06
その途中、行き交う騎士達は慌ただしく、規律をもって動いていくのを静は眺めていた。
騎士達は捕らえた幾人の者達を連れて歩いている。その中にはせめてもの抵抗をしようともがき足掻く者が出てきているが、屈強そうな赤い服を着た騎士の一人に問答無用でその腕をひねり上げられていた。
「あまり見ていいものはありませんよ」
「そうなんだけど……」
あの屋敷にどれほどの人数の者達がいたのか。
騎士達に捕らえられている者達の他、オリヴィアがまとっていた侍女服を同じものを身にまとっている女性達の姿もあった。彼女達は捕らえられている様子はなく、騎士達に少々窮屈そうな馬車に順番に乗せられている。
静はルイスに腕を引かれながら順番に群衆の顔を次々に視線を向け、そしてようやく目当ての者の姿を見つけ足を止めた。
「静様」
行きますよ、と促すようにルイスが静の名を呼ぶ。しかし静はそれには答えず、その者、この屋敷の主である男を見つめた。
結局、最後まで男の名は分からないままだった。それが良かったのか、悪かったのか、静は分からない。
無様な姿だと静はその白髪交じりの金の髪を見る。地べたに項垂れるように座りこんでしまった小さい姿は、今まで見たあの威厳ある姿とは雲泥の差だった。
騎士達の中にアルベルトの姿があり、何か言葉を発している。だが、うまく聞き取ることは出来ない。その代わりにあの男がうわ言のように悲鳴に似た何かを発した。静は聞こえたそれに顔を歪め、腕の中にいる子狼が小さく呻った。
生き返らせたかった。会いたかった。それだけなのに。何故。神よ、愛娘よ、何故、奪ったのか。
死した人を求めた結果、これほどに打ちひしがれてしまい、まるで抜け殻のようになってしまうとは。
男にとって、娘という存在こそ、生きる全てだったのだろう。腕の中にいるネーヴェ――、ユフィアータの銀の瞳はまるで射殺さんばかりに鋭く、小さなうなり声をあげ続ける。本来であるならば怒るべきだ。彼女の聖女としている今、彼女を侮辱したとして怒りを覚えるべきなのだろう、彼女の為に。
神がいると言えば、いるのだろう。神がいないと言えば、いないのだろう。そう思って過ごしてきた静は、神という存在をどう見れば良いのか未だに分からなかった。ただこの世界の神は存在し、愛娘達も存在する。人の願いと祈りによって、彼女達は存在する。
ああ、気持ちが悪い。本当に気持ちが悪い。自分のものではないこの感情に、下唇を噛む。
胸の奥深くから、彼女の怒りを感じるのだ。彼女の悲しみを感じるのだ。彼女の恐怖を感じるのだ。
怒りを覚える。彼女の感情によって振り回される己が。そして彼女の怒り同様に、あの男に対して。
静はルイスに腕に抱いていたネーヴェを持たせた。突然の事でルイスが呆気にとられながらも素直に受け取り、ネーヴェも目を丸くして静を見上げていた。
「静様……?」
「少しだけ待ってもらって良い? やる事があった。ネーヴェも少し待ってね」
「は?」
一言ルイスに断りを入れた後、静は項垂れ打ちひしがれたままの男の元へ向かった。
迷いなく進む静に周囲にいた騎士達は僅かにどよめき、ただならぬ空気に道を開けていく。
「お前らどうした……って、聖女様?! ルイスは一体何を」
「待てとお願いしました。わたしが。少し用が出来たので」
「用って、あ、ちょっと」
アルベルトが止めるよりも早く、静は男の前に出て口を開いた。
「お前。もし、ユフィアータが、天の神たるアルカポルスが、あなたの娘を凍土から返したとして、あなたはそれで満足をするのですか」
男が一気に顔を上げ、静を見上げた。揺れる男の瞳を見下ろしつつ、静は続けた。
「あなたの娘のことなんぞ、わたしは欠片も知りません。さらに言うと返すということは絶対に出来ないわけですが。それを抜きにし、可能であった場合の仮定の話です」
夢物語。現実的に考えて、死者がよみがえることは不可能。しかし物語の中ではあり得る話であるほどに、人はそれを欲している。
静もまたそれを理解出来るし、一瞬ばかり夢を見る。だが心の底から望むことは一生ないだろう。
「あなたの娘を返したとし、それは魂でしかないでしょう。その魂のみの存在を、あなたは娘だと言えるのでしょうか。魂なんて人の目に見えないそれに、あなたはそれで満足できるのでしょうか。きっと出来ないのでしょう」
魂だけでは触れられない。だからこそ触れられるものが必要だ。
「だから入れ物となる肉体をどうするのでしょうか。すでに生前の肉体がどのようになっているか存じあげませんが、土葬であればすでに腐敗は進み、火葬であれはすでに灰になっていることでしょう。どちらにせよ、いれるものを変わりに用意する必要が出てくることでしょう。そう考えた時、人形にでも入れますか。老化しなければ死ぬことがない身体になるのでしょう。しかし、それはあなたの娘なのでしょうか。そもそも、それは人間として言えるのでしょうか」
老いることがなく、せいぜいあっても劣化があるだけの温もりがない存在。
言葉を続けていく度、男の焦点は定まらなくなってきていた。呻き、両手で頭を苦悶するように指を立て始めている異様な光景だ。
静は冷ややかな銀を向けたままに続ける。
「死ぬことがないということは、あなたは娘を置き去りにして凍土に眠ることになるのでしょう。身勝手にも取り返したがゆえに、娘をひとりぼっちにさせる可能性もありますね。それでは他人の身体を乗っ取りましょうか。似たような娘を捕まえ、殺し、そこに魂を入れる。それでは殺された娘はどうなるのでしょうか、その親はどうなるのでしょうか。きっと貴方と、そして娘を殺しに行くのでしょう。業が深いこと間違いなしですね」
夢物語は夢だからこそに成り立つ。夢は夢。現は現。ここが現である以上、泥土と血にまみれたその結末を夢のままで終わらせなければならない。
呻く男は何か、言葉にならない何かを発していた。けれども聞き取る事は出来ない。
周囲の騎士達、そしてアルベルトが提げている剣の柄に手を添えているのが見えた。誰もが静に視線を向けて、いつでも動けるようにと緊張感が周囲に漂っている
静は内心悪い事をしているなという自覚はあったが、それでもどうしても、胸の内に膨らむ怒りを止めることはできなかった。
「破綻しかない先に、一体どんな幸せがあるのでしょうか。生き返りをしたとき、人々は娘を化け物と呼ぶと考えなかったのでしょうか。恐ろしい存在だと恐怖するとは思わなかったのでしょうか。それともあなたは、化け物を作りたいのでしょうか」
男の喪失はきっと大きなものだったのだろう。静はその喪失がほんの少しだけ分かる。確かに静は目の前の男ではないし、子もいなければ恋人なんてそもそもいたことすらない。けれども家族はいる。前までは静含めて三人だったが、今は二人となった。
完全に理解出来ているとは思わない。しかし家族を喪ったことだけ、それだけは理解出来た。
それでも、この流れてくる彼女の感情は確かで、薄らと気持ちが悪くて、男の望みそのものに対して静は確かに怒りを覚えた。
「あなたの満足の為に、あなたは、あなたの娘をもう一度死なすのですか」
生きるとは死ぬことだ。生き返るとは、また死ぬことだ。
「あなたはまた、娘を死なすのですか。もう一度、恐ろしい死へと叩き落すつもりなのですか」
男は違う、違うんだとうわ言を呟いて両手で顔を覆い、呻くのを止めて地べたに額がつくほどに項垂れた。
静はその場に片膝をつき、男の耳に届くようにうっそりと言葉をつづけた。
「違う? 何一つ違わないでしょう? けど良かったですね、愛する娘を殺さなくて」
わざと、笑って言えば男は獣のような咆哮を上げ、静に襲い掛かろうとした。
静は冷静にその男を見据え、顔面に鋭い拳を食らわせる。
変な砕かれるような音がしたのは、きっと鼻の骨が折れてしまったのだろうなと思い、殴った方の手に痛みを感じながら立ち上がった。
それにしても、ずいぶんと久しぶりに拳を振るっては見たが綺麗に入るものだなぁ、なんて他人事のようにひっくり返ったまま動かない男を静は見下ろした、しばらく動かない様子を確認した静は、うん、と小さく頷いた。
「よし、終わりました。すみません、お邪魔して」
「は?」
「静様……!」
「ネーヴェを預かってくれてありがとう、ルイス」
あっけに取られたままのアルベルトの横を急ぎ通り過ぎ、ルイスに預けたネーヴェを抱えようと腕を伸ばせば、逆に手首を掴まれた。
「治療が先です」
「大丈夫だよ」
「いえ。オリヴィア、治癒を」
「分かっているわ。もう、びっくりしましたよ。いきなりあんなこと。ほら、隊長、しっかりしてくださいって!」
「あ、ああ。おい、連れていけ。ってオリヴィア、淑女が足を使うなって」
「もう淑女ではありませーん。ああもう、こんなに手が震えて……」
オリヴィアがすぐに駆け寄り、両手で静の手を包むように掴むと淡い白い光に包まれた。見た通り光は温かく、優しく、ほんの少し痒かくなって静は耐えるように眉間に皺を寄せた。だが、まさか手が震えているとは今の今まで気づけなかったことにより眉間の皺を深めた。
その間に、オリヴィアは長く細い足を使って、アルベルトの気を取り戻させようと器用に小突いていた。
「にしても……いきなりあんな」
「すみません、急に割って入って、ついでに邪魔してしまい」
「いえ、そのことではなくて……その最後のあれと言いますか」
怒っている様子の無いアルベルトはまだ先ほど静が行ったことに動揺を隠せずにいる様子を見せていた。
「そうですよ、静様。最初の方は、ああ諭させているんだなぁって思ったら、顔面に拳いれちゃってるんですもん。正直、あれは良い拳でした」
「うまく入って良かったよ」
「けど怪我したら駄目ですよ。もうちょっと我慢してくださいね、痒いってことは治っているってことですから」
「分かった」
オリヴィアの両手から発せられるこの光は、どうやら治癒の魔術だという。道理で先ほどまでの痛みがすぅっと消えていくはずだ。
静は素直に頷き、されるがままで待ちながら周囲に目を向ければ、男はちょうど両脇にいる男達に抱えられ、まるで牢獄のような馬車へと乗せようとしている所だった。
それを無感情で眺めていると、オリヴィアの手が離れ治癒が終わったことに気付いた。
「ありがとう」
「いいえ。けど静様は女性なんですから、傷作っちゃだめですよ。手の震え、もう大丈夫みたいですけど……。無理は駄目ですよ?」
「善処します」
曖昧に静が答えると、オリヴィア少し頬を膨らまして納得がいかなそうにした。
傷に関してはつまり当て方の問題だ。多少のやりようはある。だが、この訳が分からない手の震えに関しては今までにないことで、静は絶対とは言えなかった。
「もうっ……! けど、なんでいきなり殴っちゃったんですか? 危ないですよ」
「いや、殴りたくて」
「静様、ちょっと聞き間違いか何かが聞こえた気がするのですけど」
「殴りたくて殴る理由無理やり作って殴りました」
オリヴィアはアルベルトに視線を向け、アルベルトはルイスに視線を向ける。そしてルイスはネーヴェを器用に片手で抱えたまま、また目元を抑えていた。
「俺を見ないでください」
「いや、お前。一応ほら、侍従として潜入していたわけだろ? 俺よりも分かっている……はず?」
「分かりませんが? それを言うならオリヴィアもそうです」
「え、ルイスの方が分かっているでしょ? たぶん」
「あの、それよりネーヴェをそろそろ返してもらっていい? ん、ありがとう」
静はルイスからの強い視線を受けながら、無事にネーヴェを受け取った。ネーヴェはまるで心配したと言わんばかりに、きゅうきゅうと鳴きながら首元に頭を押し付けてきた。
ごめんという意味をこめて、柔らかな毛並みを撫でつつ、うぅんと静は小さく声を漏らした。
「その、ですね? わたしは別にあれが最終的にどうなろうとか知ったこっちゃないわけですよ。ただその、わたし、結構短気というかなんというか……つい?」
やんちゃしていた時の血が騒いだとも言う。
三対からの視線の耐え切れず、静はそっと銀の瞳を逸らした。
「あ、やっぱり駄目でしたよね……? そうですよね、いや、さすがにやばいなっていう自覚はしているんですよ、一応。けどこう、腹が立ってしまって……。けど殴るにしても理由作りたいし」
「その前に静様、あの男に監禁されていたじゃないですか。それで十分な理由になりますよね」
オリヴィアがそう言うも、静は困ったようにきゅっと眉間に皺を寄せた。
「……それはそうかもですけど、ある意味では助かった部分もあるし。監禁はあれだけど、ご飯美味しかったし」
「甘いです! 確かにあそこの食事は大変美味しいものでしたけど! しかも服の趣味とか完璧でしたし!」
「服はちょっと無理だな。でね? だからわたしとしては、監禁されていたことについてはあれこれ考えるのは面倒だから終わった事として考えていてね? ある意味では助けてもらったし。だからどうでも良い……って言い方が良くないか」
確かに監禁はされていた。しかしそれだけだった。ある意味では飼い殺しに近い環境なのかもしれないが、身に危険を感じるということは、多少の脅しのようなもの等々はあったが、それでもほとんどなかったに等しい。
あの男の目的に対しては、今思い出しても腹が立つ。が、やはりその程度だった。そして他に関しては、もはや静にとってはどうでもいいことだった。
生きている。生きて、またあの三人に会えるのであればなんだって良い。
信じられないと言わんばかりにオリヴィアが目を丸くし、口を何度か開閉するのが窺えた。しかし何も言葉を発することは無かった。アルベルトに至っては強面な顔をさらに険しくさせている。
「赦すと、言うのですか。静様は、あの男を」
ルイスが問う。冷ややかな、夜の森を思わせる深緑に、月を光を映した銀が応え、困ったように笑った。
「違うよ、ルイス」
どうでもいい。心底。それこそ赦すとか、赦さないとか、そういう話ではない。
情なんて無い。湧きやしない。ほとんど話さず、関わらず、何故か抱いてしまう恐怖心ぐらいしかない。唯一あの目的だけ。たったそれだけが静の心を揺るがせ、怒りを湧き上がらせた。だから物理的に殴って収めた。
たったそれだけだった。
「何も、あの男に対して何もないんだよ。ただ、あの男の願いに対して暴力で納めたかった。そういうクソなことをした奴に、赦す赦さないなんて烏滸がましいよ。けどあえて言うなら、赦す他ないでしょう? ああいう願いは誰だって抱くもんだろうし。やり方はクソだろうけど」
「静様、もう少し言葉の選び方を慎重になさった方がよろしいと思いますが」
「善処します」
クソは駄目らしい。
静は直す気がさらさらにない返答をすれば、それはそれは大きなため息をルイスからもらった。
「隊長。静様を馬車の方へお連れしてもよろしいですよね」
疑問形ではなく、ほぼ報告の形に近い言い方をするルイスに、アルベルトは一瞬遅れて頷いた。
「……ああ、頼んだ。オリヴィア、持ち場に戻れ」
「了解です。その、静様」
「うん?」
「……短い間でしたが、楽しい時間ではありました」
「わたしも楽しかった。またね」
「はい、また」
ぱっと、月明りでも分かるほどに美しい笑顔を浮かべたオリヴィアは胸元に手を当てる仕草をした後、数度瞬く間に暗闇に姿を消した。
「それでは聖女様、私もこれで失礼をいたします」
「はい。ありがとうございます」
最後、救出してくれた礼を言う静に、アルベルトは無言で先ほどのオリヴィアと同様に胸元に手を当てる仕草をしたのち、そっと音なく暗闇に溶けていった。
周囲はいつの間にか明かりは消え、人影はほとんどなくなっていた。
残された静はルイスを見上げる。
「静様、暗いのでお手をどうぞ」
「あ、うん。お願いします」
月明りがあるとは言え、流石の暗さに静は迷わずに手を添える。大きな掌は最初、本当に添えるかのように包んでいたというのに、今回ははっきりと確かに握られた。
「……いや、もうやらないって」
「さすがにこの暗さは転ぶかと思いますが?」
「あ、はい」
確かに、ちゃんと握ってもらわないと確実に転んだ時に痛い目に見るのが目に見えた。しかも転んで大きな被害を被るのは抱いたままのネーヴェである。それは確かにちゃんと握ってもらわなくては。
「どこにあるの?」
「少々離れた場所で待機させています」
「そっかぁ。遅れさせてごめんね?」
「謝るくらいならば、しなければ良かったのでは?」
「それはそう。けど殴りたかった」
「……どうでも良いとおっしゃられていたではないですか」
「あの願い以外は、どうでも良い……。っていうと、こうして助けられている以上、どうでも良いって言っちゃ良くはないか。ごめんね」
「何故謝るんですか。我らもまた、おそらく守るためにあの男と似たようなことをするかもしれないというのに」
「え、けど、気分悪くならない? うぅん……文化の違いっていうやつなのか?」
ぽん、ぽん、ぽん、と道すがら言葉を打ち返していく。やはり文化の違い、世界規模での常識の違いと言うのもあるのかもしれない。そう、例え静自身が、ちょっとばかり人を信用しすぎる節があったとしても、きっとそういうことだろうと決めつけた。
そうして進んでいくうちに、大きな草木の影に隠されていた二頭立ての馬車がいきなり姿を現した。
わぁ、馬だ。という感想よりも、なにやらこの月明りでも豪華な装飾が分かるほどの馬車に、静は若干引いた。
「……これ?」
「聖女様が乗るものだからと、神殿側が用意を」
「……そう」
深緑の瞳は少し遠くを見ていて、何となく大変だったことを静は察した。
ルイスは静の手を一度離し、ずっと待っていた御者に声をかけた。御者の姿は良く見えないが二人いるようで、聞こえてくる声の調子から待たされたことに対する不満よりも、無事に静を助け出せたことによる安堵の方が大きいようにも聞き取れた。
一人、御者席から降りる。手早く馬車の扉を開け、乗りやすいようにと小さな台を置かれた。
静は一瞬戸惑いつつ、まずはネーヴェを中へと降ろす。中を見れば品のよさそうな装飾の他、クッションが幾つもおかれており、おそらく座り心地は素晴らしいものだろう。
さて乗らなくては、と静はルイスに振り返る。
「静様、どうかされましたか」
「……え、わたし一人で?」
「はい」
「ルイスとはここでお別れ?」
「そうなります」
当然のように言うルイスに、静はほんのりと胸の内がきゅっとなった。それが何か、何故今そうなったのか分からないが、そう言われてしまっては仕方がなかった。
ルイスはオリヴィア同様に騎士の一人で、あの屋敷に潜入し、そして偶然静の侍従になった。否、そういう風になるように動いていたのかもしれないが、それでもあの過ごした時間はなかなかに楽しいものだった。
「そっか」
うん、と静は頷く。
「ありがとう、いろいろと。またね」
ルイスは答えなかった。代わりに、その場に片膝をつき、胸元に手を当てる仕草を返した。
木々の合間から振る銀の光が、艶やかな黒髪を照らす。深い森と同じ深緑は僅かに細まり、ほんのわずか、口元が緩んでいたように見えた。
時間が、そこだけ止まったような感覚だった。
一枚の絵のように美しい光景に、静は目を奪われかけた。
胸の内がきゅっとおかしな感覚に陥りかけ、慌てて目を逸らした静はようやく場所に乗り込んだ。
静が乗り込んですぐに扉は閉められる。カーテンで閉められた中は暗い。だからカーテンの開けてみれば、ルイスはまだそこにいた。もうすでに立ち上がってはいたが、顔をのぞかせた静にすぐに気づいたようでまた、胸元に手を当てる仕草をした。
静は応えるように小さく手を振る。
鞭がしなる音がし、次いでぎぃと音とたて、馬車の車輪が動き出す。馬車は少しずつ少しずつ速度を上げ、あっと言う間に姿が見えなくなり、暗い森の風景へと移り変わった。
想像していた倍以上揺れる馬車に慌てて座り、足元にいたネーヴェを抱きかかえる。
「……ねぇ、ユフィアータ」
『どうした、静』
銀の子狼が優しく名を呼んでくれる。
「会えるかなぁ、また」
『願えば良い。そうなるように』
「うん、そうだね」
薄暗く、大きく揺れる馬車の中、静はまた会えるようにと願いながら目を閉じた。
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