不死者の宴 薬仙

御餅田あんこ

第1話

 そこでは、永遠の若さと美貌をもつ不死者たちが、なんとも煌びやかな宴に興じていた。

 テーブルの上を飾る、食べきれないほどの色とりどりの果物や、手間のかかった料理の数々。館の主のコレクションだという、世界各地の数多の美酒。

 集まった人々は思い思いに着飾って、夢を語るように美しき旅立ちについて語り合う。

 退廃的な空気に酔いながらふらふらと歩いていると、派手なドレスの女性に声をかけられた。

「あら、お嬢さん、新顔ね。お名前はなんというの」

「薬仙、と」

 この宴の席に加わるにあたってそう名乗ることにした。馴染みのある名ではないから、自分の名だというのにどこか落ち着かなかった。

「薬仙というの。ねえ、あなただったら、どんな旅立ちを望むかしら――?」

 二人の周囲にいた数人が、初めて見る薬仙に興味を持った様子で近づいてきた。

 宴の間のどこにいても、旅立ちに関する話題ばかりが耳に入った。どこの誰が旅立った、こういう方法で、こういうふうに、自分ならどうする――と、他に話題がないみたいにそんな話ばかり聞こえてくることに、薬仙は早くも辟易していた。

 愛想笑いを浮かべて「いえ、まだ」、そう答えると、周りの面々は驚いた様子だった。

「きちんと考えて準備をしておいた方がいいわ。自分の最期のことだもの。いつ機会が訪れるとも分からないし」

 それから集まった人々は、以前この宴に来ていた友人がいかにして旅立ったかという話を始めた。他に三人ほどから持論を聞かされ、準備はきちんとすべきだと念を押されてようやく解放された。

 どこで挨拶をしてもその調子なので、薬仙はそこにいる多くと顔見知りになろうという気概をすっかりなくしてしまった。

 薬仙を宴に誘ったトワという女性は、隅の方の小さくはない席を独り占めして、退屈そうに一人で酒を飲んでいた。

 独り占めといっても、別にソファに荷物を置いたり寝そべったりしているというわけではない。華奢な体躯でただ座っているだけなのに、誰も同じテーブルを囲んで座ろうとしなかった。けれど無視されているわけではなくて、時折誰かがその席に近づいては、トワに敬意を持って挨拶をしているらしいことが窺えた。ある人が言ったことによれば、トワはとても長く生きているから、らしい。

 薬仙にはトワしか元々知っている人もいないので、自然と足はトワのいる席に向かった。トワは気落ちした様子の薬仙を見て、ちょっと申し訳なさそうに「あんまり面白くなかった?」と気遣って、隣に座るよう促した。

「なんだか思っていたのと違っていて。みんな旅立ちの話ばかりしています。それって要するに、どうやって死ぬかってことでしょう」

 ここに集まった人々は、せっかく死なない身体を手に入れたのに死に方ばかり論じている。そんな宴が面白いとは思えなかった。

「今は特に旅立ちが流行なんだ。誰それがいい旅立ちをしたと聞いたら、それなら自分もと思って連鎖的に起こる。しばらく話題は旅立ちで持ちきりだろう。なに、しばらくすれば静かになるよ。盛り上がっているうちの半数がいなくなるから」

「トワさんも、いつかは旅立ちをと思われるんですか?」

「うーん」

 トワは困ったように唸った。

「私たちは自分たちを、今を生きる人間とも、死んだ人間とも区別して不死者と呼んでいるけれど、一言で不死といっても程度は様々だ。彼らは旅立つ手段があるからそういう話をしている。けれど、私はかなり不死性が強いもんで、自分ではどうにも出来ない」

「誰かが言っていました。トワさんはとても長生きをしている方だって」

「うらっかえせば、老いぼれってことだわな」

 トワは仕草や表情のせいでいくらか年上に見えるが、それを抜きにすれば、下手をすれば薬仙より若いかもしれない。少なくとも、老いぼれという言葉が妥当な外見ではなかった。

「私、トワさんには感謝しています。トワさんと出会えたから、私の他にも不死の人がいるんだって分かったんだもの。でも、せっかくなら、どうやってこの先を生きていくのかとか、そういう前向きな相談が出来る場だったら良かったなって」

「まあ、仕方ないとは思うよ」

 と、トワは言った。

「姿は年をとらなくても、心まで若いままではいられないからな。目新しいものもないし、驚きだとか感動だとか、そういうものと無縁になって、結局生きるのに飽きる。そうなったときに、どうやって生きるかってのは彼らにとっては退屈な話題で、どうやって死ぬかの方が刺激的で魅力的な話題なんだ」

「私にもいつか、そう思う時が来るんでしょうか」

「さてねえ。ただ、そういうやつばかりだったかといえば、そうでもなくて。千年生きても、あと何千年だって生きるつもりだって言ってたやつを知ってるよ」

 トワは、テーブルの上のシロップ漬けの桃にフォークをのばしながら、「そいつはさ」と、懐かしむような声音で言った。

「自分を魔女だって言ってた。嘘か本当か、ここじゃない別の世界から来たって。研究が生きがいで、行く先々で研究をしていたそうだ。この世界で研究する拠点として、撫子が部屋を貸してやってた。もう随分前だけど」

 トワは桃を半分かじり、残り半分をフォークに差したまま回してもてあそんでいる。

「あいつと前に会ったときも旅立ちが流行ってたから、誰かがあいつに聞いたんだ。あんたならどうやるんだって。異世界の魔女はきっと面白い方法を知っているに違いないってみんな思ってただろうさ。でも、あいつは、せっかく不老不死になったのに、どうしてそんなもったいないことをするんだって言ったよ。この世にはまだお前たちの知らないことがいくらでもあるだろうに、ってさ」

 その魔女と話してみたいと思ったが、トワの話しぶりからするとどうやらもうここにはいないらしかった。

「十年くらい前に、フィールドワークに行くって言って、荷物をまとめて出て行ったな。今どこで何をしているのか、この世界にいるのかいないのかも、誰も知らない。そういえば、薬学や植物に詳しい知り合いはいないかって聞かれたこともあったな」

「残念です、ぜひお話ししてみたかった」

「あいつみたいに、自分が今もこれからも生きていて当たり前だって思えるやつは、いつまでも生きられるんだろうさ。でも、ずっとそう思ってるのは難しいだろ。だって、本当なら、五十年、まあ、今の寿命なら一〇〇年か、それくらい生きれば十分な生き物だったんだからさ」

 トワは、旅立ちについては否定的ではない。肯定的かといえば、それも違う気がするが。いくら旅立ちを望む気持ちが分かっても、トワは自分ではどうにもできないほど強固な不死性を持っているから、いつも誰かが旅立ったと知る立場だ。トワが他の人々のようには旅立ちを語れなくて当然だった。

「もし仮にですが」

 薬仙は言った。視線の先には、なんとも楽しげに旅立ちを語る人々の姿があった。

「私も旅立ちを望む時が来るのだとして、それなら私は、みっともなくてもいいから、生に執着しながら死にたいです」

 トワは怪訝そうに首をかしげた。

「曲がりなりにも不死なんだから、そういうのは難しくないか。自発的に何かしなければ死なないんだし、それなら心構えは出来ているだろう。死にたくないって思える不死者は死なないさ」

 自分でもおかしなことを言ったなと思い、薬仙は苦笑した。

「そうですよね」

「みんなもっぱっら、どうやるのが苦しまないとか、確実だとか、そういうことを話してるのに。君の言うそれは、つまり苦しんで死にたいということか?」

「苦痛を望んでいるわけではないんです。私は、死を選ぶなら、やはり死にたくないと、もっと生きていたかったと思えるような手法がいいんです。そこにはやっぱり苦痛が伴うかもしれないけれど」

「何百年も考えあぐねてそういう考えに行き着くやつもいるけど、君は不老不死になって間もないんだろ。達観してる」

「不老不死になって間もないのは確かですが、実は私、何度も転生した記憶があるので。仙人の修行をしたのもずうっと昔の話なんですよ」

「ふうん、そういうのなんだ」

 トワは、とりわけ驚かなかった。長く生きたそうだから、今までに多くの不死者に出会ってきて、どんな特異な例であれ驚きには値しないのかもしれない。

 薬仙には、数々の転生を繰り返した記憶がある。

 死は、突然訪れて命を奪った。痛みと苦しみを伴った死の方が圧倒的に多かった。その記憶はどうしてか次の生にも引き継がれ、やがて、不老不死を目指すようになった。薬仙が今、ここに不死者としているのも、その結果だ。

 結果を得た今、自ら死を選ぶなど考えられるわけがない、とは思う。けれど、生きるのに飽きて、死を旅立ちなどと呼んで祝う人々を見るに、自分にも彼らのような未来が存在しないとは言い切れない、そんな不安があった。

 もしも自分も彼らのように旅立ちを望む日が来たとして、死ぬことを厭い不死を得たのにそこにすら救いがなかったという記憶は、未来永劫、転生を繰り返す度に、自分を絶望させるだろう。

 仏教には解脱という思想があるが、生憎、死んだ記憶はあるものの、死後の世界の実在を信じていないので、仏門に帰依しようという気にはならなかった。

「……だから、そうですねえ、仙術で他の生き物になって、弱肉強食の世界に身を委ねるとかもいいかもしれませんね」

「他の生き物にもなれるのか。すごいな、仙術」

「専門外なので、今から勉強します」

 薬仙が言うと、トワはがっかりしたように「なんだ」とソファにもたれた。

「師の友人が得意だったそうですが、魚になって泳いでいたら、大きな鳥が飛んできて掠って食べちゃったそうです」

 聞いた時はそんな死に方はしたくないものだと思ったし、師の友人もこんなことで死ぬなんてと思っただろうが、もしも不死であることに飽きてしまうようなら、魚になるのも悪くないと思う。思えば、海の魚にはなったことがない。人の身体で見るより、魚になって見る海原は、恐ろしい場所だろうし、見たこともない色をしているに違いない。

 死を避けるために不老不死になったのに、どこか、その魚になってする冒険の空想に胸を躍らせた。きっと早くても一〇〇年ぐらい先になるだろうけれど。

 しばらくして、席に短髪の背の高い女性がやってきて、トワを呼んだ。

 薬仙は時折、不死者の中に、魂か、業か、あるいはその人の不死の因果に関わるものか、目に見えるはずのない輝きを見ることがあった。その正体は分からないが、どうやらはっきりと見える人ほど長く生きている不死者のようだ。

 トワは、黒いもやのようなものが人の形をとって、それが何体も、時には十何体もうろうろとしている。一方で、トワを呼んだ背の高い女性は、神々しく輝いて見えた。二人は対照的だった。

 女性は、口元で手にものを挟むようなジェスチャーをして、「煙草行く?」と言った。

 よく見れば、この部屋には灰皿がなく、誰もここでは煙草を吸っていなかった。人間社会では分煙が当たり前になって、今ではどこも喫煙室が別に設けられているが、この館が時流にのってそういうふうにしているとは考えられなかった。この館は、随分と時代錯誤だと思う。ここにいる当人たちからすれば当たり前なのかもしれないが、よく明治期の役場などが文化財として保存されている、ああいうところに雰囲気が似ていた。きれいに手入れをされているが、床材一つとっても、今時のフローリングではない、年季の入った板材だし、格子の入った窓のガラスは少しだけ歪んでいるように見える。まさしく、それが最先端だった時代の屋敷なんだろう。そういうところに集まる何百年も生きているような不死者が、受動喫煙を気にしているとはちょっと想像がつかなかった。

 トワが女性に返事をしようとして薬仙の方を気にかけるように見たので、薬仙はトワに一緒に行くことを勧めた。

「それじゃあ、私、煙草吸ってくるから。この席はあんまり他の人は来ないから、ゆっくりしているといいよ」

 そう言ってトワは席を立ち、その輝く人と共に行ってしまった。


 トワが席を離れてから、薬仙は給仕をしていた使用人に頼んでカクテルを一杯もらった。

 実年齢はまだ成人に達していなかったが、ここではそんなことを気にする人はいない。外見が若く見えるのは不死者としては当たり前のことで、まさか見た目と年齢に差がないとは思わないからだ。そもそも未成年飲酒が禁じられていると思っていないかもしれない。案の定年齢確認もされずにすんなりと出してもらったカクテルを口に含んで、薬仙は心密かに背徳に酔いしれていた。

 そこに、館の女主人――撫子がやってきた。

 撫子はたいそう美しくすらりとした黒髪の女性で、声も表情も穏やかで気品があり、主人らしい風格を備えていた。遠目に見ても美人だと思ったが、傍に立たれると同性でも息が止まるような心地がするほどきれいな人だ。

「楽しんでいただけている?」

「ええ、とても」

 緊張して、それ以外の言葉が出てこようはずもなかった。それに、薬仙自身で驚くほどに、撫子を前にした途端にそれまでの不満が彼方へ追いやられていた。

「あなたのことはトワから聞いているわ。彼女を介抱してくれたんですってね。手間をかけさせましたね、ありがとう」

「いえ、とんでもない。驚きましたけど……。でもおかげで素敵な宴に誘っていただいて、どうもありがとうございます」

「いいのよ。ひとりぼっちで生きるのはつらいことだわ。出会ったのなら手を差し伸べるのは、同じ不死である者同士、当然のことだわ」

 今こうしている間にも、部屋中から撫子に向けられている信頼と憧れの眼差しが、傍に立つ薬仙にも感じられる。

 個人主義の不死者たちがわざわざこうして集まって宴を楽しんでいるのは、こうして場所を提供するのが撫子だからということも大きいだろう。不死者が月のない孤独な海をゆくのだとすれば、撫子はやっと見つけた灯台のような存在だと思った。

 薬仙も、周囲が彼女を見るように陶酔していた。

 けれど、同時に、薬仙は彼女の中にも、おどろおどろしい、渦巻くような、滴るような、ねっとりとしたものを視た。直感的に表現するなら、それは血と怨嗟だ。血と怨嗟の上で、撫子は慈愛の微笑みを浮かべていた。

「トワは――」

 撫子は辺りを見回して言った。

「喫煙室かしら」

「あ、はい。少し前に行ったから、もうちょっとしたら戻るんじゃないでしょうか」

「どうかしらね。喫煙室では話が弾むみたいだもの」

 少しだけ口元を尖らせて撫子は言うと、薬仙に会釈をして別のテーブルに向かっていった。撫子が声をかければ、誰もが喜びに満ちた表情で撫子を迎えた。ついさっきまでどんなふうに旅立つのが一番だのと言っていたのがまるで嘘のように、生き生きとして見えた。

 撫子が言ったように、トワが戻ったのはだいぶ後になってからだった。

 一緒に行った女性とは別の人と戻ってきて、入り口で別れてトワは席の方へ向かって歩いてきた。その途中、撫子に呼び止められて、二人一緒になって席に戻ってきた。

 二人が話しているのを見ると、とても親密そうだった。なんだか怖じ気づいてしまって、とても二人の会話に混ざれそうな気がしなかったので、二人が戻ると同時に薬仙は挨拶をして席を離れた。

 とはいえ、話し相手もいないし、興味を持たれて話し相手にされたところで話題といえば旅立ちについてなので、人を避けるように歩いているうち、いつしか館の入り口にいた。館の入り口から、門の外に伸びる道に目が行く。

 舗装された道路をたどって少し歩けば道の駅や別荘地がある。既にバスの最終時刻は過ぎていたけれども、タクシーを呼べば来てくれるだろう。

 ここにはどうやら自分の居場所はないらしい。

 普段、誰と意見がかみ合わなくたって、自分の居場所なんてものは意識しなくてもあるものだと信じて疑わないのに、どうしてかこの館ではそのことが胸を締め付けた。

 不躾とは思いつつ、薬仙はトワと撫子に別れの挨拶もせずにそのまま館を後にした。



 薬師川桃が十歳の頃のことだ。

 学校からの帰り道、雨上がりの道路の上で鳶にさらわれていく蛙を目にした。その時、突然、自分はかつて鳥だったと感じた。あまりにも突然で、桃自身、どうしてそういった考えに至ったのかが分からなかった。けれども確信はあったし、幼さゆえにそう思い込むのではないと思った。

 桃は幼い頃から、肉体と精神の間にどこか隔たりがあるような気がしてならなかった。苛立つとき、不安なとき、悲しいとき――そう感じる自分とは別に、一歩引いた視座でその原因を考えている自分がいる。だから、周囲は幼稚に見えたし、意図的にその幼稚さに合わせる振る舞いを行ってきた。自分を冷静に見て、周囲に悟られない程度には自分を御することが出来た。

 だから、鳥を見て自分もそうだったと思ったとき、桃はまず、自分の頭の中で何が起こっているのかを考えた。そして周囲のおそらく冷ややかであろう反応を予想して、決して誰にも漏らさなかった。

 桃には確信めいたものがあった一方で、同時に自分が多感な年頃であるがゆえにそう考えてしまう可能性も拭えなかった。

 鳥を見てそうだったのだと思ったことと同様に、犬を見てそう思い、また小さな芋虫を見てそう思った。獣や虫であった時の記憶はとても曖昧模糊として、ぼんやりと見えていたものや、食うこと、寝ること、殖やすこと、本能のままに生きていたその瞬間瞬間が、ふとした拍子に思い起こされていった。だが、それらは最も重大な記憶が呼び覚まされる予兆に過ぎなかった。

 中学へ上がってしばらくして、以前よりはっきりとした、別の人間の記憶が脳裏をよぎるようになった。

 その記憶では、随分と高い岩山に住んでいる老人で、薬を作っていた。桃は、その老人が作っている薬の材料も分量も、何のための薬なのかも理解していた。

 それは不老不死の薬で、材料の多くは今も生薬として使われている。いくつかは、どうやら今では存在しない植物らしかったが、桃はどういう種類の植物で、効能があるかも分かっていた。

 老人はその不老不死の薬を作り終えると、飼っていた猫で試した。……それを見届けたあと、自分の家——それは薄い板と葦で囲った、強風が吹けば飛んでしまうほどの粗末な小屋で、周囲には薬草と自分が食べる分の作物を育てている小さな畑があった——を出て、もっとずっと高いところを目指して歩き始めた。

 身体は歳のせいでうまく動かなかった。身体は人としては高齢であった。そのうえ、一〇〇年も前に不老長寿の、加齢を止めて長く生きながらえるための薬を飲んだので、長い間ずっと老いた身体と付き合って生きてきた。

 老人には悲願がある——ということも、桃は知っている。桃が自分以前の記憶を有していることと同様に、老人も何度も生まれ変わっては死んできた記憶を有していた。だから老人は、その長い生をかけて死なない方法を追求し、その集大成として不老不死の霊薬の製法を確立させた。だが、その薬を自分の身体で試さなかった。

 不老不死を得るにはあまりにも老いていた。

 高所での仙境の暮らしは身体に堪える。山の上り下りにも、健康な若者の何倍もの時間がかかる。衰えた筋肉に、軋む骨。眼も随分悪くなった。今までは薬を完成させようという悲願があって、一〇〇年もの長きに渡って老体と付き合ってきたが、薬が完成した今、どれほどに生まれては死んでいく記憶を厭ったとしても、それと同じくらいに老いさらばえた身体が疎ましかった。

 不死を得たとして、それでは地獄と変わりあるまい。ならば――。

 そうして、老人は軋む身体で山を登っていき、やがて断崖に立った。老人は、死を恐れながら、清々しい気分で断崖を見下ろしていた。今ここで命を捨てるのは絶望ではなく、後の世の悲願を叶えるためだ。

 老人は断崖から身を投げた。老人の華奢な身体に、ほんの一瞬、訪れた浮遊感を桃は知っている。知ってしまったその時に、桃は自分が不老不死になるべく、ようやく人として生まれてきたのだと思った。不老不死を得ることが自分の生まれた意味で、目的なのだと理解した。

 それから先の薬師川桃としての生活は、全てままごとみたいなものだった。

 学校でいい成績をとり、何人かの親しい友達を作り、良好な関係を維持して、周囲から求められる薬師川桃という役割に徹する。そして、隠れて着々と、悲願のための準備を進める。薬の材料を集めるにしても、決して誰にも悟られないよう慎重を期した。

 高校を卒業してすぐ、自分で作った薬を飲んだ。以来、薬師川桃は不老不死になった、はずだ。

 痛みと危険を伴うため効能を試してみようとは思わなかったが、ちょっとした切り傷なら翌日には痕すら残らなくなった。だからやはり不老不死になったのだろう。

 けれど、そうなると、問題が一つだけある。それは、歳をとらない、ということだった。

 歳をとらないということは、常人から見れば異常なことだ。死なない人間かどうかは確かめるのが難しいが、歳をとらないかどうかは、同じ場所にいればいつかは周囲に知られることになる。五年なら気づかれないだろう。けれど、十年なら不審に思われるかもしれない。二十年経ってもまるで変わっていないのなら、それはおかしな話だということになる。騒がれるだろう。若づくりはもてはやされるが、それが歳をとらず死なない怪物だとすれば、社会は桃を異物として排除しようとするに違いない。

 両親も、仲良くしてきた友達も、恋人も、薬師川桃の戸籍と共に故郷に置き去りにして、いずれどこかへ姿を消さなければならなくなる。

 それがいつであるべきかと、桃は悩んだ。悩んで初めて、自分がままごとのように流してきた薬師川桃という人生を惜しんだ。


 恋人には桃に愛していると囁いた。中学を卒業するちょっと前から付き合い始めた彼に、高校三年の夏に身体を許した。

 愛している、ずっと——。

 彼の「ずっと」は、言外にいつか結婚しようと言っているような気がした。二人で過ごしていると、時折、恋人の延長線の話をしていると感じることもある。

 桃は、二人で会うとき、鞄に小さな箱をこっそり隠し持った。ベロア生地を張った一見するとジュエリーボックスのような外観で、中には桃が調合した薬が入っている。種別に柄の違う千代紙で薬包紙の上から包んであって、そのうち一つは不老不死の仙薬だ。

 もしもプロポーズされたら、彼に飲ませようと思った。それでもし嫌われても、不死者という孤独を彼も生きるのなら、彼を理解できるのはこの世にただ自分だけだ。何と罵られても、どれほど恨まれても構わなかった。

 ずっと愛してくれるって、言ったんだもの。ずっとだなんて、それが軽い言葉でないのなら、本当にずっと愛してみせてほしい。

 秘密の小箱を隠したまま、彼に愛を囁かれて、桃はその機を待っていた。確かにかつて彼のことを好きだったのに、今となっては、まるで復讐の機会を待っているような心地がした。


 大学に入って間もない初夏の日、恋人は桃をドライブに誘った。買ったばかりのピカピカの車で家の前まで迎えに来て、ぐるっと海岸線を流して、漁港のちょっといい定食屋でランチを食べた。

 恋人は大学へは進まずに就職をした。初任給も出て、車も納車され、ちょっと見栄を張りたかったのだろう。自慢げにしている彼はなんだか子どもっぽかったが、嫌いではなかった。自分が不老不死になんかなっていなかったら、きっとこの幸せにも、悪くない続きがあったのではないかと思う。

 夕方から職場の歓迎会があるそうで、まだ日の高いうちにわかれることになった。桃は家の前の道路を挟んだ路肩に車を寄せてもらい、そこで恋人の車が去っていくのを見送った。

 家の前は道幅の広い国道で、通過していく車が何台か続いたので、ふと海の方を眺めて待った。

 海はとても穏やかだった。

 昨晩は非常に風が強く、しきりに激しい波音が聞こえていたが、それがまるで嘘のようだ。こういう日には、よく防波堤が釣り人に開放されているが、その日は釣り人の姿はなく、――だというのに、柵の閉じた防波堤の真ん中で人が寝ているのが目についた。いや、あんなところで寝ている人間がいようものか。もしかしたらそれらしく見える海洋ゴミの塊か、それとも不運な釣り人か何かが昨日の波であそこに打ち上がったか。あれが生きた人間だとしても、何らかの手違いであそこに入って寝てしまっており、それが波に掠われて行方不明だなんてことになると、下手に見つけてしまった分、寝覚めが悪い。

 しばらく見ていても誰も通りかかる気配がなく、埠頭の管理者に電話するにも番号を知らない。仕方がないので、防波堤の柵の前まで行って声をかけることにした。それで起きないか、あるいは生きていないとすれば、柵か近くに管理者あるいは組織の電話番号なりが書いてあるだろうと思った。

 桃は防潮堤の階段を下って海岸へ下り、防波堤の手前で、案の定柵も進入禁止の札もかかっているその手前から、防波堤の上で寝ている人間に向かって声をかけた。

「そこで寝てると危ないですよ! 起きてください!」

 波の音もする中、何度か声をかけると、やがてその人間はうるさそうに身体を起こした。若い女性だった。もう一度同じように声をかけると、のそのそと立って歩き始めた。

 不思議なことに、女性の身体から黒いもやのようなものが立ち上っているように見えた。少し日差しの強い日でもあったし、目の錯覚だとその時は思った。

 女性はなんとか柵を跨ぎ越したが、具合が良くないのか、そのまま柵を背にして座り込んだ。

「大丈夫ですか? 気分が悪いんですか?」

「ああ……ちょっと飲み過ぎちゃって」

 ひどい声だった。女性は言うと、青い顔で桃のことを見上げた。それから、目を丸くして言ったのだ。

「驚いた、君も人じゃないのか」

 何を言っているのだろうと思った。

 やがて不老不死のことを言っているのかと思い至ったが、桃には自分はそれでも紛れもなく人だという認識があった。それに、一目で看破できるこの女性は何者かと驚いた。君もと言うからには、この女性は人ではないということなのだろうか。

 困惑していると、また女性の身体から黒いもやが立ち上っているように見えた。そのどこか人のような形をして、くり抜かれたような目と口らしい穴が開いていた。顔があると気づくと、もやの中には顔や手足が一組ならずいくつもあって、どうやら複数人分の黒い影がそこに屯しているようだった。

 影もまた、桃を見つめているような気がした。

「私はトワという」

 女性はそれから、やはり「君と同じく、人じゃない」と告げた。

 桃は困惑と同時に、安心感を覚えたことも確かだった。目の前のトワはひどく怪しい存在で、頼りなさげな、今にも吐きそうな顔をしているのに、この世に一人きりの存在だと思っていた自分にも仲間がいるという希望を感じたのだ。

 確かにいくつもの影に取り囲まれている姿を見れば、人だとも思えなかった。今まで生きてきて、そんな、本来人には見えないだろうものが見えたことも初めてだった。

 女性は具合が悪そうではあるが、桃としては当初の目的であるところの、安否を確かめる、柵の外に出させることは果たしているので、これ以上は無視をしてもよかったのだが、もう少しだけ女性の話を聞きたいという気持ちになった。

 桃は少し考えて、鞄の中から薬箱を出した。

「胃を落ち着ける薬ならありますよ。少しは楽になると思います。……口つけちゃいましたけど、よろしければ水も」

「悪いね」

 女性は桃が差し出した薬と水を素直に受け取った。

 今時、薬包紙に包まれただけの、密封もされておらず、成分表示もない、得体の知れない薬を他人から受け取るのは恐いと思うのだが。封の開いた水だって、どれだけ自分が具合が悪くて、相手が本当に善意で渡していても、警戒すべきだと思う。

 トワは、差し出された薬と水を素直に飲んだ。しばらくは青い顔で唸っていたのが、数分経つと、顔色が少しだけ良くなった。具合が悪そうであることには変わりはないが、力なく柵にもたれていた身体を起こして、感心そうに呟いた。

「すごいな、ちょっと良くなった気がする。なんて薬? 漢方だよね」

「おおよその材料はそうですね。製法には系譜の絶えた仙術が使われているので、漢方薬というよりは仙薬ということになりますが」

「じゃあ、君は仙人なのか。向こうから渡ってきたの?」

「向こうというと、大陸ということですか」

「ああ」

「いえ、私はこっち側の生まれです」

 実際に修行したのは桃自身ではないが、そこまで全て話すことはないだろうと思った。

「ふうん、珍しいな、仙人とは。礼を言うよ。君、宴で会ったことないよな。ずっと一人で生きていたのか?」

「宴?」

「宴を知らないのか」

 驚いたように、トワは言った。

「私の友人が、夏至の晩に不死者を集めて開いているんだ。かなり古くからやっている宴なんだけどさ」

「私、あの、不老不死になったばかりだから、他の人に会ったのはトワさんが初めてなんです。トワさんに会うまで、他にも何人もいるなんて思いもしなかった」

「じゃあ、まだ君は本当に若い娘さんなんだな」

 トワは驚いたように薬仙を見た。

「なに、死なない人間なんて案外そこら中にいるよ。恨み辛みで妖怪化したとか、永遠の美貌が欲しくて神妖に身を捧げたとか、何の間違いかしばらく常世で暮らしたら歳をとらない身体になったとか、理由は様々だけど。そういう連中があちこちから集まってくる」

「……そうなんですか」

 案外たくさんいると聞くと、なんだか仙薬で恋人を不老不死にしてしまおうと思っていたのが、なんだかくだらないことのような気がした。子どもの癇癪じみている、と。

「君、名前は?」

「桃といいます。薬師川桃」

「戸籍上の名前?」

「はい」

「何か通り名を考えた方がいいね。私たちは人としての名は名乗らないものなんだ」

 トワは「僭越ながら私が考えてやろう」と桃を見て少し悩み、言った。

「薬の仙人だから、薬仙。どう」

「どうって言われても」

「不満?」

 トワは困ったようにそう訊ねた。不満ではなかったが、急に通り名を付けてやると言われてもピンとこなかったのだ。

「いえ。別に不満はないですが……」

「じゃあ、決まりだ。君は宴でそう名乗れ。私は友人に君を薬仙として紹介する。いいか」

「宴……私もその宴に行っていいんですか」

「いいも何も、勝手にみんな来るんだよ。夏至の夜、日暮れ前においで。場所は――」

 トワは、桃がかろうじて知っていた隣県の一地方の名を言った。その山奥の、塚のある小道――。そんなところ分かりっこないと思っていると、呪文のようにトワは経度と緯度を諳んじた。

「周辺は別荘地だから、そんなにひとけのない山奥っていうわけでもないよ。ぜひおいで。君に友人を紹介したい。私はともかく、何か困ったことがあったら、彼女はきっと助けになってくれるだろうから」

 そう言うと、まだ快調とは言いがたい顔色だが、トワは立ち上がった。

「ありがとう、少し休んだら随分良くなった。私はそろそろ行くよ。じゃあな、薬仙。また」

「ええ、トワさん、また」

 ふらふらと、トワは駅の方に向かって歩いて行った。

 トワの背が随分小さく遠ざかった頃、桃は波の音にかき消されるような声で「薬仙」と呟いてみた。

 いつか薬師川桃ではなくなるだろう人生の先に、初めて名がついたのだ。

 今まで不老不死を得ることはただ一つの結末であったけれど、実際には不老不死を得た桃の前には、膨大な時間がある。何をすべきかも分からないし、何のために生きているのかも分からない。

 自分の人生とは何だろうと、迷うことが増えた。

 薬師川桃という名を捨てる時は、刻一刻と迫っていた。

 けれど、これからの人生に名前があると思うと、どこか救われるような気がした。この先に待つのは、何者でもない人生ではなくて、薬仙という不死者の人生になった。 


 桃はトワとの約束通り、夏至の日にはトワから聞いた山中の洋館を訪ねた。森の中には開け放たれた門があり、広大な和風庭園と、かと思えば洋風庭園が待ち受け、それに見劣りしない巨大な屋敷が建っていた。門を叩くと身なりのいい使用人が出てきて、薬仙と名乗ると、承知しているという顔で女主人を呼んだ。

 たいそう美しい撫子という女主人が出てきて、桃を館に迎えてくれた。

「トワから聞いております。あなたが薬仙ですね」

 屋敷に迎えられたその時が、最も輝かしい時間だった。





 ほんの短い夢を見たあと――次の夏至にも、その次の夏至にも宴には行かなかった。

 あの宴に集う不死者たちに対して、あるいは自分の未来に対しても、失望していた。

 それに桃には、まだ家族や恋人や友達、そして故郷が、まだ自分の人生の一部だという実感がある。すべて残っているのに、彼らと同じように旅立ちの話をするのも、彼らを見ているのもつらかった。

 桃は大学三年生になり、周囲では進路について具体的に話されるようになっていた。同級生は、桃を残して少し大人びてきた気がする。一緒に旅行へ行って、すっぴんや裸を見る機会があると、自分の方がほんの少し幼く感じた。

 友人たちは、桃が一体何になったのかも知らないままで、卒業してもまた来ようとか、ずっと友達でいようと言う。

 ずっとなんてない。

 一緒に過ごすにつけ、浴びせられるその軽口に、桃はひどく悲しくなった。最初は苛立ちもしたけれど、誰が悪いのかくらいの分別はつく。友人たちはただ純粋な好意で言っているだけだ。自分の幸福を望むのと同じように、桃が何年先も健やかで幸福であることを願ってくれているのだろう。

 薬なんて飲まなければ良かったのに。

 もう戻れっこないのに、桃はしきりにそう思った。 

 鞄の中には、使わなかった不老不死の仙薬がまだ入っていた。

 恋人からはまだ、プロポーズの言葉を受けていなかった。桃の卒業を待つつもりかもしれないが、時が来たとして、今の自分に実行できるとは思えなかった。

 桃の精神は、これまでの記憶の上に成り立つからこそ、自分を律して振る舞うことが出来る。けれど、記憶だけではどうにもならない、薬師川桃としての未成熟な精神に起因する感情はある。その怒りや悲しみの振れ幅が、他者を傷つけるためには必要だった。それが今もあるかと問われると怪しい。

 以前は、いっそのこと恋人じゃなくても、友達の誰かに、全く知りもしない誰かに、それとも、不特定多数が口にするような、例えば祭りやイベントの炊き出しの鍋に入れてしまって、不老不死とまではいかずとも、たくさんの人が身体に変調を来してしまったら、きっとひどくて、面白いことになるに違いない——と、時折箱を開いては思った。けれども、今はほとんど箱を開くこともない。

 自分もあの洋館で会った不死者たちのようになるんだろうなと思った。孤独に生きて、時折それを分かち合い、生き飽きて、どうやって自分を終わらせるのか語り合う。今じゃないけれど、いずれきっとそうなるだろう。

 だから、やはり魚になろうと思う。

 魚になって海へ出て、人間に獲られてしまったらもったいないから、うんと沖へ出て、そして、泳いで泳いで、ヘトヘトになったところをもっと大きな魚に食べられて、跡形も残さず消えよう。骨のひとかけも、目玉もうろこも、全部。美味しい魚にならなくちゃいけない、と、思い描く。必死に逃げ回って、死にたくないと思いながら死んでいこうと思う。それなら、次に生まれてくる時も、死なないために頑張ろうと思えるだろうから。

 

 部屋の窓からぼんやりと、

 来る日も来る日も、海を見ていた。


 ある日、海岸の岩縁に、大きな黄色い布のようなものが引っかかっているのを見つけた。

 水を吸って岩にぴったりと張り付いているのか、波が何度岩場に打ち付けても流れていかない。何だろうかと気になってはいたが、それを確認しに海岸の方まで歩いて行くのは手間なので、しばらくじっと眺めていた。

 すると、その布の隙間から、不意に人が立ち上がった。トワを見つけた防波堤の傍だったせいか、その人影が、錯覚でもトワに似ているような気がした。

 遠くて判然としないが、ウェットスーツや、ライフジャケット姿には見えなかった。おそらく全身ずぶ濡れだろうが、ジーンズにTシャツというラフな格好に見える。

 立ち上がったその人は、黄色の布を引き上げようという素振りを見せたが、重量があるのか動かない。やがて諦めたように、乾いた岩場に上がって力なくへたり込んだ。

 女性は疲れ切った様子で、その黄色い布のようなものを眺めていた。

 桃は、なんだかやはり気になって、海岸に降りることにした。見れば見るほどトワに似ているような、胸騒ぎがするような気がしたのだ。

 女性は、近づいてきた桃の気配を感じたのか振り返った。桃を見つけて、海水で髪がべったりと張り付いたくたびれ顔で笑った。

 驚いたけれど、嬉しくもあった。

「トワさん……」

 トワは以前と何ら変わっていなかった。

「なんだか見覚えのある海岸だと思ったけど、君と会ったところだったんだな。久しぶり」

「お久しぶりです……あの、その」

 トワがどうしてここにいるのかとか、誘ってもらった宴から姿を消して音信不通になった詫びなど、言いたいことはいくつもあった。気まずさもあって、言葉に詰まった。

「宴のことなら気にするな。別に強要しようと思って誘ったわけじゃないしさ。それと、宴はもうなくなったんだ」

「なくなった?」

「ああ」

 トワは言いにくそうに苦笑して、一呼吸置いてその理由を語った。

「撫子が旅立ったんだ」

 たった一度会っただけではあるが、鮮烈な印象が残っている。けれど、あの人がと驚きこそすれ、感慨はなかった。桃はまだ彼女のことをよく知らなかった。

「もしもの時は私に屋敷を譲るって言っていたらしいが、私には撫子のような人望はないよ。宴に集まっていた連中の誰にだってないさ。集まったってしんみりするだけだし、撫子が旅立ったことを他の連中が祝いでもしたら、私は取り乱すと思う。だから、屋敷は処分した。もうあそこには何もない」

「そうだったんですか……」

 トワと撫子は本当に心の通い合った友だったのだと思う。

 旅立つことをまるで至上の幸福のように話す不死者たちが、撫子がいなくなったことを祝う姿は、桃にも想像できる。それを聞きたくないというトワの感性は、死を旅立ちと呼んで美化したり祝ったりするより、ずっと桃にも共感が出来た。

「それで……どうして海に? あれは……」

 桃は岩場に引っかかった黄色い布に目を向けた。布だと思っていたそれは、どうやら潰れたゴムボートらしかった。

「撫子がいなくなって、使用人たちの事後処理を手伝って、粗方やることもなくなったから、私も故郷に帰ろうと思ったんだよ」

「ボートで……ですか?」

 離島だとして、どこを目指してどこから漕ぎ出したにしても、無謀にもほどがあるだろう。正気か、常識を疑いたくなる。

「アコネという島なんだが、聞いたことあるか?」

「いえ」

「だろうな。一番近い陸地だと思っていたあたりで漁師に聞いてみたが、誰も知らないと言うんだよ。名前はともかく、そんな特徴の島はないってね。撫子がかなりの金を残してくれたから、人を雇うのに困らないだろうとは思っていたけれど、誰もそんな島知らないから船は出せないと言う。だから、ゴムボートを買ってきて、海に出た」

「そんな、無茶ですよ」

「私が昔、島からこっちに渡ったときだって、おんぼろの小舟だったよ。波が立てばひっくり返るくらいの。私には海鬼――海の怪物どもが憑いてる。浮いてりゃ櫂のない筏でも目的地に着くんだ。途中までは順調に行ったさ、でも、途中で海鬼が私が島に帰ろうとしたのを怒ってボートを沈めたんだよ」

 きっと、トワを取り囲んでいる無数の影のことだ。今も座り込んだトワを恨めしそうに見下ろしている。

「どうして怒っているんでしょう」

 トワは、桃がその影たちを見ていることに気づいた様子だった。トワにも自分の周りを取り囲む彼らが見えるのだろう。恨めしそうに見るその視線ににらみ返して言う。

「こいつらの目的は、私という身体を得て生きることだからだよ。元々はこいつらは島の巫女で、人柱として海に投げられたんだ。十代半ばで、自分たちには何の幸福もなかったから、今度こそ幸せになりたい、って。身体がないから、こうやって私に取り憑いて願いを叶えようとしている。だから私は死ねないんだ。息が止まっても、身体が焼けても、千々に引き裂かれても、こいつらが満たされるまでずっと生きる。でも私が満たしてやらず、島に戻ろうとするから怒るんだ」

 トワは自嘲するように笑った。その顔が、どこか泣き出しそうにも見えた。

「船を沈められて、海底に引きずり込まれて、そしたらさ、そこに島にあった社があるんだよ。おんぼろで、朽ち果てて、瓦礫の山だった。あれだけ大昔のものが残っているなんて不思議な話だし、幻覚かもしれないけど、忘れもしない社の屋根を見たんだ。それからこいつら、全員で私に恨み言をいうんだよ。そうしている間に息が続かなくなって、意識を失った」

 でもその時さ、と、トワは膝を抱え込んだ。

「撫子が来て、こいつらから私を引っぺがして海上に上げる幻を見たよ。そうだったらどれだけいいだろうっていう。自分でも分かってるんだ、そんなことはあり得ないって。撫子は、満たされたから消えたんだ」

「トワさん……」

 桃からトワにかけられる言葉なんてなかった。

 トワが必要としているのは、ありきたりな他人の言葉ではなく、自分の気持ちに折り合いをつけるための時間だ。

 ややあって、トワが薬仙に顔を向けた。

「君は今、どうしてるんだ」

「私ですか? 全く変わらず、ですよ。薬師川桃として、この町で生きています」

「家族や友達がいるのか?」

「……はい」

 トワは何か言いかけて口を閉じ、少し考えるようにして、ただ「その時間は大切にした方がいい」とだけ言った。

 言われるまでもない。この時間は、もうすぐ終わる。終わりにしなければならないと思う。

 桃は、親の死に目にも会うことは叶うまい。自分の大切な恋人は新しい恋人を見つけるだろうし、友達は初めは消えた自分を思い出してくれるかもしれないが、いずれ初めからいなかったみたいに笑い合う。自分がいた場所に、違う人間がいるかもしれない。

 不老不死を目指している間は、薬を飲んだらどうなるかなんて考えもしなかった。記憶が甦った時から自分は不死にならなければならないと、そう思っていた。

 けれど、今となっては、それが本当に桃自身の望みだったのかといえば疑問だ。前世の記憶だと信じているものが、妄想ではないという保証もない。

「トワさん、私、今更になって不老不死になったことを後悔しているんです。やっぱり薬なんか飲まなきゃ良かったって。今更そう思っても遅いのに」

「ま、仕方ないね。飲んだんだもの。効いてるかどうか、試してみたのか?」

「いいえ。でも、効能のいくつかは現れています」

「じゃあ、薬の効果が一過性であることを祈るんだな」

「そうだったらいいけれど、効くに決まってます。だって私が作った薬ですもの。薬師が自分の腕を信じなくてどうします」

 桃は鞄の中から、薬箱を出した。開けると、不老不死の仙薬を包み込んだ千代紙だけ、特に傷んで毛羽立っていた。それをとって、トワに見せた。

「実は、私、とってもひどいことを考えついてしまって。恋人が、いつまでも愛してるとかこの愛は変わらないとか、そんな言葉を軽々しく囁くので、今度ね、彼にも飲ませてあげようと思うんです。私と同じになる薬」

 本当は、気持ちはかなり実行できない方に傾いていた。実行することも捨てることもできず、故郷を離れることも出来ない。何かしら決めようと思うのに、桃はまだ迷っていた。

 こんなにもひどいことを思いついて、胸先三寸で実行してしまえるのに、誰にも言えないから誰も桃を罰してはくれない。それは許されないことだと、一言でいいから言ってほしい。それだけで金輪際思うこともやめて、潔く故郷を出て行けると思う。

 トワなら、自分の悪心を責めてくれるという期待があった。もしもトワがやってしまえと言うのなら、それを免罪符にやってしまおうとも思った。

 トワは、桃の真意を探るように桃を見据え、薬を指した。

「それか? 不老不死の薬」

 桃は頷いた。

 それからトワは、すごくつまらないものでも見るみたいに桃の手から取り上げて、その場で包みを開き始めた。千代紙の外袋を外して、出てきた一包の薬包も開いた。包みの中に粉末状の仙薬が露わになった。捨てられるならそれでもいいと思った。

 次の瞬間、トワは自分の口にそれを流し込んだ。そして不味そうに顔を歪めて喉を上下させた。

「家にもあるのか?」

 眉間にしわを寄せながらトワが聞いてきた。

 呆気にとられて、桃は言葉に詰まりながら返事をする。

「……いいえ、……それだけです」

「なら、いいな」

 トワは空の包みを寄越してから、言った。

「お前は自分の意思で薬を飲んだんだろ。なら人を巻き込んだりしないで、自分でなんとかするんだな。そんなに後悔しているなら、今からでも寿命通りに年とって死ねる薬を作れよ」

 そんな薬、考えてもみなかった。

「今から研究したって、もう遅いですよ。不老長寿を得るまでに五〇年、不老不死を得るまでにさらに一〇〇年かかったんですから」

 桃の悲嘆に対しても、トワはただただ淡泊だった。

「じゃあ、死ぬまで生きるしかないな」

 突き放すようなその物言いを、それでも薄情だとは思わなかった。空の包み紙に目を落とすと、やっと一つの苦悩に区切りがついた気がした。ただ捨て去るだけのことさえ、自分では出来なかった。

 トワはまだ口の中が苦いというような顔をして立ち上がり、前進のポケットを何度か叩いた後で「悪いけど、金貸してくれないか」と言った。

「持ってた金、全部海に落としたみたいだ」

「いくら必要なんですか」

「一万あればあとはなんとかする」

 持ち合わせは少なかったが、鞄から財布を出して開くと一万円とちょっと入っていた。薬を始末してもらったのだ。金でいいなら安いものだ。

「一万ですか……いいですよ。ただし、いつか必ず返してくださいね」

「わかった、返す。絶対だ」

 白々しい返事だった。これは返す気がないなと思って、ひどいを通り越して呆れた。

「返してくれなかったら、何年、何十年かかっても、取りに行きますから」

 桃はトワに一万円を渡してやった。返ってくるかは望み薄だが、口約束でも、そんなことを言える相手がまだこの世にいることは嬉しかった。桃は巡り合わせというものを信じている。二度にわたって桃の前にトワが現れたことしかり。お互いにまだ長く生きるのならば、いつか会うことになるはずだという確信がある。

「いや、返すよ、ちゃんと。ただ、そうだな、私が返しに行くまで生きてたやつはなかなかいないんだけどさ」

 トワは受け取った一万円を宙に泳がせながら礼を言うと、ここから近い銭湯の場所を訊ねて去って行った。


 桃が、家を出たのはその翌月だ。

 大学の夏休みの最終週、必要最低限の荷物だけを持って、家族のいない日中に黙って家を出ていった。

 ちょっと出かけるような顔をして、住み慣れた町を歩き、何度も利用した駅へ行って、初めて乗る路線で知らない町に向かった。

 薬師川桃は、その時から、不老不死の怪物として生きていくことにした。

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不死者の宴 薬仙 御餅田あんこ @ankoooomochida

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