回想②




 心臓が跳ねるほどの勢いで、教室の扉が開いた。壁にぶつかった音は鼓膜にビリビリと響いて、寿命が縮んだ気がした。



 みんなで一斉に音の発生源を振り返る。瞬間、無意識のうちに「えっ」と声を漏らしていた。



 メガネとマスクをつけたは、夏なのに手袋をしていて、体のほとんどが隠れる服を着ていて、そして──ナイフを持っていた。



 誰かが叫び声を上げた。みんなが後退りを始めた。その中で、その男は冷静だった。



「うっせぇな。静かにしろ」



 大きい声ではなかった。けど、そう言われた途端に、教室内は静まり返った。体が動かなかった。まるで、見えない縄で縛られたようだった。



「声出すんじゃねぇ。一箇所にまとまれ。窓の近くの奴はカーテンと窓閉めろ」



 命令されても、誰も一向に動く気配を出さない。当たり前だ。こんな状況で普通に動ける方がおかしい。だが、それは男を苛立たせたようだった。



「早くしろっつってんだろ!!」



 突然男が大声で怒鳴った。「はぃっ」と上擦った声が聞こえた。それが誰の声かなんて考える余裕はなかった。そよ風が止み、シャッと音がしたと思えば教室内が薄暗くなった。



「お前らもこっちに集まれ。早くしろ」



 か細い「はい」の声と共に男の側に海と未羽がやって来て、そこでカーテンを閉めたのが二人だと知る。緊張か恐怖で体が固まっていた私を含めたクラスメイトが動き出さないことに、男は舌打ちをした。



「さっさと集まれよ!」



 無意識に体が跳ねた。これほど恐ろしい怒声を聞いたことがなかった。



 こいつに従わなければ殺される。本気でそう思った。恥も何もかもを捨て、四つん這いのような形で未羽と同じ場所に行く。みんなも同じように来た。



 全員が集まると、男は黒いポリ袋を取り出した。



「全員こん中に携帯入れろ」



 ああ、と心の中で声が出る。既視感があった。テレビとか小説とかでよくある手口だ。




 男が回す袋に、みんな渋々、しかし時間をかけずにスマホを入れていった。



 私の番に回ってくる。目の前に影が落ちて、私は上を向いた。バチっと黒い眺め越しに視線が合う。早く入れろと言われた気がして、震える手でポケットからスマホを出し、男に渡した。


 連絡手段が奪われる。こんな状況で、電話なんて絶望的だったけど。それでも、お守りとして持っていれば心強かった。



「ちゃんと入れたな?」



 男は袋を縛って、教室の隅に置いた。普段なら秒で取りに行けるはずの所にあるのに、今日はやけに遠く感じた。



「さて」



 男が背を向ける。椅子を引いて、座ろうとしていた。



 瞬間、光のような速さで何かが──いや、誰かが男に突進した。誰かは男の背中目掛けて体当たりし、不意打ちもあってか男はまともにそれを食らう。



「が……っ!」



 男の手からナイフが落ちた。



「っらぁ!」



 思い切りそれを蹴飛ばしたのは、舘山先輩だった。男にタックルした誰かは先輩だった。



「っしゃあ」



 前のめりに倒れた男はおそらく無力だろう。先輩は男を抑えようと近づいた。



 私はいつの間にか安心していた。ほんの僅かだった悪夢が終わると。けれど、現実はそう甘くなかった。



 男まであと数歩のところで、バァンッと鼓膜が割れるような音が響いた。口から飛び出るかと思うほどの心臓の高鳴りと胸の痛みが走る。



「えっ……?」



 何が起こったのか分からなかった。けれども、目の前の光景を見ればいやでも理解する。



 唖然としている先輩。その耳から流れ出す血液。割れた窓ガラス。そして、男の手にある、黒光りする拳銃。



「ガキが余計な真似すんじゃねぇよ」



 男は立ち上がり、銃口を舘山先輩へ向けた。「ひっ」と先輩は青ざめ、尻餅をついた。男は腕の位置を変えることなく、徐々に先輩へと近づいた。



「余計なことしたらどうなるか教えねぇとな。どこを撃つ?耳を掠っただろ?次は頭か?それとも手足か?」

 


 何処となく男の声には愉しさがあった。こいつはサイコパスという奴なのかと気づいた時、頭から血の気が失せた。



「さぁ、どこを撃つ?どこを撃って欲しいか!?」



 かろうじて動かせた首で舘山先輩を見ると、彼は涙目だった。恐怖以外の何の感情もなかった。ただ、目の前に差が迫っているという恐ろしさ。



 私さえも鼓動の速さ故に心臓がバクバクと痛くなった。たとえ自分ではなくても目の前で誰かが人為的に殺されそうになっている光景なんて、一生見たくなかった。



 銃口と舘山先輩の距離はもう1メートルもない。誰もが彼が殺されると確信してしまった。その時だった。



 透馬が飛び出た。そして、男を横から押し倒した。そのまま柔道のように組み合いになり、彼はなんとか男を抑える。



「くそ……っ!」



 首を絞められそうになった男は片方の腕で透馬の腕を解こうとし、拳銃を持った手は彼を狙う。



 何度も銃声が響いた。その度に透馬は顔と体を動かし、弾をギリギリのところでかわす。いくら距離が近いとはいえ、羽交締めにされている状態で正確に狙うことは困難だったようだ。それでも透馬の危うい状況は変わらず、けれど恐怖で誰も動かなかった。



 葛藤は続いた。5回目ぐらいの銃声が鳴り響いた時、透馬の腕から鮮血が溢れた。弾が掠ったのだ。痛みのせいか透馬の表情が強張る。



 本当に死んでしまうのではないかと心配で仕方なかった。男は撃った感触があったのか、少し余裕を取り戻して再び拳銃を構えた。



 その時、透馬の手に男が落としたナイフが当たった。ハッとした彼はそれを手に取り、思い切り振った。



 抵抗のつもりだったのだろう。けれど、透馬が持つナイフは、恐ろしいほど深々と男の胸に刺さった。



 透馬も刺した感触はあったのだろう。慌ててナイフを引っこ抜いた。だが、それがよくなかった。



「がはぁっ!?」



 男の胸から血が溢れ出ると共に、口から空気の抜けるような声が漏れて、血を吐き出した。



「え……」

 


 時が止まったように、全員が止まる。その間にも男の出血は止まることなく、透馬は血飛沫を浴びて赤くなり、男と彼の真下には血潮が広がっていった。



 時間にして数十秒。血潮の広がりが止まった。むせ返るような匂いが教室を充満させる。男の体は透馬の上に乗ったままだらりと垂れていた。男がただの肉の塊になってしまったことは、きっとここにいる全員が察しただろう。



「あ、あ……っああ!」



 透馬はナイフを投げ捨て、男の側から離れた。彼のシャツは真っ赤で、ぬらぬらと光っていた。



「そんな……僕はこんなつもりじゃあっ!」



 透馬は頭を抱える。カタカタと震える体は、きっと罪悪感に苛まれているに違いないと思った。



 透馬が100%悪いことはないのは、ここにいる誰もが分かっていた。あれは事故だ。正当防衛だ。そうに違いない。



 みんな分かっている。でも、透馬にかける言葉が見つからなかった。きっと、今の彼にはどんな慰めの言葉を言ったとしても、彼の状況が悪化するしか考えられなかった。


 

 沈黙が流れていた。透馬は頭を掻きむしり、他のクラスメイトは俯くばかり。かくいう私も、なす術がなかった。



 そんな中、不意に立ち上がった者がいた。



「ねぇ、透馬」



 柔らかく、結架が声をかけた。透馬がゆるゆるの真っ青な顔を上げる。



「もしも。もしもだよ」



 静かに話す結架を、みんなが注目した。



「この悲劇が、美談に変わる方法があったとしたら、その道を選ぶ?」


「そっ、そんなことができるのか!?」



 透馬は結架に迫った。血まみれの彼を、結架は拒むことなく近づくことを許し、「うん」と首を縦に振る。



「一つだけ、ある」



「なら頼む!お願いだっ!」



 透馬の土下座に、結架は「分かった」と男の亡骸に近づいて行った。



「結架?何する気?」



 私は尋ねてみた。けれど、彼女は振り返って微笑むだけだった。



「文化祭の準備をしていた私たちは、突然侵入してきた男に襲われ、監禁された」



 彼女は唐突に話を始めた。



「男は刃物を持っていて、抵抗は不可能。でも、とある先輩が勇気を振り絞って男に体当たりした。見事に男の持つ刃物は落ち、男を取り押さえようとした。でも、男は拳銃を取り出して生徒を撃ち殺そうとした」



 結架は透馬が投げ捨てたナイフを拾って、ハンカチで柄の部分を拭き取り、それからペタペタと何回か握って左手に持ち替えた。



 彼女は少量の血がこびりついたハンカチを私に渡して来た。「あとでバレないように捨てて欲しい」と言葉を添えて。



「死への恐怖から逃れるため、一人の女子生徒が男が落としたナイフを拾いに走った」



 次に結架は男の手から拳銃を取った。



「女子生徒は男を刺した。男は倒れるが、悪あがきとして銃口を構えた」



 結架はトリガーに手をかけ、銃口を自身の頭につきつけた。ひゅっと喉が閉まる感覚があった。



「女子生徒はクラスメイトを守るために、男に撃ち殺された」



 結架はこっちを向いて、柔らかい笑みを浮かべた。何をしようとしているかは一目瞭然だった。



「上手くものがたりを作ってね」


 

 彼女はトリガーを引いた。



「結架っ!?」



 止めようと足を動かした時にはすでに遅かった。発砲音の後、教室は新たな血液で汚れた。



 結架が倒れて一分もしないうちに、救急車のサイレンが遠くから聞こえてきた。

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