20年ぶり同窓会
あべせい
20年ぶり同窓会
「くじはらさま、お伝えしたいご用件がございます。ご足労ですが、車掌室までお来しください」
「あなた、あなた」
「あン?」
2人掛けのシートの通路側で、雑誌を読んでいた男性は、隣の妻の声で我に返った。
「いま、あなたの名前を呼んだわ。公事原って……」
「おれの名前を、か……」
公事原慶介(くじはらけいすけ)は、一瞬、妻の祐未絵(ゆみえ)の言っている意味がわからなかった。
「車内アナウンスよ。『クジハラ』って、確かに言ったわよ」
東海道新幹線6号車の車内。
2人が腰掛けているのは、ちょうどなかほどの席だ。
「しかし」
慶介の疑問はもっともだ。
この日、この列車に乗っていることを知っているのは、彼以外には妻の祐未絵だけのはずだ。
「下の名前は言ったのか」
「公事原としか、言わなかったわ」
「同姓だろう。ほっておけ」
慶介は再び、雑誌に目を落とす。
しかし、心の中は穏やかではなくなった。雑誌の文字が目に入らない。
この日の三島行きを決めたのは、先週だ。
司法書士の公事原は、いつでも自由に休みがとれる。とはいっても、引きずっている案件は多い。たまたま3日連続で、急ぎの用件がなくなったので、思い切って休もうと決めた。
妻の祐未絵は前々から、三島に行きたいと言っていた。
三島には妻の生家があった。いまは取り壊されて跡形もないが、幼なじみが何人かはいる。
いまも連絡をとりあっているわけではない。しかし、生家跡や、こどもの頃遊んだ場所に行ってみたい。結婚して20年近くになるが、これまで行きそびれていた。
慶介と祐未絵のこども2人は、大学生で、それぞれアパートを借りて、自由に生活している。
慶介が気になるのは、事務所にいるたった1人の事務員、湯川環(ゆかわたまき)の存在だ。彼女にも3日間、自由にしていていいから、と休暇を与えた。時々、仕事中に、彼女の携帯に電話がかかってきているようだから、恋人はいるのだろう。
はっきりと確かめたわけではないが、いてもおかしくない。
しかし、慶介自身、環には強い関心がある。美形でスタイルもよく、どうして、こんなちっぽけな司法書士の事務所の求人に応募してきたのか、当初は不思議に思った。
慶介は、面接するなり、心の中では即採用を決めた。
月に一度ほど、顧客との面談で同行した帰り、彼女と一緒に食事をするようにしている。
しかし、それ以上、親しくするつもりはない。環自身、そういったことには、厳しい一面を持っていると感じさせるから、慶介自身も自戒している。
しかし、先週事務所で執務中、妻と電話のやりとりをしている際、この日の「三島行き」のことを口に出した記憶がある。環がそれを耳にしていたのかも知れない。
環自身、慶介夫婦に関心はなくても、事務所に出入りする人間に、何気なく、話した可能性だって考えられる。
やがて、
「クジハラさま、お伝えしたいご用件がございますので、ご足労ですが、車掌までご連絡をお願いします」
再び、車内アナウンスがあった。
「やはり、あなたのことよ」
「しかし、おれがここにいるって、どうして知っているンだ」
「そんなこと、知らないわ。あなた、酔うと口が軽くなるから、どこかで、若い女の子にいい気になって、話したンじゃないの」
「いい加減にしろよ」
慶介は、腹が立った。おれはそんなに口が軽いのか。妻からはよく言われるが、そのような自覚はない。
「本当に行かなくていいの?」
「ほっておけ。用があるなら、向こうから来るさ。呼びつけるなンて、無礼じゃないか」
そうかも知れない。妻の祐未絵は、夫の言い分にも一理あると思い、それ以上、追及するのをやめた。大事な用件なら、全車両を歩き、探せばいいのだ。
すると、その後10分たっても、同じアナウンスは流れなくなった。「クジハラ」という同姓の人物がいたのか、呼び出しの依頼をした人物が諦めたのか、いずれかだろう。
列車は、小田原駅を通過した。
慶介はこんどの三島行きには、ある秘密の計画があった。妻にはまだ言っていない。
先々月、仕事で会った女と再会するつもりだが、うまい口実が、浮かばない。
その女は、いまは沼津にいる。三島と沼津は、車で30分ほどの距離だ。
そのとき、慶介の頭の隅で、何かが弾けた。しかし、それが何なのか。わからない。
「あなた、三島で何をするつもりなの?」
「おまえこそ、どうなンだ。三島に行きたいと言ったのはおまえだ。おれにかまうことはない。言ってみろよ」
「そうね……フ、フフフフ」
珍しく、祐未絵が明るく自分から笑った。
「わたし。初恋の人に会いたいの……」
ゲェッ。慶介は口にこそ出さなかったが、目玉が飛び出るほど驚いた。
祐未絵は、そのようなことをいう女性ではない。いや、慶介は少なくとも、これまではそう思ってきた。
三島は、祐未絵が高校3年まで過ごした街だ。幼馴染も同窓生もいるだろう。
初恋の相手がいても不思議はない。ないが、いまでも連絡をとりあっているのだとしたら、気になる。
「そいつがいま、どこにいるのか、知っているのか」
「知っているわよ。有名だもの」
「三島の有名人か。芸能人じゃ、ないだろうな」
「ホテルの社長」
「ということは、今夜のホテルはそいつの……」
「そういうこと。でも、その方は、わたしたちが泊まる、ってことは知らないはずよ」
慶介は、祐未絵が利発な女だと思っている。
相手が、昔の初恋の男だとしても、名乗りを上げて会いに行くような、ちゃらちゃらした女ではない。ないが、相手が祐未絵のことを覚えていて、2人がばったり出くわしたとしたら……。
慶介は珍しく嫉妬を覚えた。自分は浮気を計画しているくせに。
「そいつに、おれたちが泊まる、ってことを教えたのか」
「言ってないわ。当たり前でしょ。でも、この前、高校の同窓会の案内が来たでしょう。そこに、案内状の活字の横に、自筆で書き添えてあったの」
「書いてあった? なんと書いてあったンだ!」
「大きな声を出さないで」
祐未絵は、近くの席の乗客が振り返るのを感じて、慶介の脇腹を小突いた。
慶介もさすがに恥ずかしくなったのか、声を潜める。
「だから、なんと書いてあった?」
祐未絵は、夫の上位に立ったことを意識して、ちょっと愉快になった。
いつも、妻を小バカにしている慶介を、ちょっとやりこめてやろうか。そんないたずら心が働いた。
祐未絵は慶介より6才年下だ。そのせいか、何かにつけ、慶介は祐未絵を上から目線で見ようとする。
結婚当初は、妻をお姫さま扱いしていたのに、5年もたつと、自分はすっかり殿様気分になって。それがいまだに続いている。
時々いやになる。祐未絵のこのところの正直な精神状態だ。
どうして、こんな男と結婚したのか。
いまでも誕生日や結婚記念日には、何がしかのプレゼントをくれたり、ふだんは行けない高級レストランに連れて行ってはくれる。
しかし、祐未絵にすれば、夫の慶介は、それだけしておけば、妻は満足するだろうと、義務的にやっている感じがする。
夫はわたしを本当に愛してくれているのだろうか。心の中までは覗けない。祐未絵は最近、とみにそう思うようになっている。
だから、
「『一度お目にかかりたいです。もう20年もお会いしておりません』と書いてあった」
「しかし、おまえはその同窓会には行かなかっただろう?」
そのときは、同窓会のためだけに、東京からわざわざ三島まで行くのは、実際億劫に感じた。それに、慶介が快く送り出してくれるとも思えなかった。
しかし、同窓会の案内状を見て、カレのことを思い出していた。
名前は、深矢新造(ふかやしんぞう)。勿論、同い年だ。ホテルの社長でいられるのは、創業者の息子であり、苦労知らずの2代目というだけ。経営主としての能力があるのかはわからない。いまでも、会長職にある父親が経営の実権を握っている。
「自筆で書いたということは、その男が同窓会の幹事をしているのだな。ホテルの経営者がやることじゃない」
その通りだ。ホテルの2代目社長が、どうして同窓会幹事のような、手間のかかる世話役を引き受けたのか。
しかし、祐未絵にはわかっていた。新造は、元来そういう性格だ。
高校時代の新造は、ひょうきんで周囲を笑わせるのが得意だった。地元で最大の部屋数を誇るホテルオーナーの跡取りには、とても感じられなかった。端的に言うと、大金持ちにありがちな、お高くとまっているところがない。だからこそ、祐未絵は、新造のそんな気さくな性格がたまらなく好きだった。
2人でよく、遊園地や植物園などに出かけた。登校は無理でも、下校はいつも一緒だった。しかし、性的なつながりは、不思議と互いに求めなかった。
いまも、祐未絵にはその理由がわからない。キスくらいしても、おかしくはなかったのに……。手を握った記憶すらない。
もっとも、偶然か、手が触れあったことはある。そのとき、祐未絵は、感電したような強い刺激を受けたことを、いまもよく覚えている。
純粋にプラトニックな交際だったからこそ、彼に対しては、いまもいい印象をもっている。祐未絵はそう考えている。
今回、彼のホテルに予約を入れたのも、懐かしさが先に立った。もし、彼に対して、いまも強い愛情があったなら、夫と2人で行けるわけがない。
慶介はどのように思うか知れないが、祐未絵は新造に会って、彼と昔の思い出話がしたい。それだけの思いで、三島に行きたいと慶介に提案した。
三島は三嶋大社が有名だが、新造のホテルはその三嶋大社から徒歩で3分ほどのところにある。
三島随一の、14階建て高層ホテル。2人が案内されたのは、13階の角部屋にあたるツイン。
窓からは、三嶋大社は無論のこと、三島の街全体が俯瞰できる、すばらしい眺望だ。
「祐未絵、ここは観光ホテルなのか、シティホテルなのか? 料金は聞いているが、料金の割には、部屋がよすぎはしないか?」
「観光にもビジネスにも、いろんなひとに利用してもらえるようにって、さまざまなタイプのお部屋があるそうよ。一泊20万円のスイートもあるっていうから、お金持ちにもいいのじゃない」
もともとは、外国人客を中心とした観光ホテルとして始まったらしいが、新造の代になって、客層を広げるために手を加えたと聞いている。
祐未絵は、部屋のクローゼットに旅の荷物を入れ、ベッドに横になって目を閉じた。
夫はすでにバスルームに入り、シャワーを使っている。慶介は潔癖症なのか、少しでも汗をかくと、すぐに入浴する。
祐未絵は、心臓の鼓動が激しくなるのを感じている。チェックインの際、フロントの女性から、こっそりメモを手渡されていた。
フロントでのチェックインは慶介がした。しかし、「エレベータにご案内します」と申し出た若い女性スタッフが、エレベータを待つ間、祐未絵の耳元で、こうささやいた。
「オーナーが、あとでご連絡が欲しいとのことです」
そして、祐未絵の手にこっそりメモを握らせていた。
メモには、携帯電話の番号が記されている。
祐未絵はどうすべきか、迷っている。
いまなら、慶介に内緒でスマホが使える。
それより、新造の用件は何だろう。彼は、祐未絵のスマホの番号を知らない。だから、メモを寄こしたのだろうが、夫に内密にしたい用件があるのか。それは、何だろうか。
祐未絵は、新造と疎遠になった原因を思い起こした。
三島の地方銀行員だった父親が、東京支店に転勤が決まり、一足先に単身で東京に赴任したあと、祐未絵は3月の卒業式を待って、母と一緒に東京に行った。
新造と別れるとき、祐未絵は彼と2人だけで、三嶋大社の境内で会った。
境内の中に、「福太郎」という名物の餅を食べさせる店があり、祐未絵は新造と一緒にその店に入り、東京に行かなくてはならない事情を話した。
新造は意外に、さっぱりとしていて、
「東京は近い。いつでも会いに行けるよ」
と言ってくれた。
祐未絵は東京に住まいを移してからは、しばらく新造と手紙のやりとりをしていたが、そのうち、互いに連絡をとりあうのが間遠になり、3年余りで、全く音信がなくなった。
それでも、ときどき祐未絵は、新造のことを思い出した。慶介と交際して、半年で結婚してからも。
新造はホテル経営の大切な跡取り息子。祐未絵は、課長とはいえ、地方銀行員のひとり娘。結婚の対象にはならないと、高校のときから、なんとなくそう思い込んでいた。
それが2ヵ月前、突然、同窓会の案内状が実家の母を通じて祐未絵のもとに届いた。
高校3年生の同窓会。卒業して20年になる。会いたいともだちはたくさんいる。
同窓会の案内状には、幹事として新造の名前が記してある。
祐未絵は、そのはがきを慶介に見せ、反応をうかがった。
慶介は、そのとき、
「行けばいい。一泊すればいいだけだろう」
と言ってくれた。
日帰りも可能だ。しかし、結婚以来、祐未絵はこれまでひとりで外泊したことがない。それに、ついでがあればまだしも、東京からお金と時間をかけてまで、わざわざ出席することに、ためらいがあった。慶介も口では「いい」と言ったが、本心は別だろう。
しかし、いま……。夫の慶介はバスルームだ。慶介の入浴は長い。
祐未絵は無意識にスマホを手に取り、メモを見ながら新造の携帯番号にかけていた。
「もしもし、祐未絵です」
「ユミちゃん! 数秒だけ待って……」
祐未絵の耳に、食器がカチカチと鳴る音が聞こえる。
「ごめん。ユミちんは、明日もうちに泊まってくれるンだよね」
「その予定です」
「だったら、今夜、ご主人を加えて、小さな同窓会をしないか。うちのホテルの14階が、ラウンジになっているのだけれど、午後9時から貸し切りにしておくから、来ない?」
同窓会……。行きたい。新造に会いたい。
夫の慶介は、今夜7時から、沼津で親しい者だけが集まる臨時の同窓会があると言い、6時にはこのホテルを出て行く。あと小一時間だ。
ホテルに到着する数分前に、慶介が話したことだ。
祐未絵が今回の三島行きを決めたときに思いついたらしく、数日かけて、親しかった数人の同窓生たちと連絡をとりあい、昨夜ようやく決まったと打ち明けた。
さらに、ホテルのエレベータのなかで、
「沼津で二次会になって、酔ってしまったら、泊まってくるかもしれないから。心配するな」
と言った。
慶介のことだ。恐らく、沼津には泊まるつもりだろう。
「いいわ。シンちゃん、行くから。わたしひとりで……」
祐未絵は急にくだけた口調で答えた。
「ユミちゃんひとり?」
「そォ……。ダメ?」
「いいけれど、ご主人は、ぼくに会いたくないのかなァ」
「そうじゃないの。あのひと、出不精で、ホテルに泊まっても、部屋でDVDを見たりテレビを見たりするのが好きなひとなの。だから……」
万一ということがある。夫の慶介はホテルの部屋にいることにしておこう。祐未絵はそう考えた。
午後9時になった。
慶介はすでにいない。タクシーで沼津に出かけた。
部屋の電話が鳴った。
「新造です。準備ができたから、いまから14階に来ない? それとも、ぼくが迎えに行こうか」
そのとき祐未絵は、不意に大胆なことを思いついた。
「ラウンジだと従業員の方がおられるでしょう。シンちゃん、この部屋まで来てくれる。ゆっくり、2人きりでお話がしたいし……」
「でも、ご主人が……」
そうだ。うっかりしていた。
祐未絵は少し慌てたが、
「あのひと、電話がかかってきて、一時間ほど前に、沼津の知人のところに行ったの。だから、いまは、わたしひとりきり……」
「ユミちゃんがいいのなら。いまから行くよ。ぼくね、言わなかったけれど……」
新造がことばを改めて、慎重な口調になった。
で、祐未絵はわざと、なだめるような口調で、
「なあに?」
すると、新造は、
「実は、ぼく、結婚したけれど……」
当然だろう。38才にもなって独身でいるほうがおかしい。しかも、ホテルの2代目社長だ。対外的にも、パートナーは必要だ。
祐未絵は、慶介の次のことばを待った。
「半年前、妻を亡くした」
「エッ!」
祐未絵は心臓が止まるかと思うほど驚いた。どうして、そんなに驚いたのか。やはり新造のような男性が夫だったら、という思いがどこかにあるのだろうか。
「ぼくが同窓会の幹事として、案内状を出したのも、本当はユミちゃんに会いたくなったからだ」
「シンちゃん。わたし、わたし、結婚しているのよ」
なぜ、こんなことを口にするのか。祐未絵は自分で自分の気持ちがわからなくなった。
新造は独り身。わたしは、人妻だ。このまま、2人きりで会っていいものか。
慶介がこのことを知ったら、どう思うか。
「案内状の返信用はがきに、欠席の通知と一緒に、ユミちゃんは住所を書いてくれたよね。姓が変わっているから、結婚したことはわかっていた。それで、諦めたよ。もう会わないほうがいいって……。昔の思い出を大切にしよう、って。でも、こんど、ホテルの予約リストの中に、ユミちゃんの名前を見つけたとき、気持ちが変わった」
「どういうこと?」
「会いたくなった。とっても、とっても。たまらなく会いたくなったンだ。こんな気持ち、妻が亡くなってから、初めてだ。だから、これから同窓会をしよう。そばにご主人がいてもかまわないって……」
「シンちゃん、わたしも会いたい。でも、あれから20年たっているのよ。わたしは、三嶋大社で別れたときの祐未絵じゃないのよ」
「ぼくだって、20才、年をくっている。変わったよ。がっかりさせるだろうな。体形は変わっていないつもりだけれど……」
祐未絵もスタイルは常に気にしている。体重は昔とほとんど変化はない。しかし、顔には小じわができている。高校3年生というわけにはいかない。
2人きりで会うのは、よくないのか。このまま、清いまま、会わずに、声だけで満足しておくほうがいいのか。
しかし、新造は、妻を亡くし、淋しさに耐えられないのかも知れない。わたしには、ロストシングルの気持ちは、よくわからない。
どうすれば、新造を満足させることができるのか。そして、わたし自身をも……。
「ユミちゃん、とにかく、これから、ぼくはユミちゃんの部屋に行くよ。ドアを開けるか開けないかは、ユミちゃんの自由だから……」
新造は電話を切った。
その頃、沼津のシティホテルで、一組のカップルが、ホテル内のバーで向き合っていた。
慶介と同じテーブルにいるのは、2ヵ月前、慶介が遺産相続の手続きで知りあった女性、伊紅(いく)だった。
伊紅の年齢は、慶介より一つ年上。東京で暮らしていたが、夫が交通事故で急死したため、実家のある沼津に戻った。幸い、両親が健在なため、実家で暮らしている。
慶介は、伊紅の依頼を受け、伊紅の夫名義の預貯金をはじめ、マンションの名義変更など、一切の手続きを行った。その関係で十数回、伊紅と会っている。
慶介は、伊紅の美貌と人柄に惹かれ、一時は伊紅との再婚まで妄想したことがあった。
しかし、まだそれほどの深い関係にはない。今回、沼津に来たのは、3日間の連休がとれたことと、祐未絵が生まれ故郷の三島に行きたいと言ったことから、思いついたことだ。
伊紅には、近くまで行くので、会って欲しいとメールした。伊紅は快く応じて、ホテルの喫茶ルームを指定してきた。
伊紅には、ただ淋しさをまぎらわせたいという思いしかない。慶介との再婚などとても考えられない。家庭のある男では、いくら収入や姿形がよくても、つきあう気持ちにはなれない。伊紅はそういう面では、しっかりした考えをもっていた。
しかし、アルコールは人の信念を低下させる。バーで慶介とカクテルを飲みながら、伊紅はこのあとどうしようかと考えてみた。
慶介は、祐未絵のことを思っていた。このホテルにツインの部屋を予約して、支払いもすませてある。
伊紅が望めば、一緒に沼津の朝を迎えることができる。
しかし……。慶介には、こだわりがある。祐未絵を失うことは望まない。いや、出来ない、と思っている。
慶介は、ビールのあとのカクテルをすでに3杯空け、酔いが回ってきている。
一方、伊紅はかなり飲める口らしく、5杯のカクテルで、少しも顔に出ていない。
慶介は、伊紅がいまどんな気持ちでいるのか、知りたくなった。
男と女は肉体関係が全てではないはずだ。ひとときの快楽だけで、残りのすべての時間を、ともに快適に過ごせるわけがない。大切なのは、互いにどれだけ相手のことを思いやれるか、だろう。
慶介は、祐未絵の顔を思い浮かべ、目の前の伊紅の顔に、重ね合わせてみた。
「伊紅さん、私は今夜、このホテルに泊まります。部屋はツイン。あなたの名前もフロントには届けています。しかし、さきほどからあなたを見ていると、早く帰りたいとお考えのようにみえます。違っていますか?」
慶介は、カマをかけてみた。しかし、伊紅には、通じなかった。
「わたし、いまは何も考えていません。何も考えられないのです……。理由はわからない。けれど……。もう少し、こうしていたいの。もう少し、このまま……」
伊紅のことばは少しづつ、くだけてきた。
酔っているのだろうか。慶介は、酔いの回った頭で考える。
いま頃、祐未絵は、どうしているだろうか。ひとりで、シャワーを浴び、テレビを見ているのか。
おれは、祐未絵を裏切ろうとしている。その選択を、卑怯にも、相手の女性に委ねようとしている。
祐未絵の部屋のドアが、ノックされた。しかし、応答がない。
「ユミちゃん、ぼくだよ。ずいぶん遅くなったけれど……。仕事の処理で、一時間近くかかってしまった。ごめん。それとも、もう寝たの?」
新造はドアの外で、話し続けている。
しかし、そのとき、祐未絵は、タクシーに乗り、沼津に急いでいた。
慶介から、
「祐未絵、すぐにこのホテルに来てほしい。おまえがいないと……」
そうメールが入ったからだ。ただごとではない。
祐未絵は慶介の心情を悟り、部屋を出ると、すぐにタクシーを捕まえた。
一方、伊紅もまた、タクシーで両親のいる実家に向かっていた。
「今夜は、わたし、このまま帰ります。慶介さん、機会があれば、東京でお会いします」
と、言い残して……。
(了)
20年ぶり同窓会 あべせい @abesei
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