夜歩き

壱原 一

 

新しい町にも慣れてきました。一人暮らしは快適です。


何の予定も無い夜にふと寂しくなることもあります。そんな時は映画を観に行きます。


程々に栄えている町です。ぎりぎり歩いていける距離に大型の商業施設があります。そこに映画館が入っています。


スマートフォンで調べると、観たいタイトルのレイトショーがこれから向かえば丁度です。


借りている部屋の玄関を出ます。辺りはすっかり宵の口です。


共用廊下の照明がぎょっとするほど光っています。羽虫の閃きを潜って、夜の小道を歩きはじめました。


標識、門柱、ブロック塀、駐車場。庭木、物干し棹、煤けた側溝。自転車。


密集する住宅の合間の毛細血管のような道を、疎らな街灯を頼りに黙々と歩きます。


程々に栄えている町です。一帯はほぼ住宅街です。


通り過ぎる家々から時々おとが漏れ出して、どっと湧き立つ笑い声や、明瞭に読み上げる声、大げさな効果音などが聞こえます。


大音量の動画やテレビの音です。


住んでいる人の声は聞こえません。


住んでいる人達の話し声などは、決して聞こえないという意味です。


静かです。誰ともすれ違いません。


水のにおいが漂ってきます。少し澱んで腐敗した温かく生臭いにおいです。住宅街を分断する川に近付いています。


前方にガードレールのくすんだ白色が浮かび上がります。川は殆ど垂直に深く掘り下げられています。水量は少なく、川底はぬるぬるしています。


以前まだ明るい時間帯に覗き込んだので分かります。僅かな水の中に細長く緑黒い水草がみっちりと生い茂っていて、水の流れに乗ってゆらゆら揺れていました。


まるで長い髪の毛のようでした。


そんなことを考えていたからでしょうか。


何本か道を隔てた斜め後ろの辺りから、歌声が聞こえます。


すっと背を伸ばして、軽やかに歩きながら、心持ち顎を上げて気分よく歌っている声です。


歌い慣れたしなやかな声帯が、伸び伸びと音階をなぞっています。


力強い芯が通り、外周が少し弛んで、歳の分だけかすれている、恐らくそう若くはない髪の長い人の声です。


何の歌か分かりません。最近の歌ではなさそうです。歌詞を聞き取れる訳でなく、鼻歌のようにも聞こえます。


酔っている感じでもないのに、ずいぶん大胆な声量です。


聞き苦しくはありませんが、こんなに静かな住宅街で許される声量ではありません。かなり特異な性根の人に違いないように思われます。


かち合いたくない手合いです。どうやら同じ方へ進んでいます。


つい耳を澄ませていたからでしょうか。


歌声が直ぐ隣の道の、真横の辺りに移動しました。


走った気配はありません。歌声は乱れていませんし、靴底が足早に路面を叩く音もしていません。


いけないなと気付きます。


夜の住宅街です。人の声は決して聞こえません。静かです。誰ともすれ違いません。


もしかすると、人でないものの歌声を聞いているのかもしれません。


このまま追い越されるなら良いです。かち合ってしまったら大変です。止まろうか。戻ろうか。


そんなことを思ったからでしょうか。


前を向いて響いていた歌声が、ふらりとこちらに響きました。正面を向いていた顔が、こちらに向いた証拠です。


傍らの家の向こう側を、足音が走り出しました。歌声も上下に振れています。大急ぎでこちらに来ています。


歌声は天を突くようです。静かな夜の住宅街を法外な大声が劈きます。


大好きな人を見付けた人の足音です。大好きな物を見付けたものの歌声です。


ぞっとして、はっとしました。目の前の川を渡れば振り切れると分かりました。


走って、飛び出して、けたたましい音に打たれます。


強い光に目を細めます。


寸前を自動車が通り過ぎました。咄嗟に踏み止まれました。命拾いしました。


川のにおいがします。向こうに幾らか人影も見えます。車も走っているようです。歌声は消えていました。


どきどきしながらまた歩きはじめて、大型の商業施設に着きました。


映画館に入って、観たいタイトルのレイトショーを観ました。映画はとても面白かったです。


それにしても凄い体験をしました。


帰り道は少しびくびくしてしまいました。


もちろん何もありませんでした。


夜の小道を逆戻りして、借りている部屋のある集合住宅が見えてきます。辺りはすっかり夜中です。


共用廊下の照明がぎょっとするほど光っています。羽虫の閃きを潜って、借りている部屋の玄関に入ります。


鍵を閉めて部屋を向くと、川のにおいがします。


振り返らなくても分かります。


歌声が聞こえます。



終.

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夜歩き 壱原 一 @Hajime1HARA

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