1章 官能的な夜の傷

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 放課後の誰もいない教室で、私を含めた女三人が机を囲って眺めている物は、時代を飛び越えてきたような、昔のゲームカセットだった。

 窓から生ぬるい風が吹いてきていた。心地よいとも、鬱陶しいとも感じない、存在価値のない空気の流れでしか無かった。暦は五月。春なんだろうが、やや感じる暑さがその季節感を帳消しにしていた。

 机にぽつんと置かれたゲームカセットを指さして、女の一人、秋光あきみつつぐみが面倒くさそうに口を開く。彼女は別に友人でもない。遊んだことはあるが、最近は私とは疎遠だった。

「そんな事を言われたって、覚えがないのよね……」

 秋光は、カセットに書かれた自分の名前を示していた。子供の頃に書かれたのだろうか。拙い字で「あきみつ つぐみ」と書かれていた。自分のゲームカセットに自分の名前を書くのは、当時なら別に珍しい訳では無い。

 彼女は上品に、椅子に座りながら、ため息みたいなものと一緒に、そんな難癖を口にした。この女子校の中でも、礼儀というものをわきまえることを自分のキャラクターにしているような女だった。その所作ひとつひとつが優雅だったが、同時に鼻についた。

 カセットはスーパーファミコンのものだった。今から三十年ほど前に発売された、つまりは私たちよりも年上の古のゲーム機、その専用ソフトだった。四角いとも丸いとも形容しがたいその外観の前面には、「イデアの日」というタイトルが示してあった。このゲームがRPGで、良いシナリオを内包した作品だということは、私も実際にプレイしたために知っていた。

 私の横にいたもう一人の女……変人の采女うねめ涼香りょうかが顎に手を当てながら、念を押した。

「秋光、本当に知らないの?」

「さっきからそう言ってるでしょ」秋光は頭をかいた。うんざりした様子で。「この字は私じゃない。ソフトは、多分私の昔持ってたものだろうけど、字は誰かが書いたのよ。私のノートと照合してみる?」

 秋光は鞄からノートを取り出して、机に置いた。図書委員で忙しくしていたところを呼び出した割に、自分の勉強道具をきちんと持ち歩くところが、この女の解せない所だった。

 ノートには「秋光つぐみ」。高校生離れしたような、形式的で角ばったような均整の取れた文字が、表紙に刻まれていた。きっと中身も、この文字の親戚みたいなのが、定規で測ったように窮屈に押し込められているのかもしれない。

 采女はノートの文字を確かめる。カセットのちょうど天面に書かれたその文字と、ノートの表紙は確かに別の人間が書いたように見えた。子供の頃に比べて、字が上手くなったとか、そういうタイプの違いではない。

「似せてはあるけど、微妙に癖が違うね。じゃあ、これは誰が書いたの?」

「知らないってば。私が昔にこのゲームを貸した奴じゃないの? そもそも何処から出て来たのよ、これ」

「何故かうちの部長が持ってたんだよ」

 采女は脚を組んだ。こうして顔だけを見ると、普通の女に見える。整えたポニーテールも似合っていた。にもかかわらず、それを台無しにするように、胸ポケットには変なサングラスを差して、時々はタバコのつもりなのか、そういう細長いお菓子を咥えて、時間をかけて食べていた。変人だと言われるだけあるが、それは外見だけの問題ではない。

「部長って、あの?」秋光は驚いたような顔をする。「私、あの人にゲームを貸したら覚えてると思うけど。普通に面識もあって、お世話にもなったから」

「うん。なんか部長は、人から秋光に返してくれるように頼まれたんだって」

「それがどうして今頃?」

「三年間ずっと忘れてたんだって」

 秋光は頭を抱えて呆れた。

「あの人にもそう言うところあるのね……いや、私たち凡人のことなんか、細かく覚えてないのか……」秋光は机に伏して、深く思い出す。「三年前か……確かに、誰かにこのソフトを貸したわ。あの時は…………そうそう、そこのあんた」

 秋光は、顔を上げて、私を示した。

「私?」

「そう、あんたの影響よ、津倉つくら真希まき……。あんたがこんな古いゲームを、同級生の間で広めてたのよね。だから、一時的な、ブームみたいになってた。私もそれに巻き込まれて、押し入れに眠ってた、お父さんのゲームを出して来て、それなりに楽しんだわ」

「あら。なら良かったじゃない」

「今、あんたたちに呼び出されてることで、その思い出が帳消しになったわ」

「だったら、もともと大した思い出じゃないのね」

 沈黙。

 采女はカセットを眺めながら、やがて口を開いた。

「そうだ。セーブデータならきっと残ってるよ。RPGでしょ、これ。なら、自分の名前を入れている可能性もあるよね」

「でもこれ……」秋光はカセットを見て言う。「データ、残ってるの?」

「案外セーブデータは、時間が経ってもそんなに消えてないもんだよ。さ、部室に行こ。そこに本体もあるから」

 私たちは教室を出て、文化部の部室棟へ向かった。大した距離じゃないから、道中はさして口を開かなかったし、別に私達は仲が良いわけではなかった。

 運動部が運動場で部活をやっているのが、通りがかりの窓から見える。威勢の良い掛け声が、ここまで響いてくるが、興味がない。吹奏楽部が何処かで演奏している音も聞こえる。でも、一切の興味がなかった。

 やがて、廊下を突き進んで、目的の部室にたどり着いた。表には、「eスポーツ部」と張り紙がしてあるが、実態はどう考えても違うだろう、と私は思った。

 部室の中では、件の部長が、一人でゲームをしていた。やや古いゲーム機で、縦スクロールのシューティングゲームだった。この人は、いつ見てもそんなゲームばかりをやっている女だった。

「おかえり、どうだった?」と部長が、首すらこちらに向けないで尋ねた。

「えっと、ちょっと問題があって」采女が、部室にあるゲーム機のセッティングをしながら答えた。「こっちのテレビ、使いますよ」

 ごちゃごちゃしていて汚い部室だと、はっきりそう思う。私も今日初めてここを訪れたのだけれど、あの全校生徒の憧れとも言える里内さとうち部長が、こんなところで古臭いゲームをやっているなんて、知らない人にはそんな想像すらできないだろう。

 中央にはテーブルのような机があって、そこにはお菓子とか、携帯ゲーム機とかそんなものも置かれていた。窓際には、レトロゲーム機が積まれていた。カーテンはピッタリと閉じられていて、当然、窓からはさして光なんて入ってきていなかった。あるのは、天井にぶら下げられた蛍光灯の光だけだった。

 采女はゲーム機のセッティングを終えた。ブラウン管テレビなんて、殆ど見たことがないのだけれど、この部屋にはそんな遺物が三つもあった。そのうちのひとつに、赤、白、黄色の三色の線を突き刺して、その先に繋がっているスーパーファミコンに、さっきの秋光の物らしいイデアの日を、采女は慎重に、そっと突き刺した。

「あんた」秋光が感心する。「慣れてるわね。私なんて、もう使い方も忘れちゃったわ」

「私、レトロゲームしか趣味がないんだよ」采女は言う。椅子にも座らないで、立ったままコントローラーを握った。

 起動すると、昔の音源らしい、くすんだような、懐かしいような音色の音楽が、いかにも荘厳だと言いたげに、勝手に流れ始めた。

 そうしてタイトル画面。イデアの日。九四年の作品。

 そういえば、こんな感じだったなと、私は画面を見て思いを馳せた。

「懐かしいわ」秋光。「初めてプレイしたのは、三年前……当時は中学生だったわね。シナリオが面白くて、そのことばかり考えていたっけ……」

「えーっと、データは……」

 采女がボタンを押した。タイトルから切り替わり、保存されたセーブデータを選ぶ画面になった。

 そこには、名前が入力されたデータがひとつ、そして空きデータがふたつあった。

 その名前を凝視する私。

「ことう」。確かにそう入力されていた。そう眼の前に出されると、なんとなく知り合いにいたような、いなかったような気がしてくる。

 采女は、秋光の顔を、振り返って伺う。

 当の秋光は、その「ことう」という名前を見たあと、苦虫を噛み潰したような顔をして、それからため息を一つ吐いて、舌打ちまで漏らして、ゲーム画面から目を背けた。

「ことう、って知り合い?」采女が尋ねる。「同級生にいた気もするけど、えっと、誰だったかな」

「知らないわ」冷たく、そう言い切る秋光。「そんな奴、私の知り合いにはいない」

「は?」私はたまらず口にする。「これ、あんたのカセットじゃないの? あんたがこの『ことう』に貸したんでしょ」

「知らないってば。もう聞かないで」

「そういうわけにはいかないでしょ。部長がその『ことう』から預かったってことでしょ。ねえ、里内部長」私は部長に言う。「ゲームを返してって頼まれたの、『ことう』さんで良いんですか?」

 部長はその名前を聞いて、ああ、その子だった気がすると返事をした。

「だから、何回も言うけど、知らないってば」三回目の知らない、を口にして、秋光は私達に背を向ける。「とにかく、そのカセットは私のじゃない。そんな名前の知り合いなんかいない。勝手に私の名前を、なんでこのカセットに書いたのかなんて、私は全く知らない。っていうか、気持ち悪い。だから、そんなのさっさと処分して」

「処分って……」采女が首を傾げる。「捨てるのは、気が引けるよ」

「じゃあ、あなた達にあげる。この部に寄贈します。里内先輩も、それでいいですよね」

 部長の返事も何も聞かないで、秋光は部室から逃げるように消えた。

 あとに残ったのは、煮えきらない思いと決まりの悪さだけだった。

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