剣豪の猫
ルンタロウ(run-taro)
序章 愛しき日々
【八年前 島国"極東"にて】
初陣の前日は桜が満開だった。
戦を忘れてしまいそうなほど
「ごめんなさい、朱鷺常……」
屋敷の門をくぐりかけた朱鷺常の視界を、黒い布地が遮る。
耳元では女人の
誰かに抱きしめられている。
そう理解した朱鷺常が顔を見上げると、茶色を帯びた切れ長の瞳に涙を浮かべた黒い
二十代に見える女人で、艶やかな黒髪を背中まで流し、物腰の柔らかく気品に満ちた様は上流階級の
確かなのは、しなやかな細身の麗人に見えて、剣の腕が恐ろしく強いこと。
そして、孤児だった朱鷺常をこの屋敷へ受け入れ、十歳となる今に至るまで育ててくれたことだ。
「師匠……、苦しいですよ」
そう告げながらも、師匠から伝わる肌の温もりを、朱鷺常は無抵抗のまま受け入れる。
少し苦しいくらいの
青空から降り注ぐ日差しはあたたかいが、師匠の体はそれ以上にあたたかい。
「いいのよ、朱鷺常。あなたが
行かないで。涙に濡れた師匠の瞳が強くそう訴える。
「師匠……」
溢れかけた涙を、朱鷺常は奥歯を噛んでこらえた。
嬉しかった……。
師匠は剣の師であり、唯一心を許せる恩人だ。
そんな大切な人に慕われていると思えるだけで、朱鷺常は満足だった。
でも、だからこそ――。
朱鷺常は、自分の体に巻き付く師匠の手を優しく
「すまない、師匠。それはできない……。隣国の進軍を抑えねば、この地もいずれ戦場になる」
朱鷺常の暮らす島国"
噂では敵対する
手をこまねけば、ここら一帯が戦火に巻き込まれ、ここら一帯が灰燼に帰するかもしれない。
豊かな自然と桜の木々に囲まれた師匠の屋敷も。
よもすれば師匠も……。
「しかし、何も私の代わりなんて務める必要はない。今からでも私が――、ごほっごほっ……!」
ふいに師匠は深く咳きこみ、地面に
「無理をするな師匠……。もう、戦える体じゃない」
数年前より師匠の体は病魔に冒され、時が経つごとに悪化している。
無理せず安静にすればまだ当面は生きられると、先日訪れた医師が見立ててくれた。
「病魔などなければ一騎当千してみせるものを……。
地面に膝をつけながら、師匠はわなわなと全身を小刻みに震わせる。
自身の体たらくを恨んでいるのか、小声には悔しみが滲んでいる。
今にも泣きそうなほど悲壮に暮れる師匠に、朱鷺常は胸を痛めた。
頼むから自分を責めないで……。
師匠の心を軽くせんと、朱鷺常は静かに告げた。
「拙者は、最強の剣豪たる師匠の弟子。おいそれと死にはせぬ」
まだ十歳と幼ない朱鷺常だが、そこらの
師匠の代役として参陣の機会が与えられたのも、剣豪の弟子という立場を抜きに、剣術や体術の腕を見込まれたからだ。
「師匠はそのまま屋敷で療養して、拙者の
「朱鷺常……」
説得しても無駄と理解したのだろう。
師匠はしばし顔を
「
涙に濡れた黄色い瞳をまっすぐ向けながら、師匠は力を込めて口にした。
「必ず、帰ってきなさい……。生きて……、絶対に、帰ってきなさい……!」
強風に舞う桜の花びらが朱鷺常の頬を
先ほどよりも強く、ぎゅっと体を密着させて。
強く頭を撫で続ける師匠の手の温もりに、朱鷺常はとうとう堪えた涙を頬に流した。
本当、いつまでもこうしてほしい。
いつまでも、いつまでも……。師匠の温もりを、感じていたい。
「分かってる、師匠。必ず、帰ってきます……」
元より死ぬつもりなんてない。
師匠に
必ず乱世を終わらせ、太平の世で師匠と共に平穏を過ごしてみせる……。
風になびく桜の
暖かに降り注ぐ
穏やかな春の陽気に照らされながら、時間の許す限り朱鷺常は最愛の人と触れ合った。
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