幼い頃から恋焦がれているなんて聞いてない!

巻鏡ほほろ

第1話

リネッタは快活で生傷の絶えない、お姫様らしくないお姫様であった。

よく走り回るため、長くまっすぐなミルクティーヘアーは一つに結い上げられ、最近ではすっかりドレスを身に纏うことも少なくなった。騎士の真似事だと揶揄する王宮街の人間もいるが、リネッタが気にするものでは全くない。今日も今日とて、リネッタは走り回っている。本日は家庭教師による授業もおやすみなので、外で思い切り遊ぶのは1週間ぶりであった。

「姫様ー!夕食のお時間ですよー!」

リネッタ付きのメイド・カロリーナが、両手を口に添えて大声を出す。

姿は見えないが、「はぁぁい!」と元気な返事が庭に響き渡る。

どこにいるのだと目を凝らして見回していると、視界の外の茂みがごそっと揺れ動き、ガサガサッと音を立ててリネッタが姿を現した。髪にはたくさんの木の葉が絡まっている。

カロリーナと共に姫の護衛として側に仕える騎士・マテオは、そんなリネッタの姿を見て「おてんば姫め…」と頭を抱えている。

「あれを夕食までに姫に戻さなくちゃいけない私の労力がわかる?」

「姫様をあれ呼ばわりするんじゃないよカロリーナ」

「あら…両陛下にはどうか秘密にしてくださいね」

二人がこそこそと小さな声でやりとりするうちに、リネッタは泥だらけのパンツスタイルで駆け寄ってくる。

12歳になるリネッタは子供らしい華奢な体系ではあったが、身長は既に淑女と遜色なかった。

「お迎えご苦労様!」

ぱあっと明るく笑い、メイドと騎士に労いの言葉をかける。見た目こそ街の子供と変わりないが、振る舞いは間違いなく一国の姫としての気品があった。

大変なのはこれからなのだけれど……とカロリーナが口にしかけるのをマテオが小突く。

おほん、と咳払いし、カロリーナがあらたまった。

「姫様、本日の夕食は前にお伝えした通りルナーラ王国との会談を兼ねております。本日は念入りに準備させていただきますよ」

「ええ!だからほら、今日は顔に傷をつけないように注意したわ!」

「素晴らしいお心がけです」

クールなまま口元に弧を描くカロリーナに、今度はマテオが「とんだ棒読みだな…」と呟くと腕に強烈な痛みが走った。カロリーナがマテオの隣にスッと立ったかと思うと、リネッタに見えないように肌をつねりあげていた。


そんなやりとりはつゆ知らず、リネッタは宮殿へ足を運ぶ。

姿勢良く、堂々とした歩みであったが、その胸中は晴れやかではなかった。

———ついに会談の日が来てしまったわ。そろそろルナーラ王国の方々も到着する時間かしら…。

普段よりも慌ただしい使用人の動きを捉えて、不安が増していくのを感じる。

———ルナーラ王国との会談って、つまり、わたしの婚約の話なんじゃないの…!?

リネッタの不安の種は、まさにそのことであった。


家庭教師によって歴史や王族の仕事を勉強していくうちに、婚姻について学ぶ機会も勿論あった。例外は多々あれど、婚約を結ぶのは今のリネッタと同じ12の年前後であった。

家庭教師も「リネッタ姫様もそろそろこういったお話がきてもおかしくありませんよ」と微笑んでいたが、言い知れぬプレッシャーのようなものをリネッタは感じていた。

隣国との会談、と言い渡された時に真っ先に思い出したのが、条約締結とその証となる婚約の歴史だった。

リネッタには三人の弟がいる。ソレイユ王国の後継は、彼らが健康に育てば全く問題ない。となれば、リネッタの行き先はソレイユ王国にこだわる必要もない、むしろ姫として責任を持って、国外に行くこともあるだろう。

学びたての頃は、姫にそんな役割があるのかと知って、家族と離れてしまう寂しさにメソメソと泣いたものだ。今はそれ以上に、責任と重圧で胃が痛くなる心地がしている。

結婚そのものには、まだ12歳であるがゆえ実感はないが、夫婦というものは両親が良い例でいつも見てきたため知ったつもりではいた。果たして、これから会う王子と、両親のように仲睦まじく生活できるものかと不安だった。


周りに悟られまいとしゃんとしているうちに、湯浴みをして乾かされ、ドレスアップされ、髪を結われ、パンツスタイルの泥んこリネッタは、すっかりソレイユ王国のお姫様に変身していた。

コルセットのキツさが、不安で丸くなりそうな背中を矯正してくれてありがたいとさえ思えた。

「では姫様、向かいましょう」

カロリーナが真剣な眼差しを向けて言えば、リネッタはこくりと頷く。カロリーナは一歩下がり、代わりにマテオと、マテオの部下の騎士二人の計三人が、リネッタの背後を守るようにして立った。

カロリーナたち侍女数名は、その後ろに控えて連れ立つ。

来賓用に豪華に飾り付けられた赤い扉を開かれ、眩いシャンデリアに照らされた広い食堂がリネッタを迎える。

まだルナーラ王国の人々は部屋にいない。出迎える側として遅刻せずすんだことに一安心して、リネッタはすぐにソレイユ王国側の席に座った。

「リネッタ、今日は一段と可愛くしてもらったんだね」

「会談が今日でよかったわ…顔に傷がついていなくてよかった」

ソレイユ王国の王妃アマンダが何度も安堵のため息をついている。気を張っているのはリネッタだけではないようだ。

「今日はとにかく大人しくするのよリネッタ」

リネッタのハーフアップにされた髪の毛を再び整えるように撫で、王妃アマンダが勇気づける。王のレオも、大きく頷いてみせる。

「緊張はしますが、大丈夫です、父様、母様。粗相のないよう努めますわ…!」

リネッタが拳を握って決意を見せると、チリンチリンと使用人が鐘を鳴らした。

ハッとして姿勢を正す。

ルナーラ王国の人々が扉の前に到着した合図だった。


再び赤い扉が開かれると、部屋に入りこむ空気の流れを感じて、リネッタの体は寒くもないのに震える。王族の入場ともあって、連れ立つ騎士や執事などの足音が多数聞こえる。その音がリネッタの緊張感をさらに大きくした。ルナーラ王国の人々が向かいの席に並ぶと同時に、ソレイユ王国側も席を立って挨拶を行う。真正面に婚約相手となる人がいるかも知れないが、顔なんて上げることができなかった。


「豪華な食事に素敵な空間だ、お招きいただき感謝する」

ルナーラ王国の王・アレハンドロの声が低く響きわたる。自分の父とは違う威厳の増した重低音に、リネッタの肩が強張った。

「こちらこそ、遠路はるばる来ていただき感謝する。お疲れではないですか?遠慮なくお座りください」

レオの声色は柔らかく、この場の緊張感を緩和させるものだった。

ルナーラ王国の人々が使用人たちに椅子を引かれて席につくと、リネッタも両陛下に倣って、使用人が引いた席に座り直した。


その時ようやく、真正面に座る人物の顔を見ることができた。案の定、そこにいたのはルナーラ王国の王子であった。

藍色の深い海の色を思わせる髪は、サラサラと流れ、毛先は少しだけ跳ねて、重さを感じさせなかった。おさない顔立ちを残しつつも、瞳はまっすぐで真面目な印象を持たせるが、目尻が少し上がっていることで鋭さが付け加えられているようだ。整った顔立ちはどうやら彼の両親であるルナーラ王国両陛下譲りなのだろう。

同年代の同じ身分の男子と顔を合わせる機会はこれが初めてなリネッタは、どう振る舞うことが正解か分からず、どぎまぎした。


食事が進み、リネッタはうまくマナー通りにできたのかでいっぱいいっぱいで、味もわからないまま最後のデザートになっていた。

両国のトップであるお互いの両親たちはすっかり意気投合して、穏やかな会話が続いている。リネッタの緊張は続くものも、和らいだ空気に肩の力が抜けていくのを感じていた。


「さて、紹介が遅れましたな」

ルナーラ王アレハンドロの視線が、ルナーラ王子に向かう。王子は座ったままだが、姿勢を再び正し、挨拶をした。


「ルナーラ王国第一王子、シルビオ・ルナーラです。此度はお招きいただき改めて感謝申し上げます」


真面目な表情をしていたシルビオが、ソレイユ王、王妃、そしてリネッタと視線を移すと、にこりと微笑んだ。

真正面でそれを受けたリネッタは、心臓が大きく高鳴った。


「ご丁寧に感謝するよ。こちらも紹介しよう」

つい惚けてしまいそうなところ、父レオの声が耳に入って、リネッタも居直る。


「ソ、ソレイユ王国第一王女、リネッタ・マレ・ソレイユと申します!お会いできて光栄です…!」


緊張で思わず声を張ってしまい、注目される視線にバクバクと心臓が速くなるのを感じる。

「元気の良いお姫様だ」

ルナーラ王アレハンドロの微笑ましげな声色に、リネッタは気恥ずかしさを覚えた。隣に座るリネッタの母アマンダも似た思いを抱えて居るようで苦笑している。

双方の挨拶が済んだところで、食事も終わり、ついに会談の本題へと進んだ。


「貴国ソレイユと我が国ルナーラでの規定は前回の通り、内容に齟齬がないか確認をいただきたい」

「……うむ、間違いないだろう」

「この締結の証として、貴国の第一王女リネッタ姫様を我が国の次期正妃として迎え入れることを確定させたい」

人々の視線がまたリネッタとシルビオに集まる。

王族教育が進んでいる二人は、この婚姻に拒否権がないことも承知済みだった。

「寂しい話ではあるが、リネッタ、そしてシルビオ王子、よろしいかな?」

けれどあくまで二人の意思を尊重しようという両国の温情があった。レオ王が優しく二人に問いかける。

シルビオが真っ先に「ありがたい限りです」と返事をした。

「わ、私も、ぜひお力になれるのなら、喜んでお受けいたします」


言った。確定してしまった。

リネッタの実感が熱を帯びて足元から駆け巡るようだった。

つい、正面のシルビオを見つめてしまう。この人が、将来自分の伴侶となるのか、と、緊張とは別のドキドキを感じていた。

自分の両親のように仲良く過ごせるか、何よりも、自分がシルビオのことを愛せるのか、考えることは次期王妃として学ぶことについても山積みなのだが、それ以上に感情的な側面でリネッタはぐるぐると考えていた。


「当人たちの意思を確認したのでここで確定としよう。婚約に先駆けて、半年後、リネッタ姫様には我が国の王立学園に留学していただく。そこで我が国の文化や歴史を学んでいただき、同時に息子シルビオとの交流を深めていただきたい」

「は、はい!誠心誠意学ばせていただきます!」


こうして、リネッタとシルビオは婚約関係になった。

この日は会談のみでこれ以上の交流がなかったため、リネッタはシルビオの印象が会食止まりにはなったが、彼の眼差しや微笑みが好ましく、夢見心地のまま眠りについた。

半年という時間は一気に進んで、「いつでも帰ってきて良いのだからね」と、両親に勇気づけられてリネッタはルナーラ王国の留学生として旅立つ。

内陸のソレイユと違い、沿岸の地域が特に栄えるルナーラ王国は、たくさんの海岸を有していた。馬車で国境を超えて、首都の宮殿にたどり着いた時には、嗅いだことのない潮の香りに胸が躍った。


宮殿で、半年ぶりとなるシルビオと再会をすると、二人はやっと近い距離で対面することとなった。

すでにシルビオの身長はリネッタよりも数センチ大きい。きっとこれからどんどん離されていくのだろう。


「長旅でお疲れでしょう。ようこそリネッタ姫。どうか我が国ルナーラを好きになってくれたら嬉しい」

シルビオの表情は穏やかで、やはりリネッタの感じた好ましさが健在であった。ときめくのを抑えながら、リネッタも礼をする。

「末長く、よろしくお願いいたします。私のことはぜひリネッタとお呼びください」

「こちらこそ。……ではリネッタ。私のこともぜひシルビオと呼んでください。それに、できれば堅苦しくならず、身内に接する時と同じような口調で会話してほしい」

「……! では、どうかシルビオも」

「そうさせてもらうね」

「はい…!」


身内に接するように、と明言され、リネッタの心が軽くなると同時にシルビオへの好感度も上がった。

自分を快く受け入れてくれたことが、建前ではないのかもしれない、と安心したのだ。


リネッタは王宮の敷地内にある一番大きな屋敷を与えられた。ルナーラ王妃・ルシアから伝え聞いた話では、代々次期王妃が暮らす場所なのだという。

リネッタが自国から伴ってきたメイド・カロリーナたちや、騎士・マテオたち複数名に加え、ルナーラ王国からの使用人と騎士もその屋敷で共に生活する準備が進められる。

ルナーラ王国が新たに派遣した使用人たちもリネッタに優しく親身で、リネッタはすぐにルナーラ王国を好きになった。

王立学園への留学も、入学時期は他の1年生たちと同じであるため、交友関係に悩まされることもなくすぐに馴染んだ。

隣国で言語の違いもなく、新たに学ぶことといえば歴史や社会学くらいなもので、学園生活に苦労はなく過ぎていく。

シルビオと学園で共に過ごすうちに、リネッタはシルビオに完全に恋に落ちていた。

夫婦として仲睦まじくやっていけるのだろうかと不安だったリネッタはもうそこにはいない。

今はただ、良き配偶者としてシルビオを支え、願わくば彼からの寵愛も受けて幸せな家族になれればという願いしかない。


しかし学園に入って2年目のことだった。

リネッタとシルビオが共に14になった年である。

試験前にリネッタがシルビオを誘い、聖堂の隣に位置する図書館で共に勉強をしていた。


「ねえシルビオ、試験が終わったらマルネブに行きたいわ」

「マルネブは今観光シーズンだから人が多いと思うけれど、いいの?」

「観光シーズンだから行きたいのよ。朝焼けが綺麗だって聞いたわ。私……ぜひシルビオとその景色を見たくて」


リネッタからの猛烈なアピールだった。

朝を共にするということは、そういうことである。二人の間に婚約はなされているのだから、貞操に関しては問題がない……はずである。


シルビオがその言葉の意味を理解してか、押し黙った。リネッタが不安になって彼の顔を見ると、何を考えているのかいまいち読み取れない。

嫌そうでも嬉しそうでもなく、何かを考え込んでいる。

いたたまれなくなって、リネッタがつい大きめの声で遮るように声を上げた。


「わ、私ったら気がはやってしまったかも!とんだ破廉恥娘で申し訳ないですわ!あは、あはは!」

場を暗くしないようにおちゃらけて言ってみせるが、反応は依然として無。

どうしよう…と冷や汗が流れたところで「リネッタ」と、シルビオが口を開いた。

「は、はい!」

「誘ってくれてありがとう、嬉しいよ。でも……君にひとつ言わなくちゃいけないことがある」

「は………はい」

嬉しいと言ってくれたのに、この重い空気はなんなんだろう、と、リネッタは恐々とする。


「俺は、君のことは愛せても、一番好きになることはできないかもしれない。君を裏切りたくないから今伝えておくね。勝手でごめん」

「……………」


鈍器で殴られたような衝撃を受けた。

この2年間でシルビオにゾッコンになっていたリネッタは、静止する。

けれどもひどく申し訳なさそうにリネッタを見つめるシルビオを見て、ハッと我に帰ると、悲しいのはもちろんだったが、それ以上にリネッタは決意を新たにした。


「かもしれない、ということは、確定ではないのですね!」

「う、うん」

「ならば大丈夫ですわ、私、シルビオが私のことを好きになれるように頑張ります! その時はぜひ、マルネブで一緒に朝焼けを見ましょう!」


落ち込むかと思われたリネッタの張った声に、思わずシルビオが破顔する。

「ど、どうして笑うの〜〜」

「いや、ううん、ごめん。君ってそういう人だったね」

「本気ですからね」

「うん……そうだね。リネッタを一番好きになれたら、きっと幸せだろうな」


その言葉が本心なのか、それともリネッタへの優しい嘘なのか、その時は後者に思えて仕方がなかったリネッタは、その日部屋に帰ってわんわんと泣いた。

けれどもまだまだ婚姻まで時間はある。シルビオに言った通り、これから時間がかかったとしても彼の一番好きな人になれば問題ないのである。

リネッタの孤軍奮闘がその日から始まり、学園生活はシルビオを振り向かせるために頑張る日々に変化した。


そうして努力を続け、学園を卒業し、シルビオの気持ちの変化もわからないまま、月日が過ぎていく。

リネッタとシルビオが19になると、ついに結婚目前となった。

好きになってもらうぞ作戦の結果は不明で、結婚後も続く長期戦を覚悟していたリネッタだったのだが、この日、聖堂からの知らせで事態が一変する。


一番好きになることはできないかもしれない。


この言葉の意味を、リネッタはすぐ知ることとなった。

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