夢、現

蛸田 蕩潰

夢、現

俺にはひとつ好きなものがある。

蝉の声だ。

俺が、差し迫る不定形のなにかにどうしようもなくなってしまって、胃の中身をぶちまける時、その吐き出したものの音の隙間を縫って聞こえる蝉の声だ。

普段はうるさくてたまらないはずなのに、この、指先の感覚が遠のくような気分の時ばかりはそれに、夢現の狭間で弾ける泡のような感じを抱くからだ。

そしてその泡の中には、いつも、ある情景が浮いている。

淡い淡い、俺とひとりの少女との、酷く優しかったひとときが、俺の瞼の裏、目の底に焼き付いているのだ。

俺とその少女が出会ったのは、数年前、俺が中学生だった頃の、ある夏休みだ。

その頃の俺の暮らしと言えば、そうだな、俺には、社会というものがぴんと来なかった。

学校も、家族も、とにかく色々な物事がだ、そして、それは夏というものが孕む魔物的なまでのアイロニーや単なる怠惰によるところばかりではなかった。

その頃は、きっと、こんなものは思春期ゆえのものであるから、いずれ失せていってしまって、意味も理由もなく虚無感に苛まれることなどなくなると、そう信じていた。

こうした日々の中で、フと、夜に、家を抜け出そうと、思い立ったことがあった。

それが強烈な衝動にまで成長するのにかかった時間は、刹那と言って差し支えないだろう。

かくして俺は、初めて、夜ひとりでの外出というものをした。

家族がみな寝静まった折り、いっとう静かに戸が閉まるよう努めて、腕時計と携帯端末といくらかの小銭を携えて、闇色に踏み込んだ。

夜の暗さが柔らかで安心できるものに感じられて、ただ足を進めることに集中する一時はなんとも官能的だった。

ぱたりぱたりと、サンダルの音が静かに響いていたのを覚えている。

そうして、俺はしばらく歩いた。

時刻は12時前だったか、あるいは日付が変わった直後だったかもしれない。

遠目に見た道端の自動販売機の前にはバイクが止まり、そのバイクの主であろう人物がコーヒーを買っていた。

それを見て、俺もひとつ気になって、缶コーヒーを買ってみた。

鼻に抜ける香りと、苦味と、酸味、それから、カフェインに思考が意識が洗われる感覚は、夜の散歩の非日常感も相まってか、悪くないと感じた。


携帯端末があるのだから、多少遠くまで行ってしまっても帰れるだろうと高を括って、俺は、知らない道を歩いてみることにした。

あるいは、帰るという意識が薄かったのかもしれない。

友達らしい友達もずっとおらず、家からもほとんど出ずに過ごしていた俺にとって、知らない道といえば小中学校への通学路以外の全てだった。

それから少ししてだった、道端の街灯のそば、ひとりの少女が座り込んで、電灯の部分にバチバチとぶつかる虫を見ていた。

彼女の目線は、確かなようで虚ろであり、瞳と強膜の境界線は不思議と曖昧に見えて、その様子はどこか神聖ですらあった。

薄い白い躰を覆うワンピースはこれまた白く、夜の闇色との対比がまた美しかった。

そんなさまに、惹かれて、俺は彼女に話しかけた。

これが、件の少女その人との邂逅だ。


「あ、のぅ」

「ん、なぁに?」

「なに、してるんです、こんな時間に」

「それは、きみもでしょう?いまねえ、むし、みてたんだぁ」

「あの、街灯に群がる虫ですか」

「そう、あのひかりめがけてとんで、ぶつかって、またとんでるむし」

「あれらは、なぜあんなにも、光に群がるのでしょうか、なにも、ないはずなのに」

「そうかな。わたしには、そうは見えないよ」

「といいますと」

「だってさあ、かれらは、めざすものをめざして、そのうえで、ぶつかってる、それでも、まためざしていく。それって、わたしたちがはたからみてるから、そのぶんには、いみがなくみえるけど、かれらにとっては、かけがえのないものをもとめる、あえぎなんだよ」

そう言って、電灯と、そこに群がって無軌道に飛ぶ虫の群れを指す彼女の瞳からは、今思うと、憧憬のようなものも感じられるようだった。

「……なるほど?」

「わかんなくても、いいんだよ。ひとはみぃんな、ひとりぼっちだもん」

そう言って、こちらを向いて微笑んだ彼女は、お世辞にも顔色がいいとは言えなかった、いや、生気がなかった、と言った方がいいだろうか、淡い灰色が揺れているような印象を受ける彼女は、その淡さを一層増していた。

「ひとりぼっち、ですか」

「うん、あたまのなかに、とらわれるかぎり、きみも、わたしも」

「そう思うと、なんだか、楽ですね」

「そうかな。わたしは、みんなとほんとうのいみで、わかりあいたいよ、きみともね」

「本当の意味で、理解しあえないから、今の人間には、共感という能力が備わっているのでしょうかね」

「かも、ね……ねぇ、きみさ、またここにくる?」

「迷惑で、ないなら」

「んへへぇ、きみがはじめてなんだぁ、よるにこういうとこにいて、わたしのはなしをきいてくれたの。だからさぁ、いまって、きみは、なつやすみ、なのかなぁ、そのあいだの、これるときだけでいいからさ、たまに、きてほしいなぁ」

「それなら、どうせ、ろくにやりたいこともない身なので」

「やったぁ!あ、つぎからは、けいごじゃなくていいよ」

そうして無邪気に笑う少女は、相変わらず生気がなかったものの、本当に無垢であるように思えて、なにか、俺がその時まだ感じたことのなかったものを感じた。

かくして俺は、頻繁に夜に抜け出すようになった。

家族にその事実が露見しかけたこともあった、警察の補導を受けそうになったこともあった。

それでもやめなかった。

この意思が本当に俺の内に生じたものであるのか疑わしいほどに、それは固かった。

単に、倦んでしまった日常から離れた非日常感のために、彼女のもとに通っているのだろうかとも思ったが、すぐにそうでないことに気がついた。

単純な話だ。

彼女と共にいるのが、楽しかったから。

俺と彼女は、互いに、名前も、夜に出歩いている理由も聞かなかった。

名前を聞かなかった代わりに、俺たちは名前をつけあった。

彼女は俺に、ゆめと名付けた。

俺は彼女に、うつつと名付けた。

日付が変わりかけてから、空が白みだすまでの数時間は、俺と彼女、ゆめとうつつの、誰にも犯せやしない聖域だった。

その数時間は毎回違う様相を見せた。

特段の熱帯夜に、ふたりでアイスを並んで食べた。

味気ないと感じてあまり好きでなかった、ものを食べるという行為も、うつつの隣であれば不思議と楽しかった。

俺の数少ない趣味だった詩作に誘ったことがあった。

俺がそれを嗜んでいた事はうつつ以外の誰にも言っていなかったし、作ったものを書き留めた紙は、そうした数時間後には燃やしていた。

けれどもうつつとの合作だけは、そうできなかった。

ふたりで海に行った。

夜の黒い海に浮く月を、掬いあげようとするうつつが、とても健気に見えた。

ただ楽しかった。


8月が、終わりに差し掛かる頃のことだ。

俺とうつつは、ある河原でこんな話をした。

「ねぇ、もうすぐ、ゆめのなつやすみも、おわるのかな」

「そう、だな。うつつの方は?」

「わたしのほうも、もうすぐおわるんだ……ねぇ」

「うん?」

「はじめて、あったときにさ。ひとはみんな、ひとりぼっちって、はなしたよね」

「そんなこともあったな」

「うん……でさ。あたまのなかに、とじこめられてるから、ひとりぼっち、なんだったらさ、しんだら、わかりあえるのかなって、おもうんだ」

「死ぬ、かい?うつつ、一緒にさ。うつつと一緒なら、俺は、どこへだって行く」

「うれしいなぁ、やさしいね、ゆめは。でもねぇ、わたし、ゆめには、しんでほしく、ないな。おかしなはなしだよね、しんだらわかりあえるかも、なんていってるのに、それにはんして、きみにだけは、いきててほしいって、おもっちゃう」

「うつつ……俺も、うつつには、生きていて、ほしいよ。君が、なにか、どうしようもなくなってしまって、終わろうとするなら、ついて行くけれどね」

「んへへぇ……くどいてるの?」

「い、いや、そんな、つもりで、言ったんじゃ、ないよ」

「くふ、ごめんねぇ、ゆめが、かわいくってさ……でも、ねぇ、ちょっと、こっち向いてくれる?」

「?うん」


俺が感じたのは、唇に触れる微かな冷たさと、柔らかさだった。

ちゅっ、そんな音がして、その時初めて俺は状況を認識した。

「ふぇっ……」

顔を赤くして硬直する俺を見据えるうつつは、俺の知らないものを感じているようだった。

その夜は、少し長かった。


夜が朝になりかけて、別れ際、うつつは、「ごめんね」と、そう言っていたように見えた。


それから、うつつは俺の世界から姿を消した。

初めてあったあの街灯の場所にも、ふたりで駄弁った公園のベンチにも、一緒に行った海にも、うつつは現れなかった。


少しして。

あるニュースを俺は耳にした。

うつつと同じ顔をした少女が、死んだと。

学校や家庭で、暴力があったらしいと。

思えば、うつつは俺といる時、光の元に出ることを嫌がった。

夜の闇は、うつつの黒手袋だったのだろうか。


ああ、うつつ。

俺が見据えられた稀有な実在。

君は俺の、うつつだった。

じゃあ、俺は、きみの、ゆめだったのかい。

きみは、あの夏というひとつの夢から、覚めてしまったのかい。

この頬を伝った雫は、まさに君のようだ。

光にきらめけども、地に落ちる。

星のようでも、あるなあ。

俺の空の、不動の星は、流れてしまったのだね。

であるなら、俺のこの、ぐちゃぐちゃの胸中も、今の君になら、理解して、もらえるのかな。

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