1-1 華のダリアは舞うように
彼女はただ、熱に浮かされていた。
どこまでも続く知らない世界。
歩いても歩いても完結しない情報の波は、きっと悪魔に人生を差し出しても知り切れないものなのだと、彼女は予感していた。
しかしだからこそ、彼女は宛てもない情動に突き動かされるのだった。
後悔に追われる感覚とも違う。
好奇心のままに駆ければ、その分だけ風景は変化して期待に応えてくれる。そんな世界と何度でも向き合いたいと渇望し、目が離せない。
胸の浮き上がるような思いを抱き、叫ぶように息をするのだった。
私は心惹かれるままに、この世界を躍動したいのです!
そうしてヴィンターレ家から飛び出した彼女、ダリア=ヴィンターレは、直近で街を出るキャラバンに乗り込み、まだ見ぬ景色を目指して旅をすることにした。
硬い腰掛けに座り、何日経っただろうか。
安定的な速度で回る車輪は、土を踏むと無秩序に跳ねる。その振動は抑えられてもなお体の芯を揺らし、高鳴る鼓動と共鳴していた。
物置小屋のような小さな空間は薄暗く、外の熱を遮断しひんやりとした空気を蓄えている。しかし右側の壁に開いた窓からは陽が射し込み、好奇心にうずく脚を照らしては体温を更に上げた。
車輪の音は少しずつ繊細な響きに変わっていく。昨日は岩だらけだった荒野の景色も、気が付けば何度も踏み固められた砂道になっていた。そしてたった今、ダリアの乗り込んだ犬車は、敷き詰められたタイルの道に乗り上げた。
数日振りの、人によって整備された道。それは即ち、この旅の一つ目の目的地への到着を意味していた。
ダリアは我慢できずに、建付けの悪い窓を持ち上げる。そして思いきって体を乗り出す。黄色い陽ざしを頭から浴びて、一瞬目が白く眩む。そして────
爽快な風が、体に吹き付けた。ウェーブがかったブロンドの髪は勢いよく後方になびく。
シルクの間をくぐるように、艶やかな空気を車は切り裂いて進む。春先の緑からは青々とした若草の匂いが鼻に届いた。
「あ、あれが……!」
思わず目を細め、そしてゆっくりと前を見た。
草原を裂いた一本のタイルの道。視線がそれを辿ると、縮小された華やかな景色が、確かに近づいているのが見えた。この大地・クーリアで最も幸福と名高い街、フランディアだ。
「いい風ですわね!」
「ああ、”集い風”だな」
振り返って背後の男性に話しかける。ここ十数日の間共に旅をしてきた、もう一台の車両を操る犬飼の老人だ。
肌の焼けた白髭の彼は、ごつごつした皺をニッと持ち上げる。そしてよれた帽子を押さえ、豊かになびく風を目で追った。
「この辺りの風はみな、フランディアの丘を目指して吹くんだ。ところでダリアちゃん、調子は大丈夫かい?」
「体調も気持ちもバッチリですわ!もう居ても立ってもいられないくらい!」
ダリアは左の腕をむんずとやって答える。すると男性は口を開けて笑った。
「フランディア……オーリウの都市に負けないくらい立派な城壁ですのね」
オーリウはダリアと荷車の出発地にして、二大都市に含まれる大きな集落だ。しかしダリアには、迫るフランディアも引けを取らないほど立派に見えた。それもその筈で、フランディアはここ数十年の間で急速に発展し、注目を集めている集落である。
「んんまあ、今見えている城壁は東の側だから、全体はもっと大人しいけどね」
老人は茶化すように言った。
「いえ……そんな所も、きっと気に入ると思いますわ!」
ダリアは髪を押さえると、目を細めて城壁を見つめた。そんな様子を見て、また老人は笑う。
「はっは!そういうの、普通は街の人に言われるもんじゃねえか?」
老人にそう言われると、ダリアの乗る犬車の前方からも笑い声が聞こえた。
「……ふふふっ、そうですか?」
やがて犬車は大きく開いた門の前で止まった。一番先頭にいる犬飼は門番に一筆のサインをすると、再度ゆったりとした速度で動きだす。
「この街は昔っから、統主様が外部との関係を大切にしてきたんだ。だから外観も整っているし、街の中央まで続く道も手入れが行き届いてるのさ」
連続して並ぶ石造りのアーチを、順番に潜り抜ける。アーチの上では色とりどりの花が咲き誇っており、シスター服の女性が水を撒いている姿も見えた。
ダリアは、直上のアーチの数々を目を見開いて見つめる。
「こうして荷車が簡単に入れるのも、代々の伝統のお陰なのですね」
ダリアの暮らしてきたオーリウの街の門はもっと厳重で、門の付近では特有の緊張感が漂っていた。それに比べこの街フランディアの持て成しには懐の深さすら感じられ、それがダリアには物珍しく映った。
やがて街の中心地からは少し離れた所で犬車は止まった。ここからは積み荷の手続きをするとのことで、観光目当てで同行したダリアは、ここで降りることになっている。
風景を見るのに夢中だったダリアは、声をかけられると慌てて荷物をまとめ、席から飛び出した。
「数日間、お世話になりました。またご縁がありましたら宜しくお願いしますわ」
グリーンの日傘を体の正面に立てて深くお辞儀をすると、深紅のドレスに飾られたリボンたちも小さく揺れる。
「ああ、いい縁起を期待するよ」
犬飼の老人も帽子を取って会釈をした。
「ふふ、皆さんもここまでお疲れ様」
荷車に繋がれた数匹の犬にも腰を屈めて微笑みかける。犬たちもこちらを向いて、目を輝かせた。
「ああ、顔近づけると飛びつくぞ」
「きゃっ」
間一髪で頭突きを避けたところで、キャラバンはまた音を立てて動き出した。
「ははは、あんま危ないところには首突っ込むなよ!」
老人は呑気に後ろ手をふり、笑いながら遠ざかっていく。
ダリアはバクバクと跳ねる心臓を押さえつけながら、坂の向こうに消える犬車を見送った。
「は、はぁい……」
少し乱れた服や髪を整え、小さな手提げカバンを肘に掛け直すと大きく一息ついた。
春の陽気は少し火照ってしまうくらいに降り注ぐ。正門から流れ込む風は朝露が溶けて冷たく、汗ばもうとする肌を撫でるように醒ました。
周囲には人、人。しかし誰もダリアを気にかけない。予てから生活が人付き合いに満ちていたダリアには、純粋に何とも面識がない環境に立つことは、体が強張るほどに異常な感覚だった。
ダリアはぽっかりと青色を曝す空を見上げると、僅かに傾いた日差しが顔に照りつけた。
日が沈むまではまだ時間がある。それまでに何ヵ所の出逢いを果たせるだろうか。
それどころか日が昇ったその後も、この町を出たその後も……。この長い旅の中で、無限に等しい景色を見ることになるのだろう。
途方もない可能性に気が遠くなるが、ダリアには最早それどころでは無かった。
「……何だか向こうが賑やかですわね」
ふと聞こえた騒ぎを見に行くため、人通りの少ない道へと足を運んだ。
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