1話



 放課後、裕也に代わって担当教室の清掃が終わると、辺りはすっかり暗くなっていた。

 五月とはいえ、十八時を過ぎると明かりがほしいと思うくらいには暗い。

 本当はもっと早く終わるはずだったのだが、クラスメイトたちとついつい遊んでしまい、気づけば放課のチャイムが鳴っていた。

 職員室に鍵を返し、そのまま下駄箱に向かう。

 自分の出席番号の書かれたシールが貼ってある場所に上履きをしまい、学校指定の革靴を取り出す。

ぞんざいに地面に落とし、いそいそと靴を履き、何かから逃げるように急ぎ足で校門をくぐった。

(別に、怖いってわけじゃねえけど、なんか嫌なんだよなぁ……)

 新しい環境にも慣れ始め、部活や勉強と少しずつバランスが取れ始めると、次に話題になるのは人間関係だ。

 女子の間では、すでに一組の誰々がかっこいい!や、三年の何とか先輩と、四組の子が付き合っている。といった恋話で持ちきりだ。

 対して男子といえば、最近発売になったゲームの話だったり、雑誌やテレビで話題のグラビアアイドルの話題が多い。そういった意味では、女子も男子も大差は無い。

 そんな普通の中に、時折紛れ込む、いわゆる“学校の怪談”の類。

 光留は幽霊を信じてはいない。だが、幼い頃から不気味な気配は時折感じていた。

 それは、ほんのかすかな気配で、何かに熱中していれば、気のせいだろう、きっと気温のせいだろうと思う程度のものだ。

 だから見たこともないし、はっきりと感じたことは無い。

 裕也や、別のクラスメイト経由で聞いた話も、どうせ作り話だと、笑い飛ばした。

 もちろん、今だって信じているわけではないが、帰り道がこうも暗いと嫌な感じがする。

(この辺、住宅街なんだからもっと街灯増やせばいいのに……)

 明るければ、こんな変なことを考えなくてもすむ。

 周囲に広がる闇は、人の思考も闇へと誘う。

 いないと思っていても、黒い影が不気味に忍び寄るイメージがじわりじわりと頭の中を侵食する。

 イメージが強くなるにつれ、徐々に足は早まる。

 早く早くと、心が急ぐ。

 人気の少ない住宅街に、自分の足音だけが聞こえる。

 百メートルおきに立てられた街頭を二、三本通り過ぎると、自宅までは目の前だったが、光留は足を止めてしまった。

 ジジッと、羽虫が蛍光灯の熱と触れ合う音。家の近くに立つ街灯の下に、何かがいる。

(……誰だ?)

 くたびれたコートは初夏を目前としたこの季節には似合わない。むしろわずらわしいだけだ。

 ――怪しい。

 まさにこの一言につきた。

 誰かをストーカーしているのか……。

 確か、三軒先の一戸建ての白い家には二十代の若い女性が住んでいた。家が近いから時折顔を合わせると挨拶する程度には、彼女を知っている。

 唯ほどではないが、なかなかの美人だ。

 そんな女性なら、ストーカー被害に遭っていても不思議ではない。

(……ん? 何であいつの顔が浮かぶんだ?)

 比較対象に選んだ、無愛想なクラスメイトを思い浮かべてなんともいえない気分になる。

(まぁ、あいつ顔だけは可愛いし、席が近いから偶々だよな)

 心の中で言い訳して、納得する。

 仮に、街頭の下に立っている影が彼女のストーカーだとして、光留にはそれを撃退するだけの力は無い。

 警察に連絡すべきか、声をかけるべきか。

 安全なのは前者だが、向こうもこちらの存在に気づいているはずだろうし、この場で電話をかけるというのも不自然な気がする。

 とはいえ、ドラマや警察の追跡番組のように不審者を見て何もせず、美人なお姉さんが無残な姿になってしまっても寝覚めが悪い。最近は物騒な出来事が多いからなおさらだ。

 声をかけて、逃げるようなら明日の朝にでもお姉さんに声をかけて忠告してやればいい。襲ってくるなら、幸いにも家はすぐそこだ。全力で走れば逃げ切れる。

 光留は腹を決めて、そっと影に近づく。

「あの……、どうかしましたか?」

「…………」

反応が無い。

 ストーカーではなく、具合が悪いだけの酔っ払いか。ならば、呼ぶのは警察ではなく救急車だ。

 どちらかを確かめようと、もう一歩影に近づく。

「そこで何を……」

 しているのかと、聞こうと覗き込むと、ぐにゃりと影が歪んだ。

「え……?」

腕が軟体動物のようにあらぬ方向を向いた。

何が起きているのか、理解できなかった。

『――腹、が、減った……』

 ぶくりと膨れあがった体積の、頭のあった辺りに赤い穴が広がった。

 低く、ひどく音質の悪いレコードにも似たひび割れた男のような声が耳朶を打つ。

『に、く……食わせろ……』

 不快感を呼ぶ耳障りな声が再び発せられる。

 ぞわり、と背筋に悪寒が走る。

(――ヤバい!)

 本能がそう告げる。

 理性でも、これは危険だと判断していた。


 じゃり。


 無意識に一歩後ずさる。

 のそりと、それが光留に近づく。


 じゃり、じゃり……。


 二歩、三歩とソレから視線をそらすことも出来ないまま、また後ずさる。

『肉……』

 のそりのそりと、光留が離れるたびに、その距離を縮める。

 赤い口腔からは、だらりと涎が垂れる。

 明らかに人間ではないソレは、まさに獣と一緒だった。

 見たことも無い獣。だが、地球上に生息する生物の中で、腕や体が膨らみ、ナマコのような柔らかな体。目は無く、口も顔のバランスを意識せず、横幅いっぱいに広がる。何より、人の言葉を発し、意思を持つようなものは図鑑でも、テレビでも見たことは無い。


 ぐにゃりと、腕のような細長い物体が波打つ。


 じゃり。


 また一歩後ずさる。


 ドン。


 下がったら、背中に何かが当たった。

 横目に見れば私有地と市道を分ける塀が背中に当たっただけだ。

 背中に当たったのが、無機物で安心したのと同時に、逃げ場が無くなったことに、戦慄した。

 目の前のソレも、光留を追い詰めたことで、食事にありつけることが余程嬉しいのか、大きな口を笑みの形に変える。

『食わせろおおおおおおおおおおおおお!!』

 鼓膜が破れてしまいそうなほどの咆哮が響き、光留を丸呑み出来そうな口が、光留に迫る。

 光留の脳は現実を処理できず、恐怖が光留の足を地面に縫いとめる。

「う…ぁ…」

 声を発することも出来ず、心の中で叫ぶ。

(助けてっ――!)

 死ぬかもしれない。

 そんな想像が脳裏をよぎったときだった。


「その人に触らないで」


 凛とした声が、間に入った。

 パニック状態の光留は、割り込んだ声の主を認める前に、目前まで迫っていたソレが、突然赤い炎に飲み込まれた。

『ぐああああああああああああああああああああああっ!!』

 耳を塞ぎたくなるような断末魔を上げながら、炎の中でソレがのたうちまわり、やがて声が小さくなると、あの柔らかそうな胴体は跡形も無く灰となった。

 光留は呆然とその光景を眺め、灰になった最後のかけらが風に舞うと、ようやく我に返った。

「助かった……?」

 今まで起きたことが信じられず、現実を受け止めようと、脳がフル回転を始める。

 だが、処理しきれなくなり考えることをやめた。

 代わりに、視界に入ってきたのは、ほんの数分前に考えていたクラスメイトだった。

「鳳、凰……?」

 腰まで届く長い赤い髪。

 くすんだ蛍光灯の下でも損なわない、美しい面立ち。

 光留が知る限り、これらを併せ持つ少女は、光留の斜め前の席に座るクラスメイトしかいない。

 けれど、普段の彼女とは1つだけ違った。

 ――瞳の色が、金色だった。

(き、ん……いろ……?)

 見知った彼女の瞳の色は緑だったはずだ。

 不思議と、不気味だとは思わない。ただ綺麗だなと思った。

 金色に輝く光は月のような神々しさを宿し、それでいて揺れると炎の煌めきを連想した。

 それ以外は彼女そのもので、先ほどの出来事もあり光留は混乱した。

「鳳凰……なのか?」

 確かめようと、もう一度声をかける。

 唯は、瞼を閉じほんの数秒逡巡した後、「何?」と小さく首を傾げる。

 その時にはもう、いつもと同じ緑色の瞳だった。

(気のせい、か……?)

 街灯があるとはいえ、周囲は暗い。きっと見間違いだったのだろうと結論付ける。

 唯の様子も普段と変わらない。光留に対してはこちらが鳴きたくなるくらい冷たい態度だ。

 けれどその姿は、先程一瞬で化け物を灰にした勇ましい少女と比べるととても頼りなく見えた。

 もともと儚い印象の少女ではあったが、まるで何かに脅えるように、今はとても小さく見える。

 かける言葉が見つからなくて、何と言っていいかわからなくて迷っていると、唯は視線をそらす。

「何も無いなら行くわ。貴方も、これ以上遅くならない方がいい」

 そう言って、唯は闇に溶けるように静かに去っていく。

 光留はその後ろを茫然と眺めることしか出来なかった。


 翌朝――。

 昨晩からずっと、あの出来事を思い出してはぐるぐると考え込んでいた。

 なぜあの場に唯はいたのか。あの化け物はいったい何なのか。唯のあの力は何なのか。そもそも彼女は何者なのか……。

「はぁ……」

 考えても答えの出ない疑問に、気づけば朝を迎えていた。

「おっす! 光留。……どした? 元気ねえな。また唯ちゃんに振られたのか?」

 裕也の朝から高いテンションに若干げんなりしながら、またため息をつく。

「別に、そんなんじゃない。そもそもあいつに告白とかねえし」

「そんなの言えるのお前だけだよ」

 呆れたように言う裕也に返す気力も無い。

「なぁ、裕也」

「ん?」

「お前、超能力とか信じるか?」

 唐突な光留の言葉に、机の中に教科書をぐしゃぐしゃと詰め込んでいた裕也は、は? と素っ頓狂な声を上げる。

 無理も無い。光留はどちらかというとあまりそういった心霊現象やら超常現象といった、科学では証明できないようなものを信じていない。裕也も常々それを聞いているから知っていることだ。

 その光留が、何を思ったのか唐突に“超能力”などと言い出したら、その頭を疑うのは当然の流れだ。

「光留。お前、ホントどうしたの? 何か変なもの食った?」

 心底心配そうに聞かれ、眉を潜めるも、自分でもらしくないことを言っている自覚があるだけに、余計に泥沼に嵌りそうだ。

「変なもんは食ってない」

 ――変な化け物みたいなやつには食われかけたけど。

 などと言っても信じてはもらえないのはわかりきっている。

 光留は、ため息をついてそれらの言葉を飲み込んだ。

 斜め前には、いつもと変わらない光景が広がっている。

 唯を囲んで数人の男女が楽しげに話をしている。

 誰かが言葉を発するたびに、唯は普段と変わらず、控えめだけれど花のような笑みをこぼす。――そう、入学してから全く変わらないいつもと同じ日常。昨日、光留の前に現れたのは本当に彼女だったのかと、疑いたくなるほど変わらない光景だった。

 そのことが少しだけ、恨めしくて唯を睨んでみるが、壁のごとく立ちはだかるクラスメイトの男子の背中にさえぎられて唯には届かない。



 光留は昨日のことを確かめるべく、人の少ない頃合を見計らって、唯に声をかけた。

「――鳳凰」

 名前を呼んで、視線が一瞬だけ合う。しかし、すぐに逸らされる。

「何?」

 そっけない。光留にとってはいつものことだが、それが腹立たしい。

 文句の1つも言ってやりたいが、ここは人目が多すぎる。言いたいことを飲み込んで、教室の外を指す。

「ちょっと良いか?」

 唯は整った眉を僅かに潜める。

「どうして?」

「昨日のことで話しがある」

 昨夜の出来事を匂わせれば、唯は仕方ないと、小さく吐息を漏らしてから腰を浮かせる。

 唯を伴って人気の少ない校舎の裏に移動する。

 夏本番前とはいえ、じっとりと蒸し暑い日が続いている日中には日が当たらない場所はありがたい。

 周囲に誰もいないことを確かめると、光留は足を止めて、呼吸を整えるように深呼吸をする。

 振り返って唯の方を見れば、俯き加減の唯と視線が合う。

 一応話は聴いてくれる気でいるらしい。態度は気に食わないが。

 どんなに気に食わない態度でも、相手は女子だと思えば、あまり強気な態度には出られず、光留はもう一度大きく息を吐く。

 そして、意を決して口を開く。

「昨夜の。やっぱりお前なんだな」

 確信と確認を兼ねた言葉。

 唯の肩がピクリと跳ねる。

 その反応を見て、確信は強まる。

「やっぱり、か」

 光留の言葉をどう捕らえたのか、唯は合わせていた視線を外す。

「だったら何だというの?」

 突き放すような冷たい声音。硬質さを帯びた態度は、どこか怯えているようにも見えた。

 だが、光留はそれに気づかず、言葉を続ける。

「別に。どうもしねえけど、これだけはいっとこうと思って」

 身構える唯に、光留は不服といわんばかりにポツリと呟く。

「その、助けてくれて、ありがと……」

 光留の言葉に、唯は大きく目を見開く。

「…………」

 てっきり罵倒が飛んでくるのかと思っていたからだ。

 現代では、あの力は異質で、一歩間違えれば昨夜光留を襲った化け物と同類扱いになる。

 唯は何度も、そういった言葉を聞いてきた。

 全く耐性が無いというわけではないが、何度聞いても気分が良いものではない。

 今回も、あの能力ちからを見られた以上、そういわれるのだと思っていた。

 けれど、予想とは逆の言葉にどう反応していいか戸惑う。

 意図的に態度を変えている相手からならなおさらだ。

「――どう、して……」

 ようやっとの思いでそれだけを口にする。

「どうしてって……、助けられたのは本当だし。癪だけどな。その、お前に嫌われてるのかもとか思わないでもないけど、一応それだけは言っとく。じゃあ、用はそれだけだから」

 光留は踵を返すと、全力でその場を去る。唯を残して。

 唯は光留の言葉をかみ締めるように唇をきゅっと引き結ぶ。

(――兄様)

 その場に残された唯は、とても動揺していた。

 彼を見ていると、どうしても思い出してしまうのだ。

(――もう二度と、あんな思いはしたくない)



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