have been losing,

カムリ

have been connecting,

 ネットで自殺と調べても、死なないための方法しか載っていない。


 小遣い稼ぎにYouTubeを始めた精神科医の胡散臭い啓蒙動画や、

 自慰をした後のちり紙より無価値なコールセンターの番号や、

 存在しない「頼れる人」への相談を呼びかけるニュースサイト。


 都築つづきは世の中に不必要なのに、誰もとどめを刺してくれなかった。

 わかっている。世の中はどうでも良い人間を処分するほどに暇ではない。

 ただ、規格を満たさなかった人生は存在しないことになるだけだ。

 

 彼はスマートフォンを枕元に置いて、ベッドから起き上がる。

 まずはトレーニングウェアに着替えて、家のまわりを五周走った。

 シャワーを浴び、コンビニのおにぎり二つをしっかりよく噛んで食べて、

 そのあとドアノブにネクタイを結びつける。

 結び方は不格好なこま結びだ。

 がたがたに歪んだ輪っかに、そっとじぶんの首を通す。


 首吊りに適したロープの結び方ハングズマン・ノットを知らないのが都築一つづきはじめという男だった。

 根本的に頭がよくないからだ。スマートフォンの検索機能すら満足に使いこなすことができない。中世の首吊り刑で採用されている縄の結び方を調べることも、体重を支えられるほどの強固な結び方を検索することも思いつかない。

 

 都築はネクタイの輪っかに首を通したまま三和土たたきにしゃがみ、

 うさぎ跳びのように跳躍した。

 同時に、水泳選手が壁面を蹴ってスタートするときのように後方へ足を突き出す。

 支点となった頸椎に都築の全体重が荷重され、気道が遮断されたところで、

 次の瞬間には、床が都築の顔面を強打していた。

 なんで、と思ったときにはもう、鼻の奥からせり上がって来る鉄臭い匂いを止められない。鼻血が出ていた。

 呆然としてドアノブを振り返ると、ほどけたネクタイが玄関に転がっている。

 また失敗した、と都築は思った。


 現在完了進行形という英語の文法が存在する。

 過去のある時点から現在までずっと継続している物事を表す時に使用され、

『have+been+現在分詞(ing)』という形で記述される。

 都築の人生はずっと現在完了進行形だ。生まれた時から負け続けている。自分の人生について振り返るとき、都築はいつも現在完了進行形のことを思い出す。勉強は全くできなかったが、自身の人生に馴染み深いこの文型だけは覚えていた。


 比喩ではなく、都築の出生は実際に失敗から始まっていた。

 もともと彼は――彼ら・・は兄弟として生まれて来るはずだったが、上の兄が死産だったため、結局都築はおまけとしてこの世に生を享けることになったのだった。

 のちに、流産された兄は母の不倫によって授かった子であることが判明したため(母に托卵した相手は父よりもよほど社会的に優れていた)都築は結局「失敗した方の」子として父からも母からも疎まれることになった。

 だから生まれてきたことがそもそもの失敗だったと都築は考える。


 自分の代わりに兄が生まれていれば皆が幸せになれたのに。


 そう思われることが都築はたまらなく恐ろしかった。

 せめて、兄に恥じないような人間に、まともな人間になろうと都築は努力した。


 そして、当然のように都築の人生は上手くいかなかった。

 全てのことで人に劣っていた。自分の力で掴み取ったものは何もなかった。

 どんなに努力しても徒競走はビリで、図工の時間では絵を見せると教師に苦笑いされた。成績は下から数えた方が早い。もちろん、友達も一人もいなかった。

 失敗を繰り返して砂利のように粉々になった自尊心。劣等な能力に根付いた卑屈さは、都築からあらゆる人を遠ざけた。

 中学になっても、高校になっても都築は失敗し続けた。

 

 頭が悪いとは、人生のあらゆる選択肢で損をし続けるということだ。

 解決策を考えられないため、人を頼ることもやり方を変えることもできない。

 休み時間は机に突っ伏して、交友を温めることも努力を重ねることもない。

 上手く人に物事を伝えられなくて、進路指導では匙を投げられる。

 担任の教師も目の前の生徒が人生に意義を感じていないのは察していたのだろう。 

 投げやりに勧められたビル管理の清掃員に、都築はそのまま就職した。

 

 それから、担任の伝手で清掃員を務めて五年が経つ。

 当然効率は悪いままだ。最初のうちは優しく教えてくれていた先輩も、都築の覚えの悪さを目の当たりにすると、何も言わずに距離を置くようになった。

 毎日小汚いビルの床にのろのろと箒をかける。尿のこびりついた小便器を磨く。

 『おにぎり二つで五十円引き』のクーポン付きレシートだけ懐に入れて、残りの可燃ゴミは回収所に持っていく。

 昼休みにはコンビニで買ったおにぎりを食べ、残りの時間はずっと寝る。

 それを面皰の目立つ年下の上司に叱責され、『指導』と称して大量の事務作業を押し付けられる。


「都築さんさ。あのさ、そろそろそういうの止めた方が良いんじゃないかな。もうこの職場五年だよね? 別に皆と仲良くしろとは言わないけどさ、最低限のコミュニケーションは取って貰わないといざって時に意思疎通できないわけだし。後、誰とは言わないけど都築さんの仕事遅いって皆から苦情も来てるわけでさ。普段皆と話して、自分はこういう原因で仕事ができないんですって言ってないからそういう事態になっちゃうんじゃないかな。もちろん俺のマネジメントが悪い部分もあるだろうから、そこは改善しなきゃいけないけどね。でも、そこら辺は自分でもわかるでしょ? 俺より年上なんだから。パワハラだって受け取って貰っても良いけど、これ都築さんの為に言ってるからね」

「すみません」

 

 都築は噛み締めるように呟いた。

 上司の通りだと思ったからだ。全て、自分の能力が足りないせいだということだけは理解できる。

 都築は『指導』を甘んじて受けた。業務範囲外の事務作業を黙々とこなす。

 残業代など出るはずもないし、チェックしてくれる人員もいない。

 そもそも、『指導』に論理的な整合性など何もなかった。

 都築を一種の掃け口にすることで、職場の人間関係は円滑に成立していた。


 『指導』を受け始めてから三ヶ月で、まず都築は眠れなくなった。出社前に毎日空っぽの胃から胃液を嘔吐するのが日課として追加された。

 手足の痺れや動悸も激しくなり、ときおり目眩にも襲われた。

 体重は落ち、体力と判断力が著しく低下した。そのため仕事の能率も下がり、上司からの叱責は更に激しくなった。

 あまりの苦痛に医者にも通院したが、ここでも都築の能力のなさが露呈した。

 自身の置かれている環境の異常を正しく述べることができない。どこが痛むのか、どこが苦しいのかという説明も要領を得ない。

 そもそも、適切な医療機関を選択し受診する判断力も欠けていた。

 結局、お仕着せのようなカウンセリングを経て、形ばかりの睡眠剤と精神安定剤を処方されることで都築は解放された。


 今の職場から抜け出すべきだと都築も薄々理解していたが、辞めたところでどこに行けばいいのだろう?

 今の企業でさえ、担任の口利きで辛うじて入社することができたのだ。なんの能力もない都築が『まともに』生きることはあまりに厳しかった。


(それでも、まともに生きたい)

(せめて、自分を産んでもらって良かったと思えるように)

(まともになりたい)

 

 その思いとは裏腹に、最近わけもなく車道に踏み入ったりすることが増えた。高所から身を乗り出すことも多い。恐らく限界を越えた精神が全てを終わらせたがっているのだと都築は認識している。

 とどのつまり、白昼夢を見ているような感覚があった。しかし、結局のところ自分は何もかもをしくじってきた人間だ。自殺ですら満足にかなわず、こうして今日もなんの意味もない人生を生きている。


 ある日ビルの床を見つめると、都築の目には一本の線が見えた。糸くずのような、ほつれて弱々しい線。生まれた時から現在に至るまで、都築の人生を臍の尾のように紐引く線だ。線?

 都築は思わず自分の目を疑う。

 だが次の瞬間、


「こっちだよ」と男の声が聞こえた。


「誰だ」


 思わず都築は箒を取り落として、その線を追いかけていった。フロントの自動ドアを抜けて、外に出る。肌を刺すような熱気が一気に襲い掛かり、ぶわりと汗が浮かんだ。スーツ姿のサラリーマンとすれ違いながら、歩みは少しずつ早くなっていく。酷暑のため、

 そうして線に引かれて辿り着いたのは、職場に近い公園だった。

 連日の猛暑のためか、人通りは極めて少ない。そもそも平日の昼間にわざわざ公園に足を運ぶ人間もいない。


 ほつれた線は古びた滑り台の佇む広場を抜けて、コンクリート造りの公衆便所に続いている。

 息を整えて都築は便所の建屋内に足を踏み入れる。便所の中は蒸し暑く、芳香剤と便臭の入り混じった匂いを漂わせていた。敏感になった副交感神経が腸を刺激し、都築はまた嘔吐した。

 喉が焼けるような熱と共に、薄黄色の液体がぴちゃぴちゃと便所の床に吐き出される。

 ようやくシャツの袖で口を拭った頃には、もはや自分が何をしたかったのかも良く分からなくなっていた。


 『こっちだよ』という声に、不可解な線。

 明らかに幻聴と幻覚だ。判断力が低下して、職場を無断で放棄してしまった。このまま帰れば、恐らくは解雇されるだろう。元々失敗続きの人生だったが、ついにまともな人間になることすら望めなくなった。

 「失敗した……」

 都築の劣った思考能力では、その意味を正しく受け止めることすらできない。ただ失敗したという認識が呪詛のように耳許へささやき続けていた。 


 だから、その声に気付くのにも少し時間がかかった。


『おい』

「失敗した、失敗した」

『おいってば』

「失敗を……」

『人の話くらいまともに聞かんか、このポンコツ』

 

 久方ぶりに脳が意味のある単語を認識し、思わず顔を上げた。

 眼前には公衆便所の個室のドアが佇んでいる。

 扉のドアノブに引っかかる形で、安物の青いネクタイが輪っかを作っていた。

 思わずその違和を凝視すると、


『やっと俺を見つけたか。都築一』 と、ネクタイが喋った。

 男の声だった。


 都築は思わず辺りを見渡すが、やはりと言うべきか、平日の公衆便所には喋るネクタイくらいしか目立つものがない。

 暑さにやられてついに頭がおかしくなったのだろうか。


「君、誰だ?」

 何も解らないまま、都築はただそれだけを尋ねた。


 ネクタイは笑みをこぼした。少なくとも都築にはそのように聞こえた。

『俺は自殺コンサルのタイだ。喜べ、俺と出会ったからには――お前、死ねるぞ』

 都築の人生にはまるで縁のない、自信というものに満ち溢れた響きだった。

 ネクタイに表情があるならば、満面の笑みを浮かべていたかも知れない。



 

 

 

 

 

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