パリ五輪、柔道団体の試合のYoutube動画に溢れる糞コメについて

島尾

柔道が論理的構築の産物であること、およびそれを全世界で競っていくことは、単なる闘争ではない。

 熊が現れたとする。そしてそこは深山みやまの中であり、山菜採りをしに来ただけなので武具の一つも持っていないものとする。その熊が何らかの理由でこちらに襲い掛かったとする。

 ここで、もし何も知らない山菜採りであればどう考えても死を免れることは難しい。一方で、何か方法を知っていて且つ身体能力のある山菜採りであれば九死に一生を得る可能性が芽生える。先人が編み出した様々な武術は、源流を遡ってみれば畢竟、非人でかつ人より圧倒的な力を持つ対象と対峙し、勝利する(勝利する確率を急激に上げる)ための護身方法だったはずだ。ゆえに(誰もが知るように)柔道含め多くの武道は「護身術」と呼ばれているし、この令和における科学技術の急速な発展とそれに伴う快適便利で安全な生活が送れている中であっても、武道の源流、すなわち生死を分かつ局面に立つ一人の類人猿が、その命をつなぐために一つ一つ開発し研鑽を重ねてきた多種多様の技術であることは不変だ。この大前提を、日本の武道に関わる者、そして世界の同様の者も必ず認め、心得ておかねばならない。さもなければ「武道」という巨大な楼閣の基礎部分が泡のように消滅することを意味し、先人の拓いてきた武道の技も心も瞬く間に崩壊する。


 昨日、パリ五輪の柔道団体決勝並びに3位決定戦が行われた。それら3試合に出場した各国6人ずつの選手は、すべて3対3という引き分け状態に陥った。これは選手からすれば悪夢であり、観客からすれば最高の娯楽である。この時点で観客がわきまえるべき態度は、純粋に選手を応援する心を持つことである。それはもはや国の違いなど関係なく、どちらかが勝利しどちらかが敗北する運命が分かり切っている2人の様子を、一観客たる自分自身の確固たる信条に基づいて祈り、応援せねばならない。私の場合は、弱い者が負けることが嫌なので弱い者を応援する。もちろんそれは2者間の相対的な強弱の差であり、素人から見ればその強弱の差を正確に認識することはほとんどできない。また、私が弱い者を応援する最も深いところの理由は、強者を獣と定義するからである。その理由は先に書いた武道の源流に沿ったものであり、「いかに熊から自分を護るか」ということを至極論理的に考えながら挑むのはやはり弱者側であるからだ。人によっては強者を応援する場合もあるだろうし、その理由を持っている人もいるだろうと思う。


 3位決定戦において、まずブラジルとイタリアの試合が行われた。イタリアは前回大会初戦敗退に終わったと聞いて、かなり実力を付けて臨んだのだと感じた。イタリアが2対3で劣勢な中、白人の選手がブラジルのベテランを投げ飛ばして五分に戻した。そのシーンはまさにオリンピックの場だなと感じた。そしてその後の代表選、イタリアにとっては運悪くブラジルの強者と対戦することとなった。開始から14秒であっさり点を取られたイタリアの白人選手は手を震わせて泣き崩れた。それを励ます仲間たちの姿を、私は素晴らしいと思ったし羨ましいとも思った。一方のベテランのブラジルの黒人選手は、絶対に決めて銅を取るという気迫、ならびに銅を取れる状況でもし逃したらという恐れ、他の選手を思う心などがあっただろう。弱い選手に一縷の隙も見せずに即勝負を決めた裏には、確率的にはありうる恐ろしい悪夢を回避することもあっただろうと思われる。この試合でイタリアが収穫したものは明らかに実りあるもので、今後さらなる飛躍を遂げることだろうと思う。

 続いて韓国とドイツが試合を行った。ドイツは前回銅とはいえ、韓国は強力な選手を揃えていたし、なにせ隣国日本すなわち柔道発祥の地の影響が多分に大きい土地でもある(多分)から、私は韓国がすぐに勝つだろうと楽天的に構えていた。ところが、西洋の真面目な者たちはまたしても諦めることをしなかった。何回目かは忘れたが石のように構えて相手が飛び込んでくるところを待ち構えるスタイルの韓国選手がいた。その選手と対戦したドイツ選手はみるみる体力を奪われて、見ていて心が痛んだ。しかし最終的にはその石のような韓国選手になんとかして勝利した。終了した際の息の荒げ方は、まさに地獄から這い上って命拾いした蟻であった。そしてそのまま決して諦めなかったドイツは、またも3対3の五分に戻して代表戦に持ち込んだ。すべては無慈悲な確率に委ねられたわけである。ルーレットは何の感情もなく無慈悲に回転し、停止した。代表選は石の選手 対 石に辛くも勝利した蟻の選手。この瞬間を比喩するならば、ようやっと地獄から這い出た奇跡の蟻が、一陣の気まぐれな風に吹かれて再び地獄に落ちたといえよう。あるいは、悪夢の中でもがき苦しみつつも脱出成功した遭難者が、背後から音もなく忍び寄った悪魔の、ひるのような触手によって、一瞬に先ほどの恐ろしき悪夢にすぐに引き戻されたといえる。神は遭難者を見捨てた。キリストは2度も彼に慈悲を与える余裕はなかった。とうとう対戦が始まって、またしてもとんでもなく長い時間を戦い、例の、石のような韓国選手が作り出す、謎めいた深くて暗い闇の峡谷きょうこくの一番底に引き込まれて、とうとう指導3つを喰らって、よく分からないままドイツ選手は悪夢の底に落ちて消滅した。すなわち、韓国がこの瞬間メダルを獲得したのである。いろいろと物申す俗人はいるだろうが、こと、この数分の一戦だけに着眼するならば、やはり、悪夢に2度も呑まれて本当に不幸な思いをしたドイツが敗北を喫した接戦であったと思う。


 決勝は、やはり日本対フランスだった。これは誰もが予想していた展開だっただろうし、私もそうだった。1回目、三四郎の壁は非常に分厚く、ちょこまか動いて壁を倒そうと試みた黒人選手は結局、特に何もできないまま負けた。2回目、世界選手権に出たことの無い高山が、自分よりはるかに重量で勝るディコを脚で倒して技ありを奪った。1回目は日本が壁だったが2回目はフランスが壁だったと感じる。高山は壁を打ち破ったという意味において、真の勝利者と言うにふさわしいだろう。3回目は、どうだろう。壁はどちらだろうか。疑うまでもなくリネールだ。これはフランスの壁というより、柔道界全体の「ぬりかべ」と言うべき存在だろう。勝てばまさに大金星、負けても誰も文句を言えない対戦相手といえよう。斎藤立は、このリネールに果敢に挑んだ。素人の私が見るに、彼はかなり勝利にこだわる持ち主と見える。このような選手であるのに、ここまで勝利(メダル)を収めていない状況だった。ゆえに、相手が「ぬりかべ」だろうが何だろうが彼は思い切って立ち向かったか、あるいは立ち向かおうとしていた。リネールはその圧力を巧みにかわし、立の戦意と体力を消耗させてゆく。ただでさえ力量で勝るリネールがこのように相手を衰弱させる戦法を取れば、立の勝率は時間が経つごとに低くなる一方だ。そしてその見込みは完全に的中し、攻めに攻めた立はあっさりとリネールに倒されて負けた。その瞬間の立の悔しさを、もはや誰も想像することはできないだろう。そしてこれが日本勢で最初の黒星となった。そうはいってもまだ2対1で日本が優勢だったので、リネールに負けたことが直接試合の敗北につながる可能性は0だった。そんな中で4回目、巴投げにこだわり続ける女選手、角田夏美が畳に上がった。何度も、失敗してももう一度というような心持ちで巴投げ、巴投げ、巴投げ。最後に見事巴投げを決め、この4回目を制した。そしてこの時点で、5回目に勝てば金という、王手をかけた日本。その5回目に臨んだ日本人は、個人で連覇達成の偉業を成し遂げた一二三だ。攻撃の柔道で世界から警戒される彼に、どこにも負ける気配など無かった。相手は階級が上だとはいえ、一二三にその差を埋める力が無いとは思えない。練習のときから階級が上の選手と胸を合わせているだろうから、やはりこの試合において一二三のほうが強者であり、そして大きな壁であったと想像される。一二三は勝負で完全に勝っていた。どう見ても相手の腰が引けていたし、一二三が柔道を柔道らしく進めて勝利目前というところまで何度も行った。だが、このオリンピックという場では他の大会と環境が大きく異なることは何度も先人が言ってきたことである。相手は、投げられ投げられ何度投げられても腹ばいに徹した。床に背中を付かなければ、いくら投げたとしても何ら得点にならない。先に一二三を壁と比喩したが、彼は隕石に例えたほうがよかろう。超高速の隕石のように繰り出される攻撃は、フランスのGABAを終始苦しめていた。さて、私は弱いほうを応援するというふうに決めている観戦者だ。よって一二三とGABAの戦い、私は最初からGABAを応援していた。一二三は99.9%勝つだろうから、逆に0.1%しか勝機の無いGABAを応援しようと最初から決めていた。それはまさに、深い山の中で丸腰で山菜採りをしていた類人猿に、いきなり狼が襲い掛かってきた状況であった。その狼に対峙する以外に道は無くなった一人の黒人山菜採り。これを応援せずに、まさか狼のほうを応援する者があろうか。私は一二三のほんの僅かな隙が生まれてくれるように祈りつつ、GABAが何度投げられたとしても必ず腹ばいになるように声を出していた。量産型の素人の口から出まかせは、もはやコントロール不能である。腹ばいに、腹ばいになれ、と、ただただ命令していた。そして、GABAは本当に奇策としか言えない方法によって、一二三、すなわち襲い来る狼を、奇跡的に倒したのである。すなわち、押し込んで倒した。この奇策を狼が予想していなかったことは、狼すなわち一二三の対戦後の顔に浮かんでいた。フランスは奇跡的に5回目を制し、6回目へのたすきをつなぐことを成し遂げた。このあたりから、私はフランスの防御一辺倒に見える対戦態度が必ずしも消極的ではなく、策略という意味で「積極的」なのではないかと思えてきた。解説の大野が何度も言っていたように、確かに柔道は「投げてこそ」だと思う。そのほうが見ていて圧倒的に面白いし、やってみたいと思う子供が次々に生まれる光景だろう。しかし、「投げる」ということと「投げにいく」ということは同値ではないという気がしてきたのである。その理由を書く。

【私は、三船十段の解説動画をyoutubeで見たことがある。師は、柔道の根本は球である、と説いておられる。球はいくら転んでも重心は必ず、ある一つの平面上を移動するだけである。「引かば押せ、押さば引け」というのは昔から武道の極意として言われている言葉のようで、球の性質を基にして柔道の極意を説く師は、さらに正確に「引かば回れ、押さば斜めに」と言い直して弟子に教えている。私はこれを聞いて、ベクトルを思い浮かべた。「内積0なら90°、90°なら内積0」と書けば、高校2年生以上の学力がある者は感ずくはずである。まず。「引かば回れ」。相手が引いたときに押すことは、2物体を1集合の物体と見なす(2物体がくっついたら1つの物体と考えることができる)場合に、その合力を0にする。しかし合力0の場合、2物体は作用線に沿って移動するのみであり、倒れることはない。「回す」というのは、厳密には「押しながら回す」と表現すべきであり、そして「回す」ということのベクトル解析的な意味は、作用線と垂直の方向に力を加えるということである。垂直(すなわち、90°)というのが極めて重要である。内積0ということの根本的意味を考えると、作用線と全く関係のない(つまり、関係性がゼロの)別の線上に力を発生させるということである。相手はその線を当然予想できない(もし予想できるなら彼は未来から来た人である)から、すなわちその方向に対して合力が0となることはありえない。合力が0ではなく何かしらの値を持つということは、相手が倒れる可能性が激増するということではないだろうか。相手からすると、自分の戦っている線の上で押されている中、さらに輪をかけて、自分とは全く関係のない横方向からも不意打ちの力が加わるということになる。これをしのぐのは簡単ではないだろう。同様に「斜め」に関しても作用線の接線方向と垂直方向が存在し、垂直方向の力が相手にとって大きな脅威となる。】

 すなわち、「投げにいく」というのは「押す」という意味を孕んでいるものであり、三船師からすれば、「斜めに」すなわち斜めに引いて転がす、という勝利方法を使うのみである。攻撃的な心身を型とする者の欠点はここにあると私は考える。ただ攻撃しているだけではかわされるし、それだけでなく「斜めに」、すなわち横からの不意の力の成分を含んだ攻撃に対処するのが非常に難しくなると考える。かといって引けば引いたで三船師は「回る」、すなわち押されながら尚且つ横からの不意の力を喰らうことになって対処がまたしても極めて難しくなる。フランスの柔道家はよく止まったり、組み合わない(これは世界全体に言えよう)ことがある。これは決して単に消極的で意気地なしの怖がりという意味ではないという考えが私の頭から湧きだした。押しても引いても、それにぴったりはまる策が既にあると理解しているのであれば、あえて見かけ消極的な態度を取らざるを得ないのではないか。そしてまたここで武道の源流、すなわち山の中で熊に出くわしたときの護身術を考える。すると、熊と互いに見合っている状態や、勝負を放棄する態度というのは、よく考えれば護身そのものではないか。戦うのではなく、ただ見合ったまま数分後に熊が去る、または襲い掛かってきても戦わずに華麗に身をかわして熊の鼻が偶然にも大木にぶつかるでもすれば、類人猿たる丸腰の山菜採りは命を拾う可能性が高まることになる。このように考えると、よくちまたで言われる「外人は柔道やってない、ありゃベツモンだ、ちゃんと組み合え」という言説が浅はかに思えてくる。そして「柔道」というものは、もしかしたら必ずしも体と体を物理的に衝突させるだけでなく、勝負をしないとか身をかわすとかいう一見卑怯な行為も、ある種の「やわら」であり、もともとの原初の日本柔道はそれを許していたのではないか、と思い始めた。それは、熊から身を守るための行動をすべて取る、ということの「すべて」に包含される、攻撃には見えないけれども実は「攻撃」、という、そういう術に含まれているという思案も可能なのである。また、オリンピックは人間と人間との競技の場であるが、柔道の本来の場は熊に食い殺されるか否かが決まる山の中である。そう考えると、柔道を競い合いとしてやるのならばもっと厳格にルールを決めてやる必要が出てくる。さもないと、柔道という非常に広大で深淵の見えぬ世界に吸い込まれ、スポーツとして成り立たなくなる日が必ず来ると思われる。そもそも柔道の源流は誰かとの競い合いではないのだから。


 このような考えを巡らせながら6回目を見ていたら、微妙な技ありでフランスが勝った。その勝ち方は何も美しいところが無い一方、先の私の「柔道」の思案にはよく当てはまったものであった。同階級であってどちらも互角であってどちらを応援してもよい試合であったし、何より例の思案をしたので、私は何も言えなくなったのである。


 こうして3対3になり、代表選になった。そして日本にとっては運悪く、フランスにとっては運良く、90kgを超える選手同士の対決となった。もはやこの時点でほとんど勝負が決まったと言ってもいい。選手の努力やコーチ陣の戦略ではなく、最後は確率論の支配する、人間には制御不能の、サイコロが勝敗を決めた。また、3位決定戦の2試合もサイコロが勝敗を決めたので、柔道団体の順位というものには何ら意味がないという結論を出すほかない。サイコロの目が出た後に、もし90kg超級ではなく75kg級だったら、などと言っても無意味なのだから。



 みんな頑張っていた。日本とフランスもそうだし、韓国とドイツ、ブラジルとイタリアもかなり頑張っていた。3対3の場面で気分屋のサイコロに柔道団体競技のすべてを託すという方法しかないならば、やはり順位には意味が無い。みんな頑張っていたし、そして未来が明るくなった気がしたし、面白かった。何よりも、畳に立った選手たちが他責せず、負けた選手を励まし勝った選手を祝うという特別にして当然なる空間にこそ、オリンピックで柔道を行うことの大きな価値を見出した。それがスポーツとしての柔道の一面でもあろうと、今大会の最終の柔道競技を見て思った次第である。


 最後に、youtubeに投稿された日本人たちの、無思考あるいはバカげた国粋主義者らの排泄物のごときに素晴らしい貴重な応援コメントを並べるだけ並べよう。

・(一二三とGABAの試合)指導で開催国を敗退させる勇気がない審判は失格

・(同)攻め続けても永遠に3つ目の指導入らず

・(同)指導出なさすぎ

・(同)今大会、全体通してフランスの国民性が出ている

・(角田夏美の試合)角田夏美の安心感やばい。2階級上の選手に巴投げはすごい

・(同)審判「さすがにこれはごまかせないな」

・(同)こんなきれいな一本をビデオ判定しないと分からない審判w

・(同)角田さん最強! 見事な角田巴に感動しました ありがとうございます

・(三四郎)村尾選手かっこいい

・(同)令和の姿三四郎!

・(同)昨日のサッカーの借りを返してくれてありがとう

・(同)心震える。めっちゃかっこいい

・(高山とディコ)鳥肌たったわ 1番凄かった

・(同)すごい、これぞ柔道

・(同)体重差関係なしの無双。これぞ日本柔道。柔よく剛を制す。感動をありがとう

・(同)JUDO団体のルールがおかしすぎる。高山選手は本物の柔道を見せてくれた

・(リネール、立)どうせリネールと代表選なんだろうと思った、そしてそうなった

・(同)あのルーレットはパチンコより露骨w

・(同)マジでモヤモヤしかない

・(同)力不足はみんな分かっているが憎めない斎藤立。柔道界の息子。どこまで強くなれるかな

・(同)たまたまかもしれないけど、やっぱりなと思ってしまう。リネール確定ガチャ

・(同)あらかじめ+90にセットしてスタートボタンを押すだけでいいんだからラクだよな

・(同)仕込みスロットでわろた

・(高市の試合)一二三戦の指導しぶり、リネール確定スロット、腐りに腐りきってるな

・(同)この女に審判やらせちゃダメだった

・(同)高市選手もなかなかの美人ですね。お疲れ様でした

・(同)ジダンより 切れ味抜群 ルーレット

・(同)最初から奇数でやれや

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