第2話 ⑥
やはり、桶は二つ使う、ということだった。墓石にかける水と掃除用の水とを、別個に用意するのである。ネットで調べたとおりだが、それは口にせず、慎太は二つの桶のそれぞれに水をくみ、一方の桶にはひしゃくを差し入れた。
花束は紗耶香に持ってもらい、慎太は水の入った二つの桶を左右の手に振り分けて持った。そして慎太と紗耶香は、牧野家の墓へと向かった。
その牧野家の墓を前にして、慎太は周囲をさりげなく窺った。自分たち以外に人の姿はなく、ひっそりと静まり返っているが、特に変わった様子はない。
二つの桶と二つのリュックが、牧野家の墓の傍らに置かれた。
「まずは」と紗耶香に促され、慎太は頷いた。
二人は墓石の前で横に並び、合掌した。
そして紗耶香は、自分のリュックからポリ袋を取り出した。そのポリ袋の中には、二枚の雑巾が入っていた。二人は雑巾を一枚ずつ手にし、掃除用の桶で揉み出すと、墓石や灯籠、敷石などの汚れを落とし、打ち水をした。
慎太は自分のリュックから取り出した一枚のポリ袋に、二日前に自分が引き抜いた雑草を入れ、そのポリ袋を自分のリュックの中に戻した。
掃除が済むと、水鉢に水を入れて花を挿し、紗耶香がリュックから取り出した二つの大福を、半紙を敷いてその上に供えた。
大福は美琴の好物だったらしい。それを教えてくれたのも、幸恵ということだった。母の好物さえ知らなかったことが恥ずかしく、恨まれる原因はこんなことかもしれない、と慎太は考えた。
慎太、紗耶香、という順に線香を供え、同じ順で墓石に水をかけた。そして二人は並んで合掌する。
墓参りが終了すると、紗耶香が「お供えの食べ物は、持って帰るのがマナーなんだってさ」と言って二つのおはぎを取り、用意していた二枚の小袋へ一つずつ入れた。その一つが慎太に渡される。
「うちのお母さんは」紗耶香は言った。「もっと早く知っていれば自分で作ったんだって。時間がなかったから、コンビニで買ったやつだよ」
「ありがとう。こんなことまで気遣ってもらえるなんて」
そう告げて、慎太は小袋を自分のリュックに入れた。
二人はそれぞれのリュックを背負った。桶に至っては、申し出た慎太が二つとも持つことになった。
二人は牧野家の墓をあとにした。
慎太は歩きつつ振り返るが、異変は何もなかった。
桶とひしゃくを片づけると、二人は霊園の西端にある東屋に向かった。
屋根もテーブルも長椅子も、すべてがコンクリート製の東屋だった。ここにも人の姿はなかった。
牧野家の墓に向かって歩き出したときから、墓参りを済ませてここに至るまで、会話は少なかった。交わした話といえば、墓参りの手順、供えものの大福に関する逸話、肝心な話は霊園の東屋で――そんなものだった。
二人ははす向かいで長椅子に腰を下ろし、それぞれがリュックを自分の脇に置いた。
何から話せばよいのか、それを考えながら、慎太はテーブルの表面を見つめた。
そのテーブルの先――東屋の外に、一匹の猫がいた。青灰色の猫だった。前足をそろえた「お座り」の姿勢で、こちらに顔を向けている。
椅子に腰を下ろしたまま、慎太は固まった。
「あら」と声を出した紗耶香が、椅子から立ち上がり、猫に向かって歩き出した。
「紗耶香ちゃん、その猫……」
危険を訴えようとしたが、適宜な言葉が思いつかない。
「ああ、この猫ね」紗耶香は足を止めて振り向いた。「クク、っていう雄猫」
「え……クク?」
事態が呑み込めず、慎太は眉を寄せた。
短い鳴き声を上げたその猫――ククが、後ろ足を立たせ、紗耶香に歩み寄った。
二日前の墓参りで目にした猫に違いなかった。美琴が立っていた場所にいた、あの猫である。
「紗耶香ちゃん、その猫、危なくないのか?」
自分でも何を尋ねているのか、わからなかった。
「ええ、何それ?」
鼻で笑った紗耶香はその場にしゃがむと、ククの頭を右手でなで回した。ククの臀部を見れば、確かに雄を証明するものがついていた。
「久しぶりだね、クク。一年ぶりかなあ。元気みたいだけど、わたしのこと、覚えてくれていたのかな?」
そう言う紗耶香も幸せそうだが、ククのほうもうっとりとした表情だ。
水を差すべきではない、と悟り、慎太は口をつぐんだ。
紗耶香がなで回すのをやめると、ククは再度、声を上げ、霊園の出入り口へと向かって歩き出した。
ククを見送った紗耶香が、東屋に戻り、元の位置に腰を下ろした。
「あの猫……ククは、紗耶香ちゃんの知っている猫なんだね?」
可能な限り平静を装った。
「うん。見かけるようになったのは、二年くらい前かな?」
ならば慎太が知らなくて当然である。
「でも」紗耶香は言った。「飼い猫なのか野良猫なのか、わからないんだ」
「わからない?」
「そうなの。飼い猫だとしても、飼い主がわからない。でも、ロシアンブルーよね、あの子は」
「ロシアンブルー?」
おそらくは猫の品種なのだろうが、慎太には知る由もない。
「ロシアが原産、とされている猫の種類よ。結構高価な猫だから、飼い猫だとしても放し飼いにするのも変よねえ。まして野良だなんて、ありえるのかしら?」
そこまで聞いて、慎太は不自然な点に気づく。
「飼い猫だとしても飼い主はわからないし、もしくは野良猫かもしれない……それなのに、どうしてその猫の名前を紗耶香ちゃんが知っているの?」
「近所の誰かがつけたんじゃないのかなあ。そんなものでしょう?」
「そうか」
知らない猫に適当に名前をつけて呼ぶ、ということはあるかもしれない。
「どうしたの? ククのこと、慎太くんは怖がっていたみたいだけど」
不審そうな目が、慎太に向けられた。
「おとといも、おれは今の猫……ククに会ったんだ。墓参りをしたときに」
「へえ、そうだったんだ」
頷く紗耶香を見て、話すしかない――そう慎太は決意した。
「全部話すよ。ククのことも含めて」
「え……ククのことも……って、ワカバさんのこととか、関係あるの?」
紗耶香はにわかに不安げな色を呈した。
もう逃げられない――慎太に逃げ場はなかった。
「仕事に追い詰められていたんだ」慎太は言った。「就職できたのはよかったけど、そもそもおれは不器用で、組織の一部になるのが苦手だったんだね。それは、あとになってから気づいた」
紗耶香は黙して聞いていた。
「そんなある日、母さんがおれの前に現れたんだ。死んだはずの母さんだよ」
わずかに眉を動かした紗耶香だが、それでも彼女は口を閉ざしていた。
慎太は続ける。
「母さんはおれの職場やおれの通勤道に現れた。時間を問わずに現れた。そして、いつも決まって、コートとスカートという組み合わせの服装だった。生きていた頃の母さんのお気に入りなんだ。だけど……」
慎太はそこで言葉を切った。筆舌に尽くしがたいありさまなのだから、逡巡は当然だった。それでも慎太は、意を決する。
「母さんの首が曲がっているんだ。首が右に九十度折れ曲がっていて、そのうえ、額には縦に裂けた傷があって、目が白目なんだよ。そしてこの母さんの姿は、ほかの人には見えないんだ。職場でも、人の行き交う通りでも、おれにしか見えない」
ついに紗耶香は眉を寄せた。それでも口を挟まず、慎太を見つめている。
「そんなある日、ついに母さんはおれの住むアパートに現れた。帰宅して玄関を開けたら、ドアの内側に立っていたんだ」
さすがに紗耶香は顔をこわばらせた。こんな話を聞かせるのが気の毒に思えた。
「そこに突然現れたのが、ワカバだった」
「ワカバさんって東京にいたの?」
紗耶香が尋ねた。
「そう。あとでわかったんだけど、おれの住むアパートのすぐ近くに何軒もの借家が並んでいて、その中に彼女の住む家があったんだ」
「借家……」
釈然としない様子を見せた紗耶香が、頷いて話を促した。
「ワカバが、消えろ、と言うと、母さんの姿が消えたんだ。ワカバは、霊の気配を感じてアパートにやってきた、と言っていた。どうやら、ワカバは霊能力者らしいんだ。そして三日前……今週の月曜日の夕方……今度はアパートの部屋の中に母さんが現れた。玄関から逃げ出したおれの前に、ワカバが立っていた。母さんは玄関まで迫っていたんだけど、そのときもまた、ワカバが母さんを立ち去らせた」
慎太の両手が震えていた。両手は膝の上だが、この震えを紗耶香に悟られたくなく、テーブルの上には出さずにいた。
「そのままアパートにいるのが、怖かった。そうしたらワカバが、自分の家に一時的にでも避難したほうがいい、と誘ってくれたんだ。それで取るものもとりあえず、おれはワカバの住む借家へ行ったんだけど……」
その先――ワカバと肌を重ねたことにはふれずにおこう、と慎太は思った。
「そこで、ワカバさんと関係を持った……」
紗耶香の言葉に慎太は目を丸くした。
「どうして……」
「女の勘……でも違っていたら、ごめんね」
寂しげな笑みを紗耶香は浮かべた。きのうの別れ際の表情と同じだった。
「君の察するとおりだよ」
肯定する以外になかった。
あたしはほかの子と違っていつでも求めているの――というワカバの言葉が、脳裏に蘇った。まるで魔法か催眠術にでもかけられたかのような、曖昧なあの時間が、遠い昔のように感じられた。
「話を続けて」
「うん」慎太は頷いた。「そして明け方になって、ワカバに言われたんだ。墓参りに行くべきだ、って。それでおれは、火曜日……おとといの朝に東京を一人で発ったんだ。こっちに着いてすぐ、うちには寄らず、コンビニで線香だけを買って、母さんの墓参りをした。そうしたら、そこにまた、母さんが現れた。白目で、首が曲がっていて、そんな母さんが、母さんの墓の前に現れたんだよ。そこに今度は、ワカバが現れたんだ。彼女はまた母さんを立ち去らせたけど、なんでワカバがここにいるのか、尋ねてみれば、おれのことが気になったワカバは、霊能力で母さんの墓の場所を探ったらしい。しかも彼女は、自分の実家も同じ市内だ、って言うんだ。偶然なんだろうけど、いずれにしても、おかげで助かったんだよ。その直後だった……母さんが消えた位置に、ククがいたんだ」
「ククが?」
紗耶香は再び顔をこわばらせた。
「そのククを見たワカバは、不安げな様子だった。そしてワカバは、その場を去ったんだ。そしてその数分後に、おれはコンビニの前で紗耶香ちゃんに声をかけられた」
「そうだったの」
静かな声で、紗耶香は言った。
「とにかく、どうして母さんがおれの前に現れるのか、どうしてそんな姿で現れるのか、まったくわからないんだ。何を訴えたいのかなんて、おれにはさっぱり。墓参りをした直後にまで現れるなんて、墓参りの作法がよくなかったのか、でも墓参りの前から現れていたんだから、もしくは……」
慎太は自分が感情的になっていることを悟った。しかし、もう抑えは利かなくなっていた。
「おれを恨んでいるのかもしれない。そうとしか思えない。おれは自分でも知らないうちに、母さんに恨まれるような何かをしていたに違いないんだ。そうでなきゃ……あんな姿で現れたりは……しない」
気づけば、慎太はうつむいて涙を流していた。嗚咽さえ漏らしていた。恥部をさらけ出した、という屈辱もあれば、話すことによって気が楽になった、という安堵もあった。
いつの間にか、紗耶香が慎太の左に座っていた。体を寄せ、慎太の肩を抱き締めていた。
「ずっと、一人で抱えていたんだね。つらかったね。でも、慎太くんは何も悪くないよ。慎太くんは子供の頃から優しかった。誰にでも優しかった。そんな慎太くんが悪いはずがない。理由は別にあるはず。大丈夫だよ、わたしがついているから。もう、一人で悩まないで」
そんな言葉を受けて、慎太の涙は止まるどころかあふれる量が増してしまった。
「でもこんな話……信じられないだろう? 死んだ人が現れるだなんて……信じられるわけ……ない」
「信じるよ。きのうだって不思議なことが起きたじゃない。まあね、あの不思議な出来事は、家族にもほかの誰にも話していないけどさ。八代くんに絡まれたこともあるから、親には心配をかけたくないというか……」
「うん……おじさんとおばさんには話さないほうがいいよ。心配をかけるし、信じられない話でもあるから」
うつむきつつ、そして紗耶香の体温を感じつつ、慎太は告げた。
「信じるからこそ言えないんだよ。怖すぎるじゃん。特にお母さんは、そういうの信じるたちだから、怖くて震えちゃうに決まっている」
「そうか……」
頷いて、慎太は顔を上げた。涙など見せたくなかったが、自分が落ち着いたという姿勢を表したかった。
紗耶香が慎太の肩からそっと手を離した。
「あとね……慎太くんが、ワカバさんは恋人ではないと思う、って言ったの、なんとなくわかるよ」
「紗耶香ちゃんにも、わかった?」
「うん」紗耶香は頷いた。「きのう、あの子はわたしにこう言っていた。慎太の彼女だね、って。あれは、嫌みでも挑発でもからかいでもなかった。ある意味、自分は慎太くんの彼女ではない、と言い示しているふうだった」
「おれもそう感じていたんだ」
それはそれで遺憾ではあるものの、間違った見解ではない、と思った。しかし、「ワカバは多数の男と関係を持っており、慎太はその一人にすぎないのではないか」という憶測も慎太にはあるのだ。もっともそれはワカバをおとしめる考えでもある。そればかりは、慎太は口にできなかった。
涙も嗚咽も、静かに引いていた。
「そういえば」紗耶香は言った。「きのうは街で明かりが暗くなったけど、それとなくお父さんとお母さんに聞いたのよ。そうしたら、お母さんはそんな話は誰からも聞いていない、って言うし、お父さんに至っては、その時間、街に仕事用の小物を買いに行っていたそうなの。で……やっぱり、そんなことはなかった、って」
「そうか……おれの調べた範疇だけど、こっちも同じく、そういった現象はなかったらしいよ」
説明のつく現象ではなかった、ということだ。
沈黙が訪れた。二人ともうつむき加減である。空気がよどんだようでもあった。
ふと、紗耶香が慎太に顔を向けた。
「もしかして、きのう、八代くんたちに絡まれたとき……慎太くんが叫んだのって、慎太くんのお母さんが現れたから?」
問われて慎太は頷いた。
「じゃあ、あのときもワカバさんがどうにかしてくれたのかもしれないね」
「わからないけど、たぶん、そうだと思う」
「わたしには見えなくても、慎太くんのお母さんは、現れているんだ」
自分に言い聞かせるように、紗耶香は口にした。
「でも、どうして現れるのかは、わからない」紗耶香は続けた。「ククがどう関係しているのかも、わからない。ワカバさんのことも謎だらけ……というか、ワカバさんの連絡先はわかるの?」
「電話番号もメッセージアプリも交換してないんだよ。おまけに、彼女の名字さえ聞いていない……いや、聞いていないというより、聞きそびれたんだ」
そして慎太は、ワカバの実家について、地元の駅から東へ歩いて約十五分――としか知らされていない実状を伝えた。
「なんなの、それ。確かに、そんなんじゃ恋人とは言えないかもしれない」
そして紗耶香は、あきれたようにため息を落とした。
今さらながら、慎太は恐縮する。
「そういえば……」
紗耶香の表情が引き締まった。
「何?」と慎太は紗耶香を促した。
「慎太くんのお母さんって、どうして亡くなったんだっけ?」
「心筋梗塞だよ」
詳しいことはわからないが、法医解剖ではそのような判定が出されていた。
「だったら、首が折れ曲がっているなんて、変よね。昔のこととか、調べたほうがいいんじゃないかな。慎太くんの知らない事実が、あるのかもしれない」
紗耶香の瞳に力が入った。
「調べるといっても……どうやって情報を得るか……」
慎太は言いよどんだ。もっとも確実な情報源は、口にするまでもない。
「慎太くんのお父さんに訊くのは、難しいもんね」
これも、女の勘、なのだろうか。慎太はただ頷くだけだ。
「とにかく、一つ一つ、きちんと調べようよ。情報源はほかにもあると思う」
「そうだね」
首肯しつつも、慎太は困惑した。自分ごときにあのアイドル紗耶香がどうして懸命になるのか、理解できないのだ。ワカバへの嫉妬とやらも、どういった質の嫉妬なのか、読みきれていない。
紗耶香が不意に立ち上がった。そして、「とにかく、頑張ろう」と告げ、リュックを背負った。
「うん、頑張ろう」
何を頑張ればよいのかもわからないまま、慎太は言った。
その意気込みだけは通じたのか、横顔を見せた紗耶香が「ぶっ」と噴き出した。
淡い思いを共有できているのか不明のままだが、少なくと、仲間ができたことに間違いはない。
リュックを手にして、慎太も立ち上がった。
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