瞳は双子のようにそっくりだった。

 「やれやれ。今度はニーニョとケネス先生か」

 サリヴァンはまたも苦笑する。まったく、このアカデミーにいると苦笑くしょうするネタには事欠ことかかない。

 ミレシア家のニーニョはダナ家のエルと並ぶアカデミーの問題児。

 それを追うケネス先生はアカデミーきっての石頭。

 ふたりの追い駆けっこは校舎をグラグラ揺らせるようだった。

 「このゾディアックのまち二分にぶんする名家たるダナ家とミレシア家。まさか、その両家にこんな跳ねっ返りが、それもよりによって同い年の男女として生まれてくるとはね」

 ふふ、と、サリヴァンは笑ってみせた。

 「にぎやかな時代がやってきそうだ」

 そう呟いて庭師にわしの青年はバラの世話に戻ったのだった。

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