第7話 頭しかない

 武蔵むさし幸美ゆきみは逃げていた。

 陽楠学園1年B組の学級委員長。普通の学校なら間違いなく校則違反の長い髪を持ち、見るからに可憐な顔立ちと抜群のプロポーションを誇る脅威の美少女高校生――などというのは本人の自己申告ではあるが、それがあながち大げさとも言えないような魅力的な娘ではある。

 その美少女が、今はひたすら手足を動かし、息を吸うのも忘れ、恐怖で引きつった顔を取り繕うことさえ忘れて無我夢中で走っていた。

 当然ながら逃げているということは追いかけているものがあるわけだが、それをどう表現するべきなのか当の彼女にもピンと来ない。

 ただ、見たままを言うならば、それは巨大な竜の頭部だった。

 頭部だけで首から後ろはない。

 それでなんで生きてんだと思う幸美だったが、それ以前に竜のごとき生き物が実在するはずがないと考える方が先だったはずだ……まあ、それだけ混乱していたということだろう。

 終業式の朝、いきなり自転車がパンクして、遅刻しかけていた幸美は、登校時間を短縮するために近道することにした。

 丘の上にある学校に続く道は、基本的に表の一本だけだが、実は西側の一角に林の中を抜けて学校の裏手へと出られる獣道が隠されている。傾斜自体は急になるが、南の麓まで回り込む必要がなく、一直線に上まで上がれるので時間の短縮になるはずだった。

 自転車に乗っていれば、むしろ使いようのない道だが、やむを得ず徒歩になってしまった今日に限っては都合の良いルートだ。

 一つ心配だったのは、この道を最後に確認してから半年ほど経っていたことだ。人通りのない道だけに、いつの間にか草木で埋め尽くされていたとしても不思議はない。

 だが、いざ林の奥へと入ってみたところ、道は以前に見た時よりも遥かに広く通りやすいものになっていた。

 その時はラッキーなどと思ったのだが、あとから思えば、この竜頭がうろついて木々を押しのけたせいだったのだろう。

 とにかく道の途中でバッタリと出遭ってしまった怪異としか言いようのないバケモノは、ビビりつつも「ハロー」と友好的に声をかけた幸美の誠意を無視して、いきなりその大口を開けて飛びかかってきた。

 それを奇跡的にかわして逃げ出した幸美だったが、その竜頭は進路を阻む樹木を蹴散らしながら、平然と林の外まで追いかけてきている。

 地方都市の早朝ゆえに人通りがないとはいえ、そこはいちおう車道で、いつ車が通りかかってもおかしくはない。

 とはいえ、通りかかったところで、どうなるものとも思えない。

 あの竜頭ならば一般車両はおろか小さなトラック程度ならば簡単にグシャグシャにしてしまいそうだ。

 こういう時に必要なのは警察や軍隊ですらなく、正義の味方とか、こういう事態に対処するために結成された秘密組織の類いだろう。

 そこまで考えたところで幸美の脳裏には自分の高校にあるヘンテコな部活――地球防衛部の名称がよぎった。名前だけで考えれば、まさにこういう事態を解決してくれそうに思えるのだが、噂によれば彼らがやっているのは、せいぜい正義の味方ごっことのことだ。

 仮にそうでなかったとしても、今この場にいないものはアテにできない。

 ならば、ここは自分の力だけで――勇気を胸にチラリと後ろを見る。


「――って、無理に決まってるでしょ!!」


 迫る顎の迫力にあっさり勇気は砕け散って幸美は悲鳴をあげた。

 その直後、不意に隣から声がかけられた。


「もしかして、ピンチ?」


 小さいくせによく通る声だった。幸美が驚いて顔を向ければ、いつの間にか同じ学校の女生徒が、すぐ隣を併走している。

 肩口まで伸ばした空色の髪と金色の瞳が印象的な浮き世離れした美少女だ。

 手足を振って懸命に走る幸美の横を、まったく手を振らないトテトテとでも表現したくなるような可愛らしい走法でついて来ている。表情も無表情に近いボーッとしたもので緊張感のカケラも感じられない。

 訳の分からない状況の中、さらに訳の分からないものが増えた気がしたが、考えている余裕もなく幸美は全力で肯定した。


「見れば判るでしょ! 花も恥じらう可憐な乙女がバケモノに食べられそうになってる真っ最中よ!」

「そう、頑張って」


 空色の髪の少女は緊張感のない顔で無情に答えた。


「なんで!? 助けてくれるんじゃないの!?」


 まさかの理不尽さに叫ぶ幸美に空色の髪の少女は不思議そうな顔を返す。


「なんだか余裕がありそうな気がしたんだけど違ったか」


 小さくつぶやくと空色の髪の少女は突然足を止めてふり返った。それに気づいて慌てて幸美もブレーキをかけて振り向く。

 その時にはもう竜頭は凶悪な牙の並んだ大口を開けて、空色の髪の少女にかぶりつく寸前だった。


「逃げてーーーっ!」


 絶叫する幸美。だが、空色の髪の少女は無造作に拳を振るうと、猛然と迫ってきた竜頭を弾き飛ばした。

 ポーンとでも効果音がつきそうな感じで竜頭が軽々と宙に舞う。


「へ……?」


 唖然とする幸美。

 いろいろおかしなことが起きた気がする。

 幸美よりも一回りは小柄な少女がパンチ一つであんな巨体をはね飛ばせるはずがない。たとえどれほど怪力だったとしても質量差というものがあるのだ。なのに、少女はその場からまったく動いていない。足下のアスファルトも綺麗なままでひび割れひとつなかった。

 しかし、竜頭は見てのとおりの重量だったらしく、勢いよく落ちてくると道路に激突してアスファルトを粉々に砕いた。

 見るからにダメージが大きそうだったが、それでも竜頭はフラフラと身を起こす。

 思わず身構える幸美だったが、空色の髪の少女は平然と見つめるのみだ。

 次の瞬間、竜頭の全身に亀裂にも似た光の筋が無数に走った。

 何事かと見つめる幸美の視線の先で、竜頭はそのまま砕け散って粉微塵となってしまう。細片となった怪物の身体が風にさらわれて消えると、その向こう側からもうひとり別の少女が現れた。

 艶のある長い黒髪を風に揺らしながら、ゆっくりと歩いてくる。幸美に劣らぬスタイルの持ち主で、学校指定の制服の上からでもプロポーションの良さが窺えたが、気になったのは左手に提げた日本刀だった。

 濃い藍色の瞳に穏やかな光を湛えたその少女は、とうてい荒事などに縁があるようには見えないが、ここまでの流れを分析すると、その刀によって竜頭を寸断したということだろう。


「いや、無理だろ」


 思わず口に出した幸美の前で、黒髪の少女は刀を鞘に収めると、明るい笑みを向けてきた。


「怪我はないかしら?」

「うん、大丈夫」


 空色の髪の少女が答え、黒髪の少女が苦笑する。


「いや、あなたのことは最初から心配してないから」

「うん、だから、こっちの女の子のことを言った」

「ああ、なるほど」


 目の前で、とんでもないふたりが親しげに言葉を交わしている。幸美は気持ちの整理がつかないまま、先ほどまで竜頭が転がっていた地面を見つめた。

 まるで最初から存在しなかったかのように怪物の身体は跡形もなく消え去っていたが、巨体が落ちて砕けたアスファルトはそのままだ。

 意を決すると、ゆっくりとふたりの方に視線を戻して問いかける。


「あれは……なんだったの?」

「マリスと呼ばれる怪物よ」


 黒髪の少女はアッサリと答えた。


「マリス?」

「倒しても倒しても、どこからともなく湧き出してくる困った怪異なの。驚くのも無理はないけれど、この世にはああいうモノが実在しているわ。秘密なんだけどね」

「秘密……」


 それを聞いた幸美はハッとして身構えた。


「ま、まさか、見てしまった者は生きては返さないとか言うんじゃ――!?」


 物語とかでは、わりとありがちな設定を思いついて焦るが、黒髪の少女は首を振って否定した。


「そんなことは言わないわ。それだと悪者じゃないの」

「そ、そうね。悪い人には見えないものね、あなたたちは」


 考えてみれば口封じをするくらいなら、そもそも助けてはくれなかっただろう。


「でも本当は連れて帰って記憶を消す決まりなのよ。だから黙っておいてくれると助かるわ」

「いちいち記憶を消しに行ってると、転校初日から遅刻するしね」


 空色の髪の少女が無表情に続けた。


「記憶を消すって……」


 やや焦る幸美だが、目の前の少女にその気はないらしく、それに関してはホッとする。いくら怖ろしい目に遭ったからといって、現実に起きたことを忘れさせられるなんてゾッとしない。


「うん?」


 ふと、空色の髪の少女の言葉に引っかかりを覚えて幸美は首を傾げた。


「転校って言った?」

「言った」

「今日って終業式なんだけど?」

「うん、知ってる」

「明日から夏休みなんだけど?」

「そうだね」

「だったら、普通二学期から来ない?」


 幸美がそこまで言うと、空色の髪の少女は黒髪の少女をじーっと横目で見つめた。その視線に堪えかねたわけでもないだろうが、黒髪の少女は苦笑を浮かべて説明する。


「せっかくだから、学校ってものを見せておきたかったのよ。この娘は中学にも小学校にも行ってないから」

「え……?」


 驚いて空色の髪の少女に目をやるが、当人はボーッとした顔のまま空を見つめるだけだ。

 どんな事情があるのか興味はあったが、訊いていいことかどうか判断がつかない。

 幸美が迷っている間に、黒髪の少女は鞘に収めた刀を細長いカバン――刀剣用のキャリーバッグにしまうと、その上で改めて幸美に向き直った。


「わたしは少女坂おとめざか真夏まなつ。こっちの娘は秋塚あきづか千里ちさと。お爺ちゃんの義理の娘で、わたしにとっては妹みたいなものよ」


 紹介を受けて千里が軽くお辞儀してくる。

 異常なできごとに遭遇したばかりだというのに、このふたりには人を安心させる力があるかのようで、幸美は不思議と肩の力が抜けていくのを感じた。


「少女坂さんに秋塚さんね。初めまして、わたしは武蔵幸美、一年生です」

「そっか、わたしたちと同い年なのね」


 真夏がうなずいたところで丘の上でチャイムの音が響いた。


「うっ……もう予鈴が……間に合わない」


 苦渋に顔を歪めて呻く幸美。それを見て真夏は小高い丘の上を見上げる。


「学校はこの上ね」

「その気になれば間に合わなくもないけど?」


 つぶやく千里だったが、真夏は首を横に振った。


「やめておきましょう。こんなことで目立ってしまったらバカバカしいもの」

「うん、そだね」


 うなずく千里。


「目立ってもいいからなんとかして」


 流れを無視して幸美は無茶を言った。


「いや、普通の方法では無理だし、普通でない力は隠さないといけないものだから」

「そこをなんとか」

「ええ~~?」


 驚いたというよりも困った顔をする真夏。


「お願い、無遅刻無欠席がわたしのしょーもない自慢なのよ!」

「しょーもないならべつにいいじゃない」

「しょーもないことに全力を費やすのが青春でしょ!」


 幸美が力説すると、それを見て感動したかのように千里がうなずいた。


「なるほど、よく分かった」

「分かってくれた?」

「うん」

「それじゃあ……」


 瞳を輝かせる幸美だったが、


「うん、わたしが上まで全力でぶん投げる」

「いや、死ぬから、それ」


 焦って告げる。そこまでぶん投げること自体。普通の人間には無理なことだが、先ほどのアレを見たあとなら、千里がそれを実行可能なことは理解できる。だが、投げてもらって山の上までとんで行けたとしても、その後に待っているのは壁か地面への激突死だろう。


「大丈夫、わたしは殺さないように投げられる。たぶん、悪くても人格に傷を残す程度ですむはず」

「そんなしょーもないことで、人格に傷を残したくないわよ!」

「でも、さっき青春がどうとか……」

「青春ってのはね、輝かしいものなの! だから心に傷を負ったら、それはもう青春じゃないのよ!」


 声を荒げる幸美の肩を真夏が軽く叩く。


「大丈夫、何事も経験よ」

「経験しちゃったら取り返しがつかないわよ!」


 興奮しすぎて、ぜえぜえと肩で大きく息をする幸美。


「オモロイわね、この娘」


 砕けた物言いで、くすくす笑う真夏。

 さらにもんくを言おうと息を吸い込む幸美だったが、そこではたと気づいた。よくよく考えたら、こんな冗談に目くじらを立てている場合ではない。まずは命を救ってくれたことに対して礼を言うべきだった。

 思い直して居住まいを正すと、幸美は深々とお辞儀する。


「秋塚さん、少女坂さん、助けてくれてどうもありがとう」

「どういたしまして」


 千里が答え、真夏も穏やかな微笑みでうなずいた。


「武蔵さん、わたしたちのことは呼び捨てでいいわ」

「いえ、それはダメよ」

「どうして?」


 拒否されたのが意外だったのだろう。真夏が不思議そうに小首を傾げた。幸美はやや胸を張って理由を説明する。


「それはわたしがエターナル学級委員だから」

「エターナル?」

「そうよ。実はわたし、自慢じゃないけど小学校一年の時から、ずっとずっと学級委員を務めてるの」

「へえ、それは凄い。って言うか、そっちを自慢しようよ。……けど、それと呼び捨てがダメなことに関係があるの?」

「フフッ……察しの悪い娘だ」


 言ったのはなぜか千里だった。真夏は黙ったまま、その首を片腕で締めあげる。この大和撫子は意外に力があるのか千里は目を白黒させながらジタバタしていた。こうして見ていると確かに姉妹のように感じられる。

 微笑ましい気持ちを感じながら、わずかに苦笑しつつ幸美は答える。


「学級委員は品行方正が基本でしょ。だから、わたしはみんなのことを苗字で呼ぶことに決めてるの」

「ふぅん、武蔵さんなりの拘りなのね」

「まあね。それと少女坂さん。わたしのことは幸美でいいわ」

「それだとバランスが悪いから、わたしも武蔵さんって呼んだほうがよくないかしら?」

「いいえ、そこは幸美でお願い」

「なんで?」

「だって、武蔵って……なんだか厳つくて可愛くないから」

「そういうものかしら?」


 真夏はピンと来なかったようだが、とりあえずは了承してくれたらしい。


「じゃあ、幸美。そろそろ学校に向かいましょうか」

「ええ、案内するわ。とりあえず、普通に正門へと」


 さすがにもう獣道には入りたくない。

 はっきり言って案内などしなくとも表門への道は迷いようもなかったが、ふたりはなにも言わずにうなずいて歩き出した。

 この時、もちろん幸美とて自分がつい今し方、異常なものと遭遇して命まで落としかけたことを忘れてはいなかったが、不思議な魅力を持つふたりと言葉を交わしているうちに、そんなことはほとんど気にならなくなっていた。

 三人が学校に到着すると、校門前には週番の教師が居たが、幸美が自転車がパンクした旨を話すと、とくになにも言わずに通してくれた。

 転校生のふたりに関しては、もとより少し遅れてくるように言われていたため、当然ながらお咎めはない。

 このあと、幸美は転校生を職員室まで案内したのだが、そこでふたりが自分と同じクラスになることを知って大いに喜んだのだった。

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