第1章

第1話 剣豪と、魔術の大陸(前半)

【現在・とある船頭の記録】


 船の甲板に立ち尽くすその剣士は、どこまでも虚ろで、そしてはかなげだった……。


「おい、あんた。荒天こうてんの時ぐれぇ、せめて船内に入っていろよ」

 

 ああ、どうして声をかけちまったのか。

 横殴りの吹雪に船が大きく揺れる中、ラカンは甲板かんぱん帆柱ほばしらに立つ剣士へあわい後悔を抱く。

 日に焼けた褐色の肌や禿頭、壮年ながらも堅強な体格をしたラカンは、大陸と島国"極東きょくとう"を結ぶ木造船の船長だ。

 海難地帯で知られる"極東"から大陸間を十年以上も航行しているから、暴風雪や高潮で甲板が水浸しになるくらいでは動じない。極寒の漂う悪天候でも、厚手の黒い外套を着て日課である甲板の巡回をこなしているのがいい証拠だ。

 そんなラカンでも、薄茶の雨合羽あまがっぱと黒衣の袴着はかまぎ姿の剣士を無視できなかった。

 名簿では『朱鷺常ときつね』という名で、よわいは十八だったか。

 刀を携えているから"極東"の剣士なのは言うまでないが、成人の胸元に満たぬ小柄な背丈は年齢より遥かに幼く見える。

 そのうえ竹細工たけざいくかさ白狐しろぎつねの仮面で頭や顔を隠しているものだから、黒髪の青年ということ以外に素性が判然としなかった。


「心遣い痛み入るが、拙者せっしゃはここにいる方が落ち着くのだ……」

「そういう割に、手が震えてんじゃねぇか。どうして頑なに船内へ入ろうとしねぇんだ?」

 

 不気味な印象ながら、礼節をもって朱鷺常が頭を下げてきた。

 わずかに上ずった声は齢相応に若々しく、けれど抑揚の乏しい虚ろな声調がどこか痛々しい。

 船内にいるよう催促さいそくしたのは何度目だろうか。

 船には質素だが大部屋が設けられ、ほとんどの乗客たちは朝も夜もそこで過ごす。

 しかしこの剣士はこちらに耳を貸さず、一ヶ月前に"極東"を出立してから殆どを甲板で過ごしていたのだ。

 それこそ就寝や厠で用を足すとき以外、そこにいたと言ってもいい。

「……拙者がいれば、乗っている皆を怖がらせてしまう」

「俺たち船乗りからすりゃあ、そこでじっとされる方が怖ぇよ。若い船員たちはオメェさんを亡霊だと言って怖気づいてやがるぞ」

「亡霊……。それは否定できぬな」

「いや、否定してくれ」


 朱鷺常へ嘆息する間に、船の前方では白いモヤから黒い影が浮かび上がる。

 ギザギザとした凹凸の影は程なく雪被りの山脈に変わり、"エレバス大陸"の陸地を鮮明に浮き彫りにした。

 今回も無事に航海を終えられるな。

 厳顔だったラカンの表情が少しずつ柔らかくなる。

「あんた、これから大陸でどうするつもりだ?」

 思えば会話らしい会話はなく、そのうえ着陸すればもう会うこともない。

 ラカンは聞けるだけ聞こうと思った。

「人助けにいく」

「人助け?」 

「『殺した数だけ人を救え』。師匠からの遺言を果たすまでだ。"極東"では叶いそうにないからな」

「罪滅ぼし……。それが"調査員ちょうさいん"に志願した理由かよ?」

 ラカンの問いに、朱鷺常は笠と白狐の仮面をかぶった顔を俯かせる。

 黒袴の小さな体をわなわな震わせたまま腰下のさやを握りしめる姿は、心なしか自身の行いへの悔恨に見えなくもない。

 ラカンはたまらず白い息を大きく吐いた。

 "極東"の戦乱は、かつての小国【明倭めいわ】が天下を治めたことで終結した。

 そして【明倭】は、戦乱で荒廃した国土を復興する上でエレバス大陸の魔術に目をつけ、"調査員"を派遣することにしたのだ。

 大陸へおもむき現地で見聞きした技術や内容を持ち帰ることが"調査員"の使命だが、

 現在"極東"と大陸を行き来するのは、調査員の輸送を任されたラカンの船のみ。そして今のところ、

 誰もが理解していた。"調査員"という役職がていのいい国外追放であることを。

 敵国の武官や【明倭】の方針に異を唱えた執政官が、相次ぎ"調査員"に任命されているのがいい証拠だ。


「戦乱を終わらせた"冬刀ふゆがたな"が、まさかこんなお人好しだと思わなかったよ……」


 ひ弱な小国だった【明倭】が天下を取れたのは"冬刀"と呼ばれた剣豪のおかげだと、みな口を揃えていたか。

 刀をひとたび振れば千の兵士を斬り刻む、血も涙もない剣の鬼。

 そんな剣豪がどれだけ冷徹な人間なのかと出立直後は警戒したものだが、蓋を開けてみれば人並み以上に情も罪悪感も有した青年だった。

 拍子抜けもいいところだ。

「あんたが【明倭】を天下に導いたから、"極東"の戦乱は終わって平和が訪れたんだ。あんたが戦乱を終わらさなかったら、今もあの島国は死地だっただろうよ」

 いくさが終わり、死ぬ奴が減った。

 それを踏まえれば救国の英雄として讃えられてもおかしくないはずだ。

 だが朱鷺常は不平を漏らさない。

 雪混じりの暴風へ身を委ねるように黒の袴着をなびかせるだけだ。

 ラカンは感極まるあまり、悲壮で顔を歪めずにはいられなかった。

「罪を背負おうなんざするなよ……。今からだって遅くねぇ。俺がひそかに"極東"へ送り返したっていい。だからーー」

「もういいのだ……!」

 笠と白狐の仮面で隠した朱鷺常の顔が、ゆっくり左右に振れる。


「これは拙者の罪。そして"極東"にいる理由もない。皆が平和に暮らせるのなら、拙者に心残りはない」


 朱鷺常はわずかに口角を上げ、鈍色にびいろ厚雲こううんを仰いだ。

 空を見上げる剣士に生気はなく、吹雪の中へ今にも消えてしまいそうなほど存在が希薄に映った。

 人の形をした抜け殻とも、あるいは亡霊とも。

 なぜ朱鷺常が、地獄への片道切符でしかないこの船に自ら乗り込んだのか、ラカンは確信した。

 人助けをするというは嘘ではないのだろう。

 けれど……、"極東"に戻るつもりもないのだ。

 縁もゆかりもない大陸でただひとり、静かに死んでいく。

 それがこの剣士の望みなのだと、思わずにはいられなかった。

 なぜ、朱鷺常に声をかけた?

 それは、死に行こうとする小さな剣士を見過ごせなかったのだと、ラカンは悟った。

「俺は着陸準備に戻る。仕事の邪魔にならないようにしてくれよ」

 せめて、幸せに生きてくれ。

 心の底から救国の英雄の身を案じつつ、ラカンはその場を離れようとした。


「ウゥゥゥゥゥゥッ!」


 船の前方から聞こえる甲高い奇声が、波風に荒ぶ海の音を掻き消す。

「おいおい、嘘だろ……」

 痺れるような寒さを忘れ、ラカンは禿頭に嫌な汗を大量に滲ませる。

 気のせいではない。

 先ほどの奇声を耳にしてか、船員たちもみな作業の手を止め、恐怖で顔を強張らせながら声のする方を注視していた。

 進路の先を誰もが見守る中、海面が大きく盛り上がる。

 高らかに水しぶきを舞い上げ凍てつく水中から現れたのは、一匹の巨大な魚だった。

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