ホラー短編集「三界皆苦」

小戸エビス

ぱき

 ……気持ち悪りぃ。

 水たまりだらけの交差点。雨の音がうるさい傘の中、男は一人ごちた。

 会社が珍しく定時に終わった日の帰り道。地下鉄の駅を出て、男が一人で暮らす――2度目の臨月を迎えた妻が念のためにと実家に寝泊まりしてるため、今は一人になっている――マンションへと帰る途中でのことだった。

 気持ち悪りぃ。

 男がそう思うのは雨水にすっかり濡れた靴下のこと、ではなかった。向かいの角に並べられた、男に言わせればこれ見よがしな花束のことだ。


 半月前、この交差点で轢き逃げがあった。被害者は死亡。そして犯人はまだ見つかっていない。

 男はもう1年ほど車を運転していないから、この事故とは関係がない。関係がないはずだから、花束に腹が立っていた。さも、私たちは被害者のことを悼んでいるんですよ、とでも言われているようで。それもわざわざ、通勤のために自分が通らなければならない道で。

 気持ち悪りぃ、花なんか飾ったところで死んだ人間が生き返るわけじゃあるまいに。ここ半月、男は角を通るたびにそう思うようになっていた。

 そして。


 ぱき。


 この交差点で、足元から音が聞こえるようになっていた。

 薄くて硬い何かを踏み割ったような、乾いた音が。


 最初に聞こえたのは事故の翌日だった。

 休日だったその日、男は浮気相手と一日を過ごしていた。妻が妊娠している中での浮気。男はそれを、「お腹の子が俺の子だという保証はない」と言って正当化していた。

 そして帰り道、夕立に見舞われながら事故現場の交差点を通った。

 朝に通ったときにはいつもと変わらない道だった。それが夕方になると、角に花束が置かれるようになっていた。

 その角に差し掛かったとき、音が鳴った。ぱき。


 男は立ち止まり、足元を見た。だが、地面には浅い水たまりがあるだけ。割れたような音を立てるものは何もない。

 気のせい。

 そう思った男は再び歩き出し、交差点を渡り始めた。すると、数歩進んだところでまた鳴った。

 ぱき。

 さっきとは反対の足から。


 不意に、クラクションのけたたましい音が響いた。

 咄嗟に振り向くと、トラックの運転手が、道の真ん中で立ち止まっている男に苛立っているところだった。

 小走りに道を渡り、そのままの勢いで交差点を離れた。すると、音はもう聞こえなくなっていた。


 翌朝。

 靴底にも自分の足にも異常がないことを確認した男は、念のために前日とは違う靴を履いて駅へと向かった。交差点の手前で道を横断し、花束のある角を通らないようにして。

 それでも、交差点で、音が鳴った。

 ぱき。


 それ以降、毎日。夕方にはより強く、雨のときはさらに強く、男は音を聞くようになっていた。



――先輩、先輩? どうしたんですか?


 呼びかけるような声を聞き、男は顔を上げる。

 昼休み手前の会社の中、自分の机でのことだった。新人が持ってきた書類をチェックしている間に、考え事をしてしまっていたようだった。

 ああすまん。こことここ、書き方間違ってるぞ。そう伝え、男はやり直しを命じる。


 この新人は、会社のことをどこか馬鹿にしているような態度の人間だった。

 毎朝ギリギリに出社し、朝礼中もへらへら笑っている。仕事時間中はファッション誌を眺めてばかり。女性社員には先輩であろうとナンパするような口調で話す。そして課長から叱責を受ければ笑いをこらえたような顔で向き合い、終わればSNSで茶化す。

 仕事は最低限に済ませて後は遊んでいたいという性根が見え見えの、そして実際にその通りの人間。

 だが男は、その新人のことを内心で気に入っていた。

 

 ……去年のやつは。

 自分の机へと向き直り、男は思い出す。

 去年に担当した新人は何かあるといちいち大声で返事をして、いちいち直立不動の姿勢を取る新人だった。何かにつけて自分は全力で働いているんですよとアピールしやがる、鬱陶しいガキ。表立っては言わないが、男は内心でそう評価していた。真面目だから、苛立つ。苛立ち混じりに怒鳴りつけたことも一度や二度ではない。

 結局、その去年の新人は、ちょうど今くらいの時期から会社に来なくなった。

 やる気を見せていたつもりなんだろうが、必要ないことまでやろうとするやつは邪魔でしかない、と男は悟った。それに比べれば、言われたことしかやらない今年の新人は楽なものだ。


 そんなことを考えていたからか。

 書類を作り直してきた新人が呼びかけていることに、男は気付かなかった。大声で名前を呼ばれ、ようやく振り返る。


――先輩、大丈夫ですか? さっきから変ですよ。


 書類を渡しながら新人が尋ねた。

 あ、ああ、少し考え事を、な。椅子に座ったまま書類を受け取り、そう言って誤魔化す。

 すると、新人が言った。


――奥さんのこと、心配なんですか?


 新人としては男に擦り寄っているつもりだった。気遣っている素振りを見せよう、と。

 そして男の妻が妊娠中だということは課の人間ならば皆知っていることだから、新人が話題にしたとしても不思議はない。

 だが。


 ……こいつ、まさか、あのことを知っているのか?


 男の頭には、新人が予想もしなかった恐怖がよぎる。

 男の妻が妊娠したのは今回で2度目。しかし男にはまだ子供がいない。

 前の妊娠が死産だったからだ。


 前の妊娠の時。

 男は、電話で、突然陣痛が激しくなったから病院に行く、と告げられた。その時も浮気相手と一緒にいた男は逢瀬もそこそこに切り上げ、病院へと急いだ。

 だが、夕立の中での移動に手間取ってしまい。

 ようやく病院へ駆けつけると、事は全て終わっていた。妻は、妻の両親になだめられながらも、呆然とした顔でベッドに横たわっていた。


 死産のことは会社に伝えないわけにいかなかった。だから、そのときに会社にいた人間ならば死産のことを知っていてもおかしくはない。

 だが、今年の新人は知らないはずだ。誰かが教えていない限り。


 ……誰がこいつに教えた?


 男の顔に暗い影が走る。機嫌を取ったつもりでいた新人は思わず顔を強張らせた。

 その様子を見て男は誤解を強める。

 余計なことはしないはずの新人が、余計なことを知っている。

 誰に聞いた。

 そう尋ねるため、新人に向き直ろうとしたとき。


 ぱき。


 足元で音が鳴った。

 一瞬、目が下を向く。いつもと変わらない自分の足があった。交差点で、ぱき、という音を立てる自分の足。不快な花束のある交差点で。

 苛立ちが沸いた。

 その苛立ちを込めて視線を上げる。新人の腰が見え、シャツが見えた。視界はさらに上へと上がってゆく。だらしのない襟。

 そして。


 その襟の上にあったのは、既にいなくなったはずの、去年の新人の顔だった。


 思わず男は椅子から立ち上がる。

 新人はそのことに驚き、後退った拍子に後ろへと転んだ。


――ああ、あ、あの、す、すいません! 俺、別に変なつもりじゃ!


 新人には理解のできない男の剣幕。ひとまず謝っておけ、と本能で判断する。立ち上がれないまま上体だけ前に倒したため、土下座のような姿になっていた。

 何事か、と、周囲の注目が集まる。

 その気配を感じた男が冷静になって新人を見下ろすと、その顔は元通り、今年の新人のものになっていた。



 午後。

 男は半休を取り、自宅で休んでいた。

 奥さんの出産で気が立っているんだろう、少し休んだほうが良い。課長からそう言われてのことだった。

 そして、夕方。


 電話が鳴った。妻からだった。1年前と同じ、急に激しい陣痛が襲ってきたという連絡。

 タクシーを呼び、病院へと向かう。

 途中、例の交差点を通った。後部座席の窓越しに花束を眺める。

 ……気持ち悪りぃ。

 交差点を過ぎてから心の中で思わずそうごちた。

 すると。


 ぱき。


 音が聞こえた。車の中にいるというのに。そして交差点から遠く離れたというのに。

 雨は横殴りになって、窓に打ち付けている。


 病院に着いた。

 出産には間に合っているはずだった。病院は、何事もなければ連絡を受けてから出産までの間に十分たどり着ける距離にある。

 受付で聞いた分娩室の場所に向かうと、案の定、ドアの前で妻の両親が待っていた。


 しばらく重い沈黙が続く。

 そして。

 おぎゃあ、おぎゃあ、という泣き声が聞こえた。無事に生まれましたよ。ドアを開いた看護師が告げる。

 部屋に駆け込む義父と義母。男も彼らの背中に続く。

 その瞬間。


 ぱき。


 部屋へと踏み出した男の足元で、音が鳴った。


――さあ、旦那さんも抱っこしてあげてください。元気な男の子ですよ。


 一瞬立ち止まったのを躊躇いだと思ったのだろう。看護師が男を促す。

 男は、入り口近くで呆けている義父と義母を回り込むようにして部屋に入った。中央にあるベッドには疲れ切った顔で笑っている妻。そして妻と並ぶようにしてタオルに包まれた赤ん坊。今は男のほうに背を向けている。

 男は慎重に、両手を赤ん坊へと伸ばした。するとまた、音が鳴った。

 ぱき。

 そしてその音とともに赤ん坊が振り返る。


 その顔は。

 一年前の、新人のものだった。



 十数年後。

 男は、自分のほうを見ようとしない看守たちへと無言で頭を下げ、刑務所の門を出た。


 妻、いや、元妻が出産したときに子供の顔が新人のものに見えたのは一瞬だけで、その後は普通の赤ん坊の顔になっていた。

 そして子供のいる生活に慣れたころ、浮気相手の部屋を訪れ、子供ができたのだから今までの関係を清算してほしい、と別れ話を持ちかけた。

 それが直接のきっかけだった。


 一方的な別れ話に激昂した浮気相手は、1年前に隠蔽を手伝わされた証拠を警察に突き出す、と男を脅した。1年前、つまり、元妻が死産した時期のこと。

 自動車運転過失致死、死体遺棄、そして交通事故報告義務違反。初犯でも実刑を免れない犯罪の証拠だった。


 子供が生まれる直前に起きていた轢き逃げは男とは関係がない。だが、世の中に起こる轢き逃げ事件はその一件だけではない。

 激しい雨で現場の血の跡が洗い流されたならば、そして死体が隠されたならば、事件として発覚しないこともあり得る。

 まだ運転をしていた頃。夕立の中を急いだ道。浮気の発覚を避けるため、隠すことに決めた死体。同じ時期から会社に現れなくなった、かつての新人。そして浮気相手に隠してもらった、証拠。


 ぱき、という音が聞こえた。


 気が付けば男は浮気相手を殴っていた。床に倒れ、死んだように動かない。

 男は自分のしたことが理解できず、自宅へと逃げ帰った。

 だが、浮気相手は生きており。

 警察に全てを打ち明けられた男は、逮捕され、服役することとなった。


 そして服役中、会社から、横領した金を返すよう要求された。会社にある男の机から過去に男が会社の金を使い込んでいた証拠が見つかった、というのが会社の言い分だった。

 男には全く身に覚えのない話だった。だが、男の話を信じる者は周囲にいなかった。弁護士を雇おうにも、新人の遺族、そして元妻への賠償金に追われていた男には雇えるだけの金がなかった。

 結局、会社への賠償金は男の両親が支払うことになった。そして今、両親は貧しい老後を過ごしている。

 男には、これから暮らすための財産も、頼れる身寄りもない。子供の親権は、当然、元妻に取られている。


 当てもなく歩いた男は、やがて、例の交差点にたどり着く。

 もう、花束は添えられていない。そして空は、夕立はおろか雨粒一つ降りそうにない、晴天。

 かつて自分を狂わせた謎の音は、もう、聞こえる気配さえない。


 男は、自分と世の中との結びつきが完全に失われていることを悟った。

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