第3話 ①

 幸恵と車で親戚の家に出かける予定がある、とのことで、紗耶香は帰った。

 慎太もとりあえずは実家に戻り、二階のベランダにて集落の景色を眺めながら大福を食べた。

 鳥のさえずりと、遠くを走る車の音――それ以外の音はなかった。静かな田園で時間がゆったりと流れていく。

 だが、油断してはならない。異形の美琴はいつも、不意を突いて現れるのだ。

 大福を食べ終えた慎太は、そっと振り向いた。

 掃き出し窓が開けっぱなしの自室に、変わった様子はなかった。

 風景に視線を戻して、美琴の現れる条件は何か――出現したときの毎度毎度に共通する要因はないか、それを考えた。

 美琴の出現する時間は、昼夜を問わなかった。出現する場所は、屋内のときがあれば屋外のときもある。しかも、東京でも、故郷であるこの地でも、姿を現すのだ。慎太以外の人がいようといまいと、それも関係ない。まるで美琴の気分次第、といった感じだ。

 紗耶香は、昔のことを調べたほうがよい、と訴えていた。美琴に何があったのか、慎太の知らない何かが、一連の怪異にかかわっている可能性はある。だが、孝史や近所の住人に尋ねるのは避けたかった。否――最終手段として、それは考慮しなければならないかもしれない。亡霊に取り殺される、などという結末はもってのほかだ。

 途方もない重圧だった。

 一人で悩まないで――紗耶香のそんな言葉が聞こえた気がした。

 用事が済んだら連絡をくれる、と紗耶香は言っていた。ならば彼女からの連絡を待つべきだろう。

 庭の草刈りでもしよう――ふと、そう思った。じっとしていても悩むばかりであり、テレビやネットサーフィンも気が散って集中できそうにない。

 ジャケットとその下のロングTシャツ――双方の袖をまとめてまくった慎太は、一階へと下りた。


 軍手と小型の鎌を裏の物置から拝借した慎太は、庭の奥から雑草を刈り始めた。もっとも、孝史が日頃から手入れをしているからなのだろう――背の低い雑草ばかりだが、それらを次々と刈り取っていく。

 日差しは弱いが、ジャケットを着ているせいか、寒くはなかった。むしろ、額に汗がにじんでいた。

 どれほどの時間を作業に費やしただろうか。足腰にしびれを感じ、鎌を地べたに置き、軍手も外してその脇にほうった。そしてよろよろと立ち上がり、背筋を伸ばした。

 まだ三メートル四方程度しか草を除去していないにもかかわらず、腕時計を見ると三十分も経過していた。正午を十分ほど回っている。

 二十代なのに、このへたりようはなんたることか――心の中でそう嘆きつつ、花壇の縁のブロックに腰を下ろした。蒸し暑さを覚え、ジャケットを脱ぎ、それをたたんで膝の上に載せる。

 一人で庭の手入れをする孝史には感服するしかなかった。コツもあるのだろうが、おそらくは体力の差だ。孝史と取っ組み合いのけんかをすれば、慎太は惨敗するに違いない。

 玄関のほうへ目をやると、十株ほどのキキョウが、何輪もの星形の花をつけていた。それら青紫の花が、在りし日の美琴の笑顔と重なる。

 天気のよい日はキキョウに水をやるのが、美琴の日常だった。「お母さんね、このお花が一番好きなの」と言いいながら水やりをするのは、一度や二度ではなかったはずだ。だから慎太も、この花を大事にした。美琴が息を引き取ってからは、慎太が率先して水をやっていた。

 帰省してからこの花に水をやっていなかったことに慎太は気づいた。孝史が面倒を見ているはずだが、じょうろで水をやるくらいは問題ないだろう。

 腰を上げようとして、慎太は目を剥いた。

 キキョウの前に一匹の猫がお座りをしていた。青灰色の猫――ククだ。

 ククを見つめたまま、慎太は息を凝らした。

 ククはキキョウの花を見上げていた。目を細め、鼻先を鳴らすしぐさをしている。花のにおいを嗅いでいるようにも窺えた。

 ふと、ククは慎太に正面を向け、その場で低く身構えた。

 飛びかかってくるのではないか――そんな危惧が脳裏をよぎる。

 ククは上目遣いに慎太を睨んだまま動かない。

 そしてククが小さなうめき声を上げた直後、青灰色の毛並みをかき分けるように、その背中からこぶのようなもの――肉塊が盛り上がった。肉塊は表面が白っぽく、差し渡しが十センチ程度のいびつな楕円体だった。厚みも十センチほどだろう。

 慎太はブロックから立ち上がることもできずに、のけ反ってその様子を見ていた。

 肉塊の表面にいくつかの凹凸が現れた。なんらかの模様のようでもあるが、よく見れば人の顔だった。ククの頭部に顎を向けたそれは、本来なら天空に正面を向けているのだろうが、ククが前半身を引くくして身構えているため、その傾斜のぶん、わずかに起き上がっており、目鼻立ちが慎太にも把握できた。

 その肉塊は美琴の顔だった。毛髪はなく成人の顔にしてはかなり小型だが、間違いなく美琴だ。もっとも、双眼のそれぞれは瞳を有しており、額には傷がない。

 美琴の目が慎太に向けられた。見下ろすような角度だった。

「……が……う……」

 小さな口が、言葉を紡いだ。小さな口から発せられる声は、やはり小さかった。

 よく聞き取ろうと、慎太は眉を寄せ、のけ反らせていた体を前に伸ばした。

「……ち……う……」

 再度、美琴は口を動かした。

「……え?」

 美琴が何を言おうとしたのかわからず、慎太はただ、目を見張るばかりだった。

 まるで悲しみを訴えるかのごとく、美琴はゆっくりと一度だけまばたきをした。そして美琴の顔は、勢いをなくした風船のようにしぼんでしまい、ククの背中の毛並みに埋もれてしまった。

 前半身を起こしたククが、通りのほうへと向きを変えた。そして、歩き出す。その歩みは悠々としていた。

 それを見送る慎太は、自分の意識が遠のくのを悟った。


 市民課をあとにした紗耶香は、玄関ホールへと向かった。

 その玄関ホールの手前で、階段を下りてくる一人の男の姿があった。ノーネクタイのスーツであり、首にネームプレートを下げていることから、市役所の職員と窺えた。しかも、紗耶香のなじみの顔だ。

「おじさん、こんにちは」

 紗耶香が声をかけると、その男――牧野孝史はようやく気づいたらしく、階段を下りきって近づいてきた。

「紗耶香ちゃん、こんにちは。お父さんと一緒なのかい?」

 問われて紗耶香は首を横に振る。

「いいえ、一人ですよ。お母さんと一緒に親戚の家に行っていたんですが、お母さんったら自分の姪っ子との話で盛り上がっちゃって、自分はあとから姪っ子に車で送ってもらうからあんたは先に帰りな、って言うんですよ。……で、お母さんの車を借りて帰る途中なんですが、きょうは転入届を出す予定もあったんで、ここに寄って、手続きを済ませたところなんです」

「そうか……いろいろと大変だったね」

 孝史は苦笑した。紗耶香の事情を知っている彼だからこその、気遣った言葉だったらしい。

 ふと、紗耶香は孝史の先の問いを思い出す。

「ところで……どうしておじさんは、お父さんと一緒なのか、と訊いたんですか?」

「そうそう……さっき、しょうちゃんと会ったばかりでね。だから、一緒なのかな、と思ったんだ」

 孝史と紗耶香の父のしょうへいとは、それぞれの実家の距離はやや隔たっているものの、幼なじみだ。互いに「しょうちゃん」「たかちゃん」と呼び合う中である。

「そうだったんですか。そういえば、きのうのことだったか……農業の補助金制度でわからないことがあるから近いうちに市役所へ行く、って言っていました」

 孝史の部署は農林課のはずだ。ゆえに、そこに出向いた昌平と孝史とが顔を合わせることはあるだろう。

「うん、話はそれだったね。もっとも、応対したのはうちの若い職員だったんだが」

「その職員さんは女性でしたか?」

「そうだけど……」

「なら、うちのお父さん、でれでれしていたでしょう?」

「ああ……どうだったかあ? にこにことはしていたよ。補助金のほうは問題なかったからね」

「それだけでの、にこにこ……ならいいんですけど」

 そして二人は噴き出した。こんな冗談を孝史は慎太とは交わしていないのだろう、と紗耶香は笑いながらも勘ぐってしまう。

「うちのお父さん、そちらでの用は済んだんですか?」

 紗耶香が尋ねると、孝史は考え込むような表情を見せた。

「農林課からはもう出ていったけど……ほかの課に用があったのかどうか……」

「そうですか。出くわすと面倒だから、こっそり帰ります」

「それがいいかもな」孝史は言った。「それより、相談のあとでしょうちゃんと少しだけ話したんだけど……」

 孝史の改まった様子を見て、紗耶香は「はい」と返した。

「昼前……きょうの午前中に、紗耶香ちゃんは慎太と一緒に美琴の墓参りに行ってくれたんだってね」

「そうです」

 慎太の気持ちを考慮して自分の両親以外には話すつもりはなかったが、知られてしまったのでは認めるしかない。両親に口止めしておくべきだった、と今さらながら反省する。

「しょうちゃんが言うには、慎太はおとといも美琴の墓参りに行ったらしいけど……なんで二度も行ったのか……詳しいことを訊こうとしたら、仕事の電話が入っちゃって、しょうちゃんとの話はそれっきりになったんだ。……ああ、それよりも、慎太と一緒に美琴の墓参りに行ってくれて、ありがとう」

「いいえ……」礼を言われて紗耶香ははにかんだ。「慎太くんは帰省した日に一人でお母さんのお墓参りに行ったんです。でも、お墓参りの作法がわからないとのことで、正しい作法をわたしに訊いてきたんです。それで、きょう、一緒にお墓参りをしたんですよ。でも、わたしも今一つわからない部分があったんで、あらかじめお母さんから聞いて、それから行ったんですけどね」

「そうだったのか。慎太は本当に三田村さんご一家のお世話になりっぱなしだ」

「いえ……そんな……」

 はにかむどころではなく、紗耶香は恐縮してしまった。

「おっと」孝史は自分の腕時計を見た。「そろそろ行かなきゃ。じゃあ、失礼するよ」

「はい。お仕事頑張ってください」

 そう声をかけた紗耶香は、一階の奥へと立ち去る孝史を見送ってから市役所庁舎を出た。

 駐車場へと向かいながら、トートバッグからスマートフォンを取り出し、メッセージアプリを確認した。庁舎に入る前に慎太に「もうちょっとしたら電話するね」とメッセージを送ったのだが、未読だった。

 紗耶香は庁舎の壁際に寄って立ち止まると、慎太のスマートフォンに電話をかけた。しかし、何度か呼び出しが鳴ったのちに、留守番電話に切り替わってしまう。メッセージを残さず、通話を切った。

 胸騒ぎを覚えた紗耶香は、スマートフォンをトートバッグに入れ、駐車場へと急いだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る