第二話
今から十五年前。
手柄をたてて褒美をたくさんもらってくるぞ、と意気込んで戦に向かった父親は帰ってこなかった。それから女手一つで子供達を育ていた母親は、ある朝冷たくなっていた。
一弥たち残された子供は、ばらばらに親戚に引き取られた。
他のきょうだいがどう過ごしているかは分からなかったが、自分よりましな扱いを受けていることを願いながら、一弥は厳しい日々をかろうじて乗り越えていた。
もうこれ以上は耐えられない――逃げることばかりを考えるようになり、いよいよ決行しようとした新月の夜に、一弥の住む村が、物の怪に襲われた。
大人の二倍はあろうかという、巨大なムカデの群だった。どこから湧いて出たのか、十数匹の巨大なムカデは屋根や壁を食い破り、村人に次々襲いかかった。
悲鳴や絶叫、ムカデが這い回る足音で阿鼻叫喚の様相を呈している村から、一弥は命辛々逃げ出した。
逃げ出したものの行く当てはなかった。たどり着いた町で、些細な雑用の仕事を何とか見つけて糊口を凌いでいた。
養父母となったおじとおばは冷たく、食事は出してくれるものの、食べ盛りの一弥には物足りなかった。文句を言えばぶたれるし、泣き言を口にしても殴られるから、一弥は余計なことは何も言わず、ひたすら日々を耐えていた。
それでも、毎日食べるものがあって、屋根の下で眠れていた。日常的にこき使われることはなくなったものの、夜露をしのげる場所がないのは、つらかった。
だけど――と、町外れの小さな家の軒下で、抱えた膝の中に顔を埋める。
これは、報いなのかもしれない。ムカデの物の怪を村に呼び込んだのは、一弥かもしれないのだから。
一弥につらく当たる養父母から、辛くて苦しい日々から逃げたくて、でも逃げ出せなくて、その状況が変わることを願い続けていた。心の底で、一弥に優しくない二人の死を、きっと願っていた。
一弥のそんな暗い願いを、物の怪がかぎつけたのだ。だから、巨大なムカデが村を襲ったのだ。ムカデは黒光りする胴体をくねらせながら、一弥を簡単にひと飲みできそうなその口で、おじの首を食いちぎり、おばの腹をごっそりとかじりとった。
「俺のせいだ……」
きっとそうに違いない。望んではいけないことを密かに望み、それが叶えられてしまった。一弥の罪となってしまった。だから、耐えるしかない。
でも、耐えるしかないのだろうか。親戚の元に行くことになったのは、両親が死んでしまったせいだ。けれど、父が死んだのも母が死んだのも、一弥のせいではなかった――。
ふと、肌寒く感じて身を震わせた。
いや、本当に寒かっただろうか。今宵は雨は降っていないが、蒸し暑い。なのに何故。
その時、遠くで大きな音がした。大きく堅いものが崩れるような音だ。屋根とか、壁のようなものが。
「まさか――」
一弥は立ち上がった。何かが崩れるような音は、さほど遠くないところから聞こえてきた。そして、悲鳴。あの夜に何度も聞いて、今も耳の奥にへばりついている、心を抉られるような声が、夜を切り裂いて響き渡った。
気が付けば、一弥の足は声がする方に向かっていた。物音と悲鳴を聞いて目覚め、何事かと家の外をのぞく住人の姿も見え始めていた。
あの夜と違って、今夜は月明かりがある。そして、ずっと野外にいた一弥は、すっかり夜に目が慣れていた。周囲の状況は、昼間とさほど変わりないほど見えている。
通りに四つん這いになり、助けを求める人の姿があった。
「助けて! 化け物が出た!」
駆けてくる一弥に、すがるように手を伸ばす。結っていた髪はぼさぼさで、額から血を流している女性だった。ムカデに食い殺されたおばと歳が近い。おばに助けを求められていると一瞬錯覚し、一弥の足が止まる。
そしていきなり、冷静になった。
女性は化け物と言った。得物も持たない一弥のような子供に、化け物相手に何ができるというのか。
尋常ならざる様子に、近隣の住人が集まりつつあった。誰かが女性に手を貸して立たせている。その間も、彼女は自分の家を指して、旦那と子供がまだ中にいるのだ、とまくし立てていた。
家の中からは、さっきまでしていた物音が聞こえなくなっていた。悲鳴も、いつの間にか聞こえない。それが何を意味するのか一弥は気付き、背筋が寒くなる。
「じゃあ、俺が様子を見てくるから――」
元気の良さそうな若者が腕まくりをして、開け放たれた戸口から入ろうとした。
「だめだ、危ないよ!」
ここまで夢中で駆けてきた訳の分からない勇気はすっかり萎えていたが、それでも声だけは出せた。
その場にいた大人たちが、一弥に怪訝そうな目を向ける。
「どこの子?」
「さあ、見かけないなぁ」
「あの身なり、浮浪児だろう」
ひそひそと話す声は、奇妙なほどよく聞こえた。大人たちの視線が痛い。でも、家の中には化け物がいる。間違いない。そしてその化け物は、あの人の家族を――。
一度は足を止めた若者は、肩をすくめて中へ入ってしまった。
その直後、彼が入った家の屋根を突き破って、黒光りするものが飛び出してきた。
あっという間に周囲が悲鳴に包まれる。
「うあ、ああ……」
月が明るい夜だから、余計にはっきりとその姿が見えた。
村を襲った、巨大なムカデだった。
家から飛び出してきたムカデは、通りの真ん中に着地した。大人たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。さっきはあんなに動いた一弥の足は、今は少しも動かなかった。
ムカデは、一弥の目の前にいた。闇を閉じこめたような目が、彼を見据えていた。足が動かないのは、恐怖のせいなのか、ムカデに金縛りでもかけられたからなのか、分からなかった。ただきっと、あの夜に食べ損なった一弥を食べにきたのだ。
ムカデが大きな口を開け、無数の足で地面をひっかいた。
ああ、もう終わりだ。
巨大な口が迫ってくる。痛みを覚悟して目を瞑った。
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