例え全人類滅ぼそうとも私だけは救ってくれる圧倒的上位存在

もこもこ毛玉カーニバル!

第1話

 裏山に大きな古井戸があるのは、この村の人々全員が知っていることだった。




「あそこに何があるかって? 『にゅうどう様』がおられるんだよ、地面の奥ふかーくにな」


「ずーっとずーっと昔からあそこにお住まいになられて、出てきたら大変なことになんだとよ」


「俺ぁ昔、あの井戸からでっけえ腕がにゅぅっと出てきたのを見たことがあるなぁ」


「あはは、咲口のじいちゃんったらそれ何十回目よぉ」


「これだっからボケ老人は!」




 げらげらげらげら。決まったその話をする老人たちは口を大きく開いて笑う。


 それは、噂話にも似た言い伝え。


 このご時世だというのに村の老人たちは皆、そんな古くからの昔話を信じていた。いや、彼ら自身、それが本当なのか嘘なのかわかっていないのかもしれない。


 けれども、彼らは決して裏山の古井戸には近づかなかったし、そんな彼らに育てられた子や孫たちも言い伝えを信じているわけではないけど、怒られるから、なんだか嫌だから、自然とそこには近づかないようになった。


 事実として、裏山は陽が当たらずじめじめとして薄暗く、そこに住むカラス達がこちらを監視するようにじっとこちらを見てくる不気味な場所であった。


 朝でも昼間でも、木々の生い茂ったそこは夜のようであったし、人が立ち入ってはいけないような、排他的な雰囲気を醸し出していた。


 


 ──裏山の古井戸には近づいてはいけないよ。あそこは『にゅうどう様』のお家だからね。




 さよの小学校の初老の先生も、大きな休みの前になると決まってそんな言葉を生徒達になげかける。


 好奇心旺盛な生徒達は、先生の言葉に井戸の中に飛び込む人を見ただとか、裏山に入ろうとしたら親戚が倒れただとか、そんな噂話を出して盛り上がる。


「う、う゛ぅっ、う゛、ぇ……っ」


 足に当たるひんやりとした感覚は、冷たい石の井戸の温度。


 木々の生い茂る裏山の中にぽつんとある、普通よりも二回り以上は大きな古井戸。そこは蔦が生え、苔に覆われていた。


 そんな大きな井戸のふちに腰掛けたさよは、小さな身体を更に縮こませながら嗚咽を漏らし、ごしごしと乱暴に目元を擦る。




 さよだって、別にここに行きたくて来ているわけではない。


 けれどもだって、そこじゃないと一人になることができなかったのだ。




 父親はさよが小さい頃に離婚した。母親はさよを育てるために都心から、故郷であるこの村に戻り、村にある小汚いスナックで働いている。


 母方の両親は既に他界し、さよとは母親は残された古い家に二人暮らし。


 夕方に出かけて朝に帰ってくるそんな母親は、最近は毎日のように家に知らない男を連れ込んでは、さよの姿を見ると「あんた居たの」と、少し迷惑そうな顔を向ける。


 加えて、都会から突然やって来た異邦者のさよは、ただでさえ少ない同年代からは仲間外れにされ、ひそひそとあることないこと陰口を叩かれ、好奇の目に晒されていた。


 そんな声から逃れるためにさよはここにやってくるようになったのだ。


 狭い村の中で、一人静かになれる場所は多くない。


 だって、家はいつ帰ってくるかもわからないヒステリックな母と、酒臭い知らない男が入り浸っているのだ。


 こんなところに来るのはよくないというのはわかっているけれど、母親の冷たい視線と、同級生の嘲笑を聞いているよりも、このじめじめとした不気味な井戸の傍に蹲っているほうがよほど心は穏やかになった。




「おや、また泣いているの。そんなに擦ったら目が腫れてしまうよ」




 その大きな井戸の底から声が聞こえるようになったのは、さよがこの場所で一人泣くようになって、しばらくしてからのことだった。


 姿は見えない。井戸の中を覗き込んでも、底に黒い水がちゃぷちゃぷと小さな音を立てているだけ。


「いいもん……」


「そうは言うけれど、いいなんて顔はしていないねえ」


 けれども穏やかで語りかけるようなその声を、恐ろしいとはさよは不思議と思わなかった。


 だって、さよは話がしたかったのだ。


 日常のくだらないことから、母親との関係、同級生の視線、それがどれほど苦しいものなのか、誰かにそれを言いたかった。


 その声に恐怖を覚えるのではなく、寂しさのあまり、思わず自身の身の上話を話してしまったさよに、その声は言葉を全て言葉で一つ一つ相槌を打ちながら聞いてやり、「大変だったのだねえ」と慰めの言葉をさよにかけた。


 学校の先生でさえ、さよの訴えを「お母さんに相談してみなさい」と言うばかりであったのに。




「さよちゃんはそんな小さな身体で頑張って、偉い」




 その声に甘えるようになり、ここに毎日のように来るようになってしまったのはさよ自身だ。


 一人ぼっちのさよがここに来ることを気にかける者は誰もおらず、さよを止める者は誰もいなかった。


 だって男にも女にも聞こえるその声は程よく低くて柔らかで、そしてそれがさよを呼ぶ声はいつも優しかったのだ。


 母親が彼女を呼ぶよりも、ずっと。


「それで、今日は一体どうしたの? また誰かに揶揄われたの? 酷く落ち込んでいるようだけれど」


 声は今日もさよに心配そうな声をかける。


 途端、どこかでカラスが鳴き、ばさばさとどこかに飛び去る音が聞こえた。


「……みんないなくなっちゃえばいいのに」


 その羽音が静まってから、さよはぽつりと呟いて、言葉を続ける。


「お母さんがさよのことどこか遠くに行かせようとしてるの、知らないところに。だって電話してた! 学校に行ったら、ゆりちゃんの靴がなくなったの、さよのせいにされた。やってないのに、さよがどっかに隠したのを見たってみんなが言うの、やってないのに!」


 さよは最後のほうはほとんど絶叫するような金切り声をあげていた。


 この閉鎖的な村に、彼女のことを信じてくれる者は誰もいなかった。


 母親でさえ、さよの話を聞こうともしない。娘よりもあの見知らぬ男の方が大事なのだと、さよは憎らしくて悲しくてたまらなかった。


「さよちゃん」


 そんな幼い少女の悲鳴を聞いた声は、いつも通り落ち着いた声音で彼女の名前を呼ぶ。


 名前を呼ばれたさよがちらりと声の聞こえる井戸の底を見ると、そこは風も届かないというのに水面が波を作っているように見えた。




「──わたしがみんなをどこかに持ってってあげようか?」




 声はまるで、名案が浮かんだとばかりに少しだけ高い声を出す。


 その言っている意味が理解できなかったさよは、涙を止めて、井戸の中を睨みつけた。


 そんなふうに、声がさよに何かを『提案』するのは初めてのこと。


「……は? 意味わかんない。できもしないこと言わないでよ」


「できるさ。わたしはさよちゃんが思ってるよもずっといろんなことができるんだ」


 さよはあっけにとられて、ぽかんと口を開けた。


 その声の正体について、さよが考えたことがなかったといえば、嘘になる。


 でも、それが例え幽霊だろうが、さよにだけ聞こえる幻聴なのだろうが、それでいいと思っていたのだ。


 だって、さよにとっては自分の話を聞いてくれる都合のいい話し相手であれば、なんでもよかったのだから。


「わたしだって、さよちゃんがどこかに行ってしまうのは寂しいよ。だって、やっとできた話し相手なんだから」


 だからこそ、そんな一方的な話し相手であったその声が、さよのために何かをしようとしてくるのは──




「それに、そうすればさよちゃんともっとずっと話ができるからねえ」




 酷く、不気味に思えた。


 


「ッ意味わかんない! できるものならやってみたら?! もうやだよ! なんでさよだけこんな嫌な目に遭わなきゃいけないの……」


 今までその謎の奇妙な声を聞いても何も怖くなかったと言うのに、その提案を聞いたらさよの背中にはなぜかぞくりと寒いものが走る。


「……ママが怒るから、帰る」


 それ以上聞いてはいけないような気がしたさよは、古井戸から立ち上がり、一言だけそう言うと、やってきた道を振り返らずに早足で帰っていく。




「明日になったらいつも通り外に出てご覧。でも、夜の間は決して外に出てはいけないよ」




 いつになく足早に去っていくさよの背中を、声は気にした様子もなく優しく送り出す。


 まるで親が出かける子どもに「気をつけるんだよ」と言うように。




 裏山を下り、家に一直線に帰ってきたさよはばたんと乱暴にドアを閉める。


 ところどころ破れた障子から夕陽が差し込む家に母親はまだ帰っていなかったし、珍しくその日は母がいつも連れ込んでいる男も居なかった。


 そのことに安堵しながら、さよは古びた畳の小さな自室に閉じこもると、敷きっぱなしだった布団を頭からかぶる。


 家に帰ってきたというのに、今でも背筋の寒気は治まらなかった。


 食欲など皆無で、夕食として机の上に雑に置かれていたカップ麺を食べる気にもなれず、ぎゅっとさよは布団の中で目を瞑る。




 ──夜の間は決して外に出てはいけないよ。




 あれはどういう意味だったのだろう、とさよは目を瞑りながらぼんやりと考える。


 元々小さな村だ。街灯がない道も多く、田んぼが続くこの辺りの夜は真っ暗になり、蛙や虫の鳴き声しか聞こえなくなる。


 懐中電灯を持っていないと転んでしまうほどに暗い道を、好き好んで夜に歩く者はスナックで働く母のような者を除けばあまりおらず、さよだって夜に外に出ることはまずない。




 だからこそ、次の日の朝にさよがいつもよりも早く目覚めると、大きないびきをかきながら畳の上で眠っている母の姿がないことに胸騒ぎを覚えた。




「ママ……?」


 普段であれば職場からとっくに家に帰ってきている時間だ。


 さよはサンダルをつっかけて家から歩いて少しの、母親の勤めるスナックへと向かう。


 ここは一つの家と家の間が広く、古びた建物しかない村だ。


 畦道を駆けて目当ての場所にたどり着いたさよは、困惑の声を漏らした。




 さよの母親が働いているコンクリートの村の小さなスナックは、そこにはなかった。




 いや、その場所に何かがあったというのはわかる。


 けれども、そこには建物も人も跡形もなく、あるのはどこまでも続く深い深いただの大きな穴。


 さよは辺りを見回す。朝ではあるけれど、誰もいないことはなく、大抵散歩している老人の一人や二人がいるようなこの通りに、その日は人っ子一人いない。


「ママ? ママ?」


 さよはふらふらとした足取りで、恐る恐る穴の中を覗き込む。


 けれども、その穴の底は見えず、ただ黒く深い闇が奥へと続いているだけ。


 さよは震える足で数歩後ずさりをして、思わず走り出した。


 病院、市役所、店、さよのクラスメイトの家、さよの通う学校。


 行く先々の建物が全て、母親のスナックと同じように、ただの穴だけになっているのを見たさよはその場に立ち尽くす。


 その間も、この村に住む住民を誰一人として、さよは見ていない。




 ──全て、一夜にして文字通りこの村の建物も人々もどこかに『持っていかれて』いるようであった。




 途端、さよの背後にある裏山の方からカラスの群れが一斉に鳴き声をあげるのが聞こえ、さよは振り向く。


 朝陽に照らされた遠くの裏山は黄金色に光っていて神秘的な雰囲気を醸し出していた。




『──わたしがみんなをどこかに持ってってあげようか?』




 昨日、あの優しい声がそんなことを言っていたのをさよは思い出す。


 今起きていることの原因は、それしか考えられなかった。


 青ざめて震えながら、それでもさよは引き寄せられるように立ち上がり、裏山に向けて歩き出す。




「な、なに、あれ、ねえ、あなたがやったの!?みんな、どこにも、ねえ、ねえ!」




 さよはいつも通う古井戸へやってくると、井戸の中に飛びつき、その淵に手をついて、底に向かって叫ぶ。


 普段であればここはさよが一人静かになれる秘密の場所であるけれど、背筋が凍り付くような恐ろしい感覚が身体を覆って仕方がない。


「ねえ!? なんで、みんな、どこにいったの!? ねえッ! かえして、かえしてよっ!?」


 そんなさよの絶叫にも、いつも応えてくれる、穏やかな声は返ってこない。


 ぼろぼろと泣きわめきながらさよはそう叫び続けて、地面に座り込む。


 その場はしんと静まりかえっていて、さよの荒い息と吐息だけが響いていた。


 こんな生活から抜け出したいと、辛いのは嫌だと確かにさよは思った。


 さよに冷たい母親も、最悪な同級生たちも全部いなくなればいい、そう言った自身の言葉が、頭に蘇ってくる。




 けれども、全部が跡形もなく一夜で消してほしいだなんて、さよは考えもしなかったし、そんなことを願ったわけではなかった。




「さ、さよのせい……? ねえ、さよのせいなの……?」


 その瞬間、さよの耳に届いたのは、ばしゃり、と何かが跳ねるような水音。


 途端、カラス達が大きく鳴いて、木々の間を無数の羽音とともに飛び立つ。


 まるで、何かから逃げるように。




 さよが濡れた瞳で瞬きをした瞬間、目の前にあったのは雪のように真っ白な巨大な手であった。


 家のように大きな巨大な手が、その古井戸から『生えて』いた。




 爪だけが真っ黒に染められた手は山に生えるどの木よりも高く高く伸びていくが、しばらくするとゆっくりと下がっていき、それ一つで車なんて簡単に握りつぶせてしまいそうなほどの手の平が座り込むさよの顔に影を作る。


「ヒッ……」


 井戸の底から出てきた手を呆然と見つめることしかできないさよに、その手はそんな小さなさよの身体をその手でゆっくりと優しく掴んだ。


 さよを掴んだそれは、まるで氷のような温度をしていた。


 身体を動かそうとしても、びくともしない圧力にさよは悲鳴をあげる暇もなくまるで手の平に包むように巨大な指で視界を暗く染められる。


 その手はさよをしっかりと握ったのを確認すると、ゆっくりと再びその井戸の中に吸い込まれるように下がっていく。




 古井戸に居た少女の姿などどこにもない。


 その場に残ったのはぽちゃ、という微かな水音だけであった。






   ***






「さよちゃん、怖かったね。もう大丈夫だから」




 さよが何度も聞いたことがある穏やかな、それでいて甘やかすような猫撫で声をそれは出した。




 ──そこにいたのは山のような、巨人。




 まるで平安時代の貴族のようだと、さよは教科書でかつてそんなものをちらりと見たことを思い出す。


 巨人が纏っているのは黒と白を基調とした着物のような衣装、そして顎の下あたりで切りそろえられた黒髪を揺らしていた。


「さよちゃんのせいじゃないよ。全部ほかのみんなが悪いんだ」


 声を出すその顔にはさよにも読めない文字が記された胸元まである大きな白い面布がつけられている。


 面布がその表情を覆い隠しているせいで、巨人の顔はよく見えない。けれども、声音から喜びの感情を伝えてくるのがさよにもわかった。


 その巨人の手の中に、ぐったりとしたさよは転がされていた。




「私が全部『持って行って』あげたから、さよちゃんを悲しませるものは何もないよ」




 ──にゅうどう様。




 村の老人たちが言っていた、あの言い伝えをさよは思い出す。


 裏山の古井戸の下、地面の奥深くににゅうどう様は住んでいる。


 さよは巨人の手の平に引きずり込まれたその場所は、とても大きく開けた洞窟のようでありながら、底の見えないほどに水が満ちた地底湖のような場所であった。


 けれども、そこはただの地底湖ではない。


 その石壁にはしめ縄のようなものがいくつもかかっており、底の見えない深い水底や、ところどころ水面から飛びでた石柱の上には、無数の小さな鳥居が積み重なっている。




 まるで、この場所で何かを祀っているかのような。




 巨人の腰から下は、そんな水の中に全て埋まっており、さよから見えているのはその上半身だけであったが、それだけでも山に匹敵するほどの大きさであった。




 ──出てきたら大変なことになんだとよ。




 そんなことを言っていたのは、どの老人だっただろうか。


 さよはぼんやりと思い出しながら、無意識に自身の服の裾をぎゅうっと握りしめる。


 寒くて怖くて、目の前のこれがなんなのか理解できない恐怖に、身体の震えが止まらなかった。


 巨人は両手の手の平にさよを乗せて、そんな姿をじっと見つめながら機嫌よさそうにゆらゆらと時折その手の平を揺らす。


「みんな居なくなったから、もうさよちゃんが戻る必要はなくなったねえ」


 さよが見上げたその姿は、ただの人と同じ姿をしているように見えた。


「あ、ァ、っ……?」


 けれども、ばしゃり、と水音がして、水面からゆっくりとあがってきたものを見て、さよはたまらず悲鳴を上げた。


 ゆったりと大きく広がった巨人の纏う衣の袖、そこから、腕が一本、二本、左右合計で六本の腕がゆっくりと水の中から這い出るようにしてあがってきたのだ。


 さよを持ち上げる二本の腕とは別、残りの手の一本は巨人の髪を直し、もう一本は水を払い、もう一本は巨人の頬に当てられ、もう一本は水底から拾い上げた鳥居をぐしゃりと指先で弄ぶように撫で、音もなく潰して見せる。


 人ならざる六本の腕を自在にうごめかせるその姿は、まるで蜘蛛のようにも見えた。


 巨人は手の平に乗せたさよを、面布をつけた顔に近づける。


 ばしゃばしゃばしゃ、と水が飛び散る音がして、その大きすぎる衣の間から、滝のように水が零れた。


 中央に赤い模様をつけた面布が近づくと、その下からまるで血のような鮮やかな紅をつけた大きな口が弧を描き、その中にはギザギザの岩のように鋭い歯があるのが、さよには見えた。




「これでずっとお話できるね、さよちゃん」




 そう言って、巨人はまるで巣から落ちた小鳥を愛でるかのように、小さな少女を潰さぬよう、そっと頬ずりをしてみせた。

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