空が晴れである限り
永坂暖日
空が晴れである限り・前編
気持ちよく晴れた空の下に、それにふさわしくない音が響いていた。
死の宣告のように重苦しい音。それに比べるとかわいそうなほど小さく、必死な足音。
一人の少女が、岩と泥でできた人型の化け物に追われていた。化け物の大きさは、少女の優に三倍はある。化け物は手も足も長いが、長い故に、素早くは動かせないらしい。少女が額に汗を浮かべながらも逃げられるのはそのおかげではあったが、化け物との距離は少しずつ縮まりつつあった。
結んでいた髪はいつの間にかほどけて、走る勢いと風にもてあそばれてぼさぼさだった。けれど、少女にそれを気にする余裕がないのは誰の目にも明らかだった。
目尻からこぼれる涙を、風が無慈悲にさらっていく。化け物が無造作に伸ばした手で、彼女の頭上に影が落ちる。より近付いてきた化け物の足音も相まって、死への恐怖が否応にも膨らんでいく。走り続けてきたせいで、体力の限界にも近付きつつあることを、少女は嫌でも感じていた。
周囲には人影どころか、町もない。助けなど期待するべくもない。もうだめだ――絶望的な気持ちで覚悟したときだった。
甲高い雄叫びが頭上から降ってきた。直後、何か重く大きな物が砕ける音と、崩れ落ちる音が少女の鼓膜と体を振るわせる。
振り返り、彼女は目を見開いた。自然と走る勢いが弱くなる。
先程まで彼女を執拗に追いかけていた化け物の胴体にぽっかりと穴が開き、体をのけぞらせていたのだ。長い足は動きを止め、両腕をだらりと垂らしている。
何が起きたのか分からず、少女は何度も目をしばたたかせた。そして、化け物の向こうに、化け物とは違う、人型の異形がいるのを見つけた。
異形とはいうものの、化け物に比べればずっと小さい。大柄な人くらいだ。泥と岩ではなく、機械でできたロボットのように見えた。
高いところから飛び降りたあとのように片膝をついてしゃがんでいたロボットが、おもむろに立ち上がる。その時点では、化け物に背を向けていた。けれど少女が息を吸うよりも早く、化け物の足に回し蹴りを食らわせる。
左の足首を砕かれた化け物は、背中から地面に倒れた。その直前に、ロボットは化け物から離れて、跳躍する。どうするのかとその行方を目で追うと、ロボットは右足をまっすぐに伸ばし、化け物の喉元につま先を食い込ませた。
化け物の体が大きくはねる。攻撃してくるロボットを振り払おうと、手を振り回す。しかしロボットは化け物の体に密着するように身を低くしてそれをかわし、まだ胴体と首とを繋げている喉を、右手で掴んだ。
強い風が吹き抜けるような音が響く。化け物が体をのけぞらせて、悲鳴を上げているのだ。
少女が、化け物の悲鳴を聞くのは初めてだった。それでも悲鳴と分かったのは、生き物が命の危機に放つ切迫感に満ちていたからだ。
悲鳴はすぐに小さくなり、聞こえなくなった。のけぞっていた体は地面に沈み、岩と泥は、急速に水気を失ってさらさらと崩れて、砂に変わっていく。少女の髪をもてあそんでいる風が、同じように砂をさらっていく。
声も出ない少女の前で、ロボットがゆっくりと立ち上がり、こちらに向き直った。
口と鼻はないが、横長の長方形をした目はあった。目、というか、人間であれば目がある位置に、長方形があった。うっすらと白く光っている。
化け物を倒してくれたようだ。だけど、果たして味方なのだろうか。それとも、命がけの追いかけっこを、再びしなければならないだろうか――。
「大丈夫? 怪我はない?」
ロボットは手を差し伸べて、そう言った。機械的な響きだが、思いの外声音は優しい。
緊張の糸が途切れて、少女は意識を手放した。
●
「……なぜ気絶する?」
砂の山の近くで卒倒した少女を前に、ロボット――ではなく、その中にいる者が、呻いた。
「彼女は恐らく絶体絶命の危機にあったのに、訳の分からない存在が現れて助かったのです。安心したあまり意識をなくした――かもしれませんが、訳の分からない存在を受け入れがたく、己の心を防御するために気絶したのかもしれません」
淡々と答えを返したのは、呻いた声とは別の声だった。ただし、この場には少女がロボットだと思った人型の異形、それしかいない。
「ちょっと。訳の分からない存在というのは、もちろん自分のことを言ってるんだろうね、マス?」
「ヴィオ、私はあくまであなたのプロテクターであり、支援AIです。常人ではおよそ倒すことができない地球外来種を倒したあなたに、少女が恐れおののいたとしても不思議ではありません」
マスと呼ばれた声の主は、あくまでも淡々としていた。
「あの子が見たのはあくまでプロテクターでわたしの外側を覆ってるのあんたなんだから、あの子が訳の分からない存在と思ったのはあんたでしょうが!」
「ヴィオ。少女が気を失っている以上、この言い争いは不毛です」
「ああ、もう! あんたを殴りたい気分だけど、できないのが悔しい!」
「わたしは殴られても構いませんが、ダメージはあなたにも及ぶので、殴りたいと思うこと自体が不毛です、ヴィオ」
「そういう物言い! なんでいつまでたってもあんたはそうなの!」
ヴィオは文字通りに地団太を踏んでいた。行き場のない苛立ちを晴らすためでもあり、殴るに殴れないマスへの、ささやかすぎる腹いせだった。
「もっと建設的なことをしましょう、ヴィオ。あの少女は、おそらくしばらく目を覚ましません。『食事』をする絶好の機会といえます」
ドスドスと地面を踏みつけていたヴィオが、ぴたりと動きを止める。
「――今はいい。あの子は貴重な『食糧』なんだ。別にお腹は空いてないし、今慌てて『食事』を取る必要はないよ」
「ヴィオ。あなたはそう言って、いつも『食事』を取りません。わたしがあなたのために作られてから七十年間で、一度も」
「……お腹が空いてないんだよ、七十年間、ずっと」
ヴィオは光る横長の目で、ぐったりとして動かない少女を見た。
十四、五歳くらいだろうか。手はほっそりとしていて、体も細い。背はそれほど高くない。このご時世、満足な食事ができている人間は少数派だ。食べ盛りであろう年頃の少女の体を見れば、その少数派でないことは明らかだ。体力も十分ではないだろう。それでも地球外来種から逃げ切ったことは、称賛に値する。
――いや、それだけ必死だったのだ。
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