Lesson4
keyboard
#1
「ただいま」
誰もいない自宅のマンションの扉を開けると、僕は乱雑に靴を脱いで鞄を置く。
そして、そのままグランドピアノが置かれたリビングに向かうと、テーブルの上に置かれた手紙とサンドイッチが目に入る。
『 虎徹へ
おやつに食べなさい。
夕食は冷蔵庫の中にある。
今日も遅くなるから先に休んでて。
母より』
中学に入る前ぐらいからだろうか……仕事で忙しい母から、僕に宛てられたこの置き手紙を何度見ただろう。
鼻で溜息を吐いた僕は、その手紙をぐしゃぐしゃに握り潰すとゴミ箱にトスした。
「つまんねぇ……」
ぐったりとした体でピアノの椅子に座り込むと、その拍子にジャジャン……ッと音が鳴る。
「あーぁ……ピアノなんか嫌いだ」
突然の音に驚いた僕は八つ当たりのようにピアノを見ると、父の顔が脳内に浮かび、僕はヤケクソのように鍵盤に手を翳す。
ピアノを習うキッカケは、10年前──初めて母に連れてきてもらったコンサート。
その時の『現役最高峰』とも呼ばれたピアニストである父が演奏するピアノに魅せられた僕は、瞬く間に鍵盤の虜になった。
その時の演奏曲はショパン。
きっと僕はどんなに父が嫌いでも、その音だけは忘れないだろう。
練習曲と言いながら、群を抜くテクニックと表現力が求められるエチュード、その中でも『別れの曲』の異名を持つ「10-3 ホ長調」。
それは、才能との出会いだった。
──すごい!
僕は子供ながらその演奏に感動したし、心の底から憧れたし、そして何よりも父の存在が誇らしかった──。
もう何度も練習したエチュードの小節を弾いた僕は、あの日の父の影を重ねるように無心にピアノを鳴らす。
──『お前には向いてない』
父が僕に放った言葉が、鼓膜のすぐ側で反芻する。
あの日のコンサートで拍手喝采を浴び、音楽界を引退した父は、指導者の道を選んだ。しかし僕をその道に薦めることはせず、ピアノをやりたいと言った時には猛反対して、生まれて初めて寡黙な父と大喧嘩をした。
その後、母に宥められた父は暫く2人だけで話し合い、渋々承諾した──。
ジジャン……ッ!!!
昔ならピアノを弾いている時間が一番好きだった。なのに、今日はビックリするほど気が散る。
演奏を乱雑に途中で止めた僕は、壁際の棚の上にある写真を眺めて唇を噛んだ。
そこには笑顔の家族が3人。
父と、母と、それから僕。
その写真は、もう二度と揃わない家族の写真だった。
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