ヒーリングボイス~音声白書~
平井昂太
【プロローグ】-音声作品-
第1話「凜夜放送」
『ねえ、気持ちいい?』
(うん)
『よかった。僕は姉さんの耳掃除してる時間が一番幸せ』
(うんうん。あたしもだよ)
『でも、ずっとこうって訳にもいかないよね……。姉さんだっていつか結婚するだろうし、弟の僕がずっとそばにいる訳には……』
(そんなことないよ。あたしは
『姉さんの気持ちはうれしいよ。でも、姉さんの好きと僕の好きは違うでしょ?』
(違わない……同じだよ)
『え? 同じ……? それって……』
(そう。そうなんだよ。あたしも凜夜君のこと、異性として好きってこと。愛してるの)
『……! うれしい! じゃあ、これからもずっと一緒にいてくれる?』
(もちろん!)
『ありがとう……。だったら、これからも一生姉さんの耳は僕が掃除するからね。ふー』
(ああ! たまらない! 凜夜君の耳ふーは最高だよ!)
一通りの音声を聞き終えて、短髪の少女はイヤホンを外してベッドから起き上がる。
(よし。セリフ全部覚えた。こっちが言ったであろうセリフも完璧)
何度も聞いている作品で、繰り返し悦に浸っているのは
(これが無料だなんて、いい時代になったなぁ)
『音声作品』という言葉を聞くと、世間一般の人は何を思い浮かべるだろうか。
おそらく、歌やラジオドラマといった声の使われているコンテンツ全般だと考える人が多いだろう。
それが、同人声優業界では少々異なる。
今、七海が聞いていたような、一人のキャラクターがリスナーに語りかけるタイプのものを『音声作品』と呼び、複数のキャラクターが物語を繰り広げる『ボイスドラマ』と区別するのだ。
七海はこの音声作品が大好きで、寝る時は毎晩聞いているし、それ以外の時でも横になりながらスマートフォンで聞きまくっている。
安眠効果が高いので、寝るつもりがないのに眠ってしまうことも。
音声作品には有料のものもあるが、高い完成度でありながら無料公開されているものがいくつもある。
先ほどの作品も、ユアチューブという動画投稿サイトで公開されていたものだ。
音声作品の魅力は、なんといっても好きなキャラクター一人の声を延々聞き続けられる点。下手に好きな声優以外の声が入ってこないのがいい。
(おっと。生放送の時間だ)
スマートフォンの時刻表示を見て、七海はパソコンの置いてある机に向かった。
今夜は、七海がいつも聞いている音声作品のキャラクターを演じている同人声優・
パソコンのブラウザを立ち上げ、生放送の待機画面を開く。
『わくわく』『そわそわ』『まだかな?』『あとちょっと!』
コメント欄には、既に他のリスナーたちの書き込みが並んでいる。
時刻が午後十時になると、画面が切り替わり、やや幼い儚げな雰囲気を持った美少年のキャラクターが映し出される。
これが須藤凜夜のイメージキャラクターだ。
基本的に同人声優はネットで顔を出さないので、こうした自分を象徴するようなイラストを用意していることが多い。
「みなさん、こんばんは。今週も凜夜放送の時間がやってきました」
透明感のある美声で穏やかに語りかけてくれる凜夜。
配信画面には、大勢のリスナーが打った『こんばんは』というコメントが流れていく。当然、七海もそこに加わっている。
「この凜夜放送って呼び方、いつの間にか定着しましたね。今ではタグにも使わせてもらってますけど」
このユアチューブというサイトには、特別なチャットとしてスペシャルチャット――略称はスペチャ――というものがあり、コメントと同時に投げ銭をすることができる。
七海はすかさず千円の投げ銭と共に『お姉ちゃんがお小遣いあげるね』とコメントを打った。
このフレーズでスペチャを送ることは、凜夜放送で恒例となっている。
金額は人それぞれだが、合計すると相当な額だ。
凜夜はまだ十五歳で、大半のリスナーから見て年下であるため、リスナーが姉という設定が作られている。
この設定は凜夜が用意したものではなく、リスナーが勝手に姉を名乗り出したのだが、これは凜夜の演じるキャラクターに主人公の弟が多かったことに由来する。
姉弟で結ばれる作品もあるため、恋愛感情があっても姉という設定に抵抗はない。
そう、何を隠そう七海の想い人は須藤凜夜なのだ。
凜夜はスペチャを送ってくれたリスナーの名前を一人ずつ読み上げていく。
「――麗奈さん、如月沙菜さん、エリアさん、赤い糸さん、サウスマウンテンさん、ありがとうございます。僕、一人っ子のはずなんですけどね」
サウスマウンテンというのが、七海のハンドルネームだ。今日も呼んでもらえてうれしい。これだけでも千円の価値があるというものだ。
リスナーの一人がコメントする。
『今日、誕生日です。お祝いしてほしいです』
「明日奈さん、お誕生日おめでとうございます。明日なのか今日なのかまぎらわしいですね」
凜夜は小さく上品に笑う。
他のリスナーのコメントも流れていく。
『誕生日ネキ、おめでとう』
リスナーの間にも連帯感があるのもこの放送の特徴だ。
『今月厳しいからこれだけしかあげられない、許してね』
そうコメントして、二百円の投げ銭をする者も。
「無理してスペチャしなくてもいいんですよ。普通にコメントしてくれるだけで十分うれしいですからね」
(凜夜君は優しいなぁ)
「それで、今日は何を話しましょうか。特にテーマも決めずに雑談配信ということにしてしまいましたが」
話題を決めるチャンスだ。
『凜夜君は休日、どんな風に過ごしてますか?』
七海の打ったコメントに反応してくれた。
「時間を割いてるのは主に学校の勉強ですけど、遊びとしては、ゲームしたりアニメを見たりですね」
『好きなゲームのジャンルは?』
他のリスナーも続いて、トークテーマが定まってくる。
「よくやるのはRPGです。ただ、好みが偏ってるので、大作でもやってないのもあれば、普通の人が聞いたことないようなのをやったりもします」
凜夜はどこか自嘲気味だ。こういうところもかわいい。
『レベル上げする派ですか? 低レベルクリア目指す派ですか?』
「じっくりレベル上げします。難易度をベリーイージーにした上で最大限レベルを上げて楽にボスを倒すのが好きです」
『乙女ゲーってやったことある?』
乙女ゲーというのは女性向けの恋愛ゲームのことだ。あまり男性はやらないと思うが。
「たまにやりますよ。感動的なストーリーのも多いですし、主人公もかわいいですし」
これは面白い情報だ。質問者に『よくやった』と言いたい。
七海も乙女ゲーは時々やっている。男性――それも大好きな声優がこれをやっているというのは、ゲームユーザーとしてもありがたい。自分たちが感情移入する主人公をかわいいと評してくれているのだから。
「男性キャラもかっこいいですよね。実は僕、イケメンキャラ好きなんですよ」
ここで七海が再びコメントする。
『凜夜君の方がかっこいいよ!』
「顔は見たことないでしょ。声がってことでしょうか。それでも、豪華声優陣に負けてないと言われるのはうれしいですね」
今日の放送も和やかに進んでいく。
リスナーからの、ちょっとプライベートに踏み込んだ質問にも真面目に答えてくれて、凜夜の人柄の良さがうかがえる。
「放送終了の時間が近づいてきました。みなさんと話していると時間がすぐ経ってしまいますね」
『最後にこれだけ! 凜夜君はどんな女性が好みですか?』
終盤にきて興味深い質問が出た。これは聞き逃せない。
「んー、そうですねぇ。秘密です!」
ウインクでもしていそうな蠱惑的な声での答えが返ってくる。
「では、耳ふーしてからお別れしましょうか。ふー」
イヤホン越しではあるが、本当に息を吹きかけられているような快感を覚えた。リアルタイムで実際に凜夜がやっている最中だと思うとなおさら。
「おやすみなさい。また次の放送でお会いしましょう」
午後十一時。凜夜放送終了。
そのあとには、SNSのつぶやきにリプライをしておかなければならない。
『凜夜放送にお付き合いいただき、ありがとうございました!』
このつぶやきには百ほど『いいね』がついている。
リプライの数も二十件以上。
凜夜は、一人一人のリスナーに違った文章で返信している。
こうした丁寧な対応も凜夜の人気を強固にしているのだろう。
同人とはいえ、さすがは声優。凜夜はこうして多くのリスナーに癒しを届けているのだった。
(今夜もいい夢見れそう)
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