9話


 ――俺の可愛い巫女姫。


 月夜は幼い頃から凰花をそう呼んでいた。名前をもらう以前からずっと。

 けれど、神様から「凰花」という名前をもらってから、時々変な顔をする。

 言いにくそう、というよりも気に入らない。そんな感じだったと思う。凰花にはあまり見せないようにしていたけれど。

 でも、時々知らない名前で凰花の事を呼ぶときがある。

 その名前で呼ばれるたびに、月夜との結びつきが強くなるような気がした。

 彼が生きている間は聞くことが出来なかったけれど、もしももう一度会えたら聞きたいと思った。


 ねえ、兄様。そのお名前の人は誰なのですか?

 もしも、神様からお名前を貰えなかったら、なんと名付けてくださいましたか?


 ――もし神様がつけてくれなかったら、俺がつけてあげる。


 幼い月夜の声が、凰花に囁く。


 ――俺の可愛い巫女姫。俺の、愛しい……。





 ミーンミーンと蝉の大合唱の声で、微睡んでいた夢の世界から引き戻される。

 目を開けると、見知らぬ天井があった。

「……ここは」

 唯はぼんやりと視線を彷徨わせる。8畳ほどの和室の中央に布団が敷かれていて、そこで寝ていたようだ。

 ズキズキと痛む全身に、顔を顰める。

「っ、わたし、どうして……」

 確か、月夜の墓参りに光留と行ってその帰りに落神と戦闘になった。巨大な落神に頭を叩き潰された後からの記憶が曖昧だが、月夜の声を聞いた気がする。

(月夜様が二人いるなんてありえないわ。きっと夢か幻覚よね……)

 月夜の魂は光留として生まれ変わっている。光留のクラスメイトになって数か月見守っていたが、それは確かだ。

 唯はゆっくりと身体を起こす。

 全身に渡る痛みは今回はどれくらい続くだろうか。何度か死ぬほどの痛みだからきっと最低でも一週間は続くのだろう。

 重いため息をついた後、緩慢な動作で周囲を見渡す。

「ここ、凰鳴神社……?」

 社殿として建て直された後に、中に入ったことはなかったけれど、よく知った神様の気配で満ちているからか懐かしい気がした。

「――から、……って!」

『そういうことじゃなくて! みっちゃんだって気になるでしょ?』

「そりゃそうだけどさ……」

『大丈夫、唯ちゃんの寝込み襲おうとしたらあたしが全力で止めるから〜』

「誰が襲うか!」

『え、襲わないの?』

「なんでそんな信じられないって顔されるんだよ。流石に寝込んでる奴に手は出さねえよ」

『寝込んでなければ手を出すの?』

「なんでそうなるんだよ。……だいたいどっちの味方だよ」

『あたしは唯ちゃんの味方だも〜ん』

 襖の外から聞こえる会話に、唯は首を傾げつつなんとなく聞いていれば、するりと襖を通過して見知った霊が現れる。

『あ、唯ちゃ〜ん! 良かったぁ!』

「朱華ちゃん!」

 朱華に抱きつかれ、唯は小さく笑みを溢す。

『うわあ〜ん! 痛かったよねぇ〜、もう二度と目覚めないかと思っちゃったぁ〜』

 わんわん泣く朱華の頭を撫でる。霊体なだけあって感触はないが、気持ちが伝わればいいのだ。

「ごめんなさい、心配かけて」

『いいよぉ〜、唯ちゃんとこうしてまた会えたんだから〜』

 朱華の気持ちが嬉しくて、身体の痛みが僅かに和らいだ気がした。

「あら、そう言えば、朱華ちゃんはどうしてここに?」

『ん、みっちゃんに憑いて来たんだ〜』

「……みっちゃん?」

 聞き慣れない名前に首を傾げれば、朱華がにこりと笑う。

『そう。唯ちゃんもよく知ってる槻夜さんちの光留君だよ〜』

 最近の流行りの小説のタイトルにありそうな呼び方をするが、確かによく知っていた。

『ほら~、みっちゃんも早く入りなよ〜』

 唯の了承も得ずに朱華が呼ぶ。

 襖の向こうから躊躇うような気配があり、それから「入るぞ」と声がかかる。

 スッと襖が開き、光留が姿を現す。

「……みっちゃん」

 唯が何かに納得したように呟けば、光留は「なんだよ」とぶっきらぼうに答える。

「何か文句あるか?」

 その顔にはみっちゃんと呼ばれることに抵抗はあるが、諦めているという、要は不貞腐れたような表情に、唯は小さく笑った。

「ふ、ふふ……い、いえ。随分と可愛らしいあだ名ね」

 口元を手で隠しているが、笑いを堪えきれていない。

 釈然としないが、唯がこんなふうに笑うのを初めてみた光留は、可愛らしい表情に顔が赤くなる。

「朱華が勝手に呼んでるだけだ」

「そうなの?」

『唯ちゃんもみっちゃんって呼べばいいと思うよ〜』

「やめろ。ガキじゃあるまいし」

「あら、いいと思うわ。みっちゃん」

『みっちゃん』

 からかうように呼ばれて腹立たしい気持ちにはなったが、ここでキレたら負けような気がして、光留は諦めたようにため息をつく。

「勝手にしろ」

 唯の笑う顔が見られるのなら、みっちゃんでも何でもいいとさえ、ほんの少し思ったりもする。

「ところで、ここ、凰鳴神社よね? あの後、落神はどうなったの?」

 光留は訝しむように唯を見た。

「覚えてないのか?」

「巨大な落神に頭を潰されたところまでは覚えているわ。でも、その後の記憶はあまり……。きっと脳の再生に時間がかかるせいね」

 あの痛がり様は脳の再生に起因するとすれば納得だ。記憶が曖昧なのも。

 光留はどうやって説明するべきか少し悩んでから口を開いた。

「あのデカいのは確実にお前が仕留めたよ。落神どもは、浄化の炎の暴走がどうのって言ってたな。念の為、帰るときに気配探ってみたけど、感じなかったから確かだ」

「そう。……なら六柱は確実に倒せたのね」

 唯はほっと息をつく。

「私が感じたのは七柱だったけど、あの場に現れなかったの?」

 唯が尋ねると光留が苦々しい表情をした。

「……何かあった?」

 光留の表情の変化から察し、唯は首を傾げる。

『みっちゃん……どうせバレるよ』

「わかってる」

 朱華の懸念はもっともだ。これは光留の問題であって、唯には話しておいたほうがいいのだろう。

「七柱目は、確かにいた。また、鳳凰を殺しに来るって言ってたよ」

「……逃げたの?」

「今回は様子見って言ってたからな」

「様子見、ね……」

 心当たりがあるのか、唯の表情が暗くなる。

「なんか、気になることでもあるのか?」

「あると言えばあるけど、あなたは関わらないほうがいいわ」

 唯の突き放した言い方に、光留は自分の無力さを思い知る。

 だけど、あの戦いを見て、光留が強く思ったのは、唯を戦わせたくないというものだ。

「……あのさ」

「何?」

「身体、まだ痛むんだろ。寝てなくて大丈夫か?」

 光留の心配にきょとんとする唯。疑問ではなく、確信しているような声音に、唯は視線を逸らす。

「そう、ね……月夜様、あなたの魂との繋がりがあるからかしら。隠してもわかってしまうわよね」

 魂の繋がりについては光留にはさっぱりだが、恐らく、唯を止めるためにキスした時、僅かに彼女の血に触れたのも一因だろう。

 唯には言わないが、守り人としての繋がりがあの一瞬の間だけできた。

「でも、大丈夫よ。痛みには慣れているから」

「そんなわけないだろ」

 光留は、強い口調で否定する。

 唯の、胸を引き裂かれるような悲痛な泣き声は、今でも耳に残っている。

「お前さ、いつまでも独りで背負おうとするなよ。確かに俺じゃ月夜みたいになれない。でも、痛みを代わってやることぐらいは出来る!」

 怒鳴るように言えば、唯は戸惑うように光留を見る。

「私は、あなたにそんなことをさせたくて近づいたわけじゃないわ」

「わかってる! だけど、あんなお前、もう見てられないっ!」

 僅かに泣きそうな光留の表情に、唯は何も言えない。

「頼むから、俺を守り人にしてくれ。お前の、痛みを分けてくれ……」

「……どうして、そこまで言えるの? 私は、あなたを嫌いなのに」

「っ、俺がお前を好きだからだよ!!」

 思わず言ってしまった言葉に光留はハッとする。

「そうじゃ、なくて……。悪い、今の忘れてくれ……」

 言うつもりの無かった言葉を憤り任せに言ってしまった後悔に、光留は奥歯を噛み締める。

「頭冷やしてくる」

 光留が出ていき、唯も俯く。

『唯ちゃん』

 朱華が心配そうに唯を覗き込む。

「朱華ちゃん……、私どうすればいいのかな……」

『みっちゃんも、ずっと悩んでたんだよ。自分が近づけば唯ちゃんが苦しむからって』

 この一か月近く、らしくないと思いながらもここに通い、修業をしているのも全て唯の力になりたかったからだ。

「でも、兄様は生まれ変わって新しい人生を生きてるの。私に、縛られてほしくないの」

『うん、そうだね。でもね、みっちゃん言ってたよ。唯ちゃんの嫌いは、本心じゃなくて、お互い苦しまないようにするためだって。でも、そうすると唯ちゃんもっと苦しくなると思うから、好きになってくれなくても、そばで守りたいって』

 例え自分が苦しむことになるとしても、長い時間を孤独に耐えていた唯を助けたくて、その想いに朱華も応えたいと思った。

 まだ、自分に何が出来るかなんてわからないけれど、巫女の事や守り人の事、神様の事であれば朱華の知識でも十分に光留に伝えられる。

『唯ちゃんは、ずっと独りで頑張ってきたんだもん。ちょっとくらい肩の荷を下ろしても大丈夫だよ』

 不老不死の呪いを受けている唯と、光留とは生きる時間が違いすぎる。だから別れが来た時に辛くなるのはわかりきっている。

 けれど彼は、最愛の人の生まれ変わりだ。あの魂を愛さずにはいられない。彼の中の月夜を見て、彼に酷いことを言ってしまいそうで、怖くて遠ざける方法しか知らない。

「私は、彼の思いに応えられない」

『うん』

「それに、あの子にも罪を重ねてほしくないの」

『うん。……うん? あの子?』

 一瞬光留のことかと思ったが、どうにも様子が違う唯に、朱華は聞き返す。

「そう。……あのね、私、本当は自分が死ぬ方法知っているの」

『え、ちょっと初耳なんですけど』

「うん。誰かに言ったのは、朱華ちゃんが初めてだもの」

 唯の初めてにちょっぴり嬉しくなる朱華だったが、ハッとして目を丸くする。

『えっと、聞いてもいいの?』

「朱華ちゃんは、私の味方だって信じてるから」

 じゃあ、光留は違うのか、と聞こうと思ったが彼はいろんな意味で唯にとって特別なのだ。時期が来れば自分で言うだろう。

『もちろん、あたしは唯ちゃんの味方だよ。それで、ずっと友達だよ』

「ありがとう。……私を殺す方法はね――」

 唯がこっそり教えてくれた方法に、朱華は一瞬思考が及ばなかった。

 内容をゆっくり飲み込むと、目から涙がぽろぽろと溢れた。

『そ、んな……、そんなの酷いよ……。なんで、神様はそんなこと……』

「うん。だからね、私は逃げなくちゃいけない」

 凰花は神様に愛された娘だ。愛が深すぎる故に、様々なしがらみから逃れられない。

「あの子は使命に忠実すぎて、ある意味とても純粋なの。巫女姫としては正しいけれど、だからこそ必要であれば誰よりも残酷になれる。自分の両親すら躊躇わずに殺すことができる。そんなあの子に罪を背負わせるわけにはいかない」

『そう、だね……。でも、そうしたら誰も救われないよ……』

「ええ。だから私は探したいの。みんなが幸せになれる方法を」

 それは、唯の本心だろう。

 この雁字搦めの宿命は、きっと誰も傷つかないなんてことはない。それでも真っ直ぐに立ち続ける彼女は美しくて、神様はそんな彼女だから欲したのだろう。

『やっぱり、唯ちゃんは凄いよ』

 初めて逢った時から、唯は朱華にとって憧れだった。優しくて、暖かくて、巫女としての自分に誇りを持った唯が、心底羨ましかった。一度は呪い殺してやろうと思ったこともある。

『ねえ、唯ちゃん。あたしはやっぱり、唯ちゃんに守り人は必要だと思う』

 守り人に愛される唯が、妬ましい。

『みっちゃんが生まれてきた理由は、きっとそこにあると思うの。だから、ちょっとくらいは考えてもいいんじゃないかな』

 光留の恋が報われてほしい。

 唯が救われてほしい。


 ――二人が、もっと苦しめばいい。


「………………考えてみるわ」

 唯の答えに、朱華はホッとする。けれど同時に、二人が悲劇を迎えればいいとも思う。


 ――ああ、あたし、悪霊になるのかな。

 

 こんなこと望むなんて巫女失格だ。早く、早くなんとかしないと。ドス黒い感情に塗りつぶされる前に。

『うん。あたしは、唯ちゃんの味方だよ』

 唯の手に触れると温かくて、自分が失ったものが二度と戻ってこないことが惨めになった。

 唯は「朱華ちゃん」と心配そうに覗き込む。もしかしたら気づかれているのかもしれない。朱華の醜い感情に。

 それでも祓おうとはしない。それが彼女の弱さの一つでもある。

 唯は何も言わずに「ありがとう」とだけ言った。

 

 

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