氷中硝子

おねずみ ちゅう

第0話『脚』

キッチンで鼻歌を歌いながら母さんが夕飯の支度をしていた。母さんが鼻歌を歌いながら、料理をしている時。大抵そんな日は、『アレ』だ。俺は期待を胸にキッチンを覗いた。りんごをすりおろしているのを見て、確信する。


「カレー?」


「そーよ」


俺の問いかけに母さんは得意げに答えた。


「わーい!母さんのカレー、大好き!」


はなだが喜んでくれるからカレーを作る日は、いつも楽しいわ。心露こころなんて、何作っても美味しいって言わないんだから」


そういって母さんは口を尖らせる。


「縹、冷蔵庫からカレールー取ってくれる?」


「うん!」


俺は、母さんに言われて冷蔵庫を開いた。

冷たい風が、顔を冷やす。夏の冷蔵庫を開ける瞬間は最高だ。

でも、ずっと開けていたら怒られてしまう。いつもカレールーが保管されているポケットをのぞいた。だが、そこにカレールーはなかった。

くまなく冷蔵庫内を確認するが、カレールーは見当たらない。


「母さん、カレールーないよ……」


「あら……切らしてたのかしら?」


「えー!」


「うーん。どうしましょう。このままシチューにしちゃう?」


母さんが困ったように首を傾げる。


「いーやーだー!」


地団駄を踏んで駄駄を捏ねる。カレーがいいのだ。今日はもう、カレーの気分なのだ。


「そうよね……母さんも今日はカレーの気分だわ」


「じゃあ、俺おつかいしてくるよ!」


ピシッと手をあげて提案した。俺ももう10歳だ。お買い物ぐらいいけるのだ。


「あら、ほんと?じゃあお願いしようかしら」


「うん!心露も連れてく!」


「そうね。夏休みだからって、あの子……家に篭りっきりだから、外出させないとね」


母さんは優しく俺の頭を撫でてくれた。柔らかくて暖かい母さんの手。


「よろしくね。お兄ちゃん」


「うん!」


元気よく返事をすると、俺は階段を駆け上り二階にある心露の部屋へと向かう。


「心露!」


勢いよく扉を開けて、呼びかける。

そこには、静かな空間が広がっていた。窓から吹き込む初夏の風が涼しげに薄いレースのカーテンを揺らす。蝉の声がミンミーンと小さく部屋に反響している。きっちり整えられたベッドの上に、姿はない。床に目をやると、目当ての人物はころんと寝転がって小さく寝息を立てていた。


そっと寝息を立てるひとつ歳下の妹の側に近寄り寝顔を覗いた。

まるで人形のように青白い肌が、窓から射し込む夏の青い光に照らされている。


好奇心から、その閉じられたふっくらと丸い瞼に触れようとしたその瞬間、心露がパチリと目を開けた。


「……なに?」


ぼーっとした、寝起きの声。


「お、おつかい!行くよ」


いたずらをしようとした矢先に心露がいきなり目を覚ましたので、心臓はバクバクといつもより速く動いている。


「……おつかい?」


「カレールーを買いに行くんだ!」


「一人で行けば?」


めんどくさそうに、寝転がったままそう答える心露。


「ダメ!心露は運動しなさすぎ!ほらっ!行くよ」


「ちょっ」


無理矢理、心露の手を引く。

夏休みに入ってからというもの、心露は家にこもりっきりで、ほとんど外に出ていない。その証拠に、日焼けした俺の腕と心露の腕はコーラとラムネのように全く色が違っていた。

心露は瞼をこすりながらも、しぶしぶ歩き出す。


スーパーは家から歩いてものの10分のところにある。店内は涼しく、歩いている間にかいた汗はすぐに冷やされた。


「えーっと、次は……」


メモを見ながら目当てのものを探す。


「カレールーだけじゃないの?」


「どうせならって、色々頼まれたんだ」


母さんの手書きメモを心露に見せる。そこにはびっしりと食材がメモされており、それを見た心露は大きくため息をついた。


「……ドラマ始まっちゃう」


「ドラマ?」


「刑事ドラマの再放送。昨日の続き。今日、犯人がわかるの」


そういえば毎日この時間になると、心露は自分の部屋から降りてきて、リビングでテレビを見ていたな。


「録画しとけばよかったのに」


そう俺が言うと、心露はブスッとした顔をした。


「買い物行くなんて思ってなかった」


「ま、今日は諦めるんだな。この量の食材を俺一人で持って帰るのは無理だ」


カートの食材を指すと、心露はさらに頬を膨らませた。

おお、怒ってる。

なかなか、感情をあらわにする心露は見られない。

いつだって、俺が先行して動き、心露は後についてくる。心露が自分の意思を強く見せる機会はほとんどない。

母さんや父さんに、なんでも買ってあげると言われても、俺が「変身ベルト!」とか、「機関銃!」などをねだるのに対して、心露は「アイス」だけ。

欲がないわけでも、感情がないわけでもないのに、その振り幅が、俺やクラスの子たちと比べて小さい。

小学校でも心露が友人らと遊んでいるような姿を見かけることはない。

心露の持つ独特な雰囲気と行動のペースは、きっと同学年の女子たちとは合わないんだろう。

だから俺は、俺しか知らない心露の感情が動くのを見られるのが嬉しかったりもする。


「なに笑ってるの」


「なんでもないよーだ」




本来なら二人で持つはずだった荷物を一人で抱え、スーパーからの帰り道を息を切らしながら歩く。

いくら近所のスーパーとはいえ、帰りは坂道。しかもこの大荷物だ。辛い。

様々な種類のセミたちが競うように鳴いている。セミの声が、暑さをより感じさせる。


「ぜぇ……ぜぇ……あのやろう……」


1時間ほど前、買い物の途中で心露がトイレに行ってくると言った。

あとはレジへ向かうだけだったので、そのままトイレ前で集合ということにした。会計を終えたあと、トイレの前でガチャガチャを眺めながら待っていたのだが、待てどくらせど、心露はトイレから出てこない。

三十分ほど経っても、出てこなかったので心配になり、トイレを覗こうとしたが、ちょうど出てきたお姉さんに不審な目で見られたので、またガチャガチャコーナーに戻った。

そこからさらに30分経過し、さすがにおかしいと思い、俺はサービスカウンターで女子トイレの様子を見てもらうように頼んだ。

スーパーの職員さんが、確認したところ女子トイレには誰もいなかった。

そこで、俺は初めて、心露がトイレに行くと言ったタイミングが、今帰ればギリギリ刑事ドラマの放送に間に合う時間であったことに気がついた。



息を切らし、玄関の扉を引くと案の定、鍵はかかっていない。

上がり框にスーパーの袋をどさりと置くと、リビングでのんきにテレビを見ているであろう心露に向かって叫ぶ。


「心露ー!なんで先、帰っちゃうんだよ!お前がトイレいくって言ってたからトイレの前でずっと待ってたんだぞ、一時間も!」


かなり大きな声で叫んだつもりだが、返事はない。ただ、俺の声が家中に反響するだけ。


おかしいな。

気味の悪いほど静かだ。

テレビの音も聞こえないし、俺を待っていたはずの母さんの気配も無い。

再び荷物を持ち上げ、リビングの扉を開ける。

やはり誰もいない。

ついていないテレビ。

机の上には二つのティーカップが置かれていた。ほとんど口をつけられていない紅茶は完全に冷めているように見える。

静寂。

締め切られた窓の隙間から忍び込んだセミの声が反響するだけ。


「心露、母さん…?」


ふと

セミの声に混じり、微かな水の流れる音が聞こえてくることに気がついた。

風呂場だ。

ただ音のする方へ導かれるように風呂場へ向かった。

廊下から風呂場の方を覗くと脱衣所の前に心露が呆然と立っているのが見えた。


「なんだよ、いるじゃん……。おいこら、心露!荷物、俺一人に持たせやがって!」


「……」


俺の文句の言葉も耳には入っていないようで、心露は扉の開いた脱衣所の中を凝視している。まるでマネキンのように、微動だにしない。


「心露?」


「……」


本当に聞こえていないみたいだ。


「どうしたんだよ」


心露の立っている場所へと一歩近づいた。

その瞬間、ツンと鼻をつく刺激臭を感じた。

今まで嗅いだことのない独特な匂い。嫌な匂いだ。


「母さん」


心露がぽつりとつぶやく。


「何見てるんだよ、心露?」


一筋の汗が背中を伝い落ちていく。

心露は目を脱衣所の中に向けたまま、首だけをこちらに向ける。

だがその目は俺を見ることができていない。

まるで眼球だけがあるものに、その情景に、釘で打ち付けられているかのように。


「心露、からかってるのか?」


「……」


「心露!」


不安と恐怖と沈黙を振り払うように叫ぶ。


「母さんが……」


「ああ、母さんな……。どこ行ったんだろうな。せっかくカレールー買ってきたのに。散歩にでも行っちゃったのかな?」


心露の舌は回っていない。その反面、俺は饒舌になる。言葉がスラスラと溢れ出る。


「……」


「心露が手伝ってくれないからだぞ?こんなに遅くなったのは」


舌は軽快に動くのに、俺の足はそれ以上動かなかった。


「母さんが……」


小さく、たどたどしく、言葉を紡ぐ心露のその大きな目に涙が貯められているのを見た瞬間、棒のようになっていた足はやっと動いた。無意識のうちに全身で心露の体を庇うようにぎゅっと抱きしめていた。心露の視界を遮るように自分の胸に顔を埋めさせる。

そして、ゆっくりと脱衣所へ目を向けた。

自分も見なければいけない。心露と同じ情景を。



青い光に照らされた白い彫刻から溢れ出て、とめどなく流れる赤。それらすべての色を洗い流すように、シャワーヘッドから水が降り注ぐ。

『女』の脚。とても美しい脚。その爪先からは水滴が滴っていた。『女』が脚をこちら側に向けて浴室に寝転がっている。

『女』の脚だ。確かに『女』の脚だ。それはわかる。大人の『女』だ。

だが、『女』が誰なのかがわからない。腰から下、下半身だけがこちらから覗けるだけで、シャワーの水が女の上半身をベールに包むように隠している。

でも、なんとなくこれだけは分かっていた。

この『女』は死んでいる。

蝉の声が一斉に止まった。蝉だけじゃない。周りの音も全て消えていた。ぐにゃりと風景が歪み、体のバランスを失う。次の瞬間、光も消えた。

頭に鈍い衝撃を受けると共に、世界が止まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る