夜半過ぎの男
羽弦トリス
夜半過ぎの男
主人公の名は明かさないでおこう。それが無難だ。
男は中年サラリーマン。残業に残業が重なり電車に乗ったのは、深夜の11時45分。
そこから、1時間かけて自宅最寄り駅まで向かう。
電車を降りた男はとぼとぼと、歩きタバコで24時間営業のスーパーへ向かった。
吸い殻はポケット灰皿へ。
世の中は、華金で飲み騒いでいる最中だろう。羨ましいが、これも独身貴族の道を歩んできた結末。待つ家族はいない。この男、少々肥満体型で、ブスである。
待っているのは、20匹の金魚だ。
買い物カゴを持って、店内を歩く。
弁当類、惣菜はことごとく売り切れ。
取りあえず、缶ビール350ml6本パックは手にした。
さて、何を食べようか?
店内を不審者の様に物色していると、夏だと言うのに、『すき焼きセット』が売られていた。
1980円。即決。『すき焼きセット』を買い物カゴに入れて、卵Sサイズ6個入りを購入して帰宅した。
割り下付き。
先ずは、シャワーを浴びる。
夏のベトベトした汗を流し、缶ビールのプルタブを引く。
プシュッ。
男は喉を鳴らして、ビールを飲んだ。仕事の後のビールはノーベル賞モノだと、男は思っている。
金魚にエサをあげた。飼育している金魚はリュウキンである。
キッチンの棚からカセットコンロを取り出し、『すき焼きセット』を並べる。
鉄鍋を用意してコンロの上に置き、割り下を入れる。
具材は、豆腐、エノキ、ネギ、白菜、牛肉、鶏肉、春菊、しらたき、であった。
先ずは、割り下を鍋に入れる。
カセットコンロの火を付ける。
出汁の出る、鶏肉、牛肉を入れ、数分待ってから他の具材を投入する。
最後は、エノキと春菊。グツグツ煮る。
卵を割り、小皿に入れて割り箸でかき混ぜた。
醤油出汁の良い香りが立つ。
10分で、すき焼きは完成した。
先ずは、割り下の味を確かめた。
ん?……こ、これは、出身地の九州の醤油と変わらぬ味ではないか!
いかん、いかん、ノスタルジックになり味に変な先入観を持ってはいけない。
2本目の缶ビールに手を付けた。
350mlの缶なので、冷蔵庫に冷やしていた。
先ずは、春菊からだ。
……苦い。苦いが、そこが美味しい。一口ビールを飲む。
春菊の独特の風味が口内に広がるが、それを抑えるために、もう一口ビールを飲もうとしたが、後、缶ビールは4本しかない。ここはじっと我慢。
この、長丁場になるすき焼きに酒を切らしては無意味だ。
再び、外に出る気持ちもないし、酒のストックは無い。
部屋の時計は、深夜の1時半過ぎ。
ここは、妥協して、しらたきだ。
しらたきは肉から離れた場所に入れた。しらたきと肉の相性は悪いので離したのだ。
しかしながら、近年の研究では関係ないと言われている。どっちなのか?男は分からないのだから離す。
ズルッ、ズルズルッ。
これは面白い。なんと、弾力性のあるしらたきなのだろうか?
ここで、ようやくもう一口、ビールを飲む。
ここからは、長期戦だ。
火を極弱火にして、調整する。
さて、そろそろ、肉か?
牛肉を箸で掴む。
意外にしっかりした肉だ。
卵にたっぷり浸して食す。
……美味い!
薄切りの牛肉でも、存在感があり、出汁と肉の脂がマッチしてなんとも奥深い。3枚肉は入っていたが、立て続けに食べる。牛肉は火が通り過ぎると硬くなる。
ここで、もう一口ビール。
いや、2本目を空けてしまおう。
3本目を冷蔵庫に取りに行く。
さて、身体が熱くなってきた。冷房を23℃に設定して『強風』にする。
生き返る。
続いては、ネギだ。
ちょっと、火が通り過ぎたか?クタクタになっている。
フーフーして、口に運ぶ。
ネギの白所の中心から、芯が出てくる。これは、鉄砲仕掛けか?と、落語の「ネギマの殿様」を思い出しながら飲むと粋な気がしてきた。
総じてネギ類は、煮込むと甘くなる。出来合いのすき焼きセットのネギにしては優秀だ。
そして、嬉しい3本目のビールを一口飲む。
続いては、エノキ。
箸でゴソッと全部掴み、卵にひたす。
冷めるのを待つ。
その間、ビールを飲む。
口の中と心の雑念を洗い流し、大好きなエノキを口へ運ぶ。
……美味い!
美味すぎる。
歯ごたえがあり、
しいたけより、エノキが好きだから男は満足した表情で食べる。
ここで、ちょっと冒険に。
激熱の豆腐に手を伸ばしてみる事にした。
豆腐は危険だ。
スプーンを使い、豆腐を小皿に移し熱が取れるのを待つ。
2個目の卵の出番だ。古い卵と出汁の味のする液体を飲み、ビールで口内を洗浄する。
この、卵汁も美味しいのだ。すき焼きの醍醐味でもある。
待ち時間、ビールを二口飲む。
ようやく、豆腐を卵に浸し口へ運ぶ。
グフッ!熱っ!
口から豆腐が飛ぶ。飛んだ豆腐は小皿の中に。
もう少し小皿で冷しておこう。否、豆腐は全て小皿に
「白菜は水晶」と言うくらいだから、透き通るほどの煮込まれた、白菜に手を付けた。
失敗した。
火の通し過ぎで、水っぽかった。
さて、次は鶏肉。
出汁を吸った鶏肉は良い茶色になっていた。
卵にダンクさせてから、口へ運ぶ。
やはり、美味すぎる。鶏もも肉だから、噛み応えがあり、鶏の出汁も出てきて次回は焼き鳥が食べたくなるほど、鶏肉の
鶏肉は大好物だから、シメに残しておくのが男は常だった。
だが、鶏肉は3切れしか無かったのだが……。
ん……!!
嬉しい誤算だ。4切れ入っていた。それは、白菜の下に隠れていた。
これは、最後の楽しみに取っておこう。
再び、牛肉。
ここで、4本目の缶ビールに手を付ける。
ゴクゴクと一気に半分ほど飲み、冷めた豆腐を食べながら、ビールを飲んだ。
いかんいかん、残りの春菊がクタクタだ。
春菊は5本目のビールを一口飲んでから、いただいた。
火が通り過ぎたのか?クセが無い。
これは、ちょっと物足りない。
さて、残りは、白菜とお楽しみの鶏肉だけだ。
火を止めた。
いよいよ、フィナーレだ。
勢い良く5本目の缶ビールを飲み干し、6本目、最後の缶ビールに手を付けた。
各具材の切れ端を集めて、ビールを一口。
透明な白菜を一口で食べて、6本目の缶ビールを飲み干し、シメの鶏肉の1切れ。
この、最後まで残った鶏肉の出汁の吸い方は間違いなく、夜半過ぎの食事のフィナーレに
やはり、すき焼きは鶏肉が一番だ。しかも、鶏もも肉が!
牛肉うんぬんより、鶏肉が残るのは嬉しい。牛肉は硬くなるが、鍋の隙間に隠れている鶏肉ほど嬉しさと美味しさは半端ない!
この最後の1切れの為に、汚れた卵を飲み干し、3個目の卵を割り、かき混ぜ箸で鶏肉を掴む。
たっぷりと、卵をまとわせてから、口へ運ぶ。
この、最後の1切れの為に今までの、すき焼きプランを実行してきたのだ。
今夜は、ご馳走であった。
華金に、否、もう、土曜日だがこの夜半過ぎのすき焼きのシメに相応しい具材の出汁を吸い込んだ鶏肉。
グフッ!あっつ〜!
……何だ?豆腐?
豆腐だ!硬くなった豆腐だった……。
あぁ〜あ。何だったんだ!今までのプランは。
すき焼き終盤の鶏肉と豆腐は判別が付かなくなる。
わなだ!ワナだ!罠だ!
男は箸を置き、ベッドに転がった。
片付けは朝。
今は、疲れと悔しさで眠たいだけ。疲れが倍増したすき焼き。
男はしばらく、豆腐恐怖症になったと言う。
終
夜半過ぎの男 羽弦トリス @September-0919
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
眠れない夜の告白記最新/羽弦トリス
★3 エッセイ・ノンフィクション 連載中 3話
パチンコあれこれ日記最新/羽弦トリス
★8 エッセイ・ノンフィクション 連載中 14話
統合失調症患者の今日の健康最新/羽弦トリス
★18 エッセイ・ノンフィクション 連載中 26話
精神障がい者の日記/羽弦トリス
★57 エッセイ・ノンフィクション 連載中 548話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます