第三十五話 君と連理の木の下で

「俺少し向こうのほう見てきていい?」

「はい、終わったら追いかけますね」

「了解」


 

 

 朝の支度をするティーニャに断って、ふにゃふにゃと柔らかい丘を下っていく。昨夜眠れなかったティーニャは少し寝坊をしたからか、跳ねた寝癖と格闘している最中だった。


 歩きにくい足元に気を取られながらも丘を下りきる。朝のこの場所は夕暮れと違って爽やかな青空が広がっていて、空高くには彩雲が見えた。



 

「広いな。これどこまで行けるんだろう」


 


 水瓶の下に広がっている空間は際限なく、地平線の彼方まで続いている。もしかしてこの空間の下にもまた別の世界があるのだろうか。世界が地層のようになっているのだとすれば、まだまだこの世界には未知の世界が広がっているのかもしれない。


 あまりに巨大すぎる未知の空間に寒気に似た恐怖を覚えながら、ティーニャのいる丘の上を見上げる。


 あまり遠いところには行かないほうがいいな。あの一番大きい木の下まで行ったら戻ってこよう。



 

「本当に不思議な世界だな……」


 


 空を見れば上空で羽の生えたネズミが何かを運んでいる。現実ではあり得ない景色は普通なら恐ろしくなるはずだが、そうは思わなかった。むしろ本能的にここは安全な場所だとわかっているかのように心が凪いでいて、それも含めて不思議な世界だと感嘆した。



 

「連理の木か、珍しい」


 


 少しずつ見えてきた大樹は入り口の近くにあった木と同じように宝石……恐らくダイヤモンドで出来ているらしい。



 

「花……薔薇の木?」


 


 ほんのりと香ってくる甘い匂い。

 陽光を反射して眩く煌めく花を見上げながら歩みを進める。はらはらと落ちていく金剛の花弁を目で追っていると、木の根元に古い石碑があった。


 

 

『我が華の一族は天馬と共に。生命の花を永遠に捧ぐ』


 


 古びている割に綺麗に残っているそれに首を傾げる。

 華の一族?天馬に関わるのは光輝の侯爵家じゃないのか。

 少し屈んで目を凝らすと苔に埋もれた場所に誰かの名前が書いてあるのが見えた。


 かなり風化しているし昔の名前だから読みにくいけど……



 

「アン……ブリュ……アンナブルナ」


 


 見覚えのある名前に目を見開く。アンナブルナ、公爵家の蔵書に書いてあった天馬を生み出した張本人。

 確かあの本にはアンナブルナは石の一族の娘だと記されていたはず。


 なのになぜ華の一族だと?


 ふと歴史書の一節が頭をよぎる。

 


『使い方を間違えば他国だけでなく自国も滅ぼす強大な力に、アンナブルナは制約をかけた。それを動かすことができるのは、国に身を捧げる覚悟のあるものだけだと』



 国に身を捧げる、心を捧げる、似た表現だがニュアンスが微妙に違う。


 もう一度ダイヤモンドで出来た薔薇の木を見上げる。甘い匂い。あと少しで何かが繋がる気がする。


 美しい薔薇。身体と心。王室の象徴にもなっている薔薇と同じ色をした淡い桃色のダイヤモンド。


 


「グエンー!お待たせしました!」



 

 ぼんやりとした輪郭が確かな形を持ち始めたそのとき、ティーニャが俺を呼ぶ声が聞こえてきた。

 ハッと上を見上げると、ティーニャが髪を靡かせながら手を振っていた。


 支度が済んだのか、もうそんなに時間が過ぎていたなんて。

 

 丘を下るティーニャを俺は木陰から離れて出迎える。


 


「髪は?結わないの?」

「折角ですしグエンにやってもらおうかと」

「随分甘え上手になったじゃん」

「グエンのおかげです」



 

 ふふんと得意げな顔に笑みが溢れる。

 何か大事なことを思いついた気がするけど、それが何だったのか全く思い出せない。

 

 まぁいいや、思い出せないって言うことはその程度のことだったのかもしれない。


 一段と強い風が吹き抜けてティーニャの髪をゆらめかせる。西から輝く朝日を浴びた彼女の肩に手を伸ばせば、すりすりと細い身体が擦り寄ってきた。


 


「こちらにどうぞ、俺の乙女。こら、動かないの。髪引っ張られちゃうよ」

「ふふ、いいんです。失敗したら何度でもやり直してくれるでしょう?」



 

 それもそうか。

 刺繍の花が揺れる草原に腰を下ろすティーニャの柔らかな髪を丁寧に編んでいく。


 川が上流に流れていく音。西から射す朝日。地面から吹き上げる風。全てがあべこべで可笑しなこの世界を見て、ティーニャは何を思っているのだろう。



 

「おかしなことを言ってもいいですか?」

「どうぞ?」

「私、以前もここに来た気がするんです」



 

 ティーニャはふわふわと昨日見た夢を語るように言葉を紡ぐ。



 

「この不思議な大地を駆けて、不思議な空に笑って、不思議な世界に目を輝かせたんです。以前もきっと、グエンと」

「……それを変だって言ったら俺も変なことになっちゃうな」

「グエンも?」



 

 意外そうに声を上げるティーニャに頬が緩む。

 彼女がそう思うのも無理はない。それほどにこの空間は優しくて、懐かしくて、物悲しい。


 貧しかった幼少期。蝋燭一つの灯りしかない部屋で、子守唄がわりにと親に聞かせてもらった御伽噺の色褪せた思い出。それに似たこの御伽の世界のことをきっと俺はずっと幼い時分から知っている。


 この場所だけじゃない、ここで触れた滑らかな髪の柔らかさも手のぬくもりも笑顔の儚さも、俺はずっと夢に見てきた。


 


「俺はティーニャのことをずっと前から知ってたんじゃないかって思ってた。覚えていなかっただけで」


 


 馬鹿な妄想だと言ってくれて構わない。現実的に考えたらそんなことはあり得ないし、恋に溺れた愚かな男が都合の良い思い違いをしているだけなのだろう。


 それでも俺は本気でこんな馬鹿げたことを信じていた。ティーニャと出会ったことも恋に落ちたことも全て、運命だと思いたかったから。




「だからあの日、私に声をかけてくれたんですか?」

「そうかも。本能的にわかってたんじゃない?」



 

 そう。運命だと思えば、愛する女を手にかけなければならない苦しみにも耐えられる。



 

「嬉しい、グエンも同じこと考えてたんですね」


 


 コロコロと鈴を転がすような声。その声が出ている喉笛に優しく手を重ねた。


 今この手に力を込めればティーニャは死ぬ。その可憐な顔立ちを苦悶に歪ませて、憎らしい瞳を絶望の色に染めて、俺の腕の中で息を引き取るのだろう。


 なぁティーニャ、このままこの連理の木の下で二人一緒に死んでしまおうか。



 

「グエン?」


 


 警戒する様子もなく首を傾げるティーニャの白く細い首を見下ろす。

 

 ティーニャの正体を知ってから何度も想像した。忌々しい天馬の面前で冷たい刃を柔らかな肌に突き刺すその感触、吹き出す血の熱さ、この娘が死ぬときの末期の呼吸を事細かに想像した。

 

 想像するたびに恐ろしくて汗が吹き出た。ただの妄想のはずなのに俺はそのとき確かにティーニャを手にかけていて、俺の腕の中でその瞳から命が消えていたから。

 そうして我に返るたびに俺はティーニャのあたたかさを感じて安堵したのだ。


 


「……髪、ついてたよ」



 

 パッと手を離し、首筋についていた短い髪を摘んで見せてやる。

 あぁ、とティーニャは納得した様子でふわりと笑った。


 


「ありがとうございます。最近ずっと整えられてないから髪も伸びっぱなしなんですよね」


 


 特に何かに気づいた様子もない。よかった、怪しまれなくて。

 気を取り直して結い終えた毛先を紐で軽く縛ってやる。うん、綺麗にできた。


 


「はい完成。見てごらん」

「ありがとうございます!やっぱりグエンにやってもらうのが一番ですね」


 


 風が吹く。彼女の髪が揺れる。編み込まれた髪は一瞬だけ美しい白銀に輝いた。


 


「それじゃあ、そろそろ行きましょうか」

「うん、そうだね」

「あと少し頑張りましょう!街はもうすぐです」


 

 

 桃色の瞳も白銀の髪も驚くくらいに彼女に似合っていて、俺は少し、腹が立った。

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