1-6 ノーザンは救われない
暗い部屋に、突然ノックの音が響き渡った。僕たちは仲間内でノックなど必要とすることはないため、ドアが鳴るのは客を招いた時くらいのものである。しかし、僕たちはこれ以上の客を招いてはいない。即ち、あのステンドグラスに映る影は完全に得体の知れない人物ということになる。
「どちら様かな」
薄暗い部屋に、赤い光が差し込んだ。光は一人のシルエットを映し出す。
プリモは隅の椅子に座り、目を見開いて硬直していた。僕は座ったまま、その影を睨む。
《バカス》によって誰もが近付かないはずのこの家に、人が訪ねてきた。明らかな異常事態だが、幸いまだ殺意は感じられない。即ち、会話を許されているということだろう。
「ダリア=ヴィンターレと申しますわ。あの、わたくし人を探してますの」
怖じ気のない声が聞こえて、ようやく女性であると気付いた。背丈と声から考えて、年齢はあまり高くないらしい。
「犬みたいなお面の、濡れた男の人を知りませんか?」
どう考えてもとっくに乾いてるだろうと内心でツッコんだ。
「とっくに乾いてるんじゃないかな」
「え?」
「いや、失礼……」
咳払いをして仕切り直す。
「その人に、大事なカバンを取り返して貰ったんです」
そういう彼女の腕には、小さな赤いカバンが掛かっていた。なるほど、先ほどジャックが助け、手を焼いたのは彼女か。
プリモに視線をやると、彼は気まずそうにふいと目を逸らした。
「そういうことなら、僕から伝えておこう。生憎、先程出ていってしまったんだ」
できるだけ愛想よく微笑んだ。しかし彼女は対照的に顔を曇らせている。
「その……それは有難いのですが、そうじゃないと言うのでしょうか……」
彼女は、僕の顔をおずおずと見て言った。
「もしかして、何かお困りじゃあないですか……?」
彼女の妙な言葉に、思わず息を吸う。
「話が見えないのですが……」
眉をひそめ、問いかけた。
「昼間に会った彼、なんだか怖がっているように思えて……」
彼女は、なぜか彼女自身も苦しそうな顔をして、きゅっと指をにぎった。
ジャックが怯えている?そんな心当たりはない、それは……。
不信感が蘇ると、ようやく忘れていたことの重大さに気付いた。彼女は何故――――
「一度見失ってしまったのですが、この家を見たとき、なんだか似てるな、って」
“彼女は何故、この家に気付くことができたのか”ということにだ。
キッドのエンタープライズによって、この家に興味を持つことは不可能なはず。キッドの身に何か起こったのか、とも考えたが、先ほど扉から見えた通行人には何ら異常はなかった。
つまり、ただ一人彼女だけが異常なのだ。
「それで、この家にわざわざ立ち入ったと?」
「そうですわ!さっきの犬の人と同じように、貴方にもきっと後ろめたさや不安がある気がするのです!それでその、すごく興味が湧いて…………」
「それでこの家に気付けたと?」
「その通りですわ」
彼女は頷いた。
この家は興味が沸かないように振る舞っているのに、興味が沸いたと言ったか。ますます常識が通用しない。
文字通りに非常識な彼女にあてられ、思わずため息が出た。
「……僕らに悩みなんてないし、恐らく君の思い違いだ」
「……では何であなた達は、こんなにも怖がっているんですの……!?」
彼女は思い切って顔を上げ、言い放った。
「…………っ!」
そして彼女の苦しそうな目が、僕の頭を貫いてしまった。
思わず、座ったまま項垂れ、頭を押さえた。
彼女の一言、彼女の表情が僕の意識を見通したような気がして、嫌悪感と、恥と、脱力感が同時に心臓を襲った。
開けっ放しのドアから差す光が、額に汗を滲ませる。息も荒くなり始めた。
「……」
「あ、あの……!」
余計に心配したらしい彼女は、慌ててこちらに寄り添おうとした。だから、
「扉を、閉めてくれないか」
指の間から彼女を見た。
冷淡に発した声色に、彼女は一瞬固まる。
「……すまない、生まれつきでね」
はっとし、柔和に取り繕った。
彼女によってゆっくりと扉が閉められ、また部屋が静まり返った。
「今のは……」
「わかるかい。僕の状態が」
そう言うと、彼女は開いた口を結んだ。その姿を確認し、左の手を、眼前に翳す。
「僕のエンタープライズはシンプルな力さ。〈息吹く〉……体を自由に動かせる、ただそれだけのものなんだ」
先程まで当たり続けていた光の線は、不健康な皺に変わっていた。まるで水に溶ける寸前のように白く、脆く、歪な手。指の隙間から、彼女の深刻げな眼差しが見えた。
「日に当たるとどういう訳か、僕のエンタープライズは力を失ってしまうんだ。そうして、醜い姿を人々に曝してしまう」
「なんだそりゃ……」
離れて見ていたプリモは思わず声を上げた。こんな奇妙な状態を見れば、無理もない。
「それじゃあ貴方は、太陽の元では生きていけないと……」
彼女の言葉を、僕は黙って肯定した。
「君はとても優しいが……この世界には絶対に救われない人というのが、存在する。そんな人達に、易々と関わるべきじゃない」
一つ一つの言葉を、咀嚼するように言った。プリモも横で、苦虫を噛んだような顔をする。
僕は改めて口元を吊り上げ、彼女と顔を合わせる。
「君は観光客と聞いたが、明日はもっと綺麗なものを見るといい。オーケスティア教会はもう観たかな。あるいは商店街なんかも――」
「そんなの嫌ですわ!」
彼女は足を踏み出して言い放つ。
「きっとありますわ!貴方が救われる方法も、人々と分かり合う方法も……」
僕は彼女の肩を掴んだ。
ガタンと荒い音が鳴る。そのまま肩を押したら、彼女は簡単に扉まで押し付けられた。
「頼むから諦めてくれ」
そう言うと、彼女は目を見開いて息を呑んだ。
「……何度も殺されかけて、いい加減身に沁みたさ」
扉にはめられたステンドグラスから、塵の混じった鮮やかな陽が射し込む。それが暗闇に佇む僕の───グロテスクな輪郭を映し出した。
「うわっ……!」
プリモは小さく悲鳴を漏らし、慌てて口を押さえた。
僕はパキパキと不気味な音を鳴らしながら変質する左手を、彼女に見せつけた。
「……ここには君の観たいものなんてない。あるのは忘れたいほどの、現実だけだ」
ゆっくりと彼女の肩から、手とはとても思えない塊を下ろした。もはや悪魔のような風貌の此れに、きっと彼女は拒否反応を抑えつけるだけで精一杯なのだろうと思った。
影の中でゆっくり形を変え、人のそれに戻った左手を、彼女はまだ見つめていた。
「っ――それでも……!」
「俺からも頼むぜ」
声を上げたのはプリモだった。ダリアははっとプリモに視線を移す。
「……さっきは悪かったな」
「あなたは、商店街でお会いした!」
ダリアの言葉に、プリモは小さく頷く。
「ああ、ひったくり魔だ」
真剣な顔で、しかし自分に言い聞かせるように一息で言い放った。
「すぐ判るぜ。嬢ちゃん、いいとこの出だろ」
「ええ……ヴィンターレの名をご存知なのですか?」
「物流のトップじゃねえか。運送業やってたら誰でも知ってるぜ」
プリモはきっぱりと答える。
「そういう縁ってのはどうしても付きまとう。悪いことに『今はそんなの関係ない』だなんて、言っても通用しないんだぜ」
「っ…………」
「その通りだ」
すかさず僕も言葉を続ける。
「残念ながら彼は、オーケスティアから許されなかった。その上にひったくり犯だ。そんな彼を逃がすのはマズい。手伝ったり見逃したりすれば、君だって罪に問われるだろう」
「でも!きっと仕方のない事情があったのでしょう!?私はそれを――」
「ああそうだ!」
プリモは、視線を落として声を上げた。
「昨日……妹のエリオンが泣きながら帰ってきたんだ。14歳の洗礼に行ったオーケスティア教会から、逃げてきたんだ」
僕は長い瞬きをした。プリモの言うようなこの手のものは、僕の身からすればよく聞く話だ。
オーケスティアによる洗礼、すなわちエンタープライズの選定と無害化は、人によっては甚大な苦痛を伴うことがある。そして、そこから逃げてきたということは―――。
「不適合者……“不協和音”と見なされたのですね」
ダリアの言葉に、プリモは伏せられた視線を向けた。
「その営みとは、何だったのかな」
そう質問すると、プリモは大きく息を吸った。そして再び言葉を続ける。
「……〈カタル〉。昔っから、お喋りが大好きだったんだ」
「っ、それでは……!」
「…………ああ」
ダリアは思わず、手で口元を覆った。今度はプリモは、ダリアの顔を見ることもなく返事をした。
エンタープライズは、その者の精神を反映する。そしてエンタープライズを封じようとした場合、当事者の人格に影響を与えることも必至だ。
「……エリオンが変わっちまう位ならって、二人で荒野へ逃げることにしたんだ」
そう言ってプリモは、奥歯を食い縛った。
プリモの話す出来事は、自分の身に置き換えられないほどに悲痛だった。ダリアは思わず口元を覆った。
「だから、荒野で少しでも生き延びる確率を上げるために……最後にこの街で金を集めようと思ったんだ!」
プリモは、声を震わせながら白状する。言葉を連ねるごとに、喉に留めていた理不尽が勢いづいて流れ出すのがわかった。
「それなら……!」
「…………でも、世の中が理解してくれるかは別だ」
「すこし待ってくれ」
ふと気付いて、思わず話に割り込んだ。一つ重大なことがプリモの口から発せられた気がする。
予想外のことに混乱しながら、恐る恐る尋ねた。
「オーケスティアに追われているのは君……”じゃあない”のか?」
それを聞いてプリモは、きょとんとした顔で答えた。
「え……ああ。エリオンにはもう裏門を出て待機して貰ってるが……」
……あ然とした。首筋に汗がにじみ、肝が急速に冷えていく。
「っ……どうして早く言わないんだ!オーケスティアに追われているなら、ひったくり犯の君なんかよりずっと危険な状況なんだぞ!」
そう言うと、僕の体から憤りが抜けてドサリとソファにもたれた。そして溜息をつくでもなく、床を見つめた。
あらゆる行動を省みるが、どう考えても僕の認識ミスでしかない。いや、そんなことよりもエリオンという妹と直ちに合流しなくては……
「おいノーザン、今日は行くな!」
突然、バンと扉が開けられる。目を向けると、息を切らしたジャックとキッドが帰ってきていた。
「あっ!さっきの犬みたいな……!」
「うおぁっ!?何でお前が居るんだ」
「ジャーック今はいいから!」
「二人とも……何かあったのか?」
ジャックは、少しだけ息を整えてから言った。
「”コンダクター”が裏門から帰ってくるらしい。鉢合わせになるから、今夜の決行はやめろ」
「……なんてことだ」
「おい、ノーザン……?」
僕の顔色を見たジャックが、戸惑いながら声をかけた。
「……僕たちが救わなきゃいけないのは、妹のエリオンだ。彼女は、裏門で今も待っている」
「何だと……?」
エリオンは裏門にいる。コンダクターは、じき裏門を通る。
そして未だ、太陽は沈みきっていない。
今は人の形をした左手を見つめて考えた。
この状況を、どうしたらいい。
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