第88話 亡者の都
月面都市の無機質な街中を華実と真夏が肩を並べて歩いていく。
そびえ立つビルは見慣れた高層建築とはやや趣が異なるSF染みた建物だ。
緑は一切なく、すべてがモノトーンに染め上げられたかのような寂しい風景。
そこに華実の声が謳うように響く。
ああ 素晴らしきかな セレナイト
其は天上の世界 それは至上の楽園
ああ 素晴らしきかな セレナイト
其は至福の世界 それは悠久の楽園
叶わぬ願いはない つかめぬものはない
愛も 夢も 富も すべてが望むまま
痛みも 悲哀も 死すらも すべてが望むまま
失うことすら、そこでは自由
無数の始まりと、無数の終わり
されど時は巡り、潰えることは永遠にない
欠落はひとつ それは この世の終わり
欠落はひとつ それは この世の終わり
言葉が途切れると物音一つしない静寂の中にふたりの足音だけが響く。
ゆっくりと頭を振ると、華実はやるせない笑みを浮かべた。
「ここは最初から楽園なんかじゃなかった。ここは人の心を失った人類を永遠に閉じ込めておくための墓場でしかない」
実際、この灰色の街は遠くから見れば墓地のようにも見える。
「肉体を捨て、過去を捨てることと引き替えに、自分だけの快楽世界を得られる偽りの楽園。どんな夢も必ず実現し、想い描いたとおりの相手と結ばれ、望めば永遠に生きることさえ可能だけど、それはすべて都市を管理する人工知能――セレナイト505が創り出した、ただの幻。ここに来た人々は誰もが満たされた気持ちに包まれるけれど、実際には誰とも繋がることのない、ひたすら孤独な檻の中に囚われているだけ」
かつてそこに居た自分の姿を思い出そうとするものの、肉体を失っていた間の記憶は、ひどくおぼろげで、まともな形にはならない。
不完全ながらも生前の記憶は思い出せることを考えれば、やはり人の魂は機械ではなく肉体に宿るべきものということなのだろう。
「505は人造人間と同じように人工的に生成された魂を持つ巨大な人工知能。わたしは彼女に都市を管理し、市民を守るように確かに命じたわ」
語る華実の隣で、真夏はなにも言わずに黙って耳を傾けてくれていた。今は華実が答えを必要としていないことを察してくれているのだろう。
やがて中央に屹立する管理タワーに辿り着くと、二人はそのまま自動ドアをくぐって中に入る。扉はロックされているかと思ったが本来の設定どおり開いたままになっていた。
タワーの中は空調が効いていて暑くもなければ寒くもない。
広々としたエントランスホールは、いくつもの椅子が並び、受け付け用のカウンターが設置されているが、当然ながら完全な無人だ。
「意味のない場所よ。外のビルもそうだけど、ここを都市として演出するための、ちょっとした遊びに過ぎない。なんでこんな無駄なことをしたのか自分でも、よく思い出せないけど……」
華実は誰にも利用されることのない椅子を眺める。そこにたくさんの人が座り、ホールを行き交う人の群れが、ぼんやりと脳裏に浮かんだ。
「結局、わたしも寂しかったのかもしれないわね」
街は人と人が出会い、繋がる場でもある。華実がセレナイトに必要のない街並みを築いたのは無自覚な人恋しさがあったからなのかもしれない。
溜息を吐くと、込み上げてくる想いを振り払うかのように頭を振る。感傷に浸るのはまだ早い。顔を上げてホールの中央に設置されたエレベータに近づくと、下りのスイッチを押して扉を開けた。
「行きましょう」
「ええ」
あっさりうなずく真夏。罠の可能性について言及してこなかったのは、どんな罠があろうと撃ち破る自信があるからなのか。あるいは華実と同じように、それがないことを予感していたのかもしれない。
(505はわたしを待っている)
華実には奇妙な確信があった。
具体的な根拠はないが、それでもそれを証明するかのように、なにひとつ妨害のないままに、エレベータは都市の中枢を目指して静かに降りていく。
終わりの時が近い――漠然とそれを実感する。
胸に去来するのは怒りか、悲哀か、憐憫か。
振り払ってはみても、待つだけの時間は様々な想いを胸に浮かび上がらせる。
その時ふいに真夏が華実の冷えた手を握った。緊張のためか冷たくなっていた手にやさしいぬくもりが伝わってくる。
「ありがとう」
笑みを浮かべて告げると、彼女はやさしい微笑みを返してくれた。
隣に真夏が居てくれるならば怖れるものなどなにもない。繋いだ手から伝わる彼女の存在を噛みしめながら、華実は静かに時を待つことにした。
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