亜美【五】

 そういった幼少期からの大切な思い出が、あの砂浜にはたくさん詰まっている。その中でもとびきり印象深いのが、高校三年生の夏祭りの夜だ。陽が沈み、集合時間はとうに過ぎているというのに、私はあの砂浜に姿を現さなかった。自分で誘っておきながらすっぽかしたのかというと、決してそういうわけではない。最初の花火が、ショーの開始を告げるスポットライトのように砂浜を照らし出したとき、私は智也と勇輝が所在なく佇む砂浜の手前の、鬱蒼とした松林の陰に身を潜めていた。

 目の前で花火が次々と上がっているのに、なぜそんなところに隠れていたのか。答えは簡単だ。私は会わない間にずいぶん変わってしまった。そんな浮薄で自分勝手な私に、何食わぬ顔をして二人の前に出ていく資格も、勇気もあるはずがない。私ができることといえば、松林から二人の様子を窺いつつ、再会を果たす頃合いをじっと見計らうことだけだった。

 突っ立ったまま花火を見上げる二人の背中を、ごつごつとした松の木の陰からぼんやりと眺める。三人ではしゃいでいたあの頃の感覚が少しずつ蘇ってきて、たまらず松の根方に屈み込んだ。胸中が何ともいえない甘酸っぱさでいっぱいだ。下唇を噛み締めずにはいられない。

 十五分ほど経って打ち上げが休憩に入ると、小気味好く賑やかだった浜辺はたちまち耳慣れた潮鳴りに沈んだ。智也と勇輝が、互いの冷たい表情を静かに見交わしている。しかし二人の視線は、すぐに沖の深い夜陰に泳ぎ、再び重なることはなかった。

「亜美のやつ、またかよ。俺たちだって暇じゃねえんだぞ」

 勇輝の苦々しい呟きが、真夏の湿っぽい潮風に乗って運ばれてきた。智也は向き直ろうともせず、依然としてどこまでも暗い海を眺め続けている。

「勇ちゃんは水泳部の部長だし、昔からモテるもんね。もしかして、女の子との約束をすっぽかしてここに来た?」

 勇輝は、智也のあけすけな指摘に憮然としているようだ。ということは、もしかすると図星なのかもしれない。

「あーちゃんにも色々あって、どうしても間に合わなかったんだよ。それに女の子だし、着の身着のままで出て来られる僕たちのようにはいかないんじゃない?」

「女の子? 俺たちと一緒に裸同然で泳いでたあいつが? トモだって覚えてるだろ。この浜でずぶ濡れになって馬鹿笑いしてたあいつの、色気の無さといったら……」

 勇輝の悪態を聞いた智也は、背を丸めて肩を小さく震わせている。どうやら俯いて笑いを堪えているらしい。昔の私なら間違いなく二人の間に飛んで行って、厳しい抗議の声を上げていただろう。でも私はもうあの頃の私ではないし、何よりまだ出て行けるような状況ではない。

 私は眼前の松の幹をぐっと摑んで、静かに深呼吸を繰り返した。勇輝とは高校生になってから一度も会っていないので、彼にとって私は未だに天真爛漫で小生意気な中学生なのだろう。しかし智也は違う。交流は無くても、彼とは学校で何度も顔を合わせている。彼は私がこの二年半でどのくらい成長し、もうどこから見ても子供ではないことを嫌でも知っている。その智也が勇輝と同じように私を子供扱いしたことは、私の胸に心外を通り越した、ある種の衝撃のようなものを与えた。

「──あのさ、あーちゃんはどうして僕たちを花火に誘ったんだろうね?」

 私が松林の暗がりで悶々としているうちに、話はずいぶん進んだようだ。智也の真剣な声にはっとして目を上げると、勇輝が智也の隣で軽く首をすくめていた。約束の時間になっても姿を現さない私を責めるというより、単に答えに窮しただけのように見える。その証拠に、勇輝はすぐに暢気な笑みを浮かべて、いつもの減らず口を叩いた。

「あいつ、強情なくせにすげえ寂しがりだからな。今になって俺たちと過ごした夏が恋しくなった、ってところじゃねえの? でもいざ会うとなると、寂しくて音を上げたことがカッコ悪くて出て来られない。いかにもあいつらしいな」

 戯けた様子の勇輝とは対照的に、彼と視線を重ねている智也は見たこともないような真顔になっている。あの温厚な智也が、笑顔の裏にこんな怖い顔を持っていたなんて、できれば知らずにいたかった。

 私がここ数年で大きく変化したように、彼だっていつまでも私がよく知っている彼のままではない、ということなのだろう。ただ、そんな当たり前の現実に出くわしただけなのに、どうしてこんなにも胸が締めつけられるのか。

「気づいてたんだ。あーちゃんが寂しがり屋だってこと。それならさ、学校が離れてからどのくらい連絡してあげた?」

「はあ? どうして俺が連絡すんだよ」

 そう言い捨ててツーブロックの短髪をがりがりと掻きむしった勇輝は、盛大な焚き火が消えた後のような寒々しい夜空に向かって深々と溜め息をついた。そんなことはどうでもいい、とでも言いたげな反応。白いスニーカーで足元の砂を蹴りつける落ち着かない態度。この話題に興味がないどころか、気になって仕方がない心の内がだだ漏れだ。

 幼少期から変わらない端正な顔立ち。すらりとした長身。幼稚園の頃から続けている水泳で培われた広い肩幅。そして、感情を隠す術を知らない純粋な性格。もしかすると勇輝だけは、二年半経った今もあの頃のままなのかもしれない。

 松林でうずくまる私は、自分の立場も忘れてそんなことにまで思いを巡らせていた。二人の様子を窺うことに飽きたわけではない。このときの私は、久しぶりに見た勇輝に淡い願望を抱いていた。彼だけはこの先も、ずっと変わらずこのままでいてほしい。そんな身勝手でわがままで独りよがりな願望が、一瞬で空気が入る救命浮き輪のように私の胸の中で膨らんで、波間を頼りなく漂う私を溺没から救ってくれるような気がした。

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