亡国の姫は死神となりて罪人を狩る

イツミキトテカ

第1話 死神

 鬱蒼とした夜の森を、男が一人息を切らし走っていた。枯れ枝を踏み折る乾いた音に、驚いたフクロウがとまり木から大仰に飛び立った。この森のことはよく知っている。月が雲隠れした今宵のような状況は、却って男にとって都合が良かった。


(「さすがについてこれねぇだろ…」)


 どれほど走ったことだろう。男は大樹の影に素早く身を潜めると、肩越しに後ろを見やった。上下する胸板を掌で抑え、耳を澄まし、暗闇の先へ目を凝らす。近くでシカが飛び跳ねた音に、一瞬ぎょっとさせられた。男は軽く舌打ちしたが、それから周りに誰も居ないことを確認し、ほっと一息ついた。


(「ほれみろ。ついてきてねぇ」)


 男は大樹に体を預けた。少しでも力を抜けば、ずり落ちそうになるのを汗を含んだ上着とごわついた樹皮が摩擦でどうにか食い止めていた。


(「さて、これからどうするか、だ」)


 落ち着きを取り戻した男は未来のことを考え始めた。


 あの街にはもう戻れない。ようやくコネもでき、いよいよこれからだって時に、全く腹立たしい。しかし、背に腹は代えられない。命を取られては何も意味がない。昔の伝手を頼って地元に戻るか。いや、誰かが密告するに決まっている。今日だって、どうして居場所がバレたのか。あのことを知っているのはあいつらだけだ。つまり、あいつらの誰かが吐いたのだ。誰だ。許せない。やっぱり地元に戻ろう。あいつら一人ずつ問い詰めて、吐かなきゃ、指を一本ずつ切り落として、どっちにしても殺してしまおう。一人も二人も同じこと。そうすりゃ、あのことを知る者は誰もいなくなり、自分は晴れて自由の身だ!


 輝ける未来への想像に、男は高笑いしそうになるのをなんとか堪えた。


 その時、枯れ枝がパキッと折れる音がした。ウサギだろうかと、男は振り返る。目に入ったのは青白く光る一匹の蝶だった。見慣れない蝶に男の目はしばらく釘付けになった。地面近くをふよふよと漂う蝶を見ながら、しかし、蝶ならば枯れ枝を踏みしめたりしないと我に返ったとき、暗闇からゆっくり現れた人影に男の心臓がドクンと脈打った。


(「なんでだ?! 完全に撒いたはず…!!」)


 男はこの森に詳しかった。だからこそ驚いたのだ。この樹海で年間どれだけの人間が迷い、行方不明になっていると思っている。


 人影は男に気づいているのかいないのか。しかし、確実にまっすぐに男に向かって歩を進めている。生温い風が吹き、男の汗を嫌に冷やした。


(「今動いたら確実にバレる。だが、ここにいてもいずれバレる。どうする…」)


 その時だった。男の上空に光が差した。夜空を覆う分厚い雲が風に流され、下弦の月を露わにしている。


(「もう終わりだ」)


 この明るさでは逃げ切れない。そう思ってからの男の判断は早かった。大木の裏から飛び出し、すっかり観念した様子で地べたに額をこすりつけた。


「もう逃げません。金ならいくらでも払います。だから命だけは――」


 見上げた先。赤いニスデールを身に纏う人影が月光に照らされていた。男は、一瞬ハッとしたが、すぐに口元を歪めると、おもむろに立ち上がった。


「なんだ。女か」


 赤いニスデールは『死神』の衣装だ。厳しい試験に見事合格した猛者だけが『死神』になれる。この『死神』は、今日の昼頃、男が取引先と密会中の酒場に現れた。その時、小柄だとは思ったのだ。しかし、『死神』は手練だ。だから、ここまで必死になって逃げ回っていたというのに――


「女は得意だ。犯るのも殺るのも」


 幸い、男の声は女死神には届かなかったようだった。男はすぐ先の未来について思いを巡らし、思わず舌なめずりした。この女をどうやるか。想像しただけで楽しくてしょうがない。


 静寂の森に、鈴を転がすような声が響いた。


「お前がダエン・ブラトーだな」

「…まぁ…そうだな…」


 男はもったいぶってゆっくり喋った。単なる時間稼ぎだ。その間に、女を下から舐めるように視線を這わせた。白く澄んだ肌は張りがあり、若さを感じさせる。筋肉質な太ももは細すぎず太すぎず、男の好みだった。腰のくびれも艶めかしい。胸は中の下…だが、尻がその分をカバーしている。


 桜貝のように可憐な女の唇が開いた。


「女五人を殺した罪でお前を処刑をする」

「…何のことだか…」


 男はしらばっくれた。女は腰に佩いた長剣を引き抜くと、ためらうことなく男に切っ先を向けた。切っ先越しに見える女の軽蔑したような目。氷のような冷たい視線に、男はゾクゾク身震いした。気の強い女ほど、痛めつけがいがある。今際の際に泣きわめく姿が待ち遠しい。女の美しい顔が苦悶に歪むのを想像しただけで男は昇天しそうになった。まだだ。まだ早い。男は自身を宥めすかす。


 女の刃が男の喉仏を今にも突かんとした。男は両手を上げ、降参の意を表明した。


「分かった分かった、全部話す…その前に、こっちも聞きたいことがある」

「…」


 女の無言を、男は了承と取った。


「へへ…優しいな。まずは、だ。どうして俺の居場所が分かった? 誰から聞いた?」

「…女神のお告げだ」


(「女神ねぇ…」)


 この世界には女神がいるという。罪人を咎め、死神を遣う女神が。子どもの頃に誰もが一度は耳にする神話、伝説、言い伝え。悪いことをすれば必ず罰が下るのだと、子どもを脅えさせるための、大人にとっての便利な言葉。


 男は肩を竦めた。


「まぁいいさ。じゃあ、森は? どうやって俺の跡をつけてきた? 暗闇で見えなかったはずだ」

「蝶の跡を追ってきた」

「蝶? あの青白い蝶?」


 女はコクリと頷いた。


「花が咲く。蝶が舞う。私はそれを追うだけだ」


 突然、女は男に向けていた剣を下ろすと、男の足元に咲く小さな白い花を切っ先で指し示した。

 年中どこにでも咲いている花だ。繁殖力が強く、隙間があれば家の中にまで繁茂する小さな花。名前は知らない。


 その花が男の居場所を教えたという。いったいどうやって? ただの名も無きそこらの花だろうに。


 結局、女は手の内を明かすつもりは無いということなのだ。しかし、実のところ男にとってはどうでも良かった。抑えきれないニヤつきとともに、裾の中に隠しておいた杖を女に向かって突き出した。


「まぁいいさ…時間は稼げた。浮遊魔法フロッタン!!」


 男は選ばれし人間だった。この世界で魔法が使えるものはそう多くはない。時間稼ぎの間、地面に転がる岩に魔力を注ぎ込んでおいた。人の頭ほどあるその岩は、男の発声とともに女の顔目掛けて飛んでいく。女はとっさに後退り、剣を構えた。


「アホがっ! 剣が折れる!!」


 そして、女の顔は醜く潰れるのだ。元が美しければ美しいほど良い。そのギャップが大きければ大きいほど興奮する。


 岩と剣がぶつかった。剣先が月光に煌めいている。

 

 硬いもの同士がぶつかる乾いた音が森に響く。そして続くのは果物が潰れる鈍い音。


 男の予定ではそのはずだった。しかし、岩は木の葉のようにいとも容易く十字に斬られた。女がそのまま踏み込んでくる。


「デュランダルの糧となれ」


 女の声は涼やかだった。男は抵抗を試みようとしたが、出来たことといえば、空中でただ手を掻く程度のことだった。女は長剣をいともたやすく振り回し、左から右に男の胴を払った。切れ味バツグン一刀両断。


 男は最期にありえない光景を見ることになった。自分の股と地面が織りなす三角の間に上半身が直立した。自身の膝下の位置から見える景色は妙に新鮮だった。消えゆく意識の中、赤い死神の横に、怖ろしく美しい青年がどこからともなく現れ、そっと寄り添うのが見えた。

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