第19話 夜の帳のなかで

 御所から連れ出されたその日の晩。


 ばさり、と天幕の布がまくり上がる音に、桔梗ききょうは目を覚ました。

 慌てて寝台に手をつき、上半身を起こす。


「これはすまぬ。起こしてしまったな」


 入ってきたのは、景親かげちかだ。

 手には燭台を持ち、単衣の着流しという楽な姿をしていた。


 野営の本陣から手燭を頼りに桔梗の天幕まで来たのだろう。供も連れていないその様子に、少し不安になった。


「大丈夫だ。ここは野営地とはいえ、親王殿下の部隊も近い。都のどこよりも安全だ」


 くつり、と笑い、それから天幕の中を見回した。


「そんなに暗くないのだな。そなたが怖がっているのではないか、と思ったのだが」

 言われて見やると、景親の左手には数本の蠟燭が握られている。


「そもそも、山育ちですから」


 今度、くすりと笑ったのは桔梗の方だ。


 天幕には三つの燭台が用意されている。まだいずれもの蝋燭は長く、じじ、と時折音を立てながら、橙色の光を広げていた。


 桔梗たちがいるこの野営地は、都の朱雀門近くにあった。


 景親が御所から桔梗を連れ出した時と前後し、都は光条こうじょう親王軍によって落城した。


 今、御所には光条親王がおり、主上は都の西部にある豊友山に軍を展開していると聞く。


 その豊友山に一番近いのが、この朱雀門だ。


 景親を大将とした約千人近くの武人がここで野営を張り、守りを固めていた。

 いわば、最前線の中に桔梗はいた。


「武者姿の男たちが外をウロウロしているからな。騒がしくないか?」


 ぎしり、と音を立てて寝台の隣に景親が座る。

 この寝台は、そもそも武具の入っていた箱ふたつに、本来は矢を防ぐための盾を二枚渡して寝具を乗せたものだった。見かけによらず快適で、椅子にもなる。


「とても快適に過ごさせていただいています」


 そう応じると、安堵したように景親が微笑む。手に持っていた燭台の火を吹き消した。ぽわり、と明度が少し下がった。


 天幕をひとりで使っていることに、心苦しさもあり、誰かと一緒に使います、と申し出たのだが。


 景親の副官という男が、口をへの字に曲げた。


『それでは、殿が渡っていけませぬから』


 その意味するところを考えて桔梗は頭から湯気を噴き出し、大鴉おおがらすは、けけけけ、と人の悪い顔で笑った。


 足元に燭台とロウソクを置く景親を見るとはなしに眺める。


 湯あみをしたのだろう。

 昼間あった時のような返り血やすす汚れは全く見えない。


 ふわり、と夜風に天幕が揺れる。彼から漂うのは、死臭でも血の匂いでもなかった。


「どうした?」


 視線を感じたのだろう。顔を起こした時、小首を傾げて尋ねられるから、桔梗は慌てて首を横に振り、それから顔を背ける。


 不意に、副官の男が言っていた『殿が渡ってくる』という言葉を思い出し、顔が熱くなる。


 そんなことはない。勘違いしているのだ。

 自分のような娘に、景親が情けをかけることなどない。


「桔梗」

 名を呼ばれ、桔梗は顔を伏せたまま、「はい」と返事をする。


「明日、頃合いを見て大鴉と共に西国の賀仙かせんに向かえ」


 言われて、反射的に顔を上げた。


 いつもの景親の優しい声なのに。

 穏やかな表情なのに。

 それなのに、その声は桔梗を打ち据えた。


「え……?」


 思わず問い返す。


 西国。なぜ。どうして。ようやくまた会えたというのに。


「大鴉がお前に伝えたのではないか? 母御のいらっしゃる尼寺へ行く、と」


 混乱する頭で桔梗は記憶をたどる。

 そういえば、当初、大鴉はそう言っていた。


 桔梗の母はまだ存命なのだ、と。白百合しらゆり御前という名だった。仏門に入り、今も心穏やかに暮らしているのだ、と。


「そこに……」

「嫌です」


 気づけば景親の手を握り首を横に振っていた。金の髪が燭の光を孕み、ほたるのような残像を散らす。


「わ、私は……。価値があるのでしょう? 運命さだめ姫巫女ひめみことやらなのでしょう? 親王殿下のお側にいれば、大義となるのではないですか?」


 あの主上おかみという男は自分に執着した。弥吉だってそう言っていた。


 ずた袋を頭にかぶって、隠れるように山で暮らしていた桔梗には価値がないが。


 金の髪と、翠の瞳を持つ自分は。

 運命の姫巫女とやらは、誰もが欲しがるのではないのか。


 桔梗は必死になって、景親に自分の価値を伝えた。


 だから、と。

 だから、私をあなたの側に、と。


「きっと私は役に立ちます。いえ」


 役に立って見せます、と言いかけた桔梗の口を、景親のやわらかな唇が塞いだ。


「……か、」


 景親様、と、口を塞がれたまま、茫然と呟く。くすり、と景親が微笑んで唇を離した。


「お前は、桔梗だ。わたしの大切な、大切な。かけがえのない愛しい娘だ」


 彼の呼気が頬を撫でる。睫毛を触れて、心を揺する。


「運命の姫巫女としてなど、利用させぬ」


 景親が再び、唇を寄せて来た。

 ふわり、と押し付けられ、桔梗はゆっくりとまばたきをする。


 とくり、と自分の心臓が拍動すると、甘く唇を食まれる。「ん」と小さく声を漏らして肩を強張らせると、「すまぬ」と景親が身を離した。


「蟄居場所に桔梗が来るまで……、わたしは別に、死んでも良いと思っていた」


 桔梗が手を握っていたはずなのに。

 いつの間にか、景親が桔梗の手を握りしめていた。


 大きな手。


 だけど繊細で細い指だ。この手で、本当にあの大刀を振るっているのが信じられない。


「大義のため。この国のため、主上に進上し、それによって罰を受けるのならそれでもかまわない、と。そもそも、わたしは、人を殺しすぎた」


 睫毛が伏せられ、その黒い瞳は自分の手を見ている。


「戦場では夜叉と恐れられ、平時では人殺しとそしられた。……わたしの領地を知っているか?」


 ふと問われる。だが彼の目線は上がらない。


 ただ、じっと自分の手を。

 桔梗の手を。握っている。すがるように。


世良せら領の近辺は、いずれもわたしの親族が治める領地だ。父が没したのち、誰もがその所有権を求めて、戦いを挑んできた。わたしは、わたしの領民と、彼らが育てる作物を守るため、剣を振るったにすぎない。だが」


 人殺しには、違いない。


 景親の声は、天幕の中で静かに沈んでいく。


「親王殿下や忠相ただすけの目に留まるころには、親族の治める土地を併合し、世良領に戦火は消えた。人を殺して、わたしは平和を求めたのだ」


「……景親様は、死にたくて、主上に苦言を呈したのですか?」


 ふと、そんなことを思った。

 国を憂いたのは確かだろう。主上の愚かさを諫めたかったのも確かだろう。


 だが、この人は。

 そうすることで、自分を罰し、殺してしまいたかったのではないのだろうか。


「そうかもしれぬ」

 景親が笑みを浮かべた。


「食料を減らされ、品を売られ、困窮しながらも、わたしは別にどうでもよかった。このまま朽ちるなら、朽ちればいい、と」


「そんな……」

 口から言葉が漏れる。ふ、と。ようやく景親が顔を上げた。


「だが、桔梗が作る旨い飯を食った時、目が覚めた気がしたのだ」


 景親がわずかに首を傾けると、さらりと黒絹のような髪が肩口を流れた。


「もう少し、この娘と一緒にいたい、と。この娘の作る飯を食い、会話に耳を傾け、たわいのないことで笑いあって暮らしていたい、と」


 桔梗、と景親が名前を呼ぶ。


 その声が。

 吐息が。

 やわらかな視線が。

 桔梗の身体を包んでいく。


「お前を〝運命の姫巫女〟になどさせない。ここから大鴉たちと逃げ出し、誰の目にも届かぬところで、しばらく身を隠しておいてくれ。必ず、迎えに行く」


「一緒に行きましょう、景親様」


 景親の手に包まれたまま、ぎゅ、と桔梗は拳を握りしめた。顔を寄せ、大きく頷いた。


「大鴉も、私の母もきっと受け入れてくれます」

「まだ、わたしにはやることがある」


 ゆるりと首を横に振り、景親が微笑む。


「親王殿下の御代を作り、我が領地に新しい領主を指名せねば、また国が荒れる」

「もう、よいではありませんか」


 桔梗は景親に迫る。


「景親様は立派になさいました。領地を治めて、国を守って……。この手で、一生懸命戦ってきたではないですか」


 言いながら、だんだんと桔梗の腹に怒りが沸き起こる。


「なぜ景親様ばかりが傷つくのです。もう充分です。他の誰かがやればいいんですよ」


 思うに任せて口走ると、ふふ、と笑み崩れた景親が唇を寄せた。

 ちゅ、と優しく口づけされ、桔梗は顔を染めて口ごもる。


「本当に、お前は不思議な娘だ」


 かわいい、と言いながら、景親は手を解き、桔梗の髪を梳く。


「夜叉を心配するのだから……。やはりお前は〝運命の姫巫女〟なのやもしれんな」


 自分の指に桔梗の金の髪が梳き流れる様を満足げに見ていた景親に、桔梗は口を尖らせる。


「だから、そうだと申し上げています。私を〝運命の姫巫女〟として、お使いになればいいのですよ」


「いやだ」


 だが、にべもない返事をされて、桔梗は目を丸くする。


 くつり、と景親は勝気な笑みを浮かべると、桔梗の首の後ろに掌を回し、そっと自分に引き寄せた。


「お前は、わたしの嫁になるのだから。そんなわけのわからぬものには、せぬ」


 唇がよたび、重なった。


 甘噛みされ、わずかに開いた口の中に、景親の舌が滑り込んでくる。「んんっ」と身体を震わせた途端、寝台に組み敷かれた。


「必ず、迎えに行く。それまで、わたしを待っていてくれるか?」


 指と指を絡ませ、敷布に縫い付けられたまま、景親を見上げた。


 月光石のような肌。黒絹のような髪。夜空を切り取ったような瞳をしている美しい貴人。


 戦場では夜叉と恐れられ、その一太刀で敵をほふるというのに。


 彼は今。

 自信なさげに桔梗に問うている。

 待っていてほしい、と。


「もちろんです」


 頷くと、景親はあざやかな笑みを浮かべてその唇を桔梗の首元に這わせる。


「良かった。必ず。必ず迎えに行くから。わたしを忘れるな、桔梗」



 

 その日の夜のことを、もちろん桔梗は忘れたことがない。

 彼の指が自分の身体の奥底まで触れたことを。

 唇がくまなく身体に跡を残したことを。

 荒い息遣いで求められたこと。

 愛を囁かれ、応じようと思うのに、心地よさに我を忘れて意識がぶれて。

 そのたびに、名前を呼ばれて引き戻され。

 ああよかった、と桔梗は彼を抱きしめた。

 ここにいるのだ、と。

 自分の腕の中で、彼はどこにもいかず、確かに存在したのだ、と。

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