自然、既視感、懐古、そして。

うみつき

自然、既視感、懐古、そして。

 上高地行きのバスを大正池で途中下車をした。どうやらそこから一時間歩いて上高地まで行くつもりらしい。碧味がかったさながら湖のような池が視界に入る。岸に近い部分は完全に透明で、風で波立った部分のの影だけが揺れていた。おお、これはこれは、そう思いながら愛機を取り出す。f値いくつくらいかな、あー、あれから変えてないのか。とりあえずISOはなるべく下げるでしょ……それから……そうぶつぶつと心の中で呟きながら諸設定を弄る。とりあえずは、なるべくf値を絞ってシャッター速度を落とせば、まぁ、なんとかなるだろう。そう踏んでカメラを構えてシャッターボタンを押し込む。この、ファインダーをのぞき込んでいる時間と、構図を頭の中で作り上げる時間が、私はやはり好きなのだ。浮かんでは消え、消えては浮かぶを繰り返す空想の景色を形にする、この瞬間が。

 さぁ、撮れ高はどんなもんかな、そう顔をカメラから離して画面を覗く。一枚、二枚、三枚。どれもぱっとしないように見えて、一人唸る。いまいちピンとこない写真ばかり撮れてしまった。どことなく、バサバサとした艶のない水面が気に入らない。眼前にある美しい景色は、この画面の中の景色は曇って見えてしまう。ゴミ箱の絵が描かれたボタンを押し込んで、一枚、二枚、三枚。画面から画像が消えてゆく。もっと透明で碧い色を出したかったのだが、どうやら私の技量では難しいよう。もしくは、古いものなので機材のレベルが足りていないのかもしれないと逃げておこうと思う。

 さぁ、見る場所はここだけじゃないのだから急がないと時間が無くなるぞ、と急かされてゆるゆると足元の悪い道を歩きながら気になるところを写真に残していく。どうも私は、水という物質に惹かれる質らしい。雪解け水が湧き出る場所で立ち止まってしまう。ぶわりと頭の中を構図のパターンが駆け巡って、撮りたい衝動に駆られるままにシャッターボタンを押し込む。そのときには私の頭の中にはその構図の事以外なにもない。他のことを考えてしまうと消えてしまうから、無駄なことはもちろん、必要なことすら頭から抜けてしまう癖がついてしまった。漸く及第点のものが撮れたところで我に帰ってまわりを見回せば、大抵家族は随分と先を進んでいて見えなくなっている。急いで歩く人たちを抜かして走って追いつく。またシャッターを押しては置いていかれる…と言うことを途中まで繰り返しながら歩いていた。

 歩き始めて1時間程だっただろうか。体力のない私を見越してか、家族がそろそろ休憩をしようかと提案してくる。ありがたい申し出だったので、そのまま川の近くの日陰に腰を下ろして一息、息を吐き出す。もっと肌寒いことを予想して、この時期にしては着込んできたのだが、予想に反して日差しの下はそれなりに暑い。川の近くは冷たくて爽やかな風が吹いていて、随分と居心地が良かった。川に手を浸してはしゃぐ見知らぬ幼い子供たちが微笑ましくて、ぼんやりと優しい気分になりながら私は景色を眺めていた。

 こういう場所で、何も考えずに景色に身を任せることが、私は好きだった。自分自身がこの美しい景色に溶け込んでゆくような、ひとつになってゆくような。暑苦しい、この体を抜け出して一休みしているような気分になれるから。この場所に限定するのならば、川の流れる音、子供たちのはしゃぐ声、鳥達の囀り、そして何よりも、穏やかで、賑やかであるはずの中の、平穏な静けさ。

 不意に、どことなく懐かしいような匂いが鼻を掠めた。どこか心の底を擽るような、優しい風に混じる香り。この場所には、私は一度も来たことが無いはず。一応、と思って母に問いかけてみるが、答えは同じ。どうやら私は初めての場所に懐かしさを感じているらしい。随分と不思議なことだが、割と、私の人生の中ではよくあること。こうやって自然の中に入ると、偶にあるのだ。取り出すことはできないけれど、それでも、確実に私の魂の中の戸棚には置いてあるような、そんな。科学的に見れば、「デジャビュ現象」言葉にしてしまえば、「既視感」とか「デジャブ」とかそんな言葉なのだろうが、なんだかそうでは無いような気がしてならない。私は知っている、でも、思い出せない。ただそれだけのことのように見えるのだ。

 前世の記憶なのか、はたまたただの「既視感」なのか。私には判別がつかないけれど、多分、生きてゆくために、なにか必要なものなのだろう。私達にはきっと、思い出せない奥底の遺伝子の中に「自然」を故郷と定義付けるなにかがある。ここが故郷だ、と大声で叫べるようなものではなく、その概念自体が、故郷になるようなもの。

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