第二十一話 懺悔

「この分だと、予定通りに街に着きそうですね」

「多分ね……あ、こら動かないで」


 


 食事も終え、寝支度も済ませた。


 薄暗い部屋にはランプが一つあるだけで、外は夜のカーテンがかかったように近くの民家さえ見えないくらい真っ暗だった。



 グエンの手が私の髪を掴んで、恐る恐る櫛を通していく。


 


「そんなに怯えなくても簡単に抜けたりはしませんよ」



 

 それよりもあんまりじっくりと髪を見られる方が少し困る。染めてまだ然程経っていないとはいえ、根本が伸びてたら白髪みたいに見えてしまうし全体の色が薄くなってる可能性もある。


 今更グエンが私の正体を知ったところで態度を変えるとは思えなかったけど、やはり本来の自分を知られてしまうのは怖かった。


 


「はい、終わったよ」

「ありがとうございます」

 



 ガチガチになりながら櫛を握っていたのか、明らかにグエンから肩の力が抜けたのが分かる。


 硝子細工のように優しく触れられるのはくすぐったくもあり嬉しくもあった。


 


「もう、夕方に何回もキスしてきた人と同じだとは思えませんね」

「うるさい。あれはずっと機会をうかがってたから……仕方がないだろ」

 



 グエンがずっと私にキスをしようとしていたのは勿論知っていた。けれども度々邪魔が入ったりするうちに分かりやすく落胆するグエンが可愛くて、敢えて私からキスをすることはしなかったのだ。


 でも、ファーストキスがあの高台の上で良かった。あの美しい景色、胸を締め付けられるような感覚、誰に心を捧げてもあの瞬間だけは一生忘れないだろう。


 


「私、今日がファーストキスでよかったです」

「……俺も。馬車の中でなんてしたら歯をぶつけるかもしれなかったしね」

「痛い思い出になっちゃうところでしたね」


 


 櫛とヘアバンドを片付けて荷物を整理する。グエンからもらったヘアバンドはいつも部屋にいる間はつけることにしているけど、流石に眠る時は破れたらいけないので外しているのだ。


 


「そろそろ寝よう、明日も早いから」

「そうですね」

 



 転けたらいけない、と私を抱えてベッドまで運んでくれるその過保護さが嬉しくて、ベッドに下ろされてもグエンの首から手を離さない。




「ふふ、捕まえましたよ」


 


 驚きに目を見開くグエンの唇にキスをする。自分からするのは恥ずかしいものなのかと思ったけど、意外なことにキスをされるよりは恥ずかしくなかった。


 


「グエンと旅を始めてから、私はすごく人生がたのしいんです。生きてるって実感できて、グエンを見るだけでドキドキして、本当に幸せ」


 


 何度言っても言い足りない言葉を連ねてもう一度キスをする。少しカサついた薄い唇を、夕方にグエンがしたように唇で食む。なるほど、確かにこれは少し楽しいかも……グエンがさっき何度もした理由がなんとなく分かった。



 一通り楽しんで唇を離せば、恨めしそうに私を睨みつけるグエンの瞳と目が合った。


 


「このお転婆娘」

「嫌でしたか?」

「わかってて聞かないの」

「ふふ、ですよね」


 


 仕返し、と落とされたキスは言葉とは裏腹にとてもやさしい。

 心の望むままにグエンに抱きついてその背に手を回したところで、ふとグエンがベルトを外し忘れていることに気づいた。


 


「グエン、ベルトつけたままです。外さないと寝苦しいですよ」

「あ、忘れてた」

「ナイフも入れっぱなしであぶないですよ」


 


 護身用であろうナイフはグエンの右手側の腰の鞘に入れられている。

 一体どんなものを使っているのだろうか。我が家の職業柄武器を見ることは多いけど実物をこんなに間近で見るのは初めてで、思わず鞘に手が伸びた。

 


 途端、聞いたこともない強い口調でグエンが私の手を掴んだ。

 



「触るな!」



 


 ギチギチと手首を握られて、痛みと驚きに心臓がドクドクと脈打つ。


 


「あ……ご、ごめんなさい。不用意なことを」


 


 ナイフは人を殺せる道具だ。もしかすると人に触られたくないものなのかもしれない。


 悪いことをしてしまったな、と手を引くと、何故かグエンは泣きそうな顔をして私を見下ろしていた。




「ダメだよティーニャ、ティーニャはこんなもの触っちゃいけない」


 


 乱雑にベルトを抜いてナイフごとベッドのそばに落とす。刻印も何もないシンプルな鍔やグリップは使い古されているからか、少し輝きがくすんでいた。


 


「……驚かせてごめん」

「いえ、私が悪いんです。ごめんなさい」


 


 グエンは昔軍にいた。世間では輝かしい評判ばかりが取り沙汰されているけど、きっと思い出したくないようなこともあるのだろう。そこに無遠慮に触れてしまった私がいけないのだ。


 それを証明するかのように、グエンの手は小さく震えていた。


 


「……俺は人を殺したよ」

「はい」

「華やかな武功で立身出世した英雄なんかじゃない。生き残るために沢山の異国の人間の人生を奪った人殺しだ」


 


 体温のない冷たい手を握りしめる。大きな手には沢山の傷跡がついていた。


 


「最初は、人を殺したことのある人間に成り下がったと思った。国のため?家族のため?自分のため?誰のためでも関係ない、誰のためでも罪悪感は消えない。俺は人を殺して今を生きてるんだから」


 


 それを言うなら、私だって彼とそう変わらない。私達が民の税で生きているその陰、我が一族が戦争を指揮したその陰で、貧困に喘ぐ民がいる。病気で治療を受けられないまま命を落とす人々や戦争で大切なものを失った民衆、その屍の上で私はここまで成長した。


 でもきっと、彼が求めている言葉はこんなものじゃない。


 


「でも今は違う。俺は醜い人間だよ。こうして懺悔して、ティーニャに嫌われないようにして。全部、そんな俺でも好きだって言ってほしくて言ってるんだ。俺が今一番怖いのはティーニャが離れていくことだから」

「嫌うわけなんてありません。どんな人でもグエンはグエンです」

「うん、ティーニャはそう思ってくれてるって知ってたよ」



 

 燦々と降りそそぐ星々の煌めきはグエンの心の柔らかいところを露わにして、私はそこにそっと手を当てた。



 

「ティーニャと一緒にいるためなら、俺はなんでもする。だから、だからティーニャ……」

「わかってますよ」


 


 私にできるのは、一瞬でもいいから彼が自分のことを許せるようにすることだけだ。



 

「その時のグエンがそうしてくれたから今私は幸せなんです。それに間違いがあるはずがないでしょう?」


 


 彼の背中越しに一等明るい星を見上げる。


 


「不安なら何度でも言います。グエンが嫌になるくらい、私がどれだけグエンに救われてるか」


 


 きらきらと下界の憂き世なんて知りもせずに輝く星に願いをかける。


 どうか彼がこれからの人生を、自分を責めることなく生きられますように。


 


「愛してます。グエン」



 

 


 ***



 



「辺境伯、村に配置したメンバーによるとジャック殿は間も無く藍苺の街に入るとのことです」


 


 ジャックが都を出て凡そ1週間。彼の旅路は順調なようだったが、肝心の標的の所在については一つの情報も得ることが出来ていなかった。

 



「そうか……で、まだ乙女の居場所は見つからないのか」


 


 各村に配置したメンバーはかなり念入りに目を光らせているらしいが、一向に乙女らしき人間の情報は入ってこなかった。


 流石はあの小憎たらしいグレース侯女の妹、易々とは殺されてくれないらしい。


 


「はい。酒場の人間にも聞きましたが、村に来たのはジャック殿とその同伴者のヘーゼル色の少年を含め皆男性ばかりだそうで……」

「……同伴者?」

「ええ。ご存知のように彼は家族を庇うために身元を隠しているのですが、我々に居場所を伝えるために錦鱗の港で出会った少年にヒルデの騎士を名乗らせて隠れ蓑にしているようです」


 


 ジャックに同伴者がいたのは初耳だった。が、考えてみれば納得のいく話だった。


 わざわざ偽名を名乗ってまで家族を守ろうとするあの男だ、おそらく都で会ったときに勲章を持っていなかったのもその少年に預けているからだろう。彼は平民出身だが賢い男だ。


 ……だが、ここまで情報がないとなるとジャックの働きが足りないからではないかと思えてしまう。



 

「レイモンドはもう藍苺の街にいるな」

「は、馬を乗り継いで既に到着しているかと」

「レイモンドに伝えろ。乙女の情報を伝える際にジャックの尻を叩けとな。くれぐれも念押しするように。伝書鳩でも飛ばせばすぐだろう」

「承知しました」


 


 そう言って護衛の男が部屋から出て行ったのを確認して、深い溜息を吐いた。


 そもそも桃色の瞳の女など存在するのか?

 生まれて50年以上経つが、そんな瞳の人間は見たことがない。


 


「どこまでも私を悩ませるな、あの一族は」



 

 どこかで野垂れ死んでくれていたなら楽なものだ、と葉巻を薫せる。




 ちっとも美味くない苦味を噛み殺して、私は残りの公務に手をつけたのだった。

 

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