1-3-1
――「この子に文字を教えて欲しい」。
秋の実りも盛りの涼しい頃。
庭先で元気にはしゃぐ子供たちの声を背に、仮面の旅人が連れてきたのは、黒曜石のような黒い髪、黒い目の子供だった。
見た目から、年にして十行ったか行かないかくらいだろうか。
長く旅をしてきたためだろう。
着ている長スカートは擦り切れて、色が所々剥げ落ちている。
その長スカートも、よく見ると身丈に合っていない上衣の腰元を無理やり紐で縛ってなんとか着れるようにしているものだから、形の崩れた服を着るしかない貧民のように見える。
それにしては、髪は長い割に艶があり、まっすぐに伸びている。
服以外が貴族的で、それがアンバランスさを生み出している。
「あなたが文字を教えるのではだめなのですか? 保護者でしょう?」
「わたしは教えるのがとんと下手で。巷で評判を聞き、ぜひ
訝しむ。
教えるのが下手でも、語彙くらいなら教えられるはずだと思ったのだ。
「語彙なら共に生活していく中ででも教えられるはずですが」
「それが、難しいんです。この子は違う土地で育ったためか、こちらの言葉とは違うルールで言葉を覚えているらしく、発音も違うことがあるもので」
そこまで聞いて、ようやく理解が及んだ。
「ルールが違うから、子供たちが一番最初に覚えていくような言葉の教え方をしたい、そういうことですか」
「さすがです」
仮面の旅人は、感嘆の言葉を吐き出す。
子供はわたしを見上げている。
わたしは屈み、彼女と目を合わせる。
「はじめまして。わたしはここの孤児院で働いている、ノーカと言います。君の名前は?」
子供は困ったように眉を下げ、仮面の旅人を見上げる。
彼は、子供に言葉を掛ける。
「今、言っていた言葉を復唱してみてくれ。分かるなら、質問に答えてほしい」
「えっと」
教会で聖歌隊が鳴らす、ハンドベルの如き響きの言葉。
「『はじめまして、わたし、ここの……? 動く、わたし、名前、ノーカ!』」
「聞き取りはだいぶできるようになってきたんだが、答えるときがこんな感じで。さすがにこのままだと、この子が今後困ってしまう」
「なるほど。分かりました。引き受けましょう」
仮面の旅人は、肩をほっと撫で下ろす。
安堵したということが、顔が見えなくてもよくわかる。
「但し、本人のやる気次第ではありますが、日常会話をまともに喋ることができるレベルというと、結構時間がかかってしまいそうです」
「貴男が見積もった時間に合わせて滞在します。予想外に時間が掛かりそうであれば、その分滞在期間を延ばします」
仮面越しの目は、まっすぐと見つめてくる。
本当に、子どものことを考えているのだと伺える答えに、ノーカはひとつ、頷いた。
「それでは、まずは半年を目安に。場合によっては年単位頂戴するかもしれません」
「承知しました。ここに来る日は日の入りには迎えに来ます」
「滞在費を稼ぐのであれば、ご紹介できる職もありますが」
「いいえ、構いません。
旅人は、場所を選ばない職をひとつは持っている人が多い。
よく聞く話だ。
路銀が尽きた時、それをいかにして補充できるかが、生死の境目となることもあるという。
それにしても、薬師とは珍しい。
流れの薬師として働くよりも、腰を落ち着けて拠点を作ったほうが稼げる職であるのは間違いない。
いつの時代も、薬の需要はなくならない。
そこにいると示すだけで、薬を求めに人がやってくるのだ。
拠点をコロコロ変えては、客など定着しないだろうに。
しかし、薬の需要も尽きない世の中では、流れだろうと立派な薬師。
確かに、日銭を稼ぐくらいなら容易なのだろうと、ノーカは察する。
(……まあ、世の中には色々な事情を持った人がいますし、不思議ではないのでしょう)
例えば、明らかに極東の閉鎖された島国から出てきたような、混じりっけのない黒髪黒目の子供と。
この辺でも極稀に見ることはあるが、基本北国の方でよく見る白銀の色彩を持った旅人という異色の組み合わせも。
色々な事情と考えれば、どこもおかしいところは無いのである。
「そういうことでしたら。お困りであればお声をかけてください」
「そうさせてもらいます」
「授業は明日から。よろしいですね」
「ええ。日の出と共に鳴く一番鶏の声が、鳴き止む頃に伺います」
仮面の旅人は子供を連れて去ろうと背を向ける。
「あ、それから」
ノーカは数歩進んだ彼らを呼び止める。
仮面が向けられる。何を考えているのかが見えない顔だ。
「七日にいっぺんくらいは、ここの薬の補充をお願いしたいのですが」
旅人の雰囲気が、ふと和らぐ。
「勿論」
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