私が公爵夫人だなんてありえません!
鷸ヶ坂ゑる
第1話:おいでませ死亡フラグ
春の陽気な日差しの中、くすんだプラチナブロンドの少女がボロボロの石造りの家の前でぼんやりとしている。澄んだ翡翠色の瞳はどこか不安げで、けれども待ち遠しいといった様子で大通りを見つめていた。
まだ15歳で成人したばかりの少女にしては大人びた様子で、まともな身なりと生活をしていればどこぞの令嬢と言われても通るだろう。しかし、何度も繕った庶民の服から彼女が貧民であることが分かる。
「もうそろそろかなぁ……」
少女は期待半分、不安半分の気持ちで独り言ちた。彼女はボロ家の入口に座り込んで何かを、いや、誰かを待っている。
誰かから手紙がきた訳でもない。
来客の予定がある訳でもない。
彼女に未来視の力がある訳でもない。
しかし、少女には分かっていた。
15歳になって成人したばかりの上春季の初めの日にある人物がやってくることを。
なぜなら、彼女は転生者だったからだ。
別の世界に転生した上に、とある小説の世界だったと気づくには時間もかからなかった。
ふらっと本屋で立ち読みして気に入って買った小説「公爵様の束縛からは逃げられない」というものだ。公爵に一目惚れされたヒロインが逃げようとするのだが──と言うヒロインを溺愛し過ぎて監禁、拘束なんでもありの小説だった。
彼女が死の間際まで手元に置いていたお気に入りの小説だ。そこまではいいとして、最大の問題がある。
彼女の転生先の少女にはこれから来るであろう主人公をいびり、いじめ抜き、最後には殺される未来が待っているということだ。だから、本音を言えば小説の世界に転生したと思っているのは間違いで、今日も明日も明後日も未来永劫、誰も尋ねてこないのを願っていた。
「あ、来た。来ちゃったよ……」
貧民街の入口の方から馬車がやってくるのが見えた。どう見ても庶民が乗るような馬車ではない。家紋が馬車に入っていないが間違いない、と少女は確信した。と、同時に心臓がバクバクしてくる。
少女は知っていた。
この世界のことも、これから起こることも全て。
馬車が止まると御者が降りてきて少女に声をかけた。貧民街に住む人々も、なんだなんだ、と集まって来ている。
「ヴァネッサ・エイブリー元伯爵令嬢ですか?」
「はい。私がヴァネッサです。あなたは?」
「あー、俺……こほん、私はエンデュミオン公爵家の御者でさ……です」
「エンデュミオン公爵家の方が没落貴族である私になんの用でしょうか?」
「ちとアンタに……あなたに預かって欲しい人がいるんでさぁ……いるんです」
ここまでヴァネッサが覚えている限りのセリフをそのまま口にする。もしかしたら、ひとつ歯車が狂えば馬車に乗っている人物は別のところへ預けられるかもしれない。だから、彼女が知る限りの大筋を変えない方がいいだろう、と考える。
彼女の普段とは違い、劇中のヴァネッサの如く、できる限り高圧的に見える態度を取り続けた。
「そう。なんで私なのですか?」
まるで没落なんかせず今なお貴族であると信じる令嬢の如く、御者を見下す悪女のように冷たく言い放つ。すっと目を細めた途端、ビクリ、と御者の方が震えた。エイブリー伯爵家と言えば、ほんの10年くらい前までは歯向かうものは全て消し去るほど苛烈な家門だった。
御者は見たところ中年。
ならば、エイブリー伯爵家の話を知っていても不思議ではない。
だからこそ、今のヴァネッサはなんだか心が痛む。まるで小型犬が狼の毛皮を被っている状況だ。内心、御者にごめんなさい、と謝りつつもヴァネッサは続けた。
「預かるって、私に犬の世話でもしろと?」
「いえ、犬じゃねぇで、ないです! そのぉ、坊ちゃんを預かって欲しいんです」
「ふぅん、別にいいけれども……もちろん、貰えるものは貰えるんでしょうね?」
「はい、旦那様よりお金を──あっ!?」
大きな皮袋を差し出された瞬間、ヴァネッサは御者から奪い取った。そして、中身を確認する。すると中にはほとんど隙間がないくらに金貨が詰まっている。あまりの額にヴァネッサは口元を引き攣らせたのだが、御者には悪い顔をしてニヤリと笑ったように見えた。
ヴァネッサの笑みを見て勘違いしているが、御者はさっさと立ち去りたくなる。
エイブリー伯爵家と深く関わるな。
エイブリー家が取り潰しになるまでよく言われていたことだ。貴族はもちろん、侍従から御者に至るまで知れ渡っていた話だ。だから、御者はさっさと無理難題をふっかけられるか、これ以上ふんだくられる前に逃げたかった。
「いいでしょう。預かって差しあげましょう──」
ほっと胸を撫で下ろして御者は馬車の扉を開けようとする。が、直ぐにヴァネッサに呼び止められた。
「──ですが、この革袋の隙間はどういうことですか?」
「──っな、なんのことでさぁ!?」
「いえ、少し気になっただけよ。下の方には金貨が詰まっているのに、口の方は変に隙間があるなって思って、ね?」
「そ、それは……」
「あなた、主が預けたお金に──手をつけるつもり?」
真っ青な顔をしながら御者は尻もちをついた。ヴァネッサは悪役顔を決めながらニタニタと笑ってみせる。内心ガクブルしながらだが。外面は悪役顔が似合うが、中身は小心者だ。だから、御者が盗んだ金を出して、例の坊ちゃんとやらを置いてさっさと引きあげて欲しかった。
「さぁ、どうするの?」
「ゆ、許してください! む、娘が病気で……薬がいるんでさぁ!」
「その娘が私になんの関係が──」
──あるんですか? さっさと出しなさい!
そう続けようと思うのに、ヴァネッサは言葉が出てこない。もし、御者の話が本当なら、ヴァネッサは子どもを見殺しにすることになる。そんなことができるのだろうか。
ヴァネッサは前世での死の直前を思い返していた。
彼女が死んだ原因は交通事故だ。
その日、保育園の送迎バスから子どもを下ろしていた。そんな時、暴走した軽自動車が子どもたち目掛けて突っ込んできているのを見てしまう。咄嗟に体が動き、子どもを突き飛ばした所まで覚えている。その後の記憶がないということは軽自動車に跳ねられて死んだということだろう。
次に意識がハッキリして来た時には見知らぬ両親とこのボロ小屋の中にいた。高熱にうなされて生死の境を彷徨っていたらしい。その時に前世の記憶を思い出した。もしくは、その時に本物のヴァネッサは死に、今の彼女と入れ替わったのかもしれない。
本物のヴァネッサはきっと御者の子どものことなんか気にもしない。けれども、今の彼女には無視することができないでいた。それこそ、前世では命をかけて他人の子どもを助けようとしたくらいだ。だから、ヴァネッサは大きなため息をつくと地面に這い蹲る御者に向き直り矛を収めた。
「分かったわ。私は何も見なかったことにするわ」
「へ……?」
「治療にいくらいるの?」
「……金貨50枚、です」
「で、この中にはどれくらい入ってるか知ってる?」
「金貨100枚、です」
「そう。たった数枚じゃ足しにもならないじゃない。気が変わったわ。あなたにあげるわよ」
そう言うとヴァネッサはしゃがみこむと金貨の入った皮袋をそっと差し出した。正直、安い給料の酒場の仕事と、親の残した僅かばかりの財産と私物を売り払って暮らしているヴァネッサからしたら金貨100枚という臨時収入は喉から手が出るほど欲しい。
このお金があれば、しばらくはまともな服に暖かい食事。冬に備えて石炭ストーブを買うことだってできた。心の中で涙を流しながらもヴァネッサは目の前の自分の生活より、見知らぬ子どもの命を選んだ。
「も、貰えません! 100枚多すぎまさぁ! もし頂けるのなら半分で──」
「馬鹿じゃないの? 多くないわ。病気が治ったあともお金が必要よ。せっかく治ったのにまともなものも食べられずに死んじゃったら本当に私が損するだけじゃない」
照れ隠しでヴァネッサは御者から目を逸らした。御者は目をまん丸に見開いていたかと思えばボロボロと大粒の涙を流して泣き出している。自分が損するだけだと分かっていたが、良心をこれ以上傷つけずにすんだ、とヴァネッサはプラスに考えることにした。
「それに、ここは貧民街よ。周りを見てみなさい。私たちは注目の的。ただの小娘が金貨100枚持ってるって知られたわけだし、殺されて奪われかねないし、そんな危ない橋は渡りたくないわよ」
「ぐすっ、ヴァネッサ様、本当にありがとうございます」
「ただ、ひとつ。死んでも一つだけ約束を守りなさい」
真剣なヴァネッサの眼差しに、御者は固まった。タダでくれるとは思っていない。あのエイブリー元伯爵家の嫡女だ。無理難題を言われるに決まっている。遅まきながら御者は金を受け取ったのを後悔していた。
「絶対に連れてきた坊ちゃんとやらの居場所を話さないこと。いいわね?」
それだけでいい。
これから半年以内に、公爵家のゴタゴタは終わる予定だ。このお家騒動で生き残るのは、今馬車に乗っている嫡男と現当主の祖父だけだ。
原作では金を全て貰って起きながら、もっと欲しいと欲をかいたヴァネッサによって、彼の居場所を漏らされた。その結果襲撃されて嫡男は死にかけたり酷い目にあう。彼女はそんな目にあわせたくなかった。
「な、なんだ……そんなことですかい。お嬢、俺ァ、ゲフンゲフン、お嬢様に、ヴァネッサ様に誓って命にかけて秘密は守ります!」
「よろしい」
「そ、それだけですかい?」
「ええ。それだけで充分よ」
主人公の居場所を叔父に教えない。
たったそれだけでもヴァネッサにとっては十分だった。貧民街の人間はそこに住む人の物を盗みはするが売りはしない。情報は売らないし、裏切らない。そのせいで盗みが起こっても誰が犯人か分からないが、裏切れば村八分を食らうのをヴァネッサはよく知っている。原作と違い、一人きりになってからはヴァネッサは貧民街の住民たちと上手くやってきたつもりだ。だから、今日、馬車が来たことを喋るものはきっといないだろう。
御者にしても、元々喋る可能性は低いとわかっている。理由があれ、金にがめついところがあるのを置いといて、主人公をここまで連れてきたことから主人公派閥の人間からは信用されているようだ。いくら主人公を隠しに来るにしても御者だけでよこすことはない。だが、お金を渡すことで叔父に告げ口をする低い可能性を更にゼロに近づけ不安要素を取り除く、さらに御者の子どもが助かるだろう。
損して得を取れ、一石二鳥かな、とヴァネッサはメソメソと泣き続ける御者に声をかけた。
「あー、もういいから。例の坊ちゃんとやらをさっさと置いて帰りなさい。あなたには待ってる人がいるんでしょ?」
「はい、ヴァネッサ様。感謝致します……坊ちゃんをお願いします!」
涙を袖で拭いながら御者は立ち上がり、馬車の扉を開ける。すると、中からブロンドの可愛らしい男の子がビクビクと様子をうかがっていた。いきなり馬車に乗せられ、知らない場所へと連れてこられたせいか、薄青の瞳には恐怖の色が浮かんでいる。
ヴァネッサは馬車へと近づいていくと、男の子は余計に身を固くしてしまう。今まで気にしてなかったが、今になって初めてキツめの目つき、顔立ちが恨めしく思った。小説の通り金貨100枚を貰って筋書き通り進めようと思っていたが既に破綻している。それ以前に、幼い主人公を虐待するなんて絶対にできない。悪女のフリはもういいか、とヴァネッサは諦めをつけるとできる限り優しげに微笑みながら男の子に話しかけた。
「初めまして。私はヴァネッサ・エイブリーよ。あなたは?」
「……ぼ、僕は、エリオット。エリオット・エンデュミオンです」
「そう。エリオットね。これからよろしく」
そう言ってヴァネッサは右手を差し出す。
エリオットは少し躊躇ったが、ヴァネッサの手を握り返した。馬車から降りるとエリオットは辺りを見回している。全く知らない場所で全く知らない人と暮らす。まだ幼い彼にとって恐ろしいものだろう。
「さて、エリオットも預かったし、あなたは早くお子さんのところに戻りなさい」
「へ、へぇ、ヴァネッサ様。感謝しても感謝しきれねぇです」
「い、いいから行きなさい!」
気恥ずかしくて馬車に背を向けると、ヴァネッサはエリオットの手をとってボロ家のドアへと向かった。馬の嘶きと馬車が走り出す音で、ヴァネッサはやっとのことで緊張がほぐれていくような気がした。
今にも外れそうなドアを開けてヴァネッサたちは中に入る。すると、床は一部腐り穴が空いているダイニングが現れた。テーブルも自分で作ったのか、かなり粗雑なものだ。かろうじてかまどはあるものの、状態はいいとは言えない。貧乏ここに極まれり、といった内装だ。
それでも、この貧民街の中では彼女の家はまだマシだった。石造りというのもあり、木材で建てたれたものと違い、暖炉もあれば家の中にかまども用意されている。薪さえあれば冬の寒さをしのぐには他の家よりマシだった。
「ごめんね、こんなボロボロで……」
「い、いえ、気にしてません」
「エリオット、敬語はなしでいいわよ」
「わかりました、ヴァネッサ様」
「様もなし、オーケー?」
「え、あっ、はい」
「エリオット?」
「う、うん、わかったよ」
「よし、じゃあ、今日からよろしくね」
こうして、成人になったばかりのヴァネッサは小説のスタート地点へとやってきた。これからヴァネッサがやることは二つ。自分自身が生き残ることと、エリオットに迎えが来るまで無事に世話をすること。小説のような無惨な最後を遂げない、とヴァネッサは意気込んでいた。
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