第2章 喪失と決意 :2-5 久保田探偵事務所

剛志は久保田探偵事務所のチラシを片手に、繁華街から少し外れた静かな通りを歩いていた。

夕方の陽が傾き、街並みがオレンジ色に染まる中、小さなオフィスビルの一角にたどり着いた。

古びた看板には「久保田探偵事務所」と書かれており、その下には様々な調査内容が記されている。


ドアは木製で、どこか懐かしさを感じさせる質感だった。

剛志は一瞬ためらったが、深呼吸をしてノブを回した。

ドアを開けると、鈴の音が静かな廊下に響き渡る。

狭い入り口の向こうには、アットホームな雰囲気が漂うオフィスが広がっていた。

壁には古い新聞記事や写真が貼られ、机の上にはさまざまな調査書類が散乱している。


剛志がドアを開けたことに驚いたのか、事務所の中でのんびりしていた猫が飛び上がり、ものすごい速度でどこかへ消えていった。

さび色の雌猫、キュミちゃんは、いわゆるビビりでお客さんが来るたびに同じように走り回るのだ。


「いらっしゃいませ。うちの猫、あ、キュミちゃんっていうんですけど、驚かせてしまってごめんなさいね。」奥から落ち着いた声が聞こえ、剛志は視線を向ける。

そこには、久保田百合子が立っていた。

50代の彼女は、大柄でありながらも柔和な笑みを浮かべている。

久保田は剛志を見て、手招きした。「どうぞ、お入りください。」


剛志は少し緊張しながらも、彼女の指示に従い、事務所の中に入った。

座るように促されたソファは、使い込まれているが居心地の良さそうな感じだった。

彼が座ると、キュミちゃんは警戒しながらも近くの棚の上に飛び乗り、じっと彼を見つめていた。

思ったより大きい体躯をしており、長い毛並みはガウンを羽織っているようだった。

そして小さな声で「キュミ~」と鳴いた。


「さて、今日はどのようなご相談でしょうか?」久保田は優しい声で尋ねた。


剛志は一瞬ためらったが、深呼吸をしてから話し始めた。「実は…弟が殺されました。しかも、その現場には不思議なシンボルが描かれていたんです。このシンボル、私は夢で何度も見ていたんです。」


久保田は興味深そうに頷き、メモを取り始めた。「それはお辛いことでしょうね。そのシンボルというのは…?」


剛志は鞄からコピーしたシンボルの絵を取り出し、久保田に見せた。

二匹の蛇が絡み合うような不気味なデザインだった。

夢のシンボルを剛志が手で模写したものだ。

久保田はそれを見つめ、眉をひそめた。


「これは初めて見るシンボルですね。ちょっと待ってください。」


久保田はデスクの引き出しを開け、古いファイルを取り出して調べ始めた。

その間、剛志は事務所内を見回しながら、ここで本当に助けを求めてよいのかと少し不安になった。

だが、久保田の熱心な姿勢を見ると、その思いは次第に薄れていった。


「確かに、このシンボルに関する情報は見つかりませんね。しかし、オカルト的な儀式に関連している可能性があります。詳しい調査を始めましょう。」


その時、事務所の奥から若い女性が現れた。

彼女は西園寺彩音、探偵事務所の調査員だった。

明るい笑顔を浮かべながら、剛志に向かって手を差し出した。


「はじめまして、西園寺彩音です。久保田さんから話を聞きました。私もこの調査に参加させていただきます。」


剛志は彼女の明るさに少し救われる思いで手を握り返した。「よろしくお願いします。」


さらに、後ろから静かに現れたのは、長身でやせ型の男性だった。

彼は神崎涼介、冷静な分析力を持つ調査員だった。

彼は静かに頷き、剛志に挨拶をした。


「神崎涼介です。あなたの話を伺いました。私たちも全力で調査を進めますので、一緒に頑張りましょう。」


剛志は久保田探偵事務所のチームに弟の事件の詳細を話し始めた。

彼の口から語られる言葉は、痛みと悲しみに満ちていた。


「翔太の遺体が見つかったのは、彼の部屋の中でした。黒い魔法陣のようなものが描かれていて、その中心には二匹の蛇のシンボルがありました。天井にも同じシンボルが描かれていました。それが、私が夢で何度も見たシンボルと同じだったんです。」


久保田は真剣な表情で聞きながら、メモを取り続けた。「その夢の内容について、もう少し詳しく教えていただけますか?」


剛志は深呼吸をしてから、夢の中で見た光景を話し始めた。「夢の中では、私は沼のような場所にいて、腐ったような人たちが私の足を引っ張り、沼に沈めようとしているんです。その中に、二匹の蛇が絡み合うシンボルがいつも現れます。夢から目覚めると、いつもひどく気分が悪いんです。」


西園寺彩音が興味深そうにメモを取りながら口を開いた。「その夢を見始めたのはいつ頃からですか?」


「約2ヶ月前からです。それ以来、同じ夢を何度も見ています。」


「興味深いですね。夢と現実が交差するような事件は、これまでの経験でもあまり例がありません。調査の価値があります。」神崎涼介が静かに頷き、資料を見つめた。


彩音はしばらく考え込んだ後、語り始めた。「集合的無意識という概念をご存知ですか?ユング心理学の一部ですが、人々が共有する無意識の領域が存在すると言われています。アマゾンのシャウリ族には、特にこの概念に近い伝承があります。」


剛志は驚きと興味を持って聞いた。「シャウリ族?」


「はい、彼らは夢を通じて神のお告げを受け取ると信じています。特に同じ夢を共有する現象が頻繁に起こり、それが部族全体に影響を与えることがあります。」彩音は説明を続けた。


「集合的無意識は、個々の無意識がつながり合い、人類全体の記憶や経験が共有される領域とされています。ユングは、これを人間の根源的な精神の一部と考えました。つまり、個人の夢やイメージは、広範な文化的、歴史的な記憶とつながっている可能性があるのです。シャウリ族の夢の共有現象も、この集合的無意識の一例として考えられます。」


剛志はその説明に深く感銘を受けた。「つまり、翔太と私が同じ夢を見ることは、この集合的無意識が関係している可能性があると?」


「その通りです。」彩音は頷いた。「夢を通じて何か重要なメッセージが伝えられているのかもしれません。」


もし彼女が言うように集合的無意識が夢に現れているとしたら、あれは人類全体からの何かのメッセージなのだろうか。あんなおぞましいものがそうだというのか。


その時、神崎が手元のパソコンに何かを見つけた様子で顔を上げた。「ネット上の掲示板で、剛志さんと同じような夢を見ているという書き込みを見つけました。具体的なビジョンではありませんが、蛇のシンボルについて話している人がいます。」


「それは重要な手がかりです。」久保田が言葉を添えた。「その書き込みの内容を詳しく調べてみましょう。」


「はい、今からその掲示板のログを詳細に調査します。」神崎が早速作業に取り掛かった。


久保田は資料を閉じ、剛志に向かって微笑んだ。「宮崎さん、私たちは全力でこの事件を調査します。まずは翔太さんの友人や関係者に聞き込みを行い、彼の周囲で何が起こっていたのかを探りましょう。」


剛志は久保田の言葉に安堵の表情を浮かべた。「ありがとうございます。本当に、どうしたらいいのか分からなくて…。」


「大丈夫ですよ。」西園寺が明るい声で言った。「私たちが一緒に解決に向けて動きますから。」


「まずは御堂美咲さんですね。」久保田がメモを見直しながら言った。「彼女の行方を追い、何があったのかを明らかにする必要があります。」


「それと、夢に関する情報も集めましょう。」神崎が補足した。「夢と現実が交差するような事例が他にもあるかもしれません。」


「それから、現場に残されたシンボルについても調べる必要がありますね。」久保田が頷きながら言った。「このシンボルが何を意味しているのか、そして誰が描いたのかを突き止めることが重要です。」


久保田探偵事務所のチームは、各自の役割分担を確認した。


久保田百合子:全体の指揮を執り、調査の進行を管理する。

神崎涼介:ネット上の情報収集と分析を担当。掲示板や交流サイトから有益な情報を探し出す。

西園寺彩音:剛志と共に行動し、夢に関する情報や集合的無意識に関する調査を進める。

剛志:彩音と共に行動し、翔太の友人や関係者に聞き込みを行う。また、自分自身の夢についての情報を提供し続ける。


剛志は久保田探偵事務所のチームと共に、弟の死の真相を解明するための第一歩を踏み出した。彼の心には、新たな希望と決意が芽生えていた。

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夢紡ぎ @Pirotan40

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