海百合
栞子
海百合
空と見紛う碧瑠璃の水がもっとも煌めく若夏の頃。海の御殿には新たな玉が迎え入れられた。
玉の名はお七。齢十七にして放火の罪により鈴ヶ森にて身を火にあぶられた、最期まで恋を貫いた少女だ。
鎖にがんじがらめに繋がれた身体は骨灰に成れどもその一途でいじらしい魂は海の公女である乙姫に気に入られ、お七は深い深い海の底、一碧の国の住人として新しい生を得た。
「お七はやはり、紅が似合うこと」
雪よりも白く輝く膚をした乙姫が嫋やかな手で、紅い枝珊瑚にじっと腰かけたままのお七の結綿に、幾つもの円い紅玉で蝶を模した髪飾りを宛がう。
「そうでしょうか」
風より早い竜馬に乗って宮殿に降り立ってからまだ日の浅いお七は、上を見ても下を見ても金銀宝石ばかりの光景に今にも目が眩みそうで、気も漫ろに答えた。少し身を倒しながら射干玉の髪に触れる乙姫にはその物欲に曇らない眼が一層愛くるしく思え、掌中の珠のごと磨き慈しむ。
「紅は貴女の魂の色なのでしょう。唯一人を愛し抜き、親への孝心も忘れず、真正直に生きた貴女の」
文字通り身を滅ぼした燃え盛る恋の炎の。温情を忘れない心に流れる血潮の。お七の魂は今日日珍しい純な色をしていると乙姫は考える。故に似合うのだと、乙姫は来たばかりのお七に赤色の品を多く贈った。
今も自身の蔵からいくつかの装飾品を侍女に持ってこさせ、どれが相応しいかを吟味している最中だ。側の蒼い瑠璃の卓子の上には弟から贈られた菫の他、陸で目にするのは叶わない品々が無造作に置かれている。玳瑁や珊瑚などこの宮では石ころ同然にありふれ、水晶なぞ誰も有り難がりはしない。紅玉、青玉、瑪瑙、孔雀石などが並んでいた。
乙姫は今度は金剛石の指環を手にしお七に嵌めた。華奢な指先に大粒の宝石は仰々しく映る。この手を飾るには月の真珠がいいか、それとも花の真珠か……乙姫が考えあぐねていると、鼻先を腥い臭いがかすめた。
「姉様。この臭いは?」
海の御殿は常に清涼な花の香が漂う。しかし極稀に、顔をしかめたくなるような臭いがする。それを知らないお七はここに来て初めての臭気に堪らず尋ねた。
「これはね、人間の臭いなのよ」
「人間? では私も、同じ臭いがするのでしょうか」
「いいえ。これは醜い人間が海へ迷い込み海月に成り果てた際の臭いなの。お前のように清浄な魂の持ち主はしませんよ。どれ、手鏡を」
乙姫は久方ぶりの醜悪な訪問者の姿を確かめようと侍女に鏡を用意させた。恭しく差し出された手鏡は大小様々な大きさの真珠で縁取られている。二人は顔を寄せ鏡に映る別世界を覗いた。
夏潮に飛び込んだ男の身体は碧流に従ううちに懐かしい声を耳にした。
はじめ、その響きが届き男は我が耳を疑った。もう二度と聞くことの叶わぬ声にそっくりだったからだ。
しかし、体が海底に近付けば近付くほど男――――吉三郎は確信する。この声の主は、かつて情けを交わしたお七だと。
矢も楯もたまらず吉三郎はお七の元へ泳いで行こうとした。しかし冷たい水の抵抗に遭う。いや違う。水を掻く手が無い。それどころか足も。
訳も分からず流れに逆らえぬまま青い世界を漂う間もお七の声が聞こえる。こんなにも会いたいのに、一体どこにいるのか。遥けし海洋では一目見ることさえ難いだろうか。
「嗚呼お七、是が悪臭の正体ぞ」
突然別の女の声が割って入った。こちらは聞き覚えが無いが、玲瓏たる響きが甘露のように耳殻から鼓膜に染み入る。
「姉様、私には只の海月にしか見えません。本当に人間でございますの?」
お七はどうやら海月を眺めているらしい。それがどうも臭うという。しかし「本当に人間」とはどういうことか。
「おや、この海月……面白い。お七、少々待ちなさい」
言い聞かすような美妙な声がしたかと思うと、急に自分を押し流す潮流が強まった。あれよあれよと言う間に身は攫われ余計に制御が効かず、轟々と鳴る水音にお七の声も搔き消され、このまま海境のその向こうまで行き着くばかりかと諦観が過った時。
「御覧お七、これが吉三郎の今の姿よ」
あの水琴鈴を転がすような声音が先程よりも近くはっきり聞こえたかと思えば、水の勢いも収まり視界が落ち着いた。と、泡の消えた目の前に現れた姿に吉三郎は硬直した。
一人は珠で飾り立てられた手鏡を手にした、またと見ることは叶わぬような美しい女。目にも鮮やかな孔雀のごとき色合いの衣裳に身を包み、何も分からずともその豪奢な身形と輝くような花の顔に海の国の女王と知れる。
そしてもう一人。それは、何十年も前に死んだお七だった。当時と同じ、真っ赤な牡丹のような振袖の似合うあどけない顔が真っ直ぐ自分に向けられ、吉三郎は感動のあまり咽び泣きそうであった。
「まあ、この海月が?」
お七の驚いた表情に吉三郎は漸く己の正体を知る。そうか、この身は海月に成り果てたのか。道理で手足が無いはずである。彼女の死後悲哀に暮れ神仏に成仏を恃むだけで老いさらばえ、醜く生き永らえた自分が寄る辺ない牡の海月に成るのは摩訶不思議であり、また尤に感じた。
「如何にも。恋一つ貫けないまま肌に皺を刻んだ情けない男に相応しい末路よ。赤潮で追い払ってみせようか?」
「いえ姉様。これが吉様ならば、私は共にいたいです」
「……ふん、死して尚思われるとは、身の丈合わぬ果報者よ。お七に泣いて感謝するがよい」
言われなくともだった。吉三郎は慣れぬ新しい体でお七に近付くと、彼女は一寸身を強張らせた。そうか、自分の臭気は凄まじいのだなと吉三郎は先程の会話を思い出す。
「どれ」
乙姫が海月に手をかざすとたちどころに臭いは消えた。お七は安堵したように嘗ての思い人に身を寄せる。
こうして海の御殿には、美しいお七の他に、醜い牡海月が住まうことになった。この高貴な場所に不相応の魂の持ち主に眉をひそめる者もいたが、現世で叶わぬ分まで添い遂げようと一人と一匹は潮によって離されることもなく暮らした。
海百合 栞子 @sizuka0716
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